翼賛体制

 翼賛体制とは、1940年に発足し1960年まで継続した大政翼賛会による支配体制を意味する。翼賛体制を打倒して成立した協和党政権では、翼賛体制は政治的・恣意的な意味付けを与えられ、特に大東亜戦争後の混乱した時代という意味も与えられた。ここでは翼賛体制を構成した大政翼賛会を中心に、その政治システムを解説していく。

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大政翼賛会のシンボル

前史――大政翼賛会の成立と挫折

 1930年代後半、公爵近衛文麿を中心とする革新人士により独裁政党を建設する試みが始まった。共産主義からの転向者や日本主義者、国家社会主義者など各界の人士がモデルとしたのは、ドナウ連邦のドナウ社会主義労農党やフランスの人民戦線のような、政治だけでなく社会や思想などあらゆる面を指導する強力な政党だった。この運動は既製二大政党たる立憲政友会と立憲民政党の外部に位置する無産政党の積極的支持を得ていた。
 1937年7月勃発のノモンハン事件、1938年の国民革命軍による北伐が相次ぎ、東アジア情勢が緊迫化すると、当時の首相だった近衛文麿は独裁政党の樹立と高度国防国家建設を呼びかけた。しかし、政友会と民政党は新党運動に反対し、1938年には国家総動員法を廃案寸前に追い込むことで、新党計画を白紙化させた。政府においては「国民精神総動員運動(精動)」が組織され、在地名士や在郷軍人を実働部隊とし、内務省や文部省が指導する官製運動の下地が整えられた。
 近衛は1939年にノモンハン事件他国際情勢の責任を取って辞任し、一時下野した。この間欧州ではドナウ連邦のユーゴスラビア侵攻とともにWW2が勃発し、全世界的な転換の時代を迎えようとしていた。これに呼応し日本においても国内外の変革を成し遂げるため、各界の革新人士は失意の近衛を励まし、近衛は「新体制運動」と呼ばれる独裁政党樹立運動の指導者に担ぎ上げられた。既製二大政党は解党による新党合流か、あくまで抵抗かで意見が割れ、政友会は解党支持の革新派と反対の久原派、間に立つ中立派に、民政党は賛成の永井派と反対の主流派に分裂した。こうした既製政党の自滅にも助けられ、1940年に大政翼賛会の成立をもって運動は結実した。
 しかし、こうして成立した大政翼賛会は、その理想から程遠いものだった。近衛のブレーンである「昭和研究会」による改革案は外部からの反対を呼んだ。経済統制は財閥が、一党独裁護憲派の観念的日本主義者が反対し、その他党の権力付与は官僚や軍との衝突を生んだのだった。ついには日本主義者の右翼平沼騏一郎内務大臣による、大政翼賛会政治結社でなく公事結社と位置づける帝国議会答弁をもって、大政翼賛会は事実上頓挫してしまった。近衛文麿はこれに窮して、大政翼賛会正式立ち上げの際までに綱領作成が間に合わず、逃げるように「臣道実践」の一言で済ましてしまった。この敗北宣言は新体制運動を推進してきた中堅人士の失望を買った。
 1941年から1942年にかけて、大政翼賛会中央幹部は次々と失脚、懐柔、改組していき、わずかながら残った権限も政府と軍に完全に奪われてしまった。こうして、大政翼賛会は戦争終結を待たずして形骸化し、独裁政党樹立の夢は挫折したのだった。

