日本の対露参戦

 日本の対露参戦とは、1945年8月9日に勃発した日本帝国とロシア共和国の戦闘であり、モンゴルや東シベリア、カムチャツカ*1などで展開された。日露の戦闘は公式上1946年9月に終結したが、実際は1940年代末まで非公式の戦闘や動乱が行われていた。日本では「第二次日露戦争」、「外満洲・北方解放戦争」などと呼ばれる。

前史

戦間期における東アジア。中国は日本と独露の対立の舞台だった。

donau.hatenablog.com
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 戦間期において日本とロシアは鋭い対立関係にあった。ロシア内戦に日本軍が干渉の気配を見せたのを皮切りに、満蒙へのロシアの浸透、満洲国の建国、ロシアによる傀儡国「ウイグルスタン」の樹立、ノモンハン事件や張鼓峰事件など国境紛争に起因し、日露はしばしば一触即発の事態となった。
 日本が中国の国民政府と合作する一方、北京政府を支援し日本と対立したドイツがロシアへと接近したこともあり、東アジアは日本と独露のにらみ合いの場と化したのだった。これに対し、日本世論は東アジア戦略を「アジア人種による白人帝國主義への抵抗運動」と見なし、アジア主義の高陽へと繋がった。ロシア傀儡のモンゴル共和国を転覆すべく、日満軍がモンゴルに侵入したノモンハン事件も、熱狂的なアジア主義辻政信の策略でなされたものだった。

 日本とロシアが満蒙で激突するのは不可避と思われたが、1940年にこの構図は一変した。反帝協定から発展した四カ国条約をドナウ、フランス・コミューン、ウクライナ・ラーダと結んでいた日本は、同盟国のドナウが「ドナウ=ロシア中立条約」を調印したのを機に、枢軸国とロシアの衝突の可能性は薄まったと判断した。対英独戦争による南方資源獲得に専念すべく12月に「日露中立条約」を結び、一旦北進論から手を引くこととなった。
 しかしながら、日本の予想に反し1941年にはロシアと枢軸国の戦争が勃発した。日本は中立条約に基づき参戦しなかったが、これはむしろ南方方面の戦争遂行を助けることとなった。そして、1945年に入りロシアの敗色が濃厚になると、大本営は対露参戦の実行を決定した。作戦決行日は8月9日であった。

対露侵攻

1945年8月8日〜10月30日:対露侵攻作戦の開始

日本の対露侵攻図

 対露侵攻作戦は沿海州、興安嶺、内蒙古の3方面で行われた。参加軍は以下のようになる。
・第1方面軍(目標:沿海州
 第4軍(ブラゴヴェシチェンスク)
 第13軍(ハバロフスク
 第5軍(ビキン)
 第1軍(スパスク→ウスリースク)
 第2軍(興凱湖西岸→ウスリースク)
 第20軍(ウスリースク)
 第3軍(スラヴャンカ→ウグロヴォイ)
・第2方面軍(ザバイカル)
 第16軍(チタ)
 第11軍(モンゴル共和国バヤン・トゥメン)
・北支駐屯軍(モンゴル共和国)
 第10軍(庫倫)
 第12軍(庫倫)
・第3方面軍(予備戦力及び満洲国内の治安維持)

戦間期ロシア共和国の行政区分図。白軍により再建されたロシアは、州がそのまま各軍閥の勢力圏を意味していた。
ウラジーミル・コシミン(1884-1950)、レオニード・ゴヴォロフ(1897-1946)

