靖之天皇(永仁)

 靖之天皇(1925年12月6日-2011年11月2日)は日本の第125代天皇。御称号は厚宮(あつのみや)、諱は永仁(ながひと)。昭和天皇の治政下長く皇太子を務め、大東亜戦争と大東亜統一戦争の二度の大戦争を支え、1960年に誕生した協和党政権を指導した。1982年に昭和天皇が健康上の理由で退位したのに伴い、昭和から靖之への改元に併せ、第125代天皇践祚した。その後も党への指導を続けたが、2011年に崩御した。

永仁皇太子肖像

生涯

青年期と軍務

 靖之天皇は1925年12月6日、当時の摂政宮と皇太子后の間で第一子として誕生した。皇位の直系継承者の新たな誕生だったが、直後大正天皇崩御、摂政宮が天皇に即位し厳粛な雰囲気で迎えられた。御称号は『礼記』の「省其文采,以繩德厚」から厚宮(あつのみや)、諱は『書経』の「欽崇天道、永保天命」から永仁(ながひと)となった。昭和天皇践祚に伴い厚宮は皇位継承第1位に位置づけられた。
 幼少期は世界恐慌満州事変などの不穏な時局のなか、1932年に学習院初等科に入学。1936年に皇族身位令により陸海軍少尉に任官したが、本人の希望で異例ながら1941年に陸軍士官学校(56期)に入学し、正規の士官教育を受けた。この問題は宮中で議論を呼び、昭和天皇を大いに悩ませたという。その直前、15歳になるに伴い、1940年に立太子礼をもって皇太子に就任した。18歳となった1943年には李王家王世子の李垠の長女たる李智鎔との婚約が内定した。李智鎔は朝鮮王公族と日本の梨本宮方子女王の子供であるが、皇太子が朝鮮人の血を継ぐ者と結婚するのは日本帝国において初のことだった。この婚約劇は、当時政府が推進していたアジア主義や「内鮮一体」を示す宣伝としてなされたと推測されたが、後年靖之天皇は恋愛結婚であったと述べ否定している。
 大東亜戦争というアジア解放戦争が遂行中の時代に青年期を過ごした靖之天皇は、学習院及び軍でアジア主義の洗礼を一身に浴びた。強く入学を希望していた陸軍士官学校では、身分の隔てなく仁義を交えて友情を為し、聖戦を前にした戦友的団結の美を知った。この経験は、協和党による全体主義化という路線の原点となったという。昼は猛勉強と訓練に励み、夜は学友とアジアの未来について語り合った。こうしたアジア主義の関心のためか、后は朝鮮王公族から選ばれたのだった*1
 永仁皇太子は英才を発揮し、帝王教育の傍ら1944年には陸軍大学校(60期)に入学し、速習を経て翌年1945年末に卒業した。その後は満洲、シベリア方面の視察を重ね、そこでアジア主義活動家の辻政信大佐と知り合った。このことも皇太子の思想に大きな影響を与えた。また、戦争末期にはシベリア戦線で北方民族解放工作が行われており、アジア主義に基づく人種戦争の最前線を目撃することとなった。戦後もしばらく軍に残り、最終階級を大佐として予備役に回った。戦後も公務と教練の傍らに勉学の自習に励み、建国大学へ聴講に訪れるなど、勤勉と英才を見せた。とりわけ歴史や人類学*2を好んだ。帝大や建大の若手教授と親交を深めたことは、後の新日本研究会発足の基礎となったとされる。
 

