生存圏について

 生存圏とは、国家が自給自足するために必要な空間である。

ドナウ連邦と生存圏

戦間期

 ドナウ連邦はドイツの干渉を経て独立したという建国過程のため、建国時から生存圏についての活発な議論が交わされていた。ドナウ連邦の独立はドイツからの経済的独立をもってしかありえない、というものである。実際に、スタンボリースキ政権のブルガリアと経済的に連携することでドイツを牽制していた。
 1923年のドナウ=ドイツ通商条約に伴い、事実上ドナウがドイツの経済圏(中欧経済圏)に加入しその恩恵を受けると、一時的に生存圏に関する議論は熱を失っていった。
 一方、こうした現状に対する最も先鋭的な反対者の一つであるドナウ社会主義労農党においては、中欧経済圏を打倒すべき資本主義の象徴であるとみなし、資本主義の悪弊を取り除いた「ドナウ版中欧経済圏」を構築せねばならないと主張していた。党首アレクシス・ローゼッカはドイツの地政学者カール・ハウスホーファーの著作を熱心に読むだけでなく何度も会見しており、直接影響を受けている。
 また、ハウスホーファーはドイツの地政学者でありドイツの外交方針にも影響を与えていた。このことから、ドナウの生存圏構想はドイツの生存圏から影響を受けていたと言える。ハウスホーファーは以下のことを主張していた。

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カール・ハウスホーファー

・生存圏とそれに基づく国家拡大
 これはドナウ党政権における「ドナウ文明」と関係が深い。ドナウ連邦は「ドナウ文明の統一」という名目をもって、中欧南欧の小国に対する恫喝と侵略を正当化していた。そして、こうした国家拡大は経済的理由が関わっていた。
アウタルキー経済
 ドナウ党政権はドナウ連邦を資本主義による退廃から断ち切るとともに、資本主義の権家たるドイツの経済的影響から逃れるため自給自足経済を構築した。資源を自給するために中欧南欧の小国を侵略していった。
ランドパワーとシーパワーの闘争
 ハルフォード・マッキンダー卿によるこの理論は、同時にドイツ政府の基本的な外交指針でもあった。すなわち、人類の歴史は海洋国家と大陸国家の闘争の歴史だった、というものである。これはドイツがイギリスを戦略的なライバルと見なし、植民地を獲得し軍備を拡張させる理論的支柱ともなった。ドナウはこれを概ね受け継いでいおり、戦間期はシーパワー国家をイタリアに見立てていた。
・パンリージョン理論
 世界は4つの超大国に分割される、という理論。具体的にはユーラフリカ(Eurafrika:ヨーロッパ+アフリカ)を支配するドイツ、中央アジアを支配するロシア、東アジアを支配する日本、南北アメリカ大陸を支配するアメリカである。この理論は戦間期よりむしろ戦後の世界分割において大きな影響を与えたといえる。
ランドパワーによる世界支配
 ハウスホーファーは同じ大陸国家という観点からドイツはフランスとドナウと手を組むべきであると考えていた。実際にはフランスとドナウはドイツを攻撃したが、WW2より旧大陸ではランドパワー勢力が勝利することとなった。

 ドナウ党の政策として、ホライ・ルーリンツは1930年の『ドナウ文明』でドナウが独自の生存権「ドナウ文明」を持つことをテーマとしており、この構想はドナウ党政権で実践された。
 このドナウの生存権=ドナウ文明はドナウ人種(Donauide)の支配下にあらねばならないとしたが、このドナウ人民という概念はドイツ・フェルキシズムにおける人種の概念を輸入したものである。特定の人種が支配する勢力圏という点において、ドナウの生存権はドイツのそれに比べてより先鋭化されたものだった。
 ドナウ文明の擁護者たるドナウ連邦が経済的理由で周りの小国に干渉するとともに、ドナウ文明の示す範囲は拡大し、同時に誰がドナウ人種で誰がそうでないのかの判断が要されるようになった。基準はあいまいだったが、いずれにせよドナウ人種の仲間入りを認められなかった場合、文明の中の異質分子として強制移住の憂き目にあっている。
 ローゼッカは中欧・東欧拡大政策に関して、ドイツが干渉に及び腰であることを理由に「拡大は必ずしも大国との対立を意味せず、当面は平和共存であるべき」と述べつつ「イタリアが介入し、これに乗じてドイツが介入することはあり得るので、十分な軍備を持たねばならない」と1937年8月の非公式会議で述べている*1。ローゼッカは無理な軍拡を要求し、軍拡に伴う不足資源または外貨を獲得するために周辺国を恫喝し、これで国際的な顰蹙を買いさらなる軍拡をせざる得なくという悪循環に陥ることとなった。
 結局、1939年9月にドナウはユーゴスラビアに対する恫喝に失敗し、イタリアとの開戦を余儀なくされた。これもまたイタリアとドナウの生存圏衝突と見ることができる。
 