 作戦は8月8日未明、以上の3方面で同時に始まった。まず国境付近で大規模な砲撃戦が起こり、日本軍部隊がロシアとモンゴル領内に侵入した。しかしながら、欧米でのきらびやかな装甲戦力による電撃戦は再現できず、火砲優勢と歩兵突撃が中心とならざる得なかった。これは極東アジアのインフラ水準が乏しいだけでなく、日本軍が電撃戦に足る豊富な装甲戦力を用意できなかったことによる。ロシア軍の戦略上重要拠点であるウラジオストクの防衛戦力は特に重厚で、日本軍戦力の大部分はウラジオストク方面に割かれた。対して、第2方面軍や北支駐屯軍は身軽な騎兵部隊が主であり、その数は少なく、日本軍はウラジオストク方面の激戦を予期していたと言える。事実、その予想は的中した。
 ロシア軍側は東部戦線で全体的に疲弊し火力兵力ともに不足していたが、極東はロシア共和国指導層のデニーキンらとは傍流の、アレクサンドル・コルチャーク系の白軍軍閥に支配されていた。コルチャーク派はオムスク州、イルクーツク州、沿アムール州という広大な領域で権勢を振るっていたが、コルチャーク本人の死後はその結束が緩み、1925年に政権を握ったアントン・デニーキンら南ロシア軍系の派閥からなる政権に対し、その関与の余地は減少しつつあった。コルチャーク系白軍軍閥は、ロシア傀儡のモンゴル共和国指導者にロマン・ウンゲルンが就任するなど、アジアを巡る対日戦略に一定の影響力を持っていた一方、日本との内通を疑われたグリゴリー・セミョーノフが日本へ亡命する事件を起こすなど、中央からの信頼も篤くはなかった。しかし、むしろこうした中央との関係が、東部戦線で疲弊するロシア軍においてシベリアに少なからぬ戦力を隠匿することを促し、それが日本の対露参戦に活躍することとなった。
 ヤクーチヤ県、沿海州、アムール県の上位地方行政単位である沿アムール州では、コルチャーク系のウラジーミル・コシミン大将が1941年から1944年末まで州知事を務めていた。コシミンは東部戦線の様子から日本の参戦を予期し、密かに物資を隠匿し国境付近の防衛線構築を始めた。その後、東部戦線で活躍したコルチャーク系のレオニード・ゴヴォロフ中将が召喚され、大将に昇進した後沿アムール州の行政と軍政の全権を掌握した。ゴヴォロフ州知事ウラジオストクを拠点に防衛線構築を加速化しただけでなく、東部戦線での経験をもとに農民を高度に組織化し、山奥に食料庫や武器庫を大量に建設してゲリラ戦の準備を始めた。ゴヴォロフは日本軍の国境線突破を不可避と見て、領土内部におびき寄せゲリラ戦で一網打尽にする戦略を立てたのだった。このゴヴォロフは当時既に名将として有名だったが、日露激突後はウラジオストク防衛の伝説的英雄として記録されることとなる。
 東部戦線でのロシア軍の敗退から楽観的だった関東軍及び大本営は、遅々として進まない戦線に驚愕した。ロシア軍による遅退戦術が効果を発揮し、日本軍は1km進むたびに多大な犠牲を出すこととなった。ゴヴォロフ大将の防衛線はウラジオストクを中心に整備されており、第5軍はビキンを8月20日に陥落せしめ、シベリア鉄道は分断されることとなった。ハバロフスクへ向かう第13軍は黒竜江と巨大な沼地や氾濫原などが進撃を邪魔し、中々前進できなかった。前線将兵はロシア軍よりも蚊の大群に悩まされたのだった。9月初頭、大本営は方針を転換し、全面侵攻を諦めブラゴヴェシチェンスクとハバロフスクへの進撃を停止することとし、抽出兵力をウラジオストク方面へ投じることとした。ウラジオストク豆満江、牡丹江市、興凱湖西岸、興凱湖東岸の4方向から攻め入れられたが、ロシア軍は日本海沿岸の軍用道路を以て迂回する形で本土との補給を維持し、遅退戦術を敢行していった。ロシア軍は航空戦力も海上戦力も圧倒的に不足していたのにも関わらず、孤軍奮闘を続けたのである。
 モンゴル共和国では日本軍の侵入に大いに動揺が走り、ロシア人の支配を受けていたモンゴル人らは日本のアジア主義大義名分の影響を受け、密かに武装蜂起の準備をし始めた。不穏な気配を察したモンゴル駐留ロシア軍は、現地人の非協力もあり積極的攻勢を行えず、鉄道沿線都市である庫倫とバヤン・トゥメンの守備に専念する他なかった。かつてノモンハン事件の際、ロシア軍は機甲戦力で大反撃を行ったが、もはやシベリアにそのような兵器はほとんど残っていなかった。日本側はノモンハン事件当時のような貧弱な騎兵戦力で望んだため、ロシア軍が守勢に徹したのは幸いだった。しかし、その後のシベリア征服を睨むと正面衝突での戦力喪失は惜しかったため、あくまで都市背後の鉄道沿線を掌握し、農村部でのモンゴル人武装蜂起を待つことにした。モンゴル人の反乱は8月末には表面化し、ロシア軍は点と線を支配するのみとなった。
 第2方面軍が相対したモンゴル東部のバヤン・トゥメンはロシア軍の対日前線基地として建設され、住民のほとんどがロシア軍将兵という都市だった。バヤン・トゥメン守備隊司令官のアンドレイ・コロトコフは事前の計画に従いスムーズな防衛戦闘を行い、日本軍の進撃を阻止しつつロシア軍は大きな混乱なく退却することに成功した。バヤン・トゥメンの戦いはモンゴル戦線における最大規模の戦いであり、ロシア軍6万人に対し日本軍18万人が激突し、両軍それぞれ1万人以上の戦死者を出した。日本軍が8月26日にバヤン・トゥメンに入城した際、市内は完全にもぬけの殻で、人どころかあらゆる物資が跡形もなく、市街はロシア兵の手で放火されていたという。
 一方、モンゴル共和国の首都庫倫は抵抗らしい抵抗をできず、9月10日に降伏した。シベリア鉄道支線の終着駅である庫倫はモンゴル各地から避難民が馬車で集結しつつあり、市内のロシア人人口は急速に膨れ上がった。鉄道による居留民避難は追いつかず、モンゴル人の抵抗により防衛計画は破綻していった。日本軍が鉄道線を切断した際は完全に戦意喪失となり、9月10日には抵抗らしい抵抗もせずに降伏したのだった。日本軍入城時にはモンゴル人及び中国人による暴動が発生し、モンゴル共和国関係者及びロシア人は暴行、掠奪、虐殺の憂き目にあった。陥落当時の市内人口約28万人に対し、根こそぎ動員のロシア軍将兵6万人、婦人や子供などで構成される居留・避難民8万人がいたが、日本軍はこれらに治安維持会の結成さえ許さなかった。モンゴル人武装蜂起や鉄道停止のため市街脱出の手立てもなく、ただ飢えて朽ちるに任された。北支駐屯軍改め蒙古駐屯軍はロシア人の惨状に無関心だったが、彼らの餓死や死体処理が問題化し始めると方針を転換、雪でソリによる円滑な交通が可能になる1945年11月には満洲帝国海拉尔にある収容所へのロシア人輸送を始めることとなった。ロシア側が「庫倫事件」と呼んだこの惨事における、ロシア人の正確な犠牲者数は不明である。また、庫倫では満洲帝国軍軍人のウルジン将軍の指導の下、モンゴル人アジア主義者による「蒙古再建委員会」が組織された。
 また、ザバイカルを狙う第2方面軍はロシア本土にてロシア側のゲリラ戦に直面し、地道なゲリラ狩りと面的占領地域の拡大に苦心することとなった。