新日本研究会の発足

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 戦後、1947年にドナウ連邦よりホライ・ルーリンツ率いる親善団が来朝し、帝都のほか満洲などを巡った。ホライは新進気鋭の若手党理論家らを具し、日本人らと議論を交換したが、これに永仁皇太子も参加した。1949年には日ド親善のための訪ド団団長に就任し、ドナウ連邦やイタリアなど中欧を遊んだ。その際、本格的なドナウ社会主義に触れ、現地から研究書を持ち帰り全体主義思想研究に打ち込むこととなった。この日ド交友は皇太子だけでなく多くの日本人知識人に対し、ドナウ由来の「純粋な」全体主義思想をもたらすこととなった。多くの知識人はこれに熱中し、永仁皇太子も例外でなかった。というのも、当時の日本は戦勝後経済崩壊に遭い、反政府運動とその弾圧で激しく動揺していたためであった。東條英機首相の強引な武断統治は、権門とごく一部の在地有力者にのみ利益を分配していたため、それ以外の勢力には不評だったが、当時は東條率いる軍の一部権勢勢力を破るほどの力も理論も有していなかったのだった。永仁皇太子は宮城進軍事件後、当時を振り返り皇族であれど密かに尾行し監視した憲兵隊の無礼を批難している。また、当時永仁皇太子は国政の乱れだけでなく、それに対する父帝の無力も憂いでいた。ドナウ連邦をモデルとし、主権者である天皇に権威だけでなく権力を備えた独裁体制の構築を検討し始めた。
 1946年の戦勝から1960年の宮城進軍事件にかけての日本の政治思想潮流は、上記のようなドナウ式全体主義の移入だけでなく、満洲帝国の統治システムの移入を要求するものも存在した。協和会や官僚、関東軍、東京などの複雑な多頭体制だった満洲帝国は、日本と同時期に経済危機を受けた結果、それから間もなく体制改造と国家再建が始まった。戦争で活躍した関東軍中堅高級参謀らによる謀略である「総務庁事件」(1951年)で、日本から来た高級官僚と権門が失脚し、協和会を入れ物として全体主義一党独裁体制たる「党国体制」が構築された。さらに、満洲帝国協和会は「東亜思想研究工作」と銘打ち、アジアの全体主義建設を導く理論工作を開始した。日本に先んじて満洲全体主義が成立したことは日本の知識人を励まし、永仁皇太子にも大きな影響を与えた。
 こうした背景を踏まえ、永仁皇太子は全体主義支持者の勢力をまとめるべく、1953年にシンクタンク「新日本研究会」を発足せしめた。新日本研究会は若手ながら思想路線上の違いから政権中枢に参与できなかった新進気鋭の学者を多数抱えた組織である。当時の日本政府は日本主義をはじめとして古めかしい思想を保持し、近代化に必要な合理的思考である科学主義でさえ拒否していた。そのため、多くの若手知識人が国定思想に違反してしまい、政治に関わることができず、国家思想の陳腐化を加速させていた。
 また、新日本研究会は皇族の庇護下たることに意味があった。1930年代から思想弾圧が吹き荒れ、サンディカリストコミュニストは無論のこと、自由主義者や果ては近代的な合理主義者さえ「アカ」として弾圧されていた。科学的合理性を持てば政府の無為無策に反対するのは当然だったが、官憲は自己保身のためにこれを許さず弾圧し、日本は国家としての自浄作用を喪失しつつあった。一方、新日本研究会は皇族主宰であったため、メンバーを検挙するのに慎重な操作と確実な証拠を必要とさせた。さらに永仁皇太子自身が内務省及び検察に圧力をかけ、関係者の弾圧を躊躇させた。こうして身の安全が保証されたため、新日本研究会は優秀ながらそれ故に官憲に狙われかねない逸材を集めることができた。
 永仁皇太子は新日本研究会の代表としてだけでなく、一員として学習に励み、思想を養い国家改造構造を深めていった。会員は永仁皇太子の皇族でありながら謙譲した態度に驚愕し、連名してそれをやめるよう嘆願を提出した。しかし、皇族であれどアジア人種であり、同じ国民たるべきよう振る舞うべきと永仁皇太子が説得し、学者らはその場で涙を流したという。
 永仁皇太子は、党国体制を目指す新日本研究会を、一足早く党国体制へ移行した満洲帝国協和会と合作させた。当時は本土より大陸のほうが自由な出版や議論などが可能だったこともあり、研究会メンバーは度々満洲へ赴き、永仁皇太子もまた公用や同窓会を名目に渡満した。渡満先での視察では特に開拓農村の広大な耕地を見て「閃きが走り天命を受けた」という。
 そして、永仁皇太子による日満合作における最大の成果は「主体主義」の発明だった。新日本研究会は満洲帝国における全体主義改革の指導者だった池田純久協和会中央輔導委員会委員長と直に議論を交わし、研究会の研究成果を統一理論として日満同時発表することとなった。こうして1955年秋に発表されたのが、かの『主体主義綱領』である。主体主義の内容についてその説明は別の場に譲るが、永仁皇太子は主体主義の理論設計において多大な貢献をしていたのだった。こうして登場した主体主義は、同年春の選挙粛正運動が失敗に終わった日本本土において衝撃的に受け止められ、党国体制建設にかかる具体的指針としてベストセラーを記録したのだった。選挙粛正運動は議会政治家指導による自由選挙導入運動だったが、これは憲法の範囲ないで国家改造を試みることを意味していた。それに対し、主体主義は議会政治家は無論、憲法範囲内での実効性を疑うほど、大胆な国家改造案だった。ある程度以上の年齢層であれば、これが1930年代に人気を獲得した、北一輝国家社会主義改造案と昭和維新の国家改造機風に重なることを認めざる得なかった。1950年代の主体主義運動は、1930年代を知らない戦中派や戦後派の青年層を「維新の挺身隊」として突き進んでいった。
 以上のような背景をもって、永仁皇太子は皇族の身分でありながら、憲法さえ変革しかねない翼賛体制打倒の旗手として急速に浮上した。1930年代のアジア主義黎明期に青春時代を過ごし、大東亜戦争中に兵士だった世代、大東亜戦争中に青春時代を送った戦中派、戦争中は子供で物心就いた頃はすでに戦後混乱期にあった戦後派は、国家衰退を爆破突破するアイドルとして永仁皇太子を見なし、多大な期待を寄せたのだった。「全日本学生修養会(全修会)」と呼ばれる学生団体では主体主義やドナウ政治哲学勉強会が連日催されていた。さらに、旧関東軍を主体に改組した満洲帝国軍の支援で、日本における全体主義建設の先兵として秘密結社「ブント」が設置され、新日本研究会は特に優秀な学生をブントに送り込み、政治工作活動に従事させた。これは永仁皇太子直々の私命によるものだった。いつの日か主体主義による国家改造は「主体維新」と呼ばれるようになっていった。
 このように、永仁皇太子は主体維新を理論的・政治的に指導し、人々特に青年層の指導者として浮上していった。
 

宮城進軍事件、協和党政権成立

宮城進軍事件(1960年)

