S論文

 「S論文」は重光葵が1954年に発表した政治論文である。後に暴露されて政治問題化し、宮城進軍事件のきっかけの一つとなった。

重光葵(1887-1957)


 「S論文」とはなにか。それは外務省内で提唱された新路線である。同論文が外務省の内部誌に掲載されたのは1954年初で、当時は富永恭次が首相である。
 論文では、人種主義に基づく閉鎖的なアウタルキー経済と、武力に基づく日本のアジア支配を放棄し、他勢力圏との交易と民生経済発展を以て、日本のアジア支配を非武力的に・経済的に行うよう提言していた。これは1930年代末以来続いていた、アジア主義に基づく日本の外交政策の一大転換を含意していた。閉鎖的な武断支配から、開放的な経済支配への変換である。この背景としては、経済的限界を迎えていた日本によるアジア支配のコストと、道復運動に示される日本の生活水準の停滞があった。このように、日本の現状と限界を踏まえたS論文は合理的なものであり、外務省でも一定の評価を受けた。
 そして、S論文の執筆を指導したのは、外務大臣を経験した重光葵だった。1954年に富永を次いで総理大臣となった重光葵は、この論文に示されたように外交路線の抜本的改革を行うこととなった。首相交代直前の4月に、衆議院選挙で勃発した「選挙粛正運動」は、政治と経済に対する大衆の不満を表しており、重光に改革を急がせることとなった。
 S論文のように、重光内閣は、当時アジアで増大しつつあった共産主義勢力にもかかわらず武力介入を行わなかった。当時クライマックスを迎えつつあった中国の国共内戦については静観に徹し、中共優位が明らかとなると両国間の国交樹立と通商開始の可能性を探り始めた。アジア各地に残存する日本軍の現地駐留司令部は何度も共産主義勢力の危険性について警告し、現地軍の独力で中・小規模介入を敢行したが、そのたびに重光首相は陸軍省を通じて独断先行を諌めていた。特に国共内戦末期に蒙古国に駐屯する駐蒙軍が中国領内蒙古に進撃し、占領した事件は中国だけでなく東京においても大いに緊張をもたらした。内蒙古の中国復帰は、日中交渉でも通商再開の条件として周恩来に指定されることとなる。
 重光外交のテーゼであったS論文は、1957年1月の重光の死去の後も、大命を受けた岸信介首相においてもその政策指針となった。
 発表以来政府内々で回覧されていたS論文だが、1958年頃に何者かにより流出され、内閣情報局による統制にもかかわらず新聞にもその存在が指摘された。全容が白日の下に晒された政府の新外交路線は、すぐに国民の間で議論を呼び起こした。
 この流出事件は、重光・岸路線に反対する重臣近衛文麿と、熱烈なアジア主義者である永仁親王による策動であったとされる。この二人は直接手をくださなかったが、アジア主義を信奉する過激な軍人政治家である辻政信や、その他翼賛体制に不満を持つ人々を中心に、反アジア的な売国路線として攻撃がなされた。辻はS論文を「媚白の毒ガス」とさえ呼んだ。
 政治問題化したS論文は内地の学生の間でも討論にかけられ、永仁に近い全日本学生修養会(全修会)では反対運動が組織された。外地でも日本本国の外地支配の終焉を意味しかねない新路線に対して、一論文に対する批判という形で重光・岸内閣が批判されただけでなく、パニックの向きさえ生まれた。特に陸軍出身の池田純久が指導する満州国協和会は論文を激しく反駁し、東京との対決姿勢を隠さなかった。
 永仁が主催するブレーン集団である新日本研究会は、その所属学者の多くがS論文批判の先陣に立った。1955年に満州国協和会と共同発表した『主体主義綱領』が熱烈なアジア主義に立っていたように、S論文と主体主義は完全に矛盾していたのだった。新日本研究会の「国体科学者」里見岸雄は「白人に永遠に媚び続けるのか、アジア人が主体を取り戻し、人間らしく生きるのか」と檄を飛ばしてS論文批判キャンペーンをメディア上に組織した。このように、S論文は政治問題化により主体主義に対置され、1960年の宮城進軍事件に至るまでの永仁による政治動員の道具として利用され始めた。
 岸内閣を打倒し主体主義を掲げる協和党政権が誕生した宮城進軍事件においても、民衆はS論文による外交路線反対を要求の一つとし、宮城や国会議事堂とともに外務省庁舎もまたデモ隊に包囲された。
 このように政権批判の道具として独り歩きをしたS論文だったが、協和党政権では主体主義に基づくアジア主義・人種主義的な外交路線に復帰し、重光の提唱した開放的な圏外貿易拡大は完全に排斥されたのだった。ただし、協和党政権は翼賛体制と異なり、進歩主義的感覚から積極的にアジア諸国の内部に介入をし、アジア全体を改造することによる窮乏脱出を志向していた。武断的な支配も、日本一国による専制的支配から各国の協和党政権によるアジア人種全体の共同防衛へと転換していった。民生軽視と軍需偏重は翼賛体制時代と変化はなかったが、協和党政権の外交路線はS論文路線以前の復古ではないことは指摘せねばならない。
 しかしながら、こうした1960年代の協和党政権による主体主義的外交路線は、人種主義に基づく白人世界や、共産主義勢力への対立の先鋭化を招き、加えてアジア全体の武装化により、大東亜統一戦争による破滅的な犠牲と破壊を生んだことも事実であった。戦後、協和党政権時代の日中秘密交渉を担当していた大平正芳は、永仁の許しを経て新外交路線として「綜合圏防」を提示した。このテーゼは、軍事力だけでなく経済や人口移動による工作を含めた総合的な安全保障制度として、S論文のアイデアを一部に含むものだった。