胡志明(ホーチミン)

 ホーチミン(1890-1969、Hồ Chí Minh。胡志明、または阮愛国とも)とは、ベトナムのサンディカリスト革命家であり、ベトナム社会主義共和国主席ベトナム共産党中央委員会第一書記を務めた。


 フランス領インドシナの中部、ゲアン省ナムダン県出身。父が儒学者だったため文化的教育を受けることができ、首都フエでフランスによる官吏学校に入学した。しかし、在学中に農民の抗税運動に参加したため退学処分を受ける。その後、船の見習いコックとしてフランスやアメリカなどを周遊し、世界の見識を深めた。WW1末期のフランスに帰港し、ロシア革命とフランス・サンディカリスト革命の衝撃を目撃する。
 ホーチミンベトナム独立のため民族主義活動を開始し、1919年末にフランス社会党(SFIO)に入党、独立派の安南愛国者協会(Association des Patriotes Annamites)を組織し指導者に就任。フランスの敗戦処理に際し、ベトナム独立を訴える請願書「安南人民の要求」を提出したが、戦勝国のドイツは黙殺し、インドシナをドイツ領の植民地として編入した。その後、1920年公開のレーニンの論文『民族問題と植民地問題に関するテーゼ原案』に感銘を受け、同年12月にフランス共産党(PCF)に入党した。
 フランス共産党入党後は、フランスに逃れたボリシェヴィキら赤系ロシア人とも交流を深めつつ、パリ・インターに参加した。1930年には世界各地に散在したサンディカリストコミュニスト組織を統合し、ベトナム共産党を創設する。しかし、ドゴール政権におけるアルジェリア問題に対する人民戦線の姿勢を批判したため、ホーチミンは冷遇を受け、パリ・インターの日常活動からは疎外された。1938年にはアメリカ・サンディカリスト国への国際義勇兵部隊参加を命じられ、事実上左遷となった。
 アメリカでは現地ベトナム人移民を指導し、数々の戦闘と政治工作に参加して実践的経験を磨いた。この功績を認められ、パリ・インターはホーチミンにドイツ領インドシナ密航を命じ、1941年にフランス、ウクライナ中央アジア経由で再び祖国の地を踏んだ。そこで結成されたベトナム独立同盟会(ベトミン)の指導を開始するも、日本と同盟を結ぶ蒋介石の国民革命軍に拘束され、1944年まで強制収容された。
 周恩来の工作で釈放されると、日本が大東亜共栄圏構成国として設置したベトナム帝国に対する武装闘争を展開した。中国共産党ソ連、フランスと協力しつつ、これらの国々の支援を受け取りやすいベトナム北部を中心に根拠地を整備し、日本と対決する。結果として1954年に昭南協定が結ばれ、ベトナム北部がベトナム社会主義共和国として独立した。日本が交渉に応じた点は、周恩来など中国共産党の対日通商派にとっては光明となり、日中の平和共存の可能性を一時見せることとなった。

冷戦時代における大東亜共栄圏

 ベトナム社会主義共和国ベトナム北部のトンキン(東京)地方を領土とする小国として始まったが、この地域は紅河デルタによる肥沃な農業地帯であり、人口過剰な農民が地主制の下に耕作していた。ホーチミンマルクス主義に基づく徹底的な土地改革を行い、中国の場合と同様に地主のほとんどを粛清した。一方で、南北統一を見据えて一部の非共産党系中間派は温存し、政治的には統一戦線路線を堅持した。ホーチミンは南に対して平和統一を示唆したが、国内においては大量のトーチカと民兵、地下武器工場を整備し、民族独立を維持する武力の維持を行っていた。さらに、1959年には第一線を退きレ・ズアン(黎筍)を重用し始め、当時の毛沢東と同様に集団指導体制への移行を始めつつあった。
 北に接する中国はベトナムの経済・軍事において大きな影響力を持ち、ソ連の対越支援物資も中国経由でしか到達できなかった。しかしながら、都市の小ブルジョワを占めていた在越華僑を、民族主義的・階級闘争的観点から排除しようとしたことは、中国との対立を惹起してしまった。これをきっかけに越中は様々な小さな対立点が生まれ始め、中国は中華民族主義においてベトナムにおける指導権の確立を伺い始めた。ホーチミンソ連派のレ・ズアンに対し、チュオン・チン(長征)ら中国派の排除を支持し、中国派が要職から外れたことも中国共産党そして毛沢東を苛立たせた。
 こうしたなか、1966年には中国で文化大革命が勃発し、中国では不満を持つ大量の大衆の意見が中国共産党の政治路線に反映されるようになった。外交的にはベトナムに対する恫喝的姿勢が顕になりつつあった。また、政治的に目覚めた若者による紅衛兵の一部は、中国の覇権確立とベトナムの反帝闘争のためにベトナム軍に志願し、ベトナムの南北境界線でも小規模な武力闘争が活発化し始めた。これは、日本の南方政策を反共へと導き、南ベトナムにおいても共産主義との対決を呼び掛ける主体主義派が権力を伸ばすこととなった。しかし、ホーチミンは土地改革と人口爆発による飢餓状態を踏まえ、戦争より国内の国力増進を優先し、南北武力統一に及び腰だった。このような情勢に対し、文革を推進する上海幣や中国人民解放軍ホーチミンへの批判を隠さないようになり、1969年初頭には中越の間で国境紛争が散発するようになった。
 中国による圧力と自身の老齢で影響力を低下させるなか、ホーチミンは中国、ソ連、フランスなどの間でバランス外交を志向した。そのようななか、文革の嵐が吹き荒れる1969年9月2日に心臓発作で死去した。79歳だった。
 ホーチミンの死去後、中国の文革派特に林彪ら軍部は急速にベトナムへの圧力を強め、中華民族主義的態度でベトナム共産党に介入した。このため、レ・ズアン党中央委員会第一書記は土地政策の失敗を理由に失脚し、中国が指名した長征と黄文歓が党主席と党中央委員会第一書紀に就任した。長・黄体制のベトナムではソ連派やフランス派の粛清が行われ、1973年に大東亜統一戦争が勃発すると、ベトナムは南方の「人民解放の第二戦線」として南進統一戦争を開始することとなる。