 1960年に勃発した宮城進軍事件は、前年の日中通商友好条約調印にまで遡る。蒋介石の国民党政権を破った毛沢東中国共産党は、1957年10月1日に中華人民共和国の建国を宣言し、中原の覇者となった。中華民国大東亜共栄圏の中堅国家として交易していた日本は、中国赤化により威信を傷つけ、大東亜共栄圏経済全体にダメージが与えられた。重光葵首相及びその後を継いだ岸信介首相は、不況鎮圧のため共産党政権と交渉を重ね、1959年についに通商再開が調印されたのだった。
 しかし、サンディカリズムコミュニズムを、「白人文明がアジア文明に送り込んだ罠」と見なす主体主義支持者は、日中通商再開を逆賊行為と批難し、実力行使による条約批准阻止を狙い東京への結集を呼びかけた。これが宮城進軍事件の直接的きっかけである。ブントの手で学生は急速に組織化され、ブント工作員自衛隊*3を指導し東京への参集を始めつつあった。1960年1月15日には自衛隊「反共挺身隊」が早速羽田空港に突入し、岸信介首相の襲撃を試み失敗している。永仁皇太子はブントとは別に、個人的な交友関係を駆使し各界名士に主体維新の支持を要求していった。東條英機元首相の息のかかった陸軍憲兵隊は永仁皇太子を拘束しようと試みたが、ブントや自衛隊などの私兵が護衛し、軍内部からの密告で拘束作戦はすべて失敗した。
 永仁皇太子を止められるのは、もはや当時の昭和天皇しかいなかった。昭和天皇は永仁皇太子を呼びつけ咎めたが、激論に発展し、天皇は「朕に手向かうか!この逆賊!」と声を荒らげた。永仁皇太子も主体的意志の強い性格から反撃し、戦後直後における天皇無為無策を批判した。
 やりたい放題の永仁皇太子を陰で支援したのは、昭和維新時代に大政翼賛会による国家改造を試みて挫折した、元首相の近衛文麿だった。永仁皇太子と近衛の間には細かな路線対立があったものの、当時においては権力獲得による維新貫徹という点で一致していた。そして、この近衛は条約批准を行う枢密院に対して影響力を持つキーマンだった。
 しかし、近衛は意図的に態度を曖昧にし、条約成立の危機を煽った。結果、報道管制にもかかわらず世論が燃え上がり、1960年春には各地でデモが多発した。東京ではブントの煽動もあり特に激しく展開された。「岸内閣打倒」「主体主義樹立」「反共貫徹」「財閥排撃」「親王万歳」の幟が掲げられ、やがて学生だけでなく労働者を巻き込み、地方から「進軍」してきた自衛隊も参加し、抗議行動の規模は膨れ上がっていった。戦後直後の道復運動*4を想起させる勢いだった。それ以前の国家改造運動と異なったのは、人々の崇拝対象だった。今までの運動は、人々が昭和天皇に対し「陛下は民の窮状を分かってくださる」と期待をかけ裏切られるというパターンだったが、1960年は天皇でなく永仁皇太子に期待が寄せられた。人々は臣民の義務として天皇崇拝を形式上続けていたが、特に青年層の心は永仁親王へ向かっていた。
 内務大臣や陸軍大臣などの上奏でその気配を感じた天皇は、事態の鎮圧に苦慮した。永仁皇太子を宮城に呼び拘束することも検討したが、事態をさらに悪化させるおそれや側近からの憲法違反を疑う指摘などから、結果として永仁皇太子に外地視察を命じることとした。首相経験者による重臣会議では戒厳導入について東條英機近衛文麿が対立したが、東久邇宮稔彦王が態度を決めかね、東條は天皇に単独で戒厳導入を上奏し、5月19日に東京で戒厳が導入された。
 宮城進軍事件の詳細な経過は知られるとおりである。戒厳にひるまず各地から自衛隊が集まり、やがて「宮城へ進軍せよ!」を合言葉に宮城が群衆に包囲され始めた。一方戒厳軍は兵士から将校まで運動に同情的で、自衛隊の入都を黙認していた。日本人将兵は政治的信用がないと判断され、政府と宮城は急遽空輸された馬来人空挺兵が警備することになった。議会では戒厳導入に対し賛否が分かれ、戒厳反対派が与党大日本政治会(日政)を脱党した。戒厳に対する世論の反対を察した永仁皇太子は、中核的同志らとともに秘密裏に演説を録音し、5月26日にNHKラジオで放送した。この事件は人々の旗幟を鮮明とさせ、岸内閣支持か反対か、戒厳か否か、東條か否か、主体維新か否かの闘争に発展せしめた。また、新日本研究会に所属する学術関係者を中心に「6月闘争委員会」が結成され、さらに6月15日に発生した馬来兵の群衆に対する一斉射殺では、女学生を含む数百人が死亡し、主体維新派に道義的正当性を与えた。
 最後の一撃は狡猾な重臣近衛による策動で、機が熟したと見て枢密院に対して条約批准審議差し戻しを命じ、6月18日に枢密院はこれを決定。翌19日に差し戻しを発表し、日中通商条約を事実上破棄せしめた。これを受けて岸内閣は総辞職し、日政政権は崩壊した。戒厳軍と警察が打ちひしがれるなか、議会政治家、改革派官僚、新日本研究会が合流し、協和党結成と池田勇人内閣結成について合意に至った。最後に永仁皇太子は悠々と宮城に上がり、池田大命降下を上奏。政治的敗北を認めた昭和天皇は、これを認可したのだった。
 宮城進軍事件において、永仁皇太子は100%とは言わずとも、その多くを指導し責任を負っていると言っても過言ではない。特に戒厳を巡る闘争は、まさに天皇と皇太子の闘争と言えよう。宮城進軍事件の成功は、本来絶対であるはずの天皇優位を揺るがせ、永仁皇太子の権力及び権限を急浮上させたのだった。
 

協和党時代を拓く

 日政による翼賛体制打倒後立ち上がった協和党は、その党首に永仁皇太子を戴いた。協和党は内閣閣僚とほぼ合一する中央指導委員会(中指委)委員による集団指導体制だったが、これを上から指導するのが中指委委員長であり皇太子である永仁親王だった。こうして、永仁皇太子による国家運営が始まった。
 「君臨すれども統治せず」と言われるように、日本の立憲君主制において国家指導者は権威のみ保持し権力行使を控えるのが常であり、これは明治以前の諸政権でも同様だった。権威と権力を同時行使する指導者は、後醍醐天皇などごく僅かな例しかない。永仁皇太子は、まさにその例外側の指導者だった。党指導者として特定の党内派閥を組織することは避け、中立を心がけつつ、中指委長かつ皇太子という肩書から国政指導を行った。党は憲法に定めざる私的組織でありながら政治を指導する能力を有したのは、永仁皇太子の権威と国民の支持の賜物であると言える。
 協和党が成立し、主体維新の時代が始まると、中指委決定を議会で法制化し、最後に天皇が御名御璽をする形で国家は運営されていった。元々政治参加に消極的だった昭和天皇は、協和党時代の到来に伴いさらに形式的存在に変化した。後世には、息子である永仁皇太子により父帝が傀儡化されたという過激な見方も存在する。
 永仁中指委長の国政指導は、党中指委議事の主宰から国民との交流まで多岐にわたっていた。
 永仁中指委長は他の政治家や官僚などと同席して企画局の研究会に参加し、第一線の政策知識を養った。このため普段の中指委にも参席し、重要議題だけでなく普段の会議においても関与し、指導することができた。党内勢力にも気を配り、首相交代において次期首相を選び、天皇へ推挙する権利を保持した。こうした党上層部の内部工作だけでなく、国民に直接触れることを甚く心掛けた。宮城進軍事件で活躍したラジオは勿論、「現地指導」と呼ばれる現場視察を連日行い、市井の人々と腹を割って話し合った。天皇が勅以外で発言することが稀で、しかも勅が古めかしい漢文訓読体で書かれるのに対し、永仁皇太子は一般的な日本語口語による会話や執筆を行うことで、国民に広く政治を開くよう努力した。現地指導は内地のみならず、樺太や勘察加、朝鮮や台湾など外地でも行われ、朝鮮人や台湾人など非大和民族に対しても交流を怠らなかった。これは意図的なもので、自身を「アジア主義の指導者」として宣伝するためであった。
 思想工作においては、新日本研究会メンバーを総動員し、政策理論の実践とさらなる理論化の再帰を行い、主体主義の完成度を深めていった。旧来の翼賛体制で活躍していた平泉澄などの御用学者は失脚し、丸山眞男など若い世代の学者を据えた。永仁中指委長にとって、主体主義はアジア主義と並ぶ大原則だった。
 協和党政権を成立せしめた思想がドナウ全体主義の影響を受けていたのは前述のとおりだが、ドナウ連邦では1962年に「ウィーンの春」という事件が発生し、日本国内のドナウ派知識人はこれに動揺した。永仁皇太子は思想や政策からドナウの影響を実質的に除去することは戒めたが、親ド風潮を抑制せざる得なくなった。その代わり、あらゆる思想をアジア本来のものであると強調し、アジア主義を前面に押し出し、さらに過激にアジア主義を進めることとなった。

