ワイマール協定
ワイマール協定とは、1946年7月に枢軸国軍占領下のワイマールで発せられた数か条から成る協定である。「ワイマール宣言」ともいう。
背景
1939年9月にドナウ連邦がユーゴスラビアに侵攻したことで始まった第二次世界大戦は、反帝協定参加国を基とする枢軸国と、英独露の同盟国を両陣営として世界中に戦火を広げた。1940年のフランス人民軍によるドイツ本土占領(ヴァルミー作戦)、モロッコ戦線、ドナウ連邦軍によるイタリア本土攻略、北アフリカ戦線、1941年に勃発したウクライナとロシアの間の東部戦線、そして大戦末期のアナトリア戦線やアジアでの大東亜戦争、新大陸でのアメリカ内戦と連動し、国際秩序は急速に再編されようとしていった。
ワイマール協定はWW2が終結する直前である1946年7月に締結された。この協定は戦争終結後の世界秩序と、新大陸に敗退した同盟国に対する講和のための条件提示という目的があった。協定の名前に冠されているワイマールはドイツ中部の小さな都市で、枢軸国占領下に設置されたドイツ臨時政府の主権下にあった。ドイツ臨時政府はドナウ、フランス、ポーランドなどの占領地域に指定されなかったドイツ中部を統治する傀儡国家で、戦後はドイツ中部及びドナウ連邦軍が占領を終えた旧ザクセン公国を統合し、ドイツ民族国という小国として再出発することとなる。
協議内容
ドイツ問題
ワイマール会議にはドナウ連邦大統領であるアレクシス・ローゼッカや、フランス元帥であるシャルル・ドゴール、全ウクライナ中央執行委員会議長であるウォロディムィル・ウィヌィチェンコが出席したため、枢軸国同士の戦後構想問題を片付けるべく両国外務省は事前協議を何度も重ねた。その結果はワイマールでの暫定的な妥協という形で成立することとなる。
まず、ドイツ問題とはドイツ本土地域の戦後構想問題である。ヴァルミー作戦と皇帝ヴィルヘルム2世のあっけない逃亡もあり、本土地域は僅かなドイツ臨時政府支配地域を残してドナウ、フランス、ポーランドなどに分割占領されていた。両国ともドイツの有望な工業地域を戦後併合する目論見と、本土併合による国内やドイツ系住民の反発というジレンマを抱えていた。また、戦後のドイツ本土地域統一の可能性を含ませることで、ドイツ臨時政府を自国の勢力圏に引き入れる必要もあった。三国とも微妙な立場の違いがあったが、戦後のドイツ本土統一を主張するドナウ連邦外務大臣テオドール・ハビヒトの主導により、ドイツ問題を棚上げさせつつ、戦後の統一を含んだ曖昧な合意に至った。無論、この協議にドイツ臨時政府は参加していない。
ロシア問題
ウクライナを中心に莫大な犠牲者を出した東部戦線は、枢軸国軍優位に進みつつあった。東部戦線にはウクライナだけでなくフランス、ドナウ、ポーランド、フィンランドなどが出兵していたが、ワイマール会議では旧ロシア共和国領土の処遇も決定された。
結果としては、ドナウは領土主張を取り下げる代わりに、ロシアから独立したばかりのエストニア、ラトビアの二国、さらにリトアニア王国とフィンランド王国の主権尊重を認めさせた。ここでリトアニア王国とラトビアの合邦計画もあったが、認められなかった。ポーランドはウクライナ系住民が多い東ガリツィアの主権をウクライナに認めさせた。枢軸国中最もウクライナに貢献したフランスは、具体的な国の独立擁護を主張することはなかった代わりに、カフカスの油田利権や東部戦線地域における諸々の新政権への一定の影響力を認めさせた。
イタリア問題
ほぼドナウの独力で攻略したイタリアに関しては、ドナウの主導でその合意が決まった。アオスタ渓谷などをフランスに割譲することを手土産として、南チロルの住民投票やトリエステの併合、イタリア領リビアのドナウ併合、英領マルタ島のイタリア併合を認めさせた。植民地と国境地帯を失った一方、戦後の完全な主権だけでなくマルタ島という新領地の併合を認められたことは、ドナウとイタリア、特にホライ・ルーリンツとベニート・ムッソリーニの蜜月を思わせる結果だった。
アフリカ問題
この当時でアフリカはある種陣営間の政治的空白状態となっていた。枢軸国が名実ともに支配していたのは北アフリカに限定され、サハラ以南は南アフリカや英領、独領のアフリカ植民地、イタリア占領下のエチオピアなどがあった。ドイツ領アフリカ植民地はドイツ臨時政府側に就いたが、本国との途絶もあり事実上の「独立王国」と化していた。特にドイツ臨時政府の政治家であるヘルマン・フォン・ゲーリングとゆかりの深いドイツ領東アフリカ植民地は、戦後「ノイプロイセン」と名乗って独立し、政争に破れたゲーリングを迎えて開拓国家を建設することとなる。南アフリカは反英的なオランダ系住民であるアフリカーナーの圧力で中立を堅持していた。エチオピアは戦前イタリアにより植民地化されたが、現地ゲリラやハイレ・セラシエ帝の亡命先であるドナウによる工作もあり、解放は時間の問題だった。