戦時中の生存圏構想

 戦争という極限状態に移行することにより、戦前から予期されていた様々な問題が目立つようになった。資源不足と食糧不足である。
 もともと中欧南欧は人口密度が高く、農業生産性が悪かった。また、中欧南欧で得ることのできる工業原材料は限られており、とりわけ原油は死活問題であった。このため、ローゼッカらドナウ指導部の注目はオスマン帝国に向けられた。地中海から大西洋国家イギリスを追い出し、ウィーンからイスタンブールバグダッドまでを支配しようとする試みは、まさにドナウ連邦がWW2でドイツ帝国の立場を簒奪したことを意味している。
 さらに、ドナウによるドイツ占領という出来事はドナウの生存圏構想に大きな変化をもたらした。あまりの易々とした勝利により対独国民感情が軟化していたことから、ドイツはドナウ文明=ドナウの生存圏における重要な一国とする構想も現れることとなる。
 

地中海計画

 1941年、対露参戦直前の3月にローゼッカ大統領は現状を鑑みた戦後構想の立案を大統領府に命じた。これにともない作成されたのが「地中海計画」である。地中海計画の政策を主導したのはドナウ最大のイデオローグでありローゼッカの友人ホライ・ルーリンツだった。そのため、この構想にはホライの思想が反映されている。
 特徴としては、その名の通りドナウ連邦の生存圏を地中海中心としたことである。これはホライが政権で群を抜いての親イタリア派であり、ムッソリーニによるドナウ傀儡国家「イタリア社会共和国」の設立を理論的に支持、指導していることからも自然なことであろう。
 まず、生存圏維持に不可欠な資源である石油の確保に重点が置かれ、生存圏東端を中東としている。ドナウ連邦はオスマン帝国の領土を完全に支配し、油田を確保しなければならない。重要資源を確保する最適な方法として、計画では植民を提示している。この植民による資源の確保という発想は、他の機関が立案した構想でも流用されている。
 さらに、ドナウ連邦はドナウ文明を完成させねばならないとし、旧ユーゴスラビア、旧ルーマニアからの非ドナウ人種追放とドナウ人種に対する完全なドナウ国民化を明記している。追放された非ドナウ人種は中東の地に対し広範に植民される。
 また、ドナウによる地中海生存圏の盟友としてイタリアやギリシャを挙げ、とりわけイタリアの重要性を指摘している。ランドパワー国家たるドナウ単独では生存圏の維持は不可能であるから、シーパワー国家たるイタリアをうまく味方につけて地中海の航路を確保せねばならない、というものである。一方、ドイツといった地中海から離れた大陸国家に対する役割は大きくなく、外交的な立場からして当時比較的ドナウに近かったフィンランドに関しては特に書かれてさえいなかった。くわえて、イタリア人も中東への植民に参加すること、としている。
 この雑多な民族が参加する中東植民において、ドナウ人種は重要拠点を少数、イタリア人は拠点周辺を中規模、被追放者は非重要地域を多数植民すべきであるとし、植民先とその民族性に関して細かく規定している。これはホライの特徴的な「中心と周縁」理論の影響で、手短に言えば信用できない民族は重要拠点から遠ざけよ、という現実的な理由だけでなく、ヨーロッパの中心たるドナウを中心としイスラムの蛮地中東を周縁としつつ、ヨーロッパの人民でありつつ野蛮なセルビア人やルーマニア人などを周縁に近いと見立てている理論的な理由もある。
 経済的には、ヨーロッパは保護貿易で守られ資本主義国に対する戦線を組まねばならないとした。この「ヨーロッパ」にはフランスも後に交戦するロシアも含まれており、ナポレオンの大陸封鎖令よろしくランドパワー諸国を全体主義の同盟として固めようとしたのである。
 こうした「地中海計画」は1941年4月に概要がローゼッカ大統領に提出され、1943年に最終版が完成された。一定の評価を得たが、大統領府と対立する連邦保安省や、セルビア人を完全追放することで、セルビア総督府の奴隷的労働による利権を失うことを恐れた国民衛兵隊やサーラシ・フェレンツの反対もあり結局採用はされることはなかった。しかしながら、「地中海計画」はドナウによる生存圏構想に多大な影響を与えたことは間違いない。