大東亜統一戦争と神格化

 永仁皇太子は昭和天皇を譲位させ、いつかは天皇践祚するつもりだった。中指委長の肩書で国政を掌握し、大東亜会議にも日本代表として出席するなど事実上の国家最高指導者としての事実化工作を行っていた。しかし、1973年に満中国境での電撃戦とともに大東亜統一戦争が勃発すると、そのタイミングが失われた。
 永仁中指委長はアジアの盟主たる日本の指導者として、またアジア主義的信念に基づき大陸へ派兵し、一時は奉天まで危ぶまれた満洲帝国を窮地から救うに多大な役割を果たした。また、大和民族だけでは総力戦が不可能であり、同じアジア人種として民族に関わらず「聖戦」を戦うべきという意見から、早い段階で戦後の朝鮮独立を提起し、中指委承認をもってこれを公表した。大規模徴兵された朝鮮人兵士は精強で、戦線を強く支えた。
 一方、中華人民共和国の中国人に対しては無慈悲な膺懲が必要であると、満洲協和党中央輔導委員会(中輔委)委員長江田三郎と同意し、中国人捕虜だけでなく占領地の「反黄赤化分子」の強制収容及び強制労働を日本でも行った。一方で占領地の「良民」を東京に招き、主体主義下での発展を見せて歓待する宣伝も忘れなかった。
 戦争で軍を急拡大し、植民地の独立問題を指導するなど、永仁中指委長の権力は実質的に天皇を超えるものになりつつあった。老いた昭和天皇は永仁と争う意欲さえ失い、趣味の生物学研究に没頭していた。永仁皇太子を摂政とすることができなかったのは、天皇自身の消極的抵抗のためである。儒学的孝徳の教化が国家指導者の義務であると見なされていたので、親子である昭和天皇と永仁皇太子の不仲は一切報じられなかった。しかし、昭和天皇の動静もほとんど報道されなくなり、事実上永仁皇太子が天皇として機能していた。
 こうした事情から、永仁皇太子は党の指導者として、事実上の天皇として党宣伝煽動部により神格化され始めた。これはアジア全体を巻き込む大戦争に対して国民のみならずアジア人種全体を団結させるためであった。メディアは連日のごとく永仁皇太子の英明を説明し、『永仁大佐の歌』*5は準国歌級の扱いを受けるようになった。あらゆる公共施設のみならず各家庭にも永仁皇太子の肖像写真*6が飾られた。また、数々の「伝説」が創作されるようになったのもこの時期である。
 永仁皇太子は昭和天皇とは対照的に積極的に戦争指導を行い、満洲での現地指導さえ行った。このときも外地への現地指導を怠らず、非大和民族の日本皇民との議論を交わしていた。

靖之天皇として

 大東亜統一戦争は長期化していたが、1975年の中原会戦、1976年の第一次長江作戦で勝利し、日満蒙連合軍は中共の首都たる南京に迫った。1976年9月13日に中共では毛沢東の老齢に乗じて国政を壟断していた林彪に対するクーデターが発生し、中国は内戦に突入した。この頃には戦局もやや余裕を持つようになり、永仁皇太子は昭和天皇の譲位工作を開始した。もはや昭和天皇側に就く者は誰もなく、1982年に昭和天皇は譲位、永仁皇太子が天皇となった。元号は「靖之」で、漢学者と協議して永仁皇太子自身が選んだ。1982年という年は第7期協和党中指委の開始年であり、党務に従って天皇譲位と践祚のスケジュールが組まれたことになる。靖之天皇にとって玉座とは権力掌握の画竜点睛のようなものであった。協和党時代の間、天皇権力は事実上形骸化していたのである。
 靖之天皇践祚で文字通り神となり、靖之天皇「伝説」はさらなる加速を見せた。この頃には、宮城進軍事件を支持した当時の若者や、1960年以降に教育を受けた若い世代が社会の中核を占め、党が上から工作せずとも下から自動的に靖之天皇崇拝が加速化するようになった。天皇になっても現地指導と国民への呼びかけは止めなかったため、報道はますますその言動への紙面を割き、必ず朝刊第一面には前日の靖之天皇語録が掲載された。いつの間にか、「靖 之 天 皇」のようにその名を太字かつ大きめのサイズで強調して書く「指導者格式」が定着していった。
 また、天皇即位直後に勅の文体を片仮名から平仮名に変更して視認性を持たせた他、教育勅語に代わる新たな教義として『思想原則に関する勅語』(通称:思想勅語)を発表した。思想勅語はこの名の通り日本国民の一切の道徳基準となっただけでなく、当時流行していた集団主義教育に基づき毎週「反省会」が学校や公団*7で開催され、思想勅語に基づく反省陳述や学友・同僚の批判がなされるようになった。教育勅語が旧来の儒教に由来するように、思想勅語は皇太子時代に指導した儒教研究に基づく思想「科学的儒教」により構成されていた。中国歴代王朝による注疏でなく、考古学や言語学的分析による大胆な原典再解釈による研究成果をもとに、科学的近代価値観に合うよう再構成された科学的儒教は、儒教を大きく若返らせ、再び国家宗教としての地位を復したと言えよう。科学的儒教は主体主義を補う役割があった。
 靖之天皇は日本の国家元首たる天皇を超え、大東亜共栄圏全体の指導者として君臨しようとした。戦後朝鮮は国制上独立したが、実際は協和党を通じて当組織と思想の面から靖之天皇支配下にあった。この路線は満洲協和党との対立を生み、東京と新京の間で論戦が水面下で行われるようになった。
 1989年には昭和院が崩御し、国葬を行った。
 1990年代の日本は大東亜統一戦争や中国支配の負担で経済的に停滞し、消費財供給量が頭打ちとなった。大東亜共栄圏全体では特に南方での人口爆発が食糧維持を困難になった一方、内地では出生率が低下傾向で少子高齢化の兆しがあった。
 この難局に対し、靖之天皇はドナウとの友好拡大とそれによる技術交換を命じた。かつて大東亜戦争集結直後、日本とドナウは技術交流を行い、ドナウからは工業技術が、日本からは熱帯農業技術が移植されたことがある。しかし、アジアの盟主が反共反祖陣営とはいえ白人国家に支援を求めるのに関し、党中央では大激論に発展した。比較的国運が好調だった満洲帝国は自力更生を選択し、東京からの離脱姿勢を見せ始めた。国内向けにはドナウからの技術移入の報道を抑制しつつ、党組織を駆使し大衆運動を組織した。それは主体主義の徹底であり、集団主義教育を受けた青年世代が中核となり、生産現場の「総点検」をもって問題点を洗い出したり、「反省会」を連日連夜開催し問題分子を捜索した。靖之天皇語録の学習会が行われ、人々は盲目的に靖之天皇崇拝をして経済対策の取り組みから目を背けていった。また、宮城進軍事件を支えた日本青年運動を温故知新し、都市青年による熱狂的な帰農運動が展開された。食糧増産には貢献したが、愛国的で政治的に賢明な貴重な頭脳を、工業でなく農業に投下する結果となった。
 経済危機の対応不成功と人々の動揺は、アジア主義に対抗する思想潮流を生み出した。民族を超えた人種を主体とするアジア主義に対し、各民族を主体とする「民族派」と呼ばれる思想潮流は、朝鮮独立や大東亜統一戦争の衝撃で次第に力を持ち始め、党内にも受容的な派閥が登場した。1995年には民族派グループ「御楯隊」による連続テロ事件とその粛正事件が起き、勘察加とニューギニヤにて民族派が事実上現地日本人社会の主導権を握る事態が発生した。満洲では五族協和朝鮮民族主義が衝突し、激烈な民族紛争が始まった。さらに、遡って1995年初頭には阪神・淡路大震災が起き、社会に暗い影を落とした。
 そのような情勢を打ち消すべく、宣伝煽動部はさらに熱狂的な個人崇拝を組織し、大衆もまたこれに盲従するだけでなく、自ら積極的に支持し参加していった。
 1990年代から2000年代はアジア全体で停滞が続いた。しかしながら、硬直化した大衆とは対照的に、靖之天皇自身は柔軟な頭脳を動かして産業改革を指導した。そこに立ちはだかったのは、自ら打ち立てた協和党政権で誕生した様々な権門だった。主体主義協会なら公団、旧日政党人派系なら公共事業のように、協和党の各派閥はいずれも何らかの利権を有していた。宮城進軍事件当時の支持者が何らかの形でこうした利権の享受者であることは、靖之天皇の頭を悩ませた。人間の欲望が無限であるのに対し物資は有限であることから、不自然に拡大する特権的消費財供給や汚職はいつか対処せねば経済全体が共倒れになる。ある大蔵次官は靖之天皇に対し、大蔵省が日本帝国の経済を完全に把握しきれていないと上奏した。
 これに対し靖之天皇は、毛沢東式に青年動員をもって権門を排撃するのでなく、経済構造全体を把握し指導する官僚集団を直属することで、自ら経済改革を試みた。これは、ドナウ連邦で培われた「指導経済学」と呼ばれる経済学派の導入を意味する。また、汚職政治家を見せしめに取締ることで、一君万民と「民のために働く指導者」を演出することを忘れなかった。経済危機の対処は、改革反対派、賛成派だけでなく、民衆が党権力反対へと一気に旗幟鮮明とする危険がある点で、絶妙な綱渡りのような統治を必要とした。靖之天皇の努力で日本経済は完全な破滅を防いだが、人口増加率の低下もあり経済の停滞は否めなかった。
 また、人口においてもドナウ式の人口政策が導入され、合計特殊出生率目標や外地住民の計画的内地移入制度が整備された。