ワイマール会議では、イギリス、ドイツ、イタリアのアフリカ植民地をドナウとフランスで分割することに決定した。基本的にイギリス領はドナウ、ドイツ領はフランスだったが、英領ガーナ、英領インド洋地域がフランスに、独領東アフリカおよびローデシエン、マダガスカルがドナウとなるなど異動もある。南アフリカやエチオピアなど独立国の主権は明文で強調され、両国に安心感をもたらした。
歴史的意義
ワイマール協定の特徴は、WW2の正当性を戦前の全体主義政権成立にまで遡って称揚した点にある。前文では、自由主義、資本主義、帝國主義の破綻の下、諸国民に怨嗟をもたらし、こうした各国民の民主、秩序、福祉のために全体主義革命が始まったことを指摘している。こうした世界史的意義の設定は、日本帝国が主導した「大東亜宣言」に影響を受けていると言われている。
ワイマール協定において、全体主義革命は一般的な革命=政権転覆に限定せず、反帝協定などへの加入、戦争参加をもって全体主義革命を見なしている。従って、全体主義政党の政権掌握を経ていない日本やブルガリアなども全体主義革命国家に加わることとなった。しかしながら、「革命」という言葉の使用や、反資本主義という点は一部の非一党独裁国家の保守派から苦情が上がることとなった。
以上のような理念から導き出された戦後新秩序構想として、「全体主義で結ばれた新ヨーロッパ」や、「ヨーロッパからの資本主義の放逐」、保護貿易、主権の擁護が明記された。また、革命の地理的限界として、枢軸国は新大陸に領土的野心を求めないことを明言した。これは明らかに新大陸に撤退した同盟国へのアピールだった。内には歴史的意義を強調しつつ、外には講和条件を示したのである。この努力は実を結び、翌月1946年8月25日にアイスランド島のレイキャビクで休戦協定が結ばれ、大戦は終結したのだった。
そして冷戦へ
こうして内外に平和をもたらすきっかけとなったワイマール協定だったが、特に旧大陸の戦後構想は主要枢軸国による妥協に過ぎなかった。
まず、フランスとドナウの蜜月は通貨問題とドイツ問題をきっかけに崩壊していった。
戦後のヨーロッパにおける通貨問題は、国際貿易と関係があるのにも関わらずワイマール協定では無視されていた。
1948年10月28日にドゴールの盟友ローゼッカが死去し、生前ローゼッカが承認した欧州決済銀行再建とユーラフリカ計画*1が同年11月に公表されたが、フランスは難色を示した。ウクライナでは大粛清が進展するなか、翌1949年1月8日にはフランスがドナウへの対抗措置として西欧諸国とロッテルダム条約を調印、西欧復興銀行を創設し独自の通貨再建を宣言したことで、ドナウとの対立がはっきりした。4月にはフランスが先手を打って軍事同盟「ブリュッセル条約機構」を西欧諸国と結んだ。
フランスとドナウの協力なしには解決し得ないドイツ問題はここで破綻し、5月には旧ドイツ本土西部のフランス占領地域に傀儡政府が誕生し(ハンブルク、ハーノヴァー、ヘッセンのいわゆる3H国)、ドイツ統一を呼びかけていたドナウのテオドール・ハビヒト外務大臣は失脚した。ドナウ占領下の南ドイツもドナウ本土に併合された。9月7日にはストラスブール条約で3H国が正式に独立した。以上のような通貨問題およびドイツ問題、その他アフリカでの利権対立もありドナウとフランスは冷戦構造の下に対立関係が続くこととなる。
東部戦線においては、後の研究で判明したところによると、フランスはカフカスにあるグルジア、アルメニア、アゼルバイジャンを自国勢力圏に入れ、さらに旧ロシア共和国に立ったヴォルガ川地域の諸政権をパリ・インターを通じて指導することで、ウクライナを赤色運動の枠組みで支配する目的だったようである。無論、こうしたフランスの目論見をウクライナ人民戦線は感知し、前述の諸政権は戦後、キーウ(キエフ)を首都とするソ連に統合され、フランスになびいた各政権の民族政治家もミキータ・フルシチョウに粛清されていった。フルシチョウはウィヌィチェンコ暗殺後にウクライナおよびソ連を支配した独裁者である。ドゴールによる東欧支配の破綻と、さらに極めつけにカフカス油田利権がソ連に接収されたことで、戦後、パリとキーウの対立は水面下で増大していった。この対立関係はアフリカの独立問題やドゴール暗殺で表面化し、1960年の「ボナパルティズム批判」を皮切りに仏ソ対立の時代が始まることとなった。