戦後混乱期――自衛隊の登場

 輝かしい戦勝を裏切るようにして到来した混乱は、大政翼賛会の無力さをより一層暴露した。大政翼賛会は各種政策において指導性を発揮することも、実行者になることもできず、むしろその権限はますます政府と軍に奪われていった。それだけでなく、建前上社会のあらゆる共同体を組織化していた(強制的同一化)大政翼賛会の外に、完全に私営の新たな共同体が次々と誕生していった。これが自衛隊である。物資の横流しなど種だねの利権を統制経済外で売りさばき、官憲の取締から防衛するため、人々は勝手に武装組織を立ち上げてしまった。こうして、あらゆる共同体を指導下に起き、一糸乱れぬ政治・経済・社会・思想的指導を行う強力な独裁政党であるはずの大政翼賛会は、完全にその実態を失ってしまったのである。自衛隊は利権を巡る人々の争いである「私闘」や、混乱する経済による反政府運動である「道復運動」の温床となり、ますます大政翼賛会の無能さを曝け出すこととなった。
 短命の宇垣一成内閣はこの問題に取り組む時間さえなかったが、続いて1947年4月発足の東條英機内閣は、東條自身が憲兵隊出身ともあって迅速に問題解決へと取り掛かることとなった。しかし、それは大政翼賛会の強化でなく、政府と軍の権限強化による武断統治だった。当初はあらゆる経済犯罪や暴動に対し厳しい態度でのぞみ、道復運動参加者はもとより家族や隣組まで連座制で拘束、特別な略式裁判で外地へ追放していった。これは満洲や勘察加、北樺太、馬来など外地入植と食糧自活による本土食糧事情の緩和を目的ともしていた。自衛隊それ自体も取り締まられたが、すぐに自衛隊闇経済が国家の経済運営、食糧配給に不可欠な機構であることが判明し、次第に弾圧から懐柔へと変化していった。こうした1947年から1950年頃までの治安粛正工作においても、大政翼賛会は蚊帳の外だった。東條英機の「親衛隊」たる陸軍憲兵隊と、忠実な「天皇陛下の警察官」たる内務省がさらに発言力を増し、大政翼賛会の地方組織は名実ともに軍、内務省、文部省、商工省、大蔵省に分割されたのだった。
 さらに、かつて議会政党を解党し誕生した翼賛政治会は、1947年4月の衆議院総選挙直前に、非推薦候補問題を機に内紛で解散し、東條首相を支持する政治結社大日本政治会(日政)」の誕生に至った。東條首相は軍と官僚を頼った結果、ごく一部の傀儡議員を除き議会政治家の発言力は大きく低下することとなった。
 また、大政翼賛会の地方組織が政府によって完全に権力を奪われたのは、政府が強力に大政翼賛会の機能を補完したことを意味しなかった。政府は慢性的な人的資源不足のため、天皇に直属する権力を保持しつつも、それを適切な政策に反映し、円滑に実行できるだけの能力がなかったのだった。官僚組織は非効率性の根本原因と見なされていた。実態として、政府が政策を発しつつ、その実務を担ったのは雑多な地方組織だった。企業、産報*1の他、様々な在地名士、そして在地勢力が一枚噛んでいる自衛隊である。戦後混乱期を経て、翼賛体制の当初の理想たる独裁政党による社会管理は失敗し、結果として翼賛体制以前の国家と民間の関係に戻ったと言えるだろう。

再建の試み――富永政権の改革

 有名無実化した大政翼賛会を再建する試みは、東條英機政権に続く富永恭次内閣で始まった。富永内閣が提示した大政翼賛会再建案は、政府と軍からの権限奪還、大日本政治会大政翼賛会連携による党参与型政治への移行、隣組を基礎とする地方組織の復活の3つに大別することが出来る。理想は独裁政党のモデル的存在であるドナウ連邦のドナウ社会主義労農党であるが、実現できたのはそのごく一部に過ぎなかった。
 政府と軍からの権限奪還については、地方行政を支配する内務省の激しい抵抗に遭った結果なかなか進展しなかった。その代わり文部省が掌握する学生や教師などの身分・職能統制団体に矛先が向けられ、文部省から独立する形で大政翼賛会の下に身分・職能団体が再編された。特筆すべきは1952年設立の「全日本学生修養会(全修会)」である。ドナウ学生同盟をモデルとし、文部省の教育行政でなく党による自律的身分団体としてスタートした。東條英機による弾圧から間もない1950年代において、政治結社でなく公事結社でありつつも全修会は自治的に運営され、当時勃興中の日本青年運動と結びつき、比較的自由な公共圏を有する異質な存在となった。全修会は学生運動の拠点となった結果、弾圧を受けて1955年には分裂することとなる。しかし、分裂後も各組織は独自に自治運営を続け、1960年の宮城進軍事件で活躍することとなった。
 また、富永首相は軍出身でありながら、東條英機のおべっか使いとして評判が悪く官僚の味方が少なかったっため、政策考案や実現において大日本政治会の議会政治家への依存を増やすことに繋がった。このため大日本政治会は権威を強化していった。しかしながら、ドナウ社会主義労農党のように党中央が地方組織に接続、指導する体制は最後まで成立しなかった。しかしながら、議会政治家が復活したことは東條政権の息苦しい上意下達な政治からの脱却を示しており、富永の後継首相たる重光葵は、富永の独断でなく日政内の議論を経て大命降下を受けたのだった。
 とはいえ、自衛隊の解体を伴う形の地方組織再建はほとんど成果を上げることができなかった。それぞれの利権を抱える自衛隊は、帝国議会議員や軍人、官僚などの中央エリートの庇護を得て、闇経済に参加し莫大な利益を生んでいたのだった。一般国民の消費経済も闇市がなければ成立せず、これらを全て手放し、法を厳格に遵守した統制経済による配給生活に戻ることは誰も望んでいなかったのだった。結局、国民を政治的、社会的、経済的、思想的に包括して支配する独裁政党による地方組織は最後まで成立せず、宮城進軍事件を迎えることとなる。