崩御

 1925年生まれの靖之天皇は2000年には75歳となり、その高齢ゆえ侍従は健康管理に苦心した。しかし、不健全な生活リズムもあり健康は年々悪化し、1990年代末には認知症の兆候が出始め、2001年には心臓発作を起こしている。本来ならば摂政を立てるべきだが、靖之天皇本人は反対し、党中央も「偉大な指導者にしてアジア人種の電算頭脳」である陛下に御譲位するよう申し上げるのは不敬ではないか、といった議論が延々と続き問題が先送りにされた。2009年には転倒事故を起こし寝たきりになった。こうした健康状態は一切報道されなかった。
 漢籍を愛した天皇の最期は中国皇帝のごとくで、その衰弱を天が告げるかのように、2011年3月11日に東日本大震災が起きた。宮城でも揺れを記録した。
 それからまもない2011年11月2日未明、靖之天皇崩御した。死の3日前に心臓発作を起こし、その時初めて健康状態が報道された。賢明な治療も甲斐なく靖之天皇はその生涯を終えたのだった。
 死後国葬が営まれ、協和党中指委は3年間喪に服すことを決定した。次なる元号は「平成」とし、永仁の息子である康仁が即位した。
 靖之天皇の死は日本のみならずアジア全体に大きな動揺をもたらし、大東亜統一戦争で占領された後、地域ごとバラバラに傀儡国が樹立された中国中原では、各国で同時に青年層による反日・打倒傀儡政権運動が勃発した。一方内地においては、かつて弾圧された民族派が合法戦術を取ったため特段動乱はなかった。朝鮮では朝鮮民族派に対するアジア主義派が政治的打撃を受けた。
 遺体は防腐処理が施され、東京では数百万人が葬列に参加した。大東亜統一戦争従軍者や高齢者を中心に号泣する者が少なくなく、宮城前広場の献花台には樺太や馬来などからも人々が献花に訪れた。
 靖之天皇崩御は、一人の指導者の死だけでなく、アジア主義という1930年代以来日本とアジアを支配し続けた思想の死でもあった。宮城進軍事件を知る世代はアジア主義の純粋な支持者として涙を流したが、崩御時の若い世代は何故高齢者が狂乱的に泣くのか理解できなかった。これを象徴するように、2014年の第15期党中央指導委員会拡大会議議長には、宮城進軍事件に反対の立場を取り、党内野党として首相の機会を長年得られなかった周山会出身の安倍晋三が就任した。安倍は民族派寄りの思想的立場に立ち、「新しい歴史」や三島由紀夫再評価工作などを推進していった。

