シモン・ペトリューラ

シモン・ペトリューラ(1879-1963、Семен Васильович Петлюра)はウクライナの政治家、チェキスト
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「ペトリューラ軍」の司令官

 本来の名は「セメン」であるが、フランス語風の「シモン」のほうが対外的には知られている。
 1879年にポルタワで誕生。ブルジョワの生まれだった。宣教師学校を卒業し、ウォロディムィル・ウィヌィチェンコと同じく革命的ウクライナ党に入党、ロシア第一革命ではウクライナ社会民主党に入党した。
 1917年に2月革命が勃発する。労働者と兵士が鍵を握っていたこの革命では、ペトリューラは自ら兵士たちに加わり、気さくな態度と熱の入った演説でウクライナ人兵士の注目を集めた。戦線各地でペトリューラを支持する兵士ソビエトが出現した。このことから、ロシアから独立したウクライナ中央ラーダは、ウクライナ軍の健軍をペトリューラに命じた。
 ラーダ国家ことウクライナ人民共和国の軍隊は、「ペトリューラ軍」とも呼ばれた。ペトリューラは熱心な民族主義者であり、反ユダヤ主義者だった。軍ではロシア語を禁止し、ウクライナ語を奨励したことで少なからぬ兵の離反も起こった。ちなみに、のちのヘチマンであるパウロ・スコロパードシクィーはウクライナ軍における右岸ウクライナ全権司令官だった。スコロパードシクィーは、ペトリューラのもたらした混乱や、ウクライナ独立に伴う戦線のロシア軍部隊孤立に対処する役目を追っていた。
 ボリシェヴィキウクライナの征服を狙い侵攻を開始すると、ペトリューラは首都キーウをボリシェヴィキから守る任務を与えられた。しかし、急進的なウクライナ化で一部兵士は離反し、左派兵士もアナキストであるネストル・マフノの軍隊に移ったため、ペトリューラはかなりの戦力を戦う前から失っており、結局一時ボリシェヴィキにキーウを奪われてしまった。これにより、ドイツ軍はウクライナ人民共和国を見捨て、1918年4月にスコロパードシクィーのウクライナ国を建国させたのである。
 ヘチマンの権力掌握直後から、ペトリューラは反ヘチマンを鮮明にした。ゼムストヴォの多くはヘチマンに反対したことから、ペトリューラはゼムストヴォに潜入し反ヘチマン闘争を呼び掛けた。5月には大規模な農民一揆が各地で発生し、ヘチマン軍約3万人が死亡した。その報復として7月末にペトリューラは逮捕された。
 翌1919年夏に行われたコミュニスト最後の攻勢である「赤い夏」において、ペトリューラを収監していたルキヤニウシカヤ監獄を闘争派*1が襲撃し、ペトリューラは解放された。しかしコミュニスト側が敗北したことで、ペトリューラは地下に潜伏することを余儀なくされた。
 1920年にロシアのボリシェヴィキが滅亡すると、ヘチマン政権下のウクライナでは熾烈な白色テロが行われた。ペトリューラはこれ以上国内にとどまるのは不可能と判断し、ポーランを経由しドナウ連邦に亡命した。このころドナウ連邦はドイツによる内政干渉に反対し、コミュニストには比較的寛容な姿勢をとっていたのが幸いした。1923年にはフランスに移住した。

