ヴィルヘルム・ハルシュター

ヴィルヘルム・ハルシュター(Wilhelm Harster、1904-1991)はドナウ連邦の保安指導者、バルカンにおける連邦保安・警察上級司令官。

1945年、バルカンGPK就任時のハルシュター(右から二番目)

 ドイツ帝国バイエルン出身で、汎ドイツ同盟の大衆組織である突撃隊(SA)に所属していた。ドナウ社会主義労農党との関係を持ち、1933年にドナウに移住、連邦保安員として就職した。そこではアルトゥール・ザイス=インクヴァルト大臣の補佐官である、ハンス・アルビン・ラウターの副官となった。その後、ラウターザイス=インクヴァルトの右腕として頭角を現して1937年に連邦保安省次官に就任している。
 WW2においては1942年から1944年にかけて「南イタリアにおける連邦保安・警察司令官」に就任し、クライマックスを迎えつつあったイタリア戦線の目の前でパルチザン狩りを行い、戦果を挙げた。
 この功を認められ、1944年に「バルカンにおける連邦保安・警察上級司令官(GPKバルカン)」たるフランツ・クッチェラの副官に任命された。GPKバルカンはセルビアモンテネグロアルバニアの治安に責任を負っている重大な地位である。副官ハルシュターは主にセルビア総督府における囚人経済の維持に尽力し、「セルビアにおける全収容所長官」たるアーモン・ゲートとも関係している。同年ゲートが横領で失脚した後は、一時的に全収容所長官の地位を引き継いだ*1
 いっぽう、当時バルカン半島では反ドナウのパルチザン活動が活発化しており、日々治安は悪化し囚人経済の運営にも支障をきたすようになった。上官のフランツ・クッチェラがベオグラードパルチザンに暗殺されるとハルシュターはGPKバルカン代行に就任、1945年に正式にこの地位を引き継いだ。
 GPKバルカンとなったハルシュターはバルカンにおける治安維持に心血を注いだ。クロアチア人保安員を積極的に登用し民族対立を煽ることで、歴史家の言葉を借りれば「秩序あるカオス」を構築維持し、何とか囚人経済運営を安定化させるに至った。
 こうしてハルシュターはWW2におけるバルカンの治安維持に多大な貢献をし、その功勲を認められた。戦後バルカンGPKに1955年まで居座りつつ、セルビア総督府に介入してセルビアにおける経済利権を獲得した。セルビアで彼の下に育った部下や経済利権は、ある種連邦保安省から独立したマフィアのようなものであると見なされ、ウィーンのドナウシュタット*2からも恐れられる存在になった。
 1955年に連邦議会議員に当選して政界デビューを正式に果たし、連邦保安省出身の政治家――いわゆる「保安省閥」――の一員となった。1956年のアルトゥール・ザイス=インクヴァルト大臣の失脚に関与し、グロス・エンドレ大統領の辞任に伴い中央政界において出世を果たしていった。
 1962年にいわゆる「ウィーンの春」で国民から保安省閥に明確な否定意思を突き付けられ、一部保安指導者が失脚、逮捕され始めると、ハルシュターは密かにウィーンを脱出してベオグラードに逃れた。このとき、ハルシュター一門の所有する公団が偶然連邦空軍の軍服を生産していたため、ハルシュターらは空軍に偽装してデモ隊と硝煙で混乱するウィーンから脱出したという。
 しばらくベオグラードに隠遁したのち、1970年にウィーンに帰還。ドナウ社会主義労農党員として選挙の出馬を望んだが、かなわなかった。
 1991年に病死。彼のセルビアにおける虐殺や暴利などは最期まで咎められることはなかった。

*1:翌1945年に部下に譲る。

*2:ウィーンの新市街ドナウシュタット区に党本部と官庁街があり、ドナウ政治の中心地である。