人柄と逸話

 永仁はエネルゲン溢れる理想主義者として、頭脳派の政策家として知られる他、広範な学問や芸術の愛好家としても有名である。
 皇太子であれば本来在学不要である陸士と陸大を卒業し、1950年代には新日本研究会を立ち上げ政策研究に勤しんだ。永仁の政策は、単にドナウ全体主義の移植ではなく、それをアジア人の思想原則に結びつけることで一貫していた。それは、永仁が大の「漢籍通」であり、特に『論語』や『礼記』に親しんでいたためでもある。しかしながら、永仁は主体主義支持者とは異なりドグマティックな盲従を嫌い、1980年代には儒教を科学的儒教として改変するなど、必要に応じた柔軟な合理性をわきまえていた。
 「漢籍通」に留まらず、永仁はアジアを広く愛していた。勉学の傍ら朝鮮語を習得し、現代満語*8も話すことができた。さらに皇后は朝鮮王公族出身だった。読み書きに留まらず、人前で朝鮮語や満語を披露するにはばからなかったため、皇位継承者が半島や大陸の言葉を無闇に話すべきでないと宮中で批難された際、「朝鮮人も満人もアジア人です。八紘の民のために働くならば、皇族もアジア人になるべきでしょう」と反論したと言われる。現地指導も積極的に外地でも行っていた。そのため、特に朝鮮人の間では永仁が熱狂的に支持された。
 知的好奇心は尽きることなく、宮城進軍事件後、協和党の政策研究機関である企画局で開催される勉強会に足を運んでいた他、大学教授を宮城に招き個人的に講義を開催していた。その内容は政策や思想など実践的なものから、歴史や映画理論など多岐にわたっていた。
 一方で、自身が民にどのように写っているかを常に心配し、宣伝と神格化に余念がなかった。宮城進軍事件でのラジオ演説といい、永仁の行動の多くはパフォーマンスのきらいがあることは認めざるを得ないだろう。結果として国民による熱狂的な永仁崇拝に至り、それが政治や経済に悪影響をもたらしていくが、これがどこまで永仁の意図するところであったかは不明である。
 芸術も甚く愛し、漢詩や書道など古風なものから、大衆音楽や映画などモダンなものまで嗜んでいた。宣伝煽動部に対して直接映画を注文したり、映画の試作上映を行ったりと映画には細部まで関わることがあった。音楽は演歌や歌謡曲を聴いていたが、弟の上総宮明仁親王の影響で、電子音楽も聴いていた。大東亜統一戦争中の1978年にソ連からの電子音楽レコードの輸入が許可されたのは、そのためとも言われている。1980年には日ソ緊張緩和・親善工作として第21回東亜競技大会兼スパルタキアーダがシベリアで開催された。
 永仁皇太子そして靖之天皇を宣伝する大衆音楽は、先行事例があった満洲帝国を参考に積極的に展開された。永仁は従来の天皇という万世一系の役職に対する崇拝でなく、永仁という一人のアジア人に対する崇拝を要求し、その崇拝も、「現人神」としての荘厳なものでなく、戦友の一人としての親しみを込めたものにするよう指導した。これについては永仁が皇太子時代に著した『音楽芸術論』に詳しい。映画同様永仁が直接制作に関与することがあったが、1980年代以降は職務の多忙で第一線から手を引き、代わりに明仁親王が指導するようになった。明仁親王はモダンな音楽感性の持ち主であり、アジアの音楽刷新に貢献した。
 朝鮮人の血を引く皇后の李智鎔は、李姓を皇族入りに伴い捨て、智鎔も「智子(ともこ)」と日本風に読んでいた。李智鎔は朝鮮語をほとんど話せなかった。元々は内鮮一体演出のための政略結婚であったと言われるが、結局として二人の愛情は途切れることがなく、手をつないで散歩する姿も目撃されていた。
 永仁は何らかのこだわりが強かった。幼少期は教育係を偏食で悩ませ*9、起床すると必ず特定の小道を散歩し、コーヒーはジャワ産、煙草は満洲産の特定の銘柄を終生嗜んでいた。老齢時もこれを続けようとし、侍従を困らせた。また、夜型人間であり常に深夜に寝て正午前に起床していた。そのため現地指導は必ず午後、特に夕方が多かったという。甘い物が好物で、特にあんみつをこよなく愛した。グルメなところがあり、アジアの珍品を集めて食べていた。
 スポーツは野球と相撲を愛し、天覧試合は毎回国民全体の注目を集めた。相撲については観戦だけでなく、朝鮮人や蒙古人、アイヌ人などの各民族の伝統相撲の再興もアジア主義の観点から指導していた。1980年代には高齢ながらスキーを始め、侍従を恐慌に陥れた。これがきっかけで内地ではスキーブームが到来した。
 自動車は日産の特注モデルである「天馬」に乗っていた。天馬とは汗血馬のことで、歴史好きな永仁はこれに喜んだ。航空機も乗っていたが、国民との歓談や休憩の必要から、鉄道や船舶での移動を好んでいた。
 永仁は私生活さえ公務と一体化し、そしてそれ自体も宣伝の一つだった。人々が日々労働し、週末には同僚と宴会を楽しむように、永仁は党や宮中だけでなく、現地指導先で庶民と酒を飲み交わし、話をすることを甚く気に入っていた。皇太子、そして「現人神」の天皇陛下が平民と席を同じくすることは、それ以前はありえないことであるとともに、国民と指導者の距離を近しめ、党の指導と民の民主という党国体制を活性化せしめる作用があった。結果、永仁の「民に親しむ指導者」像は強化され、国民のカリスマ的崇拝の原因の一つとなった。
 軍隊時代の一人称は「自分」で、皇太子時代は「私」だったが、1970年代以降ときどき「自分」が散見される。大元帥服でなくやや改造の施された軍服と国民服を常時着用していた。
 