1945年10月1日〜1946年3月31日:ウラジオストクの血戦

浦塩作戦

 沿アムール州では短い紅葉の季節を過ぎると、冬前の雨と泥濘が到来した。ウラジオストク戦線では第3軍がウラジオストクへ迫ったが、ウグロヴォイ近くを流れるラズドリナヤ川の防衛線に進撃を阻止された。この頃、ウラジオストク北方では要衛ウスリースクの戦いが始まった。東西の山に挟まれるウラジオストク北方の回廊の入り口にウスリースクは位置し、ウラジオストク市街の戦いを占う前哨戦ともなった。日本軍は航空戦力で市街を爆撃したが、ロシア軍は複雑に入り組んだ廃墟を拠点に日本軍の突撃を撃破していった。ラズドリナヤ川への侵入を防ぐボリソフカ村の戦いだけで日本軍1万人が死亡する惨事となった。11月8日には日本軍がウスリースク=ウグロヴォイ間の進撃路を確保し、未だ抵抗を継続したウスリースク市内のロシア兵も夜間密かにラズドリナヤ川を下って組織的に撤退した。日本軍はクレポチナヤ高地(呉山)で渡河地点を確保し、日本軍は南北で接続を果たした。
 しかし、日本軍には更なる防衛線が立ちふさがる。ラズドリナヤ川からウグロヴォイまでには丘陵地が佇み、ロシア軍はそこに「コルチャーク線」を敷いて抵抗した。関東軍総司令官梅津美治郎はこの戦いを「天王山」と位置づけ大激戦に発展し、その攻略にまた1ヶ月を浪費した。その間沿海州は冬に入り東満より厳しい寒さに将兵は打ちひしがれた。このまま正面突破ばかりでは将兵の疲弊を呼ぶという恐れから、大本営ではウラジオストク北方からの陸路侵入ではなく、ウラジオストク南隣りにあるルスキー島からの上陸作戦を命じることとなった。これがウラジオストク戦役最大の激戦「ルスキー島の戦い」である。12月2日、海軍艦隊による「殴り込み」砲撃の後、海軍陸戦隊と陸軍決死隊が上陸作戦をかけた。ルスキー島はゴヴォロフ司令により堅牢な要塞が築城され、日露戦争の「203高地の戦い」に匹敵する激戦となった。島内に掘られた複雑なトンネル網とトーチカに日本軍は多大な犠牲を出し、12月25日には再度海軍による「殴り込み」が行われた。日本軍側が血で記録したトーチカの座標を目標に、巡洋艦からの砲撃がなされたのだった。
 ウラジオストク北方のウグロヴォイに到達した日本軍部隊は再度激烈な市街戦に遭遇しつつも、ウラジオストクへの道程を確保し進撃した。ウラジオストクは旅順のように半島の先端に位置し、半島部分は完全に要塞化されていた。一方ロシア軍は、ウグロヴォイとルスキー島の南北からの挟撃に動揺し、また食糧弾薬ともに尽きつつあった。戦火から逃れてきた避難民のうち女声と子供は、要塞の秘密トンネルと陸路を用いてナホトカ方面に脱出した。ゴヴォロフ大将はデニーキンと同様に、敵軍を逆落しにすべく市内に留まった。
 一方大本営では、ロシア軍の予想外に激しい抵抗と日本軍の苦戦を受け、司令官の交代が提起された。梅津美治郎関東軍総司令官は異例の罷免を受け、老将の畑俊六大将が関東軍総司令官に就任した。3月10日の陸軍記念日までにウラジオストクを陥落せしめよという無理難題を受けつつ、畑は早期攻略を命ずることとなった。まず、ナホトカ含む海岸部へ海軍による「殴り込み」を実施、さらにシコトヴォに上陸し、ウラジオストクからナホトカ方面の脱出路を完全に封鎖した。ルスキー島への重砲設置を急ぎ、ルスキー島からウラジオストク市街へ圧倒的な砲撃を加えることで、ロシア軍守備隊を市街もろとも撃滅しようとした。しかし市街の壊滅は、結果としてロシア側の軍民で構成されるゲリラが隠れる場を与えてしまい、市街攻略をさらに困難にさせた。毎日のように空襲と砲撃が加えられたのにも関わらず、ロシア軍は廃墟を一部屋ずつ拠点にし神出鬼没の反攻を加えた。激しい市街戦に両軍から「ツァーリツィンの戦い」の再現であると評された。疲弊した日本兵は憤慨し、ロシア兵を容赦なく拷問後殺害していた*2ため、ロシア側が自ら捕虜になることはほとんどなかった。
 ウラジオストク市街に突入した日本軍は、ドイツ軍やドナウ軍の突撃歩兵を模した「特別攻撃隊(通称:特攻隊)」を編成し少数精鋭による電撃的歩兵戦を行った。市街戦の連続である程度ノウハウも蓄積されていった。ロシア軍は海軍工廠で機関銃や大砲を製造し続け、それを至近距離で発砲する戦術を取った。また、海軍工廠方面からウラジオストク市街地へボートによる逆上陸が夜間何度も行われ、日本軍に打撃を与えていた。日本軍の進撃は着実だったが陥落までは程遠く、陸軍記念日に間に合うことはなかった。2月19日からは北方からの市街地侵入が始まったが、結局ウラジオストク市が完全に陥落したのは3月26日だった。ゴヴォロフ大将は最後の突撃を敢行したと見られたが、その遺体は行方不明だった*3
 その頃、冬のハバロフスクでは凍結した黒竜江を渡り日本軍が侵入し、ハバロフスク市街は陥落した。ブラゴヴェシチェンスク方面への攻撃を再開され、一応点と線の確保には成功したのだった。

