アンドリャ・アルトゥコヴィチ

アンドリャ・アルトゥコヴィチ(Andrija Artuković、1899-1988)はクロアチアの政治家、クロアチア保護領内務大臣、国璽尚書

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右はクロアチア保護領議会での演説中(1942年)
 ザグレブ大学出身。ウスタシャに参加し武装闘争路線を推し進めたが、アレクサンダル1世暗殺事件後フランス、そしてユーゴスラビアにて収監されていた。1936年に釈放されるとドナウ連邦に亡命し、ドナウ社会主義労農党と接触して同年ウスタシャとドナウ党クロアチア支部を合併させた。これがクロアチア社会主義労農党である。
 アルトゥコヴィチはウィーンからの援助資金を管理することで、アンテ・パヴェリッチに次ぐ党のナンバー2となっていた。
 クロアチア保護領政府では1939年から1942年まで内務大臣に就任しており、現地警察を用いたセルビア人虐殺に関与した。1942年には司法大臣に遠ざけられたが、ウィーンとのコネを利用し1943年にふたたび内務大臣となる。
 その後、1943年から1946年まで国璽尚書*1としてクロアチア保護領政府を裏から支配した。その後は議会議長となっている。1958年に辞任し、退役軍人団体の名誉職に就いていたが、1962年のウィーンの春において戦時中の残虐行為が批判されると、公職を引退せざる得なかった。

*1:国璽の管理官。