政治的事績

 日本史のみならず、アジアの歴史においても永仁皇太子、靖之天皇の果たした役割は大きい。
 日本においては翼賛体制を打破し、民衆の望んだ党国体制を建設した。国家指導の司令塔を果たす協和党は、永仁皇太子の直接的指導のもとに生まれた組織である。協和党政権においては内政、思想、外政、経済、文化、人口など全てを指導し、国運振興の直接的責任を負っていた。協和党の事績は即ち永仁の事績である。アジア諸国にとっても、日本が果たした役割は即ち永仁の役割であり、多くの国々が赤匪及び白人文明に対する永久戦争の戦線に立たされた。大東亜統一戦争をはじめ、数々の戦争で数億人が戦禍を被ったのは事実であり、戦災と復興はアジア経済のみならず永仁その人にも影を落とした。
 個々の分野を詳しく述べると、まず、思想面においては『主体主義綱領』による全体主義の提是(テーゼ)化が第一に挙がる。主体主義はあらゆる原則であり、昭和後期から靖之にかけての政策に関する理論的基礎となった。アジア人種を有機体と見なし、アジアの歴史は白人との闘争の歴史であると断じた、ドイツ人種主義の色濃い世界観はそのまま主体主義に由来しており、大東亜共栄圏の戦略指針となった。主体主義成立には新日本研究会などの数多くの学識者が関わっているが、永仁皇太子もまた関与し、自身の考えが反映されたものだった。永仁皇太子の寵愛を受けた宮廷学者丸山眞男は、「主体主義とはアジアの原則であり、永仁大佐の頭脳である」と賛辞を述べている。
 主体主義はドナウなどの白人世界の全体主義理論から強い影響を受けたとは言え、アジア独自の全体主義を確立するには申し分ない成功をおさめた。ポランニーの著作が日本で翻訳され読まれたように、ウィーンの日本政府系出版社「コーア出版*10」は『主体主義綱領』のドナウ語訳を、永仁皇太子の様々な理論書とともに販売し、日本からドナウへ全体主義の逆輸入を生じせしめた。主体主義は「永遠無窮の鋼鉄原則」として21世紀もなおその地位を失っていない。
 そして、もう一つの思想原則がアジア主義である。永仁の思想は、主体主義とアジア主義に要約することができる。アジア主義は主体主義の永久人種戦争観と密接に関係していたが、それを超えて人々の広範な理念として、アジア主義は受容されていた。永仁自身も1930年代のアジア主義第一次再興期に育っており、軍では辻政信の北方民族工作をその眼で見てきた。永仁は単にアジア主義を基礎とするのでなく、より挺進し、より過激に、より激烈にアジア主義を推進していった。永仁にとってのアジア主義とは、人種戦争などの闘争の根拠である一方、「(アジア人であれば)人は皆平等である」という人道主義及び博愛主義の根拠でもあった。この二つは戦争と平和として対照的に見えるが、永仁は「闘争こそあらゆる人々を団結せしめます。白人文明という敵を前にして、皇族の私も、百姓出身の将兵も、都市の大富豪も同じ戦友になれるのです。勿論、誇りある戦士には、それ相応の品格は必要かと思います。1960年に打倒されたのは、一つには配給の横流しで肥えた成金でしたのです」と述べている。生まれ持った人種により運命づけられた永久戦争を通じ、あらゆるアジア人が民族や階級を超えて平等な戦友になる――これが永仁の理想だった。
 こうした思想、そして導き出された政策理論が国家運営のみならず人々の道徳的原則となるシステムは、永仁の協和党をもって確立された。「政治第一路線」と言われるこの統治回路は、もともと蒋介石中国国民党政権や満洲帝国の満洲協和党でも見られていたが、日本のそれは永仁のカリスマのため、より厳格な鉄の規律として作用した。最高指導者の原則が道徳を通じて民を支配するのは、まさに朱子学の徳治イデオロギーシステムの好例であり、その点においては、教育勅語で支えられた昭和天皇の翼賛体制と変わらなかった。異なる点は、思想工作の場を宮中の儒者から新日本研究会が奪ったことで、支配手段である道徳の内容が近代化し、科学的価値観を盛り込んだこと、人々が靖之天皇を心の底から愛し、翼賛体制とは比較にならぬほどの徹底した「反省会」が繰り返されたことである。結果として、永仁及び党さえコントロールができないほど、人々の永仁崇拝と思想原則徹底は加速化し、あらゆる分野で思想勅語に基づく「総点検」がなされ、経済活動の非効率化をもたらすこととなった。
 ところで、協和党時代の日本において、有権者が投票する議会選挙は事実上の信任投票であるのに対し、その前に行う党内予備選挙は複数候補者がありつつも投票できるのは党員と党友のみだった。翼賛体制と大差ない不自由な選挙体制であるにも関わらず、国民が永仁と党を支持したのは何故か。それは、永仁皇太子が徹底的な民主を指導したからだった。投票資格の閉鎖性にも関わらず、予備選挙だけでなく、反省会や日頃の昼食でも、人が集まるあらゆる場所で党員・非党員に関係なく、徹底的に議論をするよう永仁は繰り返し指導していた。徹底的議論を通じて状況と問題点を洗い出し、解決のため何が出来るか思考を促す。こうして非党員含めあらゆる人に公共心を養わさせ、無関心や無責任、個人主義などを排撃することができた。投票資格のある党員は人々の議論を聴き、民衆の要求を理解するだけでなく、彼らから民主的意見表明の権利を委任されていると感じ、より慎重で責任感ある投票をすることができた。
 こうした「衆議民主制」は、永仁が強く指導した党国体制の原則の一つだった。「指導には民主が伴う」という永仁皇太子の格言はしばしば引用される。民衆における徹底した議論と強力な関心は、強い権力を持つ党の指導権と対をなした。同時に、国民の強力な崇拝は永仁皇太子そして靖之天皇の強権に伴うものだった。
 議論徹底と公共心涵養という原則は、「集団主義教育」を通じて教育にも持ち込まれた。集団主義教育はドナウ教育学の影響だが、これもまたアジアにおいて新日本研究会による理論工作で独自の進化を果たし、教化の手段となった。集団主義教育の目的は衆議民主制と同じく、集団のために生きる責任感ある人間の創造である。集団主義教育は無関心、無責任、個人主義を排除しなければならない。国民学校や青年学校などで集団主義教育の先行事例はあったが、党国体制の一部として公定されたのは1960年の宮城進軍事件以降である。
 基本的には、教師の指導のもと生徒数名による「班づくり」がなされ、班から指導者を選び「核づくり」をする。学級班は日直や清掃、教師の手伝い、倶楽部など諸活動の基本単位となり、班長はそれ相応の責任と指導権を与えられる。そして、集団主義教育の中核要素は学級班や教室における徹底的な議論である。これは国民学校1年生からなされ、まずは「昨日あったこと」「嬉しかったこと」「悲しかったこと」などを生徒1人に発表させ、「なぜ・なに」を説明させ、聴いている生徒の感想を述べさせ、分からなかったり思想原則的に正しくなかったりすれば、教師は適宜諭していく。1年生であれば「暴力は良くないよね」や「仲間はずれを作らないと楽しいよね」といった単純な善悪や快楽を指導するが、進級するごとにその内容は高度化していく。

「反省について発表します。僕は先週、川で猫をいじめてしまいました。加藤くんと朴くんと一緒に、猫を川に溺れさせました。今では悪いことだと思ってます。反省しています。」
「そうですね、正直に言えたのは偉いことです。では、何をどうして反省しているのかな。言ってご覧なさい」
「はい、動物をいじめるのは……(黙る)……悪いことです。昨日、回覧で動物保護の宣伝見ました。それで言おうと決心がつきました」
「では、皆さんはどう思いましたか?」
「はい!猫を溺れさせるのは、弱いものいじめです。偉大なる 永 仁 大元帥陛下は、力は民を守るために使いなさい、とおっしゃっています。僕たちは白人じゃありません。弱いものをいじめるのは、白人がアジアにしてきたこととおんなじです」
「その通りです。我々は強くなければなりません。皆さんや先生のふるさとや、お国を、アジアを敵から守るためにはドシドシ強くなりましょう。しかし、気随気侭に振る舞えば、強い力で人を傷つけるでしょう。強い人間は良き人間でなければなりません。良き人間とは、偉大なる指導者に忠を尽くし、徳を備え、誰かのために命をも投げ出せる人です。みなさんも昨日やった、浦塩の戦いの軍神について覚えているでしょう。また、党が進める動物保護闘争を破ったことは、党の指導に背いたということです。△△くんは、党の指導について学ばなかったのでしょうか?寝ていたのでしょうか?△△くん、どうなんですか?」
「……」
「みなさん、最後に思想原則をもう一度思い出しましょう。『偉大なる陛下より主体主義を学び、アジア人に相応しき高尚なる品格を実践し、以て道徳を涵養すべし』です。はい、せーの」
「『偉大なる陛下より主体主義を学び、アジア人に相応しき高尚なる品格を実践し、以て道徳を涵養すべし』」