1946年4月1日〜8月31日:ロシアの降伏

セルゲイ・シェピーヒン(1880-1947)、グリゴリー・セミョーノフ(1890-1956)

 沿海州方面では農村部の掃討作戦が始まり、間島特設部隊など朝鮮人部隊も加勢し容赦ない粛正作戦が展開された。ゴヴォロフ大将の用意もあり、ロシア住民は虐殺を恐れ山に籠もって抵抗することができた。日本側は沿海州からロシア人を一切絶滅させることを決意し、里に留まった住民を満洲帝国内の強制収容所へ根こそぎ移住させた。男は殺し、女は犯し、村も蓄えも焼いて生活の痕跡を完全に抹消していった。沿海州粛正作戦はロシア側の生存者が乏しく詳細は不明だが、ロシア側は軍民一致で抵抗を継続したが、1946年春には兵糧がなくなり飢餓が蔓延するようになったという。人々は飢餓や病気で脱落し、戦闘で死ぬか投降後殺される他なかった。運良く処刑を免れても収容所へ後送された。しかし日本軍はこの「パルチザン」とも呼ばれるゲリラを完全包囲できたわけではなく、体力のあるものは徒歩でペルミスクやニコラエフスク方面へ脱出していった。しかしその道のりは青森から山口へのそれに匹敵する長大さで、しかも元々人里も道路もなかった。冬の間は犬ぞりで移動できたが、春に雪解けが始まるとパルチザンは完全に逃げ場を失った。春からパルチザンの投降が徐々に見られるようになった。当時主計将校として野戦司令部にいた宇野宗佑は、憎悪よりも憐れみが勝った日本兵らが、投降したパルチザンに対し乾パンとお湯を差し出したものの、パルチザンがそれを口にするや息絶えてしまった様子を目撃していた。あまりの飢餓に胃が受け付けなかったか、安心感のあまり絶命したのだろうと宇野は回想している。
 ゴヴォロフのゲリラ戦戦略において致命的欠点だったのは、ロシア極東はほとんど縦深のない人口配置だった点にある。ゲリラ戦の本場であるロシア本土では農村が網の目のように位置しているため、ある村が破壊されても他の村々が包囲するような形で効果的なゲリラ戦が可能だった。それに対してロシア極東は過疎と開発不足のため、ロシア人は鉄道沿線にしかほとんど住んでいなかった。従って、日本側は僅かな村落を破壊することで完全にパルチザンに打撃を与えることができ、パルチザンは食糧などの生産拠点を失うこととなったのだった。
 一方、モンゴルでは満洲帝国軍蒙古人将兵による工作作戦が功を奏し、全土がモンゴル人支配に戻った。デニーキンの戦死とモスクワの陥落、さらにニジニ・ノブゴロドの攻略とヴォルガ川への枢軸国軍到達などロシア共和国の滅亡を象徴する事件が相次ぎ、さらに大東亜会議などの日本によるアジア主義発揚によりロシア共和国のアジア系少数民族は大いに動揺していた。第2方面軍は冬期から攻勢を強め、5月25日にはチタを陥落せしめた。チタにはザバイカル・コサックのアタマンだったグリゴリー・セミョーノフが入城し、暫定政府の樹立を宣言した。これが後の「チタ防組政府」である。敗色濃厚の中、これを受けてザバイカル・コサック兵の多くがセミョーノフへ恭順し、一気に日本軍の支配地が拡大することとなった。7月、ザバイカル東部のチタとモンゴルの庫倫の2方向からザバイカル西部及びイルクーツクへの攻撃が開始された。ロシア軍は総崩れとなり、ザバイカル西部が占領された。8月には東部戦線でウクライナ軍が「フメリヌイツクイ作戦」を実施しヴォルガ川を越え、一挙にウラル山脈へ迫ったのに併せ、8月15日にイルクーツク無血開城された。
 レイキャヴィク休戦協定で西部戦線が停止すると、イルクーツク州知事セルゲイ・シェピーヒンは交渉の末日本軍に降伏した。降伏条件とはバイカル以東割譲を認める代わりに、日本軍がウラルに進駐しウクライナ軍進撃を止めることだったと言われる。しかしこれはロシア共和国の正式な和平交渉ではなく、コルチャーク派たるシェピーヒン州知事による和平だった。事実として、日本軍は数個師団を割いてコルチャーク系軍閥黙認の下、シベリア鉄道で西進し、ペルミやチェリャビンスクに到着した。継戦能力が限界を超えていたウクライナ軍はこれを受け、ウラル山脈を勢力限界として進撃を停止した。この奇想天外な終戦劇の背後には、コルチャーク系軍閥がシベリアだけでも保持しようとした目論見のほか、シベリア政権を傀儡化したい日本側の計画、関東軍参謀らによる日本軍輸送に名を借りたシベリア偵察などの、絶妙な一致があったとされる。ヤクーチヤで抵抗していたコロトコフ沿アムール州知事*4は反対したが、そのまま日本とシベリアの奇妙な協力体制が続く可能性もあった。しかし、事態は再び急展開を迎えることとなる。

1946年9月1日〜10月30日:少数民族の蜂起

北方民族会議の様子(1946年)

