ブルガリア史

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ブルガリア国旗と国王ボリス三世

歴史

WW1末期

 ブルガリアバルカン半島南東部に位置するスラブ系の国家である。WW1では500万人の小国ながら100万人を兵士として動員し「バルカンのプロイセン」と呼ばれた。
 WW1末期に差し掛かった1917年、早くもブルガリアでは大規模な反戦運動が起こり、鎮圧された。されに、オーストリア革命の影響と協商国軍の攻勢により、1918年9月には軍の一部が反乱を起こした。このとき地方都市ラードミルで共和制を宣言したのが農民党党首のアレクサンダル・スタンボリースキ(1879-1924)である。
 国王フェルディナント一世は反乱軍をなだめるべく退位をし、息子のボリス三世に玉座を譲った。
 西部戦線におけるドイツ軍の勝利により、協商国軍によるブルガリア侵攻という可能性がなくなり、1919年には総選挙が実施された。農民党とスタンボリースキは勝利し、国王から首相に指名された。
 スタンボリースキはあらゆる反対者だった。すなわち反戦派であり、自身をブルガリア人でなく「南スラブ人」と呼び、セルビアとの合邦に賛成した。さらにブルガリアを支配している保守派と軍部に対抗し農地改革を推進することで、農民による絶大な支持を得た。また、スタンボリースキはドイツでもボリシェヴィキでもなく民主的な共和制になった元オーストリアであるドナウ連邦との連携を模索した。
 しかし、こうした路線はブルガリアにおける従来の支配者やとりわけマケドニア武装勢力「内部マケドニア革命組織」(VMRO)の反感を買った。セルビア人支配からの独立とブルガリアへの統合を成し遂げたVMROにとって、セルビアとの融和路線は裏切り行為であった。また、セルビア側がスタンボリースキに対しマケドニア問題の領土的譲歩を期待していることも問題だった。
 スタンボリースキは1923年2月にVMROの刺客に暗殺されかけ辛くも生き延びだたが、1924年1月にアレクサンダル・ツァンコフ*1とイワン・ヴァルコフ将軍率いる保守派と軍部のクーデターで拘束され、拷問を経て殺害された。クーデター側はイタリアのムッソリーニ政権とドイツ帝国のティルピッツ政権に支援されていた。スタンボリースキ側はボリシェヴィキと対立していたためブルガリア共産党の支援を得られず、唯一の友好国ドナウ連邦も1923年末の対独関係改善によりブルガリアから手を引かざる得なかった。
 かくして、スタンボリースキは孤立無援となり殺害されたのである。

白色テロルの時代

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アレクサンダル・ツァンコフ

 後任のアレクサンダル・ツァンコフ首相は強硬な反共反組主義者だったため、スタンボリースキの支持層だった農民に対する白色テロルを繰り返した。ツァンコフは凄惨なテロルを事実上の軍閥であるVMROに行わせ、民衆にVMROは大いに恐れられた。
 地下化したブルガリア共産党もテロルで応じ、1925年4月にはコミュニストによる国王暗殺未遂「聖ネデリャ教会襲撃事件」が起き、これに驚いたボリス三世は政情を安定化させるべくツァンコフを罷免し、穏健派のアンドレイ・リャプチェフを据えた。
 リャプチェフ首相はコミュニスト、元農民党員の政治犯を釈放し階級協調を努めた。リャプチェフは1931年に総選挙で敗北し辞任した。
 このころのブルガリアは経済的に良好だった。中欧経済圏には加入しなかったが、ドイツからの投資を受け入れ、国際協調を心掛けてオスマン帝国、ロシア、ドナウ連邦との密接な貿易関係を維持した。ツァンコフ時代には2回ドイツから金融支援を受け殖産興業を行った。
 