 このような集団主義教育は、1950年代生まれ以降の世代にとって共通の経験となり、衆議民主制と永仁崇拝を加速させた。しかし、集団主義教育には多くの欠点があった。集団の眼の前での「反省」は吊し上げに転化するおそれがあり、でっち上げや密告をもたらした。徹底した民主的議論とはいえ、学校では教師に、職場では班長や党員に突出した権力がある点で、議論は一定の緊張状態にあった。教師などの現場権力者は議論の結論を予め用意し、議論を誘導したり、想定結論に至らない場合は「反省指導」をしたりするのが当然だったため、子供たちは現場権力者の欲する要求を察して、おべっか使いをする能力を幼い頃から身に着けるようになってしまった。学校では教師に気に入られた生徒が絶大な権限を委任されるため、学級内のいじめの温床となった。1990年代、嵐のような総点検運動に対し生産成果がほとんどなかったのは、こうしたイデオロギーシステムそれ自体が非効率であり、嘘付きやイエスマンなどを量産してしまったためであった。
 外政や植民地政策については、アジア主義を最前面にしたものだった。日中対立と大東亜統一戦争は人種戦争と世界赤化革命という二つの世界観の激突であった。経済力を伸ばし独立の気配があった植民地に対する政策は、永仁の強い指導を受けていた。一方、アジアを愛し満語も朝鮮語も操れる永仁に対し、植民地住民の期待は絶大なもので、現地指導のたびに天地が揺らぐような歓声で迎えられた。特に朝鮮独立構想は1960年以前から新日本研究会で議論されていたが、永仁は国制独立・以党指導の提是を打ち出し、独立それ自体は容認的だった。実際、大東亜統一戦争勃発直後にすぐさま戦後の朝鮮独立を認める党中指委長声明が発表された。しかし、その独立とはあくまで国制のみであり、思想や経済上は日本と同じアジアとして完全一致するだけでなく、朝鮮人の精神的支柱として振る舞うことで、独立後も事実上の朝鮮の最高指導者として見なされるよう宣伝工作を行っていた。独立朝鮮の協和党組織は日本式の集団指導体制であり、その上に永仁がいることで、国境を超越した立場で朝鮮を支配し続けたのだった。
 経済においては、満洲で経験を積んだ新進気鋭の官僚を全面登用した。ただし、この傾向自体は1930年代から続いていたが、宮城進軍事件は政治における官僚進出を決定づけた。協和党中央においても官僚出身の幹部は多く、官僚としての産業政策経験と、党幹部としての政策立案権限を組み合わせ、効果的な産業政策を進めることができた。池田勇人首相の「生産倍増計画」は、そうした背景の下に成功したのだった。一方で、1970年代には田中角栄のような党人出身者の活躍が目立ち始めた。党人派も協和党企画局で官僚並みの知識を身に着けて産業政策を立案するようになったが、党人ゆえ選挙区に我田引水するような産業政策を行い始めた。これには当然汚職も伴い、19−20世紀初頭のアメリカで言う「マシーン」のような有様となっていった。産業政策が専門的知見だけでなく選挙や汚職に左右されるようになったことは、90年代以降の停滞の一因とも言われている。
 永仁時代の文化は、協和党宣伝煽動部の指導下にあった。特に皇太子時代は永仁自身が文化政策を直接指導することが多く、文化路線にて大きな影響力を持った。永仁皇太子は思想宣伝と大衆優先を原則とし、自身の個人崇拝と思想の徳化に向け全芸術を総動員した。この際、永仁皇太子は宣伝芸術がありきたりでつまらないものにならないよう指導し、思想宣伝も宣伝内容ばかり主体にせず、あくまでアジア人が楽しめるアジア人の芸術たるよう指導した。その過程で、日本や植民地の民族音楽発掘が行われ、その多くが宣伝的歌詞を振り付けて旋律が現代化され、宣伝音楽として大衆の人気を勝ち取った。また、宣伝工作では「皇太子」や「親王」、後の「天皇陛下」よりも、単に「永仁」や「永仁大佐」、「永仁指導者」など、名を盛り込んで呼ぶよう指導した。
 産業政策と人口政策を結びつける構造は、協和党による党国体制成立で機能し始めた。工業を生産するが子供が少ない都市、農業主体だが子供が多い農村のバランスは、国家の人口推移を決定した。問題は、江戸時代のような身分制を導入せず、あくまで人々の自由意志を保持した上で、目的の人口増加率へ誘導することだった。それが産業政策であり、都市政策であり、植民政策であり、教育政策だった。永仁は将来の人口減少を予想し、人口政策でもってそれを破る体制を作るよう何度も指導していた。永仁時代に推進された農本主義アジア主義は、人々が自然に持つ物欲と、物が溢れる都会への移住欲を抑え、特定の地域や職業に誘導する方便としても機能していたのである。一方これは、他のアジア諸国人口爆発もあり、常に過剰人口をもたらす危険と隣り合わせだった。そのため、大東亜統一戦争による破壊もあり度々アジアは食糧危機を迎えることとなった。
 以上、靖之天皇の政治的事績のうち、主要な部分をかいつまんで説明した。

個人崇拝

執筆途中 この項目は、書きかけの項目です。

*1:この婚約劇については、アジア主義が衰えを見せてきた21世紀初頭に民族派により異論が呈された。すなわち、厚宮自身がアジア主義的信念から望んだのでなく、宮中の奸臣の手により政治的理由で選ばれたという議論である。しかしながら、宮中の歴史は党及び宮内省の手による正史しか許されておらず、真偽を確かめる術はない。

*2:ここでは民族及び人種にかかる学問を意味する。

*3:自衛隊とは戦後混乱において登場した人々の武装団体である。多くは工場や利権などを他の自衛隊や匪賊から守るために武装し、地縁や任侠で結びついている。幹部は復員軍人であるため、主体維新の機運を敏感に受け取った。

*4:戦後直後に勃発した、石原莞爾日蓮主義に影響を受けた群衆による反政府運動で、東條首相により武断をもって鎮圧された。

*5:1957年古関裕而作曲。

*6:皇太子時代の永仁親王は、陸大卒業後に撮影された大佐時代の肖像写真の設置を好んだ。そのため肖像写真には大佐の階級章がある。

*7:公団とは本来ドナウ連邦における企業組織だが、日本では労働組合そして産業報国運動を受け継ぐ社会組織として定着していた。

*8:満洲帝国の公用語である中国語松花江方言。

*9:きつく叱って偏食は克服された。

*10:コーア出版は「興亜」に由来する。