 事態を一変せしめたのはロシアの少数民族運動だった。ロシアの降伏を受け、ウクライナはウラル以西にソビエト政権を正式に樹立していった。若干ウクライナ・ラーダの領土が拡大したとは言え、ロシアはロシア・ソビエトの樹立により一応継承されたと言える。しかし、ウクライナのミキータ・フルシチョウはロシア民族主義を破壊すべく、その前哨戦としてドン・クバン、北カフカス、ヴォルガを独自のソビエト政権として分離せしめた。この3地域はいずれも少数民族が多く住んでいる。特にヴォルガ川にはアジア人種と見なされたテュルク系民族がおり、テュルク人による独自国家樹立にロシアの少数民族は衝撃を受けたのだった。
 これを機に、少数民族ナショナリズムは一気に爆発した。少数民族を含むロシア兵が武器を持ったまま故郷に帰還した結果、少数民族地域では武装蜂起が相次いだ。ロシア人が元来少ない中央アジアトルキスタン州では打規模な反乱に発展し、現地軍は寡兵で決死の防御戦闘を展開していた。ロシア傀儡のウイグルスタン共和国も現地人の反乱と中国国民革命軍の侵攻により消滅した。テュルク系民族が住む中央アジアはロシア人開拓民との緊張関係があり、ロシア革命でもテュルク系民族武装蜂起を起こした地域であった。中央アジアの怨嗟はロシア人支配で蓄積され、敗戦で堰を切ったように反乱が相次いだのだった。
 トルキスタン州では、ウズベク人やトルクメン人、タジク人の在地勢力による自治組織が相次いで結成され、軍政を敷くロシア軍は都市と鉄道線以外の支配をほとんど失った。この地域のロシア人は元々都市と鉄道沿線に集住していたため、農村部から始まったテュルク系民族の反乱に包囲される形となった。ウクライナ・ラーダの人民戦線は工作員を送り込み、現地サンディカリスト及びコミュニストと協力して党やソビエト組織を急速に建設していったのだった。中央アジア中部のシル・ダリヤ県、ステップ・タウクム県も同様だった。
 中央アジア北部のウラル県、トゥルガイ県、アクモリンスク県、セミパラチンスク県は遊牧民たるカザフ人が原住していたが、ロシア共和国政府はロシア革命以前からロシア人農民の移住が行われ両者は度々衝突していた。ロシア革命による飢餓や戦間期世界恐慌で困窮したロシア人農民の移住はさらに増加し、カザフ人の居住地域は急速に縮小していった。中央アジア北部はトルキスタン州とは対照的にロシア人が農村に広く生活していたため、ロシア人側は武力で自衛してでも土地を守り抜く自信があった。そのため、中央アジア北部はトルキスタン州に比して血みどろの民族紛争が展開されることとなった。
 シベリアでの少数民族が動き始めた。日本軍のモンゴル「解放」に激励されただけでなく、日本軍は少数民族独立運動を煽動する特務工作員を送っていた。東京の大本営や外務省などはさらなる征服地の拡大に反対だったため、この工作は満洲帝国の関東軍を策源地としていた。いわゆる「北方民族解放工作」である。その指導者の一人が蒙古駐屯軍高級参謀の辻政信だった。辻は熱烈なアジア主義者であり、第1方面軍高級参謀としてウラジオストク攻略や粛正作戦を指導した「作戦の神様」だったが、シベリアのアジア系少数民族独立によるロシア人放逐を構想していた。ロシア侵攻に参加した現地軍で有志を集めた辻は、チタの蒙古駐屯軍司令部を拠点に独自に少数民族独立工作を司令部黙認で開始したのだった。
 1946年10月26日、ついにチタで少数民族有力者を集めた「北方民族会議」が開催された。この会議は大東亜会議を模すこと明白で、日本によるアジア解放と各民族のアジア主義的反帝蜂起を印象づけた大東亜会議の再現を意図していたと言われている。東京はこれに不意を突かれたが、戦争遂行の大義名分に適合し、さらに国民全体がアジア主義を熱烈に支持していたため、北方民族会議の開催を批難することができなかった。むしろ戦後混乱に疲弊する銃後を鼓舞するために、内閣情報局は積極的に会議の様子を宣伝したのだった。
 しかし、シベリアへのさらなる領土的野心を隠さない北方民族会議開催に対し、ロシア共和国の軍閥は警戒を隠さなかった。これがきっかけで一応和平交渉が成功し、反組反共の戦略的合作もあり得た日露関係は完全に破綻したのだった。機能を続けていた各州軍政部は少数民族蜂起と日本人襲来の恐慌に襲われ、少数民族勢力に対する断固たる鎮圧を開始することとなった。軍、警察、リニンカ*5残党はアジア系少数民族に対し、虐殺を開始した。これに呼応しシベリアの各少数民族も公然と武装蜂起を起こしたのだった。