クーデターと国王親政

 総選挙に勝利した農民党からアレクサンダル・マリノフが首相に就任したが、すぐに健康問題で辞任しニコラ・ムシャノフが後を追った。当時世界恐慌がヨーロッパを直撃しブルガリアも経済的苦境に立たされていたなか、ムシャノフ首相は何とか議会政治を維持しようと努めた。ムシャノフは典型的な議会政治の擁護者で、ファシズムサンディカリズムコミュニズムに一貫して反対していた。
 しかし、こうしたムシャノフ首相の努力は無に帰した。1934年に軍部の政治グループ「ズヴェノ」がクーデターを起こし、軍人のキモン・ゲオルギエフ大佐が首相に就任した。
 ズヴェノ政権ではイタリア*2を模範とするコーポラティズム経済を敷いて経済難局を克服しようとした。外交的には路線を180度変更し、ユーゴスラビア王国との連合の志向、ドイツと距離を置きイタリアとドナウへの接近、フランスとの外交関係樹立を行った。
 ボリス三世は政治的野心を持ち、ズヴェノと接触し切り崩しを図り、彼らと協力して1935年にカウンター・クーデターを起こした。国王は「親政」を宣言し、ゲオルギ・キョセイワノフを傀儡として首相に指名した。
 親政時代は「ブルガリア王国の黄金期」と後に評されるほど、驚くべき政治的安定と経済の回復がもたらされた。中欧においてドイツが衰退しドナウが勃興するという政治的な転換期を迎えつつあったなか、ボリス三世はバルカン半島諸国と団結することで独立を保とうとした。仇敵であったギリシャイオニアス・メタクサスと妥協し、ギリシャ再軍備承認と非武装地帯撤去を引き換えに同盟関係に引き入れた。さらにドナウとイタリアに圧迫されるユーゴスラビアと連携し、1938年に「サロニカ協定」を結びユーゴスラビアギリシャブルガリアの「バルカン同盟」を結成した。
 政治的にドナウやイタリアと対立しつつ、通商面においては柔軟な姿勢をとった。中欧経済圏と対立するドナウ連邦とバーター貿易協定を結び、ブルガリアは農産物をドナウは価値の低い民生品を輸出しあうことで何とかお互いの経済危機を回避した。バルカン同盟とは対照的にバルカン半島におけるドナウ連邦の経済的影響力は日に日に拡大し、ドナウのローゼッカ大統領はバルカン半島を経済的・政治的支配下に置くべきであると考えていた。
 

WW2

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ボグダン・フィロフ

 1939年9月1日、ドナウ・ユーゴスラビア間の交渉が決裂した結果、ドナウ連邦軍は「ゼラニウム作戦」においてユーゴスラビアへ侵入しWW2が始まった。1ヶ月足らずでユーゴスラビアは全土を占領された。
 ユーゴスラビアは「クロアチア独立国」を名乗る傀儡政権と植民地「セルビア総督府」に分割され、さらに同年末「ウィーン条約」に基づき全トランシルヴァニアがドナウに併合されると、中欧バルカン半島における領土問題見直しが盛んに提起されるようになった。
 ルーマニアユーゴスラビアの主権を奪ったドナウ連邦だったが、ブルガリアに関しては地政学的重要性から当面その独立を認めるべきであるというローゼッカ大統領の路線に従い、まずはドブロジャとマケドニア問題の解決をブルガリアに呼び掛けた。ボリス三世はキョセイワノフを罷免しブルガリア科学アカデミー議長のボグダン・フィロフを後任に据えた。フィロフは政治家でもファシストでも軍人でもなく、単に国王への忠誠心から抜擢された。
 フィロフは同盟国と枢軸国という二つの陣営間の対立に苦慮しつつ、困難な外交路線を強いられた。ともかく、ドナウ連邦の歓心を買うべく領土問題交渉に応じた。その結果、1940年に「クラヨーヴァ条約」が締結され、国際港コンスタンツァを含む北ドブロジャを失う代わりに、ブルガリアトラキアに対するギリシャの領土請求を放棄させることに成功した。
 さらに、ドナウはブルガリアに対し、反帝協定をもとに発展した四国同盟(原加盟国:フランス、ドナウ、ウクライナ、日本)への加盟を促したが、ブルガリア側は曖昧な態度を示し、事実上留保した。ブルガリアとしては経済的に枢軸国に依存しつつも、政治的には中立を維持しどちらの陣営が最終的に勝利するのか見極める必要があったからである。
 1943年8月、ボリス三世は突如心臓発作で病死した。長男のシメオンが「シメオン二世」としてわずか6歳で即位することとなった。
 1945年、ドナウ連邦は英国艦隊を封じ込めるべくオスマン帝国イスタンブール占領を画策し、ブルガリアに軍事通行権を要求した。これを許せば明らかに中立違反であり、ブルガリアは枢軸国に参加したも同然だったが、ドナウの軍事的圧力にさらされたブルガリアはこれを許可せざる得なかった。
 1945年、ブルガリアは四国同盟に加盟し、同盟国各国に宣戦布告した。
 トルコ戦線でのブルガリア軍は、少数のドナウ軍装甲部隊を先頭に進軍しつつ、自ら積極的な攻勢をとることはなかった。翌1946年、ドナウは戦後アナトリア半島北西部の領土を与えることを保証したことで、ブルガリア軍は海峡を越え積極的な攻勢を行った。ちなみに、残虐行為を働いたことで知られるギリシャ兵やアルメニアゲリラに比べ、ブルガリア兵の軍紀は良かったという。