ルダシュ報告書

 連邦保安省の指導者アルトゥール・ザイス=インクヴァルトは国民創成局のルダシュ・ラースローに独自の戦後構想計画の立案を命じ、1945年9月に完成したのが「ルダシュ報告書」である。。
 まず、ルダシュはハンガリー人の元共産党員ながら、元警察関係者が多い連邦保安省似て頭角を現し、民族政策を司る国民創成局における理論家として知られるようになった人物である。国民創成局ではセルビア人やルーマニア人から子供を奪い取り、ドナウ国民として教育する「マグス作戦」を立案していた。いずれにせよ、連邦保安省の最も不可欠なイデオローグの一人だったのである。
 まず、「地中海計画」との最大の相違点として、「ルダシュ報告書」では生存圏の軸足を地中海でなく中欧としている点である。すなわち、前提としてドナウの生存権はドイツのそれを引き継いだものでなければならない、という立場だった。こうした姿勢は、そもそも連邦保安省がドナウ影響下のドイツにおいて全体主義政党「汎ドイツ同盟」と指導者ヘルマン・フォン・ゲーリングを支援していたことが原因として挙げられるだろう。
 また、「ルダシュ報告書」はポーランドへドイツ東部を割譲することに対し鋭く批判し、ドイツはドナウに併合されなければならない、としている。ドイツはドナウと同じような全体主義革命を遂行することが可能で、ドイツにドナウ文明に迎えられねばならない、というものである。もともと、オーストリアには1848年のドイツ統一問題において「中欧帝国」を掲げた歴史があり、報告書におけるドイツ政策の路線はこれを引き継いだものであると言える。
 さらに、バルカンに関してはホライ・ルーリンツが主張するようなドナウ文明化=現地住民の追放ではなく、現地住民を温存し奴隷的労働力の供給減とすべき旨が提起された。資源の確保に関しては、信頼のおける「半傀儡国家」を建てて確保を代行させるべきとした。この「半傀儡国家」とは、主権上独立しつつ経済上ドナウ連邦に支配されている国家、と定義されている。
 この報告書が作成されたのが戦争後半であるということもあるが、「ルダシュ報告書」ではヨーロッパという地理概念を完全に捨てずとも、資源確保の競争から戦後枢軸国同士が対立する可能性が指摘されており、これに関しては実際に戦後現実となっている。
 こうした考えから、北欧・バルト三国からドイツ、ドナウ、イタリアを「中欧」と再定義し、「西欧」のフランス、「東欧」のウクライナ(後のソ連)から生存圏を守らねばならない可能性についても指摘しており、これについても現実となっている。

外務省による構想

 ヘルマン・ノイバッハー大臣率いる外務省は汎ヨーロッパ主義的な構想を提起した。戦後枢軸国は全体主義の連帯として大陸ヨーロッパを支配しつつ、主権国家の上にドナウ、フランス、ウクライナによる超国家機関を設置しヨーロッパを統合する、というものである。バルトゥール・フォン・シーラッハはこれに感銘を受け、各国の青年団をウィーンに集め「ヨーロッパ青年団連盟」の設立を呼び掛けた。とはいえ、結局外務省案は実現することがなかった。

ローゼッカによる談話

 ローゼッカ大統領はどの案を採用するか明言しなかったが、いずれの案にも目を通し影響を受けた。これを踏まえ、戦時中に何度か戦後構想について断片的な談話を党機関紙『労農兵』に発表している。

欧州枢軸国による合意

 戦争末期、旧大陸からの同盟国放逐が確実となると、ヨーロッパの枢軸国首脳は戦後構想について意見を交わし、1946年7月にドイツのワイマールで「ワイマール宣言」を発表した。しかし、この時点ですでに水面下ではフランス、ドナウ、ウクライナの対立を隠せず、通貨問題などは後回しにされた結果、具体的な内容に乏しいあいまいなものとなった。
 要旨は次の通り。
全体主義で結ばれた新ヨーロッパの建設
全体主義革命*2
・主権の擁護
・ヨーロッパからの資本主義の放逐
保護貿易