パリ時代

 ペトリューラはパリにあるウクライナ人コミュニティに留まることとなった。フランスコミューンはロシアから様々な難民を受け入れており、ペトリューラのようなウクライナ社会主義者だけでなく、ロシアのボリシェヴィキウクライナアナキストなどもいた。彼らはロシア革命時代の対立を引きずり、ミリス(民兵)を結成して街頭で殴り合いの喧嘩をすることもあったが*2、大小様々な交流があったようである。
 パリのウクライナ人は社会民主主義コミュニズムにかかわらず反ヘチマンで団結し、ウクライナ共産党を結成して合流した。この際、シモン・ペトリューラはウクライナ人の間で有名人だったのでウクライナ共産党の中央委員に当選した。ほかにも後のウクライナ指導者となるフルシチョフが中央委員に当選している。ここから、共産党員としてのキャリアが始まった。
 ペトリューラはフランスでソレリアリズムに影響を受け、自身の反ユダヤ主義、反ロシア主義とソレリアリズムにおける暴力の正当化が結びついた。ウクライナプロレタリアート独裁を達成するには、ウクライナ人が暴力を行使しユダヤ人を追い出しロシア人を同化させなければならない、と考えるに至ったのである。
 パリ・インターでは、反ロシア主義的主張にもかかわらず、ボリシェヴィキの影響を受けたフランス共産党と親交を深めた。ボリシェヴィキによるウクライナに関する理論、例えば民族自決については黙殺したが、ボリシェヴィキの「鉄の規律」に大変興味を持った。ペトリューラはウクライナ人民共和国が崩壊した原因を規律と力の欠如と見出し、ウクライナ共産党における民主集中制に賛成した。このころから、ウクライナ共産党ボリシェヴィキのような独裁的な性格を帯びるようになっていった。
 また、元ボリシェヴィキロシア革命時代の敵だったウクライナ人、ドミトロ・マヌイリシクィー*3にパリ・インターの仕事を紹介し、斡旋している。

人民戦線政権

 1937年にウクライナで人民戦線政権が成立すると、ウクライナ・ラーダ内務人民委員に就任した。この内務人民委員部は、ヘチマン時代の内務省国家警備隊(Стражавна варта)や秘密警察などを引き継いだ機関であり、反革命分子との闘争を主たる任務とした。
 ペトリューラは内務人民委員として絶大な権力を手にした。計画経済化や農業集団化に伴う経済混乱を「反革命分子のテロ」として失政の火消しを行った。この場合おおむねドイツ人やユダヤ人がわら人形として逮捕された。逮捕されれば、最低でも重労働刑8年が下され、ウクライナ各地にある強制収容所(Та́бір;「タービル」)で過酷な労働に服することとなった。
 ただし突発的な無秩序なポグロムに対しては一切反対の立場をとり、「ブラウン事件」といったポグロムを装った暗殺を除けば、ポグロムを起こしたウクライナ人を対して容赦なくタービルに送った。
 内務人民委員だけでなく人民戦線政治局員であり書記でもあったので、内務人民委員部以外の分野でも保安とあれば関与することがあった。WW2では捕虜となったロシア人について、コミュニズムシンパと判断すればロシア・ソビエトの義勇部隊に送ったが、ブルジョワや貴族出身者などは無作為に銃殺し、強制収容所に送った。捕虜用強制収容所は死亡率が高く、ほとんど生還することはなかった。
 さらに、WW2における戦後構想も関わっていた。戦後ロシア南部を併合する計画にフルシチョウ、ウィニチェンコとともに署名している。これは無論自身の強烈な反ロシア主義によるものである。
 暗殺未遂を受けたこともある。1938年2月、地方都市ヴィーンヌィツャを視察中に銃撃され、偶然にも被弾しなかった。犯人はユダヤ人のサムイル・シュワルツブルトで、ロシア革命時代にはネストル・マフノのアナキスト軍に参加していた男だった。この事件に対しペトリューラはヴィーンヌィツャの「ユダヤ人テロリスト」抹殺を命じ、約1年かけて同市のユダヤ人、ドイツ人、他ウクライナ人の「反動」に対する逮捕と処刑が行われた。これを「ヴィーンヌィツャ大虐殺」という。

病死

 1942年、癌を発症したと判明する。翌1943年に病死した。戦時中しばらくペトリューラの死は伏せられ、1946年の戦勝直後に初めて公式に発表された。それまでは粛清説、暗殺説、空襲による死亡説などが諸外国で出回っていた。
 1942年に内務人民委員代行に側近のイワン・ボホンコが就任した。ボホンコはペトリューラの死後内務人民委員となり、ペトログラード裁判をはじめとする大粛清を演出、1949年6月に失脚しのち銃殺されることとなる。
 ペトリューラは戦争途中で死んだが、後任であるボホンコの路線はペトリューラを完全に継承している。ボホンコも一貫して反ロシア・反ユダヤを貫いた。

*1:ウクライナコミュニストの一派

*2:当時のフランスでは、赤系ロシア人だけでなくフランス人も民兵を組み闘争するのがごく当たり前の光景だった。

*3:ロシア語名:ドミトリー・マヌイリスキー