翼賛体制に対する批判

 このように展開してきた翼賛体制は、モデルだったドナウ連邦やフランス・コミューンのそれと似ても似つかぬ存在だった。そのため、ドナウ式独裁政党を支持した知識人はこれを猛烈に批判し、やがて宮城進軍事件後に成立した協和党「党国体制」を理論的に支えることとなった。

党国体制のモデル

 そもそも党国体制とは何かを一度示さなければならない。党国体制の出典はドナウ法学および中国の三民主義満洲帝国に存在し、両者とも政治、社会、経済、思想などを一括支配する強力な政党が率いる体制を意味している。
 ドナウ法学における党国体制は、当初はアレクシス・ローゼッカ大統領による「指導者原理」貫徹という専制的意味合いが強かったが、その死後ローゼッカなしで国家運営をする必要が発生した際、党国体制は党と政府の効率的、機能的な協働関係を意味するようになった。党国体制理論の研究・検討が繰り返された結果、党を下から上への民主機能とし、政府を上から下への行政機能とする形で、党と国家の役割分担が明確化されたのだった。労働者、経営者、国民衛兵体の三位一体で成る生産組織だった公団も、戦後には国民の自発的民主主義の場としての性格が与えられた。ドナウ党国体制の魅力は、システマチックな理論と国民の自発的な政治参加を重んじる点であり、戦後ドナウが旧世界*2の大国であり、高い軍事力、経済力、技術力を誇っていたことも、日本の知識人の目線をドナウに向かわせる根拠となった。ドナウが近代化と進歩の象徴だったことには、単に「隣の芝生は青く見える」で済ますことのできない日本人知識人の憧れを見出すことが出来る。
 対して、三民主義における党国体制とは中国国民党による統治である。国民党に認める権力量や、権力実行の過程に従って、国民党は軍政、訓政、憲政という三段階の発展類型を設定していた。正式な憲法を設定し党国関係を明確に定めた上で、国民投票を経て憲法と体制承認を経過し、訓政から憲政へと移行せしめる点は、中国国内において闊達な議論を生んだ。これは戦勝後の経済混乱に苦しんでいた満洲帝国も同様で、1948年10月勃発の「総務庁事件」による党国体制樹立の遠因ともなっている。早くから立憲政治を導入した日本において軍政、訓政、憲政は問題にならなかった。むしろ、英米自由主義に毒されなかったアジア内部に位置する中国が党国体制を選んだということで、党国体制こそ真にアジア主義的な体制であるという風潮を生み、特にそれは日本人アジア主義者の間で甚だしかった。石原莞爾は死去の直前に、党国体制こそアジアに相応しいと遺言を残している。三民主義の党国体制は、具体的内実と言うよりは漠然としたイメージとして当時の知識人に影響を与えていたのだった。
 最後に日本に最も衝撃をもたらしたのは、満洲帝国における党国体制の樹立だった。1930年代に石原莞爾アジア主義者の工作で独立した満洲は、当初イタリアやドナウをモデルとした「協和会」による一党独裁制を試みたが、日本本土から送られた財界人や官僚、そして影の支配者たる関東軍により党権力は蚕食され失敗に終わった。日本の重工業基地として出発した満洲帝国はWW2による投資途絶のため経済が低迷し、戦争の混乱で内地の道復運動と同様に農民反乱が発生、その統治は限界に近づきつつあった。さらに東條政権の弾圧で大量の日本人が無計画に満洲へ送られたこともあり、アジア主義的な関東軍中堅は満洲帝国の改革を決心するに至った。1948年、池田純久を指導者とする関東軍中堅は憲兵隊をもって官僚権力の中心たる総務庁を襲撃、内地から来て国家運営の中核を牛耳るエリート官僚を放逐することに成功した。この総務庁事件の結果生まれた権力の空白を、池田らは強力な党国体制の樹立で埋めることとしたのだった。
 関東軍の指導の下、中央においては各界各勢力協議の場として、地方においては政府に並行する組織としての機能を満洲帝国協和会は取り戻し、1951年の改組と第1期中央輔導委員気選出を経て、強力な独裁政党へと変化した。総務庁事件だけでなく、道復運動関係者、労農派マルクス主義者、アジア主義など様々な改革派が内地から追放され渡満したことで内地と満洲帝国は対立し、さらに戦後の軍改革で関東軍が縮小、現地化*3した結果、満洲は党国体制の成功例として日本本土の翼賛体制に批判的な知識人から注目されることとなった。実際のところ、宮城進軍事件で成立した協和党政権のメンバーは、その多くが東條政権の弾圧から一時的にであれ満洲へ避難していた経験がある。何より日本の党国体制政党たる協和党の名が協和会に由来していた。ちなみに、協和会は日本の協和党成立後、その名を「満洲帝国協和党」へと変更している。満洲の党国体制は特殊な民族状況もあってドナウ法学の正統的な党国体制とはやや異なるものだった。満洲と中国の党国体制導入はアジア主義者の間で体制改革の機運を生んだが、知識人全体として見れば、党国体制の具体的内容は最後までドナウ連邦が主に参考とされていたのだった。
 