1946年11月1日〜1947年4月30日:「黄色テロルを発動せよ!」

焼き尽くされるシベリア
アンドレイ・コロトコフ(1899-1968)、辻政信(1902-1984

 1946年冬、ロシア共和国は激烈な人種戦争へ再び突入することとなった。まず11月12日にウクライナが支援するコミュニスト武装蜂起がトルキスタン州で勃発し、12月1日には「トルキスタン人民戦線」と「トルキスタン民共和国」の設立が宣言された。中央アジア北部ではカザフ人による「カザフ軍団」がカラガンダを占領し、11月29日に「アラシュ・オルダ」の建国を宣言した。アラシュ・オルダはロシア革命で出現した反白軍かつ反ボルシェビキのカザフ人政権で、第一次アラシュ・オルダの残党が背後でこれを支援していた。カザフ軍団は南にコミュニストトルキスタン民共和国、北に少数民族独立を許さぬロシア共和国に挟まれ、日本軍による支援を頼りに抵抗を開始した。カザフ人遊牧民とロシア人農業開拓民が対立する中央アジア北部では、両者による虐殺の応酬が展開された。辻は蒙古駐屯軍司令官名義で「北方民族に告ぐ」を発表、少数民族には独立戦争を、日本人将兵には援護を呼びかけ、少数民族独立戦争がアジア人種と白人人種による人種戦争であることを断言した。赤色テロルや白色テロルに対抗するため「黄色テロルを発動せよ!」と呼号したのだった。
 蒙古駐屯軍はまず、満洲帝国軍の蒙古人部隊を中心に蒙古西部へと挺進し、辛亥革命の結果ロシアが傀儡化した*6ウリヤスタイを制圧した。関東軍が養成したウリヤスタイ出身のサルチャク・トカを首班とする「トゥバ国」が成立し、テュルク系原住民であるトゥバ人による国家が再建された。サヤン山脈、アルタイ山脈、タンヌ山脈に囲まれたトゥバ国は辺境にあり、ロシア人居留民の人口はわずかだった。ロシア風のベロツァールスクからトゥバ風のヘム・ベルディルに改名された首都には、逃げ遅れたロシア人兵士や商人が少数残っていたが、トゥバ人民兵により殺害された。首都を脱したロシア人はクラスノヤルスクを目指し北へ逃げたが、真冬の山脈超えやトゥバ人匪賊の襲撃でほとんどが死亡した。
 トゥバはシベリア、モンゴル、中央アジアの間に丁度位置し、トゥバを抑えた日本軍は周辺地域への本格的な工作を強めていった。少数民族の中で比較的独自の社会を維持していた、アルタイ山脈北端に住むアルタイ人はクドラン・トゥガンバエフを指導者とする「アルタイ軍団」を結成し、入り組んだ山岳地形に籠もっていた。当時アルタイ人居住地を含むトムスク県では、農民による反軍閥運動が展開され、ロシア人農民は県知事のアレクサンドル・カムバリンの罷免を要求していた他、元トムスク県知事でアルタイを拠点とするコルチャーク系軍人アレクサンドル・カイゴロドフに対する抵抗運動が行われていた。人々の関心は黄色人種の恐怖よりも軍閥に向けられていた。そのため日本軍工作員は容易にアルタイ山脈北端に侵入し、アルタイ軍団との接続を果たした。トゥバからアルタイ山脈北端までの道程は険しく、トゥバと蒙古の国境地帯にあるウルグズ・ヌル湖を経由せねばならないが、これは現地住民の協力なしでは踏破できなかった。雪深い1947年1月12日に「アルタイ共和国」の独立が宣言された。
 また、トゥバ国から北に接するミヌス平野*7西部にはテュルク系のハカス人が住んでいたが、一方ロシア人開拓民は数で圧倒し黄色テロルの実行は容易ならなかった。キリル・トドゥイシェフを指導者とする「ハカス軍団」はロシア人放逐にこだわらず、現地のロシア人農民反乱勢力と妥協し、1月16日に共同で「ミヌシンスク暫定人民委員会」通称「ミヌシンスク政府」を名乗った。ロシア軍部隊はロシア人農民に放逐され、後から蒙古駐屯軍部隊が到来したのだった。ミヌシンスク政府は「政府」と名乗った通り、ロシア共和国からの分離独立は前面化せず、政府を構成したロシア農民反乱勢力も白軍軍閥からの自治を意図していた。ミヌシンスク政府の北にはロシア人が多数住む東シベリアの穀倉地帯が広がり、そこにはシベリア鉄道が横断し、エニセイ川が縦断していた。その交点に大都市クラスノヤルスクがあった。
 一方、バイカル湖から北西に位置し、後の北辺総督府の西隣にあるヤクーチヤではモンゴル系少数民族のサハ人*8が住民の多数を占めていた。ロシア人の支配で弱体化していたシベリア諸民族の中では例外的に、サハ人は独自の社会と勢力を堅実に維持していた。ロシア人入植者の割合は少なく、サハ人単独による分離独立は簡単に見えた。一方、ヤクーチヤはバヤン・トゥメンの戦いで活躍したアンドレイ・コロトコフ将軍の本拠地で、コロトコフはヤクート知事として対日抵抗と新大陸への避難作戦を継続していた。サハ人住民の武装化と暴動でヤクーチヤ県は機能不全に陥り、コロトコフは辺境、農村、都市、そして本拠地ヤクーツクの支配さえ失い、寡兵とともに脱出した。コロトコフは抵抗を続けるも「サハ軍」の優勢は決定的で、コロトコフらは軍の秘密施設を転々とし冬を耐える他なかった。1947年3月頃にコロトコフは部下と航空機で西へ飛び、シベリアのロシア共和国残党に英雄として迎えられた。ヤクーチヤは日本軍の介入を待たず、既に「サハ国」独立を宣言を果たし、憲法制定会議が組織されていた。
 このように、1946年から1947年の冬には中央アジアと東シベリアで少数民族の分離独立が相次いだ。これはウクライナと日本にロシア東西挟撃に呼応した分離独立であり、ユーラシアをサンディカリズムアジア主義で分割しようとする試みだった。しかしながら、ウラル以東バイカル以西でロシア軍残党は頑強な支配を維持しており、こうした国家分裂に対する激しい拒否反応を引き起こした。中央アジアと東シベリアでは激烈な白色テロルがサンディカリストとアジア系少数民族に向けられ、虐殺の応酬と化した。サンディカリスト少数民族も自らの生存のため赤色テロルと黄色テロルを敢行し、闘争の炎はますます拡大していった。

