アンテ・パヴェリッチ
アンテ・パヴェリッチ(Ante Pavelić、1889-1957)はクロアチアの政治家、ファシスト。クロアチア独立国の元首。
ボスニアにあるブラジナという村の出身で、弁護士だった。オーストリア革命を機に政治参加し、1919年~1927年にザグレブ市議会代議員、1927年からユーゴスラビア国会議員となっている。国会ではクロアチアへの自治権付与を主張していた。
1929年にユーゴスラビア国王アレクサンダル1世が独裁を始めると、フライコール「ウスタシャ・クロアチア革命機構」を結成し、ウィーンを経由してローマに亡命した。このウスタシャこそ、後の「クロアチア社会主義労農党」だった。
ムッソリーニ政権の庇護下で反国王活動をしていたが、1934年にウスタシャはついにフランスでアレクサンダル1世を暗殺することに成功した。しかし、このときフランスの外務全権特使*1であるルイ・バルトゥーも殺してしまい、イタリアから国外追放されてドナウ連邦に亡命した。
ドナウ連邦ではドナウ社会主義労農党の支援と指導を受け、1936年にウスタシャはドナウ党クロアチア支部と合併しクロアチア社会主義労農党となった。
ゲラニウム作戦でクロアチア保護領が設立すると、パヴェリッチはその元首に就任しセルビア人に対する組織的虐殺を開始した。
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パルチザンの蜂起やコントロールの効かない虐殺などに悩まされつつ、パヴェリッチはクロアチア保護領元首というドナウの国家内国家の指導者として確固たる地位を築いた。1952年にはチトー率いるサンディカリストパルチザンへの大攻勢を行い、これを壊滅させた。
しかし、ローゼッカ死後ドナウ本国で権力争いが始まると、パヴェリッチの安泰は突如終わった。1957年4月10日、ザグレブでパヴェリッチは襲撃され暗殺された。当時アルトゥール・ザイス=インクヴァルト連邦保安大臣が失脚したこともあり、エルンスト・カルテンブルンナー率いる反ザイス=インクヴァルト派によるものという説や、保安省閥の興隆を抑えるべく連邦軍が手を打ったという説もあるが、定かではない。
このパヴェリッチ暗殺事件により、少なからぬクロアチア保護領の閣僚が失脚した。対パルチザン戦の英雄フェドル・ドラゴイロフ保安大将に反パヴェリッチ派だったムラデン・ロルコヴィチ内務大臣まで政界を追われ、アンテ・ヴォキッチ運輸大臣に至っては暗殺を支援したとして処刑された。
こうして指導層が消えたクロアチア保護領では若いテクノクラートが出世し、後のドナウ連邦によるクロアチア併合の下地を作ったといえる。