翼賛体制を批判した知識人ら

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左から里見岸雄(Copyright © SATOMI INSTITUTE OF JAPANESE CULTURE All Right Reserved.)*4丸山眞男辻政信
里見岸雄

 石原莞爾の盟友であり「国体科学」の創始者である里見岸雄の、その業績や思想は大変豊富なものだった。観念主義の中に停滞した日本主義を科学的に再構築することから出発した里見は、その過程でドイツ人種論やドナウ文明論など、欧州全体主義諸国から様々なアイデアを導入し、その影響を受けていた。党国体制においても例外ではなく、里見はドナウ式党国体制の導入を強く支持していたのだった。根本的に国体と対立する自由主義マルクス主義がWW2以前に早速姿を消したのに対し、アジア主義や科学的日本主義は東條政権の弾圧にしぶとく耐え、特に青年層に強い影響を残していた。また、里見は東條政権時代に満洲帝国へ一時亡命し、建国大学教授の地位に就いている。その時期に満洲で出版された里見の著作は、本土に比較して穏健な検閲であったため自由に意見を述べることができた。満洲時代の里見の著作は日本に密輸されている。
 里見は満洲時代の経験もあり、改革派の皇族である永仁皇太子と懇意となった。永仁は自身のブレーン機関として「新日本研究会」を組織しており、富永政権となって里見が帰朝すると、新日本研究会による『主体主義綱領』の執筆に関わっている。『主体主義綱領』は後の協和党政権の理論的基礎となった。

