雲南事件

雲南事件(中国語:云南大屠杀)とは毛沢東政権下の中国雲南省で起こった粛清及び動乱を指す。日本や国民党、タイ特務が活動していた雲南省はスパイ戦争の最前線と位置付けられ、多くの民衆がスパイとして弾圧された。

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毛沢東時代の雲南省

前史

 雲南省辛亥革命軍閥が割拠し、中央とは異なる独自の系統(雲南軍閥)を維持してきた。その支配者は蔡鍔、唐継尭と度々変化したが、1927年にクーデターを起こした雲南軍閥将校竜雲の下、雲南は安定した。
 清朝時代雲南省はフランスの権益にあったが、WW1でフランスが敗北すると戦勝国ドイツがこれを継承した。ドイツ領インドシナ北部のハイフォンから雲南省昆明まで鉄道が敷かれ、軍閥政府は茶を輸出し武器を輸入していた。また、ドイツ軍の支援を受け入れ、同じくドイツが支援する馮玉祥の北京政府寄りの中立姿勢を示した。そのため、広東の国民政府とは関係は良くはなく、1938年における国民革命軍の北伐の際は、中立を破り進軍する素振りを見せて北伐失敗の遠因を作った。国民政府を支援する日本もアジア主義的観点から雲南軍閥をドイツの手先と見なしていた。
 こうした背景から、竜雲は1946年に失脚した。蒋介石雲南軍の抵抗を防ぐために、前以って雲南軍主力部隊を旧北京政府の山東省へ進駐させる命令をしていた。竜雲の後任は盧漢だったが、盧漢は表面上国民政府に従いつつ、蒋介石に対する中立を模索していた。
 戦後、国民革命軍は剿共作戦で中国共産党の紅軍を粛清し、彼らを中央アジアへ追いやった。しかし、ソ連は中国の赤化を目論見て1952年より新疆地方への浸透を開始する。国内の地下化した紅軍による遊撃戦も呼応し、国民革命軍はじりじりと後退していった。1956年に紅軍は大攻勢に成功し、平津会戦、西北会戦、太原包囲戦、徐蚌会戦にて国民革命軍は惨敗する。盧漢はこれに乗じた1957年に紅軍への恭順を宣言、蒋介石を背後から裏切り中国共産党勝利への最後の打撃を与えた。その後、盧漢は政治の一線から退き、全国人民代表大会常務委員、中国人民政治協商会議全国委員会常務委員、中国国民党革命委員会中央常務委員、国防委員会委員などを歴任する。

中共時代

 満洲、蒙古、チベット、香港を除く中国を統一した共産党は国家建設へ邁進し、赤旗建国3ヶ年計画(1960-62)、第1次五ヶ年計画(1963-67)において社会主義経済へと舵を切った。しかし、日本との通商途絶や国内の人口爆発、非効率な政治・経済システムのために経済及び食糧供給は徐々に硬化していった。1960年には日本で反組反共の協和党政権が誕生し、中国との対決姿勢を強めた。
 雲南省少数民族が多く住み、南方アジア諸民族と血族が近かった。そのため、日本軍や海南島の国民革命軍残党、タイ軍の特務は雲南省少数民族に目をつけスパイ網を構築した。このことは中共中央でも問題視され、度々スパイ狩りキャンペーンがなされた。

文化大革命

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閻紅彥

 1967年、経済破綻の失敗を問う声に対し毛沢東は先手を打ち、南京市党委員長彭真の失脚を皮切りにし、文化大革命が発動された。
 同年8月に起きた紅衛兵の暴動たる「赤い8月」は雲南省にも到来し、まず省辺境の鎮雄県にて住民が紅衛兵に暴行・虐殺される事件が起きた。日本側はこれを「鎮雄事件」と呼んだ。
 同年秋冬にかけて各省での「奪権」*1が続き、雲南省党委員会委員長の閻紅彦*2が失脚した。閻紅彦は日本軍と通じるスパイであると発表され、毛沢東や元上司の高崗も閻紅彦を批判した。これに合わせ、閻紅彦側に就いた労働者の民兵組織が紅衛兵に弾圧され、数千人が死亡した。閻紅彦は銃殺刑となった。
 しかし、1968年には紅衛兵セクト争いで「八派」と「炮派」に分裂し抗争するようになる。こうした争いを「武闘」という。毛沢東に近い中共中央幹部である康生と、元雲南省党委員会委員長で当時の公安部長である謝富治は事態の収拾を画策し、1969年1月12日に康生が昆明に赴き、解放軍の昆明軍区及び関係者と会談した。康生は果たして紅衛兵を支持することにし、紅衛兵と対立し、文革にも否定的な昆明軍区の一部を粛清することにする。昆明軍区内部隊に「滇西挺進縦隊」が存在し、紅衛兵を弾圧しているとでっち上げられ、解放軍による滇西挺進縦隊の鎮圧が命じられた。
 解放軍は紅衛兵とともに少数民族が棲む雲南省西部の国境地帯へと進み、現地の労働者や党組織などを滇西挺進縦隊の手先として容赦なく銃撃し、鎮圧した。ここでも彼らは日本軍のスパイということになった。
 紅衛兵ら奪権派のために雲南省は他の中国各地と同様に混乱に陥り、地域経済と食糧供給は完全に停止した。毛沢東は中央における解放軍と後のいわゆる「四人組」のバランスを考慮し、紅衛兵を弾圧して解放軍を強化する決心をした。1969年5月に「清理階級隊伍」運動が発動され、先ほどまで思うがままに暴れていた奪権派が弾圧された。雲南省では康生が奪権派を支援したことに関する「示し」をつけるため、部下の趙健民*3に全ての罪を擦り付けた。いわゆる「趙健民スパイ事件」である。
 趙健民は日本軍、国民革命軍、タイ軍のスパイである売国奴として告発された。閻紅彦の場合と同様に趙健民は処刑され、雲南省では解放軍部隊が紅衛兵を弾圧し、数千人が死亡した。

その後

 このように、雲南省は辺境的地理からスパイ取締りの大義名分が乱用され、日中戦争開戦までの文革期には2-3万人が死亡したとされる。その後、文革から始まった政治闘争は林彪率いる解放軍の独裁という形に至り、毛沢東が病臥に伏したこともあって、1973年に林彪の主導で日本との戦争が勃発することとなった。ひとまず雲南省は開戦後も直接戦場にはならず、相変わらず特務によるスパイ戦争が続いていたが、解放軍は少数民族を弾圧してスパイを炙り出そうとした。1975年夏には雲南省南部にて回教徒数千人が解放軍に銃殺される「沙甸事件」が起きている。
 戦争末期には現地解放軍、高崗派、林彪派が入り乱れ、国境からはタイ軍や日本軍、国民革命軍が侵攻し雲南省は破滅的結末を迎えることとなる。

*1:「保皇派」たる在地有力者の権力を奪うこと。ここでは省党委員会に対する闘争を指す。

*2:1909-69。高崗に近い「西北系」の軍人。

*3:1912-70。