戦勝と食糧危機

 1946年8月、アイスランドで結ばれたレイキャビク休戦協定によりWW2は終結し、新大陸を同盟国に、旧大陸を枢軸国に分ける形で世界は分割された。新旧大陸どちらも戦災で大きなダメージを負い、資源と食糧が不足していた。とりわけ、1946-1947年のヨーロッパは気候が異常に寒冷で、作物は不作となり悲惨な飢饉が起こった。ヨーロッパにとって食糧が戦時中にも増して必要となったのである。
 この食糧危機はドナウとフランスの生存圏認識を大きく変化させた。両国は食料資源確保の目をアフリカに向け、ヨーロッパにまたがる生存圏はアフリカにまで伸びることとなったのである。そして、この食糧危機はドナウとフランスのアフリカ分割競争を激烈にし、ドナウとフランスの決定的対立=ヨーロッパの分断を導いたのである。
 ドナウ連邦は1946年11月に「東アフリカ計画」を公式に採択した。東アフリカ計画ではアフリカへのヨーロッパ人植民とアフリカ植民地に対する過大な食糧生産ノルマが示されている。それまでアフリカの植民地はココアやカカオ、茶葉、バナナといった換金作物を栽培してきたが、ここにきて初めて小麦やトウモロコシ、ジャガイモなどの安価な食糧生産を命じられた。当然、植民地にこれを供給する能力はなく、植民地も飢餓に見舞われることとなる。
 「東アフリカ計画」はノイプロイセンをはじめとする大胆な植民計画に正当性を与えた。連邦保安省と汎ドイツ同盟は共謀し、植民地における飢餓と動乱、ドナウ本国におけるローゼッカ死去に伴う混乱に漬け込み独自に植民計画と現地人根絶の計画を実行したのである。ノイプロイセンの建国はヨーロッパに対する食糧供給のためであるとして、正当化された。
 戦時中に挙がっていた生存圏計画は仏ド対立や食糧危機などの事件をもって現実的修正を加えられ、1948年に「ユーラフリカ計画」が正式に路線採択された。ユーラフリカ計画はフランス、ウクライナとの対立による新たな中央ヨーロッパの枠組み成立を認め、ドナウ主導で中欧における通貨整備、経済支援、関税同盟、資源分配などが明記された。かくして、冷戦は始まりが告げられた。
 「ユーラフリカ計画」後、ドイツ西部がフランスに併合されたことにより、北ドイツはドナウに併合されず「ドイツ民族国」としてドナウの下で独立を維持することになった。そのドイツとイタリア、ポーランドは生存圏の中核国家として優遇され、ポーランドに関しては連邦保安省の要望に反しドイツ東部を併合することに成功する。これで発生したドイツ人難民が、東アフリカのノイプロイセンに植民することとなる。
 バルカン半島においてはクロアチアルーマニアが微妙な立場で保護国の地位に甘んじ、セルビアにおいても原住民は完全追放されず奴隷的労働力の供給地となった。中東においても連邦保安省の案に近く、オスマン帝国ギリシャブルガリア、反乱を起こしたアラブ人国家に分割されつつ、トルコ人国家は連邦保安省の支援で独立を保った。地中海沿岸の一部は「保留地域」としてドナウの占領下に入ったが、油田地帯に植民するというホライ・ルーリンツのアイデアは実現しなかった。
 ホライ・ルーリンツは、1948年10月27日にアレクシス・ローゼッカが死去したこともあり、自身の権威は低下し戦後政策に上手くかかわることができなかったのである。
 連邦保安省によるノイプロイセンの建国と利権の獲得という悪しき前例が誕生したことにより、ドナウ連邦軍もこれを模倣しマダガスカル島での原住民絶滅とヨーロッパ人の植民を行い、重要な食糧供給地とした。さらに連邦政府の管理下であったリビアでも、連邦保安省は影響力を増し行政を乗っ取るようになっていく。
 結論として、実際に成立したドナウ連邦の生存圏は、中欧という地理概念を再構築して「半傀儡国家」多数を抱えつつ、さらにアフリカに生存圏を広げ結果として原住民に対する絶滅作戦と植民を実施し、アフリカを価値ある資源供給拠点へと変えていったのである。そして、こうして完成したドナウの「中欧生存圏」は必然的に冷戦始まりを意味していたのである。

ノイプロイセンと生存圏

*1:同月末ルーマニアの北トランシルヴァニアがドナウに割譲され、ドイツからは中欧経済圏を事実上追放された。このことはますますローゼッカを対独軍拡路線に駆り立て、同年末にはフランスと反帝協定を結んでいる

*2:内容ははっきりさせず、後の全体主義諸国間対立の遠因となった。また、ブルガリアといった君主制の枢軸国から反発を呼んだ。