丸山正雄

 1914年生まれの丸山眞男大東亜戦争での出征を経験し*5、復員後には内地の秩序崩壊をその眼で見つめていた。里見とは異なり内地にとどまったが、東條政権時代は一切の言論活動を慎み、論文も原稿を執筆すれど印刷することはなかった。翼賛体制批判を開始するのは言論規制が緩和された富永政権からであるが、論文は一般公開でなく帝大の内部閲覧誌に掲載していた。
 丸山は清水幾太郎三木清など京都学派の「近代の超克」に対する批判から始める。近代化の結果移入された「非アジア的な」自由主義の排撃を主題の一つとする「近代の超克」であるが、その結果として打ち立てられた翼賛体制は、全体主義とは似ても似つかぬ、むしろ正反対の有様だった。個々人がバラバラに分断され、物不足の中で私益のために無責任に闘争し続け、賄賂や頽廃が横行しているという。自由主義を脱して建てた翼賛体制は真に全体主義ではない、という主張である。丸山は、真正な全体主義の条件として国民主義を指摘した。国民がただ存在するのでなく、主体的に政治参加する国民主義を発揮することで、国家と表裏一体に構成され、国家は完成されるのであり、これを以て人々は無責任を脱し、一人ひとりが国家の運命を抱え主体的に行動する全体主義が成立するのである。
 こうした丸山の批判は痛烈であり、内部出版であるのにも関わらず当時の知識人の感心を大いにもたらした。丸山の訴える全体主義が党国体制にあることは明らかだった。そして、丸山もまた永仁皇太子の新日本研究会で活動を行うこととなった。1960年には協和党企画局長に就任し、党および主体主義の大理論家として活躍することとなる。

辻政信

 ノモンハン事件、日華合作、大東亜戦争、そして戦後のシベリア北方民族解放工作などで輝かしい活躍を残した英雄辻政信は、東條政権中期に内地へ帰朝した。内地での辻は「日本青年運動」と呼ばれる中学校、青年学校生徒や学生による運動の指導を行い、1950年には「国民歌声運動」と同委員会委員長への就任を東條首相に認めさせた。老いてもなお燃える少年のような情熱を抱える辻は、翼賛体制の荒廃に憤慨する若者の声を敏感に感じ取り、彼らの不満を代弁していた。辻は戦争の英雄であるゆえ、東條の憲兵隊も完全に封殺することができなかったのである。
 辻は里見や丸山のような理論家というよりは軍人であり活動家であったが、英雄故にその言葉には重い価値が宿ったのだった。シベリアでの人種戦争の経験から、「世界最終戦争」がアジア人種と白人種の間で勃発すると確信していたため、来る戦争に勝つためこそ日本再建が必要であり、翼賛体制の精算と党国体制の樹立が不可避であると考えていたのだった。

翼賛体制に対する闘争

 翼賛体制に対する不満が闘争として噴出した事件として、戦後直後の道復運動、1955年衆議院総選挙での選挙粛正運動、1960年の宮城進軍事件が存在する。

道復運動

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国鉄三大ミステリー事件(1948年)

 道復運動は日蓮主義者の木村武雄を一応の指導者とする民衆反乱で、戦勝直後の経済崩壊、配給制度の破綻、翼賛体制の機能不全に対し、自活できる利権を持たない民衆が起こした抗議運動だった。復員軍人や農民、労働者を中心に自衛隊を結成、武装して一揆的な反乱を起こし、社会を混乱させた。武装は軍から横流しされたものだった。輝かしい戦勝の背後に起こった道義的敗北は日本全体に衝撃を与え、東條政権は死物狂いで弾圧し、復員軍人とその家族を中心に外地へ棄民していった。戦勝後内地への帰還を許されずそのまま「現地自活」を強いられた例も含めば、1951年末までに235.8万人が棄民されたのだった。
 反乱指導者は石原莞爾に近い日蓮主義者の木村武雄元議員*6ではあるが、実態として組織系統は敷かれておらず、個々が散発的に蜂起したに過ぎなかった。木村武雄自身は満洲に亡命したが、欠席裁判で無罪判決が下り、富永政権時代に帰朝、1955年に再び帝国議会議員となった。要するにスケープゴートだったのである。
 ともあれ、道復運動が日露戦争後の動乱を超えるような深刻な事態だったことは確かだった。特に世間を揺るがせたのが1948年の「国鉄三大ミステリー事件」で、列車が謎の暴走事故を起こし、下山定則運輸省次官が何者かに拉致、殺害された。憲兵隊はこれをサンディカリストの仕業とし、道復運動をサンディカリストによる赤色テロであると位置づけ、労働者や省線職員を中心に粛清の嵐が吹き荒れたのだった*7
 しかし結局の所、道復運動は1950年代初頭までに鎮圧された。経済混乱や配給制度の破綻が主たる原因だったため、配給でなく闇経済による食糧供給体制が整い、人々が餓死を回避できるようになったことも大きな理由となった。他にも、そもそも反乱が組織化されておらず、反乱の目標や反乱成功後の理想像を描いた綱領もなく、ただ人々が群れて散発的に騒いでいた無秩序さも、道復運動が敗れた根本的原因と言えるだろう。反乱主体となった自衛隊も、地域や職能でバラバラに分割され、自衛隊同士の抗争も絶えず、政府の懐柔で簡単に転び、保守的な在地名士の権門に簡単に下っていったことも指摘されている。

