ハンス・ラウター

ハンス・アルビン・ラウター(Hanns Albin Rauter、1895-1975)はドナウの保安指導者、連邦保安省次官。

 1895年に小オーストリアのクラーゲンフルトで誕生。WW1では山岳兵としてイタリア戦線に参加し、中隊長副官にまで昇進したが1915年に重傷を負った。
 オーストリア革命ではドイツ人フライコールに参加しユーゴスラビア軍と戦った。戦間期キリスト教社会党系のフライコールに所属していた。
 1927年にドナウ社会主義労農党のアレクシス・ローゼッカと会談し、これを機にドナウ党に入党した。このとき、フライコールのコネで就職した警察内部でドナウ党シンパを増やしていった。
 ドナウ党が権力掌握を果たし秘密警察である連邦保安省が設立されると、大臣アルトゥール・ザイス=インクヴァルトの副官にラウターは抜擢された。一時人事局などに異動し事務方としての力をつけ、1937年には連邦保安省次官*1に任命された。こうしてラウターザイス=インクヴァルトの右腕として知られるようになった。
 連邦保安省次官は警察・諜報を担当する第一・第二保安局以外の全任務を担当しており、連邦保安省内部の人事とその他政治組織(食糧政策や民族政策など)の責任を負った。このため、警察・諜報を支配するエルンスト・カルテンブルンナー第二次官と対立する傾向にあった。
 カルテンブルンナーとは異なり武力組織を手元に持たないラウターは、もっぱらザイス=インクヴァルト大臣やローゼッカ大統領などの外部からの政治的影響力に頼るほかなかった。幸い、高い事務処理能力を両者から評価され、ローゼッカはWW2においてラウターを「中部ドイツにおけるイデオロギー指導者」に任命した。この任命は、占領下のドイツ政策を支配しようとするカルテンブルンナーら武官をますます刺激させた。
 戦後、戦争で得た利益をもとに連邦保安省や連邦軍、国民衛兵隊などが力をつけ、さらにローゼッカの死去もあり中央に反抗するようになった。こうして生まれたカルテンブルンナーらの派閥「保安閥」に対し、政権の保守派としてラウターはカルテンブルンナーとともにこれに対処する立場にあった。
 1949年には保安閥が渦巻く第一・第二保安省を統括する連邦保安第二次官に任命された。しかし、ライク・ラースローやラディスラフ・コプジヴァなどの血気盛んな中堅幹部を完全に押さえつけることができず、1956年には彼らの内部クーデターを許してしまい、ザイス=インクヴァルトとともに失脚した。
 ラウターザイス=インクヴァルトは分解しつつあった冷戦初期ドナウ政治における数少ない穏健派ということができる。

右からリハルト・ヒルデブラント、ヴィルヘルム・ハルシュター、アルトゥール・ザイス=インクヴァルト、エミール・ファイ、ハンス・ラウター(1945年、ベオグラード

*1:前任はクルト・シュシュニク。