1947年5月1日〜:サヤン作戦

大東亜共栄圏の北方諸国

 枢軸国の工作でロシアの少数民族分離は不可避となったが、枢軸国の軍隊が駐留していないシベリア深部においては武力的にロシア軍が優位であり、特にサンディカリストとロシア軍に挟まれたアラシュ・オルダのカザフ軍団は孤立無援の苦戦を強いられていた。辻政信らの独断先行で始まったアジア人解放戦争は、日本軍のコントロールを政治的・地理的に外れており、むしろシベリア深部でアジア人の大量虐殺をもたらす結果となった。内地では経済危機と道復運動*9のため軍縮が進み、大東亜戦争のような大軍の運用は困難だった。大陸における日本軍において指導的立場を占める関東軍満洲帝国軍や蒙古国軍に対し、シベリア解放のための部隊編成を命じた。「サヤン作戦」は極秘で進められ、1947年春に東京の知らぬうちに始まった。
 サヤンとはサヤン(薩彥)山脈を意味し、ロシア語である「シベリア」という言葉を忌諱した結果、バイカル湖より西の東シベリアは「サヤン」もしくは「北サヤン」「嶺北」と呼ばれるようになった。日本軍はミヌシンスク政府支配地から北へ、バイカル湖から西へとジワジワ浸透し、無政府状態と化した在地勢力への介入や買収、謀略をはじめ、特務工作員による独立運動煽動で徐々に支配を固めていった。バイカル湖からクラスノヤルスクまでの一帯はロシア人居住地域であり、ロシア人パルチザンとアジア人義勇兵の間で激烈な衝突を生んだ。しかし、西シベリアのロシア政府は日本との衝突を恐れ大規模な援軍を送れず、中央アジアでのカザフ軍団制圧で精一杯だった。サヤン作戦の最大進出線はクラスノヤルスクであり、中央アジアは相変わらずロシア軍とトルキスタン軍に挟撃されていた。カザフ軍団の一部は東の日本軍と合流するため、夏には中央アジアからアルタイ国、ミヌシンスク政府、クラスノヤルスクへ向け民族大移動を開始した。日本軍はサヤン作戦で鉄道と都市を制圧し、「点と線」の支配を確立したのだった。
 中央アジアのカザフ人は大別して大ジュズ、中ジュズ、小ジュズという3部族に分かれるが、アラシュ・オルダは中ジュズを中核としていた。カザフ軍団の劣勢でカザフ人は中ジュズを中心に虐殺に遭い、人口を大きく減らした。辻政信らはカザフ人救済のため、ロシア人地域であるクラスノヤルスク東部一帯にカザフ人国家を建設することを決定し、現地特務工作員を通じてカザフ軍団とその家族を北サヤンへ導いていった。到達したカザフ軍団はサヤン作戦の実行部隊として活躍し、土地を奪うため現地のロシア人に対し報復の黄色テロルを展開したのだった。
 サヤン作戦の前線を占めたのはカザフ軍団のような少数民族義勇軍や、満洲や蒙古から従軍した朝鮮人や蒙古人で、日本人は将校以上が主だった。アジア人種の各民族が一致して闘争したことは、アジア主義的利益に基づく人種戦争の先例として、永仁時代には日本でも高く評価されることとなる。
 しかし、こうした英雄端の背後に、戦場に住むロシア人の怨嗟を無視することはできなかった。クラスノヤルスクから北東にあるタセエフは、四方をタイガに囲まれた天然の要塞であり、ロシア革命では赤軍パルチザンが頑強なパルチザン戦を行った。ロシア人農民はタセエフを拠点に、イワン・クリメンコという元ボリシェヴィキを指導者とする抗日パルチザン闘争を開始した。パルチザンの執拗な攻撃と、日本軍の報復虐殺、カザフ人の入植が繰り返されクラスノヤルスク方面は荒廃した。エニセイ川をまたぐ大都市クラスノヤルスクは難民が東西を行き来し、当初は事実上の中立地帯扱いだったが、1948年には北サヤンの支配を固めた日本軍に用済みと判断され、空襲を経てエニセイ川より東部の地区が制圧された。エニセイ川は日本軍により中国の古名から「剣河」に改名され、日本の最大進出線としてロシアとの事実上の国境となった。
 サヤン作戦には、道復運動で日本から追放されたアジア主義人士も少なからず参加した。彼らはアジアのための闘争に身を捧げ、白人との永久戦争の不可避性に覚醒し、退役軍人として満洲帝国や北サヤン諸国で一定の影響力を持つこととなる。
 日本軍は剣河以東の傀儡政権樹立を急ぎ、既に成立していたサハ国、ミヌシンスク政府、アルタイ国、トゥバ国、チタ防組政府のほかに、アラシュ・オルダの亡命政権として「東カザフ国」を、剣河東岸のエヴェンキ人の国として「通古国」を、北極海に面するタイミル半島には「タイミル国」を成立させた。バイカル湖以西のロシア人地域でも、少数民族の蒙古人を集めて「オルダガイ国」が分離独立した。それ以外ではロシア人の自治が継続していたが、強力な統一国家出現を恐れ、日本軍はバイカル湖以西のロシア人地域を「イルクーツク政府」「トゥルン政府」「タイシェト政府」に分離し、在地勢力による分権的支配を強いた。この3政府とミヌシンスク政府は名目上ロシア共和国の主権下にあることを主張し、国でなく「政府」を名乗ったのだったが、事実上の独立国だった。また、イルクーツク政府の首都であり、「シベリアのベルリン」と呼ばれるほどの壮麗な街並みを持つイルクーツク市は、日満蒙鮮露の五族からなる治安維持会に支配され、事実上イルクーツク政府から半ば分離し、新京の指導下にあった。イルクーツク市は東シベリア各地から人と物が行き交う拠点都市であり、戦略的価値があった。
 各傀儡国では対パルチザン戦を並行的に続けるなか、新京主導による国家建設が行われた。チタ防組政府には「知多銀行」が設置され、円とリンクした知多銀行券が通用した。各傀儡国は関東軍の指導で憲兵隊が設置され、日本人将校の指揮下に秘密警察および対パルチザン部隊として苛烈な弾圧を行った。タセエフのクリメンコは東カザフ国と日本軍を苦しめたが、最後は憲兵隊により処刑された。
 アジア系少数民族軍団は武装入植者としてロシア人地域を侵食し、男性は殺害され、女性は妻とされるなど非情な黄色テロルが展開された。憲兵隊の日本人指揮官は新京の命令でロシア人住民の「避難」を強制し、嶺北からロシア系住民の半数近くが満洲帝国精南省に強制移住された。精南省は満洲協和党政権で精南ロシア民族区と改名されるが、そこはブラゴヴェシチェンスクを中心都市とする穀倉地帯で、黒竜江とゼヤ川(精河)に挟まれた外満洲の奥地だった。その他、多数のロシア人が白人という理由で強制収容されたり、北辺総督府に送致されたりした。WW2末期に獲得した大量のロシア人捕虜も未だ北辺総督府で過酷な金採掘に従事し、大東亜共栄圏経済を支えていた。
 荒廃した旧東シベリアには、ロシア人の代わりに朝鮮人や満人*10、中国人が商人や入植者として進出していった。東亜では日本人と対立しがちな両民族は、パルチザンに囲まれた北方では日本人と協力せざるを得ず、ロシア人住民をサンディカリストとして密告し、残った土地を強奪するといった事件が跡を絶たなかった。当時満洲帝国には多数の日本人が追放同然に移住していたが、北方への自発的移住者は稀だった。そのため、各アジア系少数民族政府や憲兵隊は朝鮮人や中国人入植者を武装させ、国家の手足として重宝せざるを得なかった。
 その後も旧東シベリア諸国は、西側に面するシベリア政府やサンディカリスト、内部のロシア人抵抗運動の脅威と接しつつも、満洲帝国主導での経済開発を行っていった。北方は白人が未だ残る人種戦争の緊張地帯であり、いわゆる大東亜人地政学の主戦場の一つとなる。また、1960年に日本内地で宮城進軍事件が勃発し、協和党政権が成立すると、満洲帝国の協和会が満洲協和党に改名したのに併せ、北方諸国も軍団を基にした政権集団が次々と協和党を結成していった。