選挙粛正運動

 大日本帝国において選挙粛正運動は何度か行われてきた。多くの場合、選挙にまつわる不正やゲリマンダーを批判し抑止することが目的だったが、1955年の選挙粛正運動は特別異なった立脚点を有していた。1955年選挙粛正運動の要求は、大日本政治会非推薦者の立候補である。
 翼賛体制下の選挙においては、1942年衆議院総選挙のように大政翼賛会が立候補者の推薦、非推薦を決定し、非推薦候補には選挙運動において事実上のペナルティを課していた。在郷軍人会や警察などにより激しい妨害工作が加えられたのだった。とはいえ、1942年時点では非推薦でも立候補の権利があった。しかし東條政権成立直前の1947年衆議院総選挙では、軍――正確には東條の駒である憲兵隊――の指導下に非推薦者に対する立候補そのものさえ弾圧が行われた。一部には非推薦で立候補、当選をした者もあったが、こうした議員もすぐに拘束され、拷問の末に議員辞職届を書き、外地へ追放されたのだった。この結果、選挙立候補者は推薦候補以外禁止ということとなり、事実県会や市会議員選挙ではその習わしが踏襲されるようになったのだった。
 1951年4月に富永恭次が首相となり、行き過ぎた弾圧の緩和と改革の機運がわずかながらでも生まれ、帝国議会議員に政治の主導権が戻ってくると、議員らは非推薦での立候補を可能にするよう要求し始めた。特に富永政権で議員復帰した鳩山一郎がその指導者となった。議員とこれに反対する重臣東條英機の間に富永は挟まれ、普段の優柔不断癖もあって決定を下すことができなかった。議員は自らの利権基盤たる企業や産報、自衛隊を動員し、国民運動を起こして圧力を掛けたのである。これが1955年選挙粛正運動である。日本青年運動の拠点である学生団体全修会も加わり、警察も賄賂の結果制限された小さなデモを黙認した。しかし、最後の最後で富永は要求を拒み、1955年4月の衆議院総選挙は前回と同様に推薦候補のみしか認めなかった。これに対し各都市で暴動が起きたが、すぐ鎮圧された。
 選挙粛正運動は既存の翼賛体制の中で合法的に内部改革を行うという点で、道復運動とは対照的だった。しかし、こうした合法的な選挙粛正運動が失敗したことは国民に陰鬱な無力感をもたらしたのだった。それと同時に、翼賛体制はもはや破壊か存続かしかないという状況認識を、特に若い世代は鋭敏に理解することとなった。運動で活躍した全修会は、これを機に大弾圧を受けた。結果として全修会は分裂し、保守的日本主義の学生が所属する、文部省管轄に戻った政権側の全修会と、永仁親王の新日本研究会と関係が深い主体主義学生による全修会、延安指導下の日本共産党による全修会の3つに分かれたのだった。

宮城進軍事件

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宮城進軍事件(1960年)

