オトマール・シュパン

オトマール・シュパン(Othmar Spann、1878-1955)はドナウ連邦の哲学者、経済学者、社会学者。
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 発明家ヨーゼフ・シュパンの息子であり、ウィーン郊外のアルトマンズドルフ出身。ウィーン大学で哲学を修め、スイスとドイツで政治学を修めた。
 1904-7年にフランクフルトの福祉団体で働き、そこで労働者に関する実証研究を行った。この事績は初期の社会学と見なされている。1906年に詩人のエリカ・ラインシュと結婚した。1908年にはウィーンの統計中央委員会に勤務し、オーストリア・ハンガリー帝国国勢調査に参加した。第一次世界大戦では東部戦線に従軍し負傷している。
 オーストリア革命の混乱のさなか、1919年にウィーン大学で準教授となり、のちに教授となった。シュパンの講義はユーモラスで楽しく、学生に人気があった。ブダペスト大学のピクレル・ジュラ教授と学生団体ガリレイサークル同様、シュパンは戦間期ウィーン大学の学生に対し少なからぬ影響を与えている。
 1929年には汎ドイツ同盟の理論家であるアルフレート・ローゼンベルクが主宰するドイツ文化闘争同盟に加入した。方向性の違いから1931年に同盟を除名されるが、この経歴はシュパンの思想にとって無視できないものである。
 ウィーン大学では自由主義マルクス主義などに反対する保守主義の立場に立った講義を行っていた。あたかもマルクス主義保守主義を合体したようなイデオロギーであるドナウ社会主義が台頭すると、シュパンはそれさえにも反対した。特にゲッベルス、ホライ、ローゼッカといった左派理論家とガリレイサークルとは理論的対立があった。シュパンは自由主義マルクス主義でもドナウ社会主義でもない路線を「第三の道」と呼んだ。第三の道は、ブダペストとは馴染みの薄いウィーン大学閥の知識人の支持を得たが、彼らは同時にドナウ社会主義労農党に入党しており、第三の道はドナウ社会主義の修正路線と見なされた。
 シュパンもそれに甘んじてドナウ社会主義との真っ向からの対決は避けていたため、ローゼッカ政権において表立った弾圧はされなかった。ウィーン大学閥が少なからずいる連邦保安省はシュパンを支援し、政治的に保護した。このころのシュパンはドイツロマン主義の研究に打ち込んでいたが、ロマン主義は後のローゼッカ死去(1948年)とゲッベルスの失脚(1949年)により再注目され、とくにロマン主義芸術は保安省閥の下に発展することとなる。
 1955年に病死。死後エルンスト・カルテンブルンナーの主導でドナウ勲章を追勲。
 ドナウ社会主義の理論家の一人ポラーニ・カーロイは「第三の道」について、反個人主義を理論化し各国のファシズムだけでなくドナウ社会主義に対しても特筆すべき影響を与えたと評価している。このことは「第三の道」が決してポラーニやホライなどドナウ社会主義本流との対立路線ではなかったことを意味している。