戦後新秩序へ

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オスマン帝国の分割。参戦したブルガリアアナトリア半島北西部の領土を得た。

 戦後、ドナウ連邦は理論家ホライ・ルーリンツの指導で「新ヨーロッパ」としてフランス、ウクライナを含む全ヨーロッパの連帯を論じ、各国への内政不干渉と自決を宣言した。すなわち、表面上はヨーロッパをフランス、ドナウ、ウクライナの各陣営で分割することを否定したものであり、背後にはドナウがドイツ分割を恐れていたことがあった。
 この宣言とは対照的に、通貨面においては早くもフランスとドナウが対立し始めた。英国イングランド銀行に避難された中欧決済銀行*3の金塊をフランスが没収し、ドナウ連邦と中欧各国への返還を拒否したのである。この金塊にはブルガリアが支出したものも含まれていた。この事件は、欧州共通の通貨・金融システムを再建するのではなく、フランスとドナウがそれぞれ通貨圏=勢力圏を構築し欧州を分断するという冷戦の始まりを意味していた。
 1948年、ブルガリアはドナウの軍事的圧力でドナウ主導の欧州決済銀行*4の再建に参加し、貿易同盟を締結しドナウの資源を融通してもらうようになった。かくしてブルガリアはドナウ勢力圏に加盟した。
 WW2で併合されたアナトリア半島北西部は、トロイとイスタンブールを除きブルガリアへの帰属を認められた。ギリシャアルメニアが併合した地域ではトルコ人強制移住と国外追放がなされたが、ブルガリア領では比較的穏当な扱いを受けた。しかしながら、イスラム教からキリスト教に改宗するよう圧力を受けたり、高等教育からトルコ語が排除されたりした。
 ドナウ勢力圏の経済復興とアフリカ植民地の開発による経済発展を担保にした、欧州決済銀行による融資とドナウ社会主義労農党の経済助言を受け入れ、ブルガリアはドナウ式の計画経済に移行し重工業への投資が行われた。この際、トルコ系住民を安い賃金でこき使うことで産業の発展がみられた。また、農地の分割相続で疲弊した農民はアナトリア半島北西部の新領土に植民したり、労働者になったりして失業を脱し、社会は安定していった。
 冷戦時代、ドナウ勢力圏においてブルガリアは最も主権を保った構成国*5の一つだった。その一方で、経済面においては他の構成国同様ドナウへの依存をせざる得なかったと言える。

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キモン・ゲオルギエフ ズヴェノの軍人だったゲオルギエフは戦間期と戦後の二度首相を務めた。

*1:ちなみにツァンコフはWW2時代ドナウへの積極的な協力とドナウ社会主義を範とした改革を要求したが、ドナウは国王側を支援したため失敗した。

*2:ただし、ムッソリーニはこのころすでに軍部のクーデターで失脚、亡命している。

*3:1924年ドイツ帝国の主導で設立された、中央銀行の相互決済機関。

*4:中欧決済銀行から改名した。

*5:他にポーランドとイタリアが該当する。それ以外の国々は基本的にドナウの政治的圧力を受けていた。