 宮城進軍事件については、ここでは概要を書くに留めるとする。選挙粛正運動の前後に党国体制下の満洲帝国では協和会企画局が「東亜新思想研究工作」を行い、内地でなく満洲が思想の面でアジアを導く野望の実現に向け努力が行われていた。これに内地の新日本研究会が合作し、定期的な研究会が大連で催されていた。選挙粛正運動後の1955年10月にその成果である『主体主義綱領』が協和会第2期中央輔導委員会第1回会議と東京の新日本研究会で同時公表され、選挙粛正運動敗北に打ちひしがれた人々による新思想への渇望と結びついたのであった。
 そもそも満洲帝国は翼賛体制に異議を唱えた結果弾圧された日本人が数多く移住しており、彼らは関東軍を引き継ぐ満洲帝国軍の支援で秘密裏に日本へ戻り、各地で主体主義を広め反政府運動を組織する工作を行っていた。有名な例は三井三池炭鉱事件で、後に協和党幹部となる向坂逸郎が「主体主義協会」を組織し、国内の道復運動残党を回収して炭鉱での「自治区」形成を行っていた。こうした満洲帝国からの工作とは別に、1957年に国共内戦に勝利した中国共産党も、延安で日本共産党を再建し対日工作を1950年代にかけて行っていた。ここでも旧道復運動残党が活躍した。
 選挙粛正運動の後、国内においても不穏な兆候が現れていた。まず、かつて一党独裁制を築こうとして敗れた重臣近衛文麿が、大日本政治会の全体派*8や地方壮年実力者と接触を深めるようになり、永仁自身も皇族の身分を利用して知識人を保護し、自身のブレーンに加えただけでなく、主体主義を前面化して政治的主導権を獲得しようとした。鳩山一郎三木武吉大野伴睦犬養健など大日本政治会における少数派閥の指導者も、弾圧の恐怖を忘れて積極的に動き始めた。
 何より忘れてはならないのが学生運動だった。分裂した全修会(主体主義派)は新日本研究会の青年挺身隊と化した。特に突然登場した学生秘密組織「ブント」は青年だけでなく労働者や農民など各界に渡って組織的工作を開始した。実は、ブントは満洲帝国軍が資金支援し、協和会が秘密裏に訓練した組織で、中核的構成員も建国大学出身者が少なくなかった。このように、日本国内と外国からの動きが判然となり、主体主義に基づく党国体制の樹立へと皆が動き出していったのだった。
 1955年選挙の後で大命を受けた重光葵が首相となり、国民党を見限り中国共産党政権との国交樹立を試み始めた。重光首相は文民であったのもあり、さらなる弾圧緩和へ向かわざるを得なかった。重光は1957年に道半ばで死去し、岸信介が首相を引き継いだ。岸は反東條として弾圧された点で、岸の首相就任は意義深い出来事だったが、岸は主体主義勢力による権力奪取の可能性を察して弾圧を始めた。これに対し三井三池炭鉱事件などが勃発し社会の緊張は高まっていった。
 宮城進軍事件の直接のきっかけは岸が重光から引き継いだ日中国交樹立だった。里見岸雄が唱えた人種主義に基づきサンディカリストを白人による東亜頽廃の陰謀と見なした主体主義者は、日中国交樹立をアジア人種および大東亜戦争事績への裏切り行為であると見なした。特にブント指導下の学生による反対を起点に抗議運動が始まり、これに乗じた近衛や永仁皇太子、議会政治家の工作で抗議デモは日に日に拡大していった。日中国交樹立は条約としては調印されており、残るは枢密院での儀礼的批准を待つのみだったが、重臣近衛文麿の工作で枢密院審議はいたずらに引き伸ばされた。1960年5月、6月……と審議は続き、抗議運動は日増しに拡大していった。
 帝国議会と宮城を囲むデモと、地方での相次ぐ権力奪取に岸政権はダメージを受けたが帝都への戒厳令導入で応えた。しかし軍は縮小に次ぐ縮小で政治的に弱体化しており、日本人徴募兵もデモに同情的であり、馬来人による「外人部隊」を動員せざる得なかった。
 事件のクライマックスとなったのが自衛隊による帝都への「進軍」だった。永仁皇太子は「東亜の危機を救済」するため帝都に「馳せ参じる」ようラジオ声明*9を発し、警察と軍による制止にも関わらず各地から自衛隊が隊列を組んで帝都に行進し始めた。自衛隊は道復運動時のようなバラバラの集団でなく、主体主義を支持する在地名士や青年層、ブントによって組織化されていた。国民は体制変革を望んでいたのだった。
 さらに、6月15日には学生などデモ隊百数名が馬来人部隊に射殺される事件が起き、政府及び軍にも動揺が広がった。岸内閣に見切りをつけた日政の議員も造反、「条約批准反対同盟」を結成した。6月19日に枢密院が異例の差戻の決定を下し、政治生命が尽きた岸は23日に内閣総辞職に至った。この一連の事件を宮城進軍事件という。
 その後造反派議員や近衛グループ、新日本研究会、主体主義協会などで素早く政治収拾へと動き出し、7月には協和党中央指導委員会が発足、7月19日は大蔵官僚の池田勇人が首相に就任した。かくして翼賛体制は崩壊し、協和党による党国体制が始まったのだった。
 

