宥和外交について

 宥和外交とは、一般に戦間期におけるイギリスによる対仏外交方針を指す。言い換えるならば「戦略的譲歩」である。ここでは戦間期に行われた対仏宥和外交について述べる。

 この宥和外交の基礎は、1920年代のおける平和主義外交によって成り立っていた。
 WW1でドイツ帝国はフランスとロシアを負かし、広大な植民地を得てイギリスと休戦した。しかし、軍事力による巨大な勢力圏の維持には限界があり、オーストリア革命(1918年)、スパルタクスの乱(1919年)、ロシア遠征(1919-21年)といった度重なる戦争により国民は疲れ果て、厭戦気分が生まれた。1922年、フォン・ティルピッツ首相はそれまでの路線を改め、経済と外交により勢力圏を維持することとした。この際成立した巨大な関税同盟を「中欧経済圏」という。
 さらに、ドイツ帝国は対独復讐に燃えるフランスを封じるためとして、1928年に「ベルリン不戦条約」を締結した。この条約にはイギリスだけでなくモンロー主義の原則を破りアメリカも参加したことから、実際には各列強(英米独)の勢力を均衡安定させ、偶発的衝突を避ける意図があった。
 さて、フランスはWW1の敗北を清算する対独復讐に世論が燃えていたが、これを押さえていたフランス社会党(SFIO)政権がドゴールの「1932年7月20日革命」で崩壊すると、こうした過激なショーヴィニズムの歯止めが効かなくなっていった。ドゴール政権側も対独復讐世論を政権維持に利用した結果、1938年には大規模な反独暴動である「11月10日事件」が発生したように、完全にコントロールを失っていた。
 また、フランスは徹底的なアウタルキー(自給自足)経済政策のため、極度の外貨不足に陥っていた。対独復讐と外貨不足という二つの問題を同時に解決する手段として、フランス・コミューン首脳部は「対ドイツ戦争」を選択したのである。
 

列強各国の外交方針

イギリス

 世界恐慌以後、欧米各地で経済の荒廃と社会主義ファシズムなどの興隆が見られた。1936年8月にはスペイン王国ファシストサンディカリズムによる内戦が、1937年4月にはアメリカでサンディカリストの反乱に対してダグラス・マッカーサー憲法停止を発表し、南部諸州が独立、アメリカ内戦が始まった。
 大雑把に言えば資本主義vs社会主義、「帝国主義」vs全体主義イデオロギー的闘争が各地で見られた。フランスやドナウ連邦などは社会主義であり全体主義側に立っていたが、外交的見地からすると決して一枚岩ではなかったのは指摘せねばならない。ドナウ連邦は当初スペイン内戦においてファシストが政権参加した国王政府を、アメリカにおいては反組主義に基づき独立宣言した南部諸州(ASU)を支援している。これらはいずれもフランスが支援するサンディカリスト勢力と敵対するものだった。
 イギリスによる対仏宥和政策は、このド仏対立を利用したものだった。
 イギリスの最終目標としては、フランスをイギリス以外の国と戦わせることである。具体的にはドイツ帝国やドナウ連邦であり、全体主義勢力の脅威をヨーロッパ大陸内に封じ込める意図があった。そして、これら各国のヘゲモニーが交差する場所がスイスだったのである。
 

ドイツ

 一方ドイツは正反対で、フランスの矛先をドイツでなくイギリスに向けるか、あるいはもし戦争となればなるべくイギリス、ロシアなどの列強を巻き込んで防戦することを望んでいた。ドイツ政府は、ドイツ一国ではフランスの侵入を防ぎきれたとしても、莫大な経済被害から列強の盟主をドナウやロシア、イギリスなどに奪われることを予想していたからである。

ロシア

 WW1のブレスト・リトフスク条約で広大な領土を失ったロシアは、これらの回収を望んでいた。願わくばフランスがドイツ帝国に侵攻し滅亡させることを願っていたのである。ロシアはフランスとの対決を避けるために、中欧にあるドナウ連邦と友好関係を結んで対仏防御壁としていた。
 しかし、1937年にウクライナが赤化すると、全体主義諸国との戦争は避けられないものになっていく。

宥和外交の進展

1935-37年

 フランスの対独復讐が具体的行動