北方民族解放工作から始まる人種戦争は、冷戦期のアジア全土を燃え上げることとなる。
サハ国、タイミル国、トゥバ国の国旗
ハカス国、通古国、東カザフ国の国旗

犠牲者

 日本のロシア侵攻は大東亜戦争において最も激烈かつ大規模な戦線であり、その死者はニューギニア戦線、ビスマルク戦線さらにソロモン戦線の戦死者数を更に超える。正確な数は不明だが、WW2終結までの対ロシア戦線における戦死者は約25万人で、蒙古戦線は2万人だった。突出して戦死者が多かったのは浦塩の戦いである。
 戦争終結後継続した北方民族解放工作においては、正確な戦死者数の把握はさらに困難を極める。戦時と平時の区別が曖昧であり、現地協力者や朝鮮人、満人、中国人などの非日本人将兵も多く、何よりそれ自体が謎の多い秘密作戦だったからである。一説に、日本人戦死者は約8万人であり、非日本人アジア系民族を含めればその数は2,3倍に膨れ上がるだろうと言われている。

年表

1945年
8月20日:ビキン陥落
8月26日:バヤン・トゥメン陥落
9月10日:庫倫陥落
11月:庫倫ロシア人難民の海拉尔への輸送が開始
11月8日:ウスリースク陥落
12月2日:第1回ルスキー島砲撃、ルスキー島上陸作戦
12月6日:コルチャーク線突破
12月25日:第2回ルスキー島砲撃
12月30日:ハバロフスク陥落

1946年
1月4日:畑俊六が関東軍総司令官に就任。
1月5日:海軍陸戦隊がウラジオストク市街地に突入開始
1月12日:シコトヴォ上陸作戦
2月19日:北方よりウラジオストク市街地に突入開始
2月22日:ブラゴヴェシチェンスク陥落
3月26日:ウラジオストク陥落
5月25日:チタ陥落
8月1日:東部戦線でフメリヌイツクイ作戦発動
8月15日:イルクーツク無血開城
10月26日:北方民族会議開催
11月29日:アラシュ・オルダ独立宣言
12月1日:トルキスタン独立宣言
12月2日:トゥバ国独立宣言

1947年
1月12日:アルタイ国独立宣言
1月16日:ミヌシンスク暫定人民委員会成立
3月5日:サハ国独立宣言
5月頃:サヤン作戦発動
7月10日:東カザフ国成立
7月15日:通古国独立宣言

1948年
8月6日:タイミル国成立

*1:戦後の勘察加

*2:ロシア軍への憎悪だけでなく、白人へのコンプレックスやアジア主義による人種戦争観などが原因と言われる。

*3:戦後、旧ウラジオストクが再開発された際、旧アドミラルテイスカヤ通り付近の瓦礫から勲章付きの将官服を来た白骨が発見され、それがゴヴォロフ大将であると断定された。

*4:ゴヴォロフの死後継承した。

*5:ロシア共和国の秘密警察。

*6:傀儡国時代は「トゥバ共和国」と名乗っていた。

*7:ロシア共和国支配下では「ミヌシンスク平野」と呼ばれた。

*8:サハ人について、正確には形質的にモンゴル系で、言語はテュルク系である。

*9:道復運動とは、翼賛体制下の怨嗟に由来する民衆の反政府運動アジア主義者の石原莞爾を精神的支柱に置いたが、東條英機首相の強硬路線で鎮圧され、関係者は満洲に流された。

*10:満人とは中国系満洲帝国臣民。