翼賛体制についての補足

翼賛体制の身分・職能団体

 この時代の身分・職能団体は大政翼賛会の有名無実化のため長続きしていない。とはいえ、特筆すべきものとして以下のもののを挙げる。
 大政翼賛会発足直後は各身分・職能を網羅していたが、その多くは後に政府指導下へと統合された。例えば農業報国連盟は農林省の農業会に権限を奪われ消滅している。組織自体は残った例として、大日本青少年団、大日本婦人会がある。内実としては各地の自衛隊の影響を免れなかったが、一応組織の骨組みは1960年まで存続した。職能団体としては大日本言論報国会が最後まで強力に機能していたが、日本文学報国会は有名無実化していた。大日本産業報国会は組織自体は空洞化していたが、近代的工場やホワイトカラーのオフィスにおいて産報組織が活発に機能していた。産報は協和党斎礼会の支持基盤となる。一方炭鉱など肉体労働現場では道復運動や日本共産党の工作などで産報組織は破壊され、1960年時点では主体主義協会の指導下にあった。
 大日本翼賛壮年団(翼壮)はもともと在郷軍人会会員が横滑りする形で1942年に誕生した政治結社で、大政翼賛会とは別個に展開していた。翼壮加入率はそのまま翼賛体制前期における体制支持率と見なすことが出来る。これもまた戦後、自衛隊により多くが解体されたが、例外的に長野県だけは1960年時点でも組織を名実ともに維持していた。翼壮加入率は県民における自発的な満蒙開拓分村移民の送出率に比例しており、同様に高知県山形県も比較的高い加入率を記録していた。ただし、高知県は1950年代後半に、山形県は道復運動粛清時に翼壮が消滅している。翼壮は戦時中に体制の積極的支持者と見なされ、当時の内務省は内部文書でこうした支持者を「臣道実践階級」と呼んでいた。しかし、その多くも道復運動で祖国の運命に幻滅することとなった。

*1:産業報告運動の略で、翼賛体制下に創設された労使協調型の労働組合

*2:WW2の結果、全体主義諸国はユーラシア、ヨーロッパ、アジア、アフリカで構成される旧世界を征服し、南北アメリカとオーストララシアで構成される新世界は英独ら旧同盟国の支配に残った。そのため旧世界を全体主義世界、新世界を自由主義世界と言い換えることが出来る。

*3:満洲帝国軍に編入された。

*4:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:KishuoSatomi002.jpg?uselang=ja

*5:朝鮮軍に配属されたが、部隊がウラジオストク攻略へ転出する直前に病気除隊となった。丸山所属の部隊はウラジオストクの戦いで全滅状態となる。

*6:1936年初当選の議員で、戦前はアジア主義政党「東方会」所属だった。翼賛政治会が崩壊し陸軍による選挙弾圧が起きた1947年4月衆議院総選挙にて、日政非推薦で立候補したため逮捕、落選し、そのまま議員資格を失った。

*7:皮肉なことに、国外追放となった鉄道職員は大東亜共栄圏での鉄道建設に重宝された。

*8:全体派は旧社会大衆党系の議員派閥。数は少数派だが、全体主義体制の樹立を古くから支持してきた。それゆえに東條政権では弾圧を被っており、亡命人士の中には全体派と親しい者も多い。協和党における派閥「斎礼会」に繋がる。

*9:NHKに突入した自衛隊と永仁皇太子によるゲリラ的な声明発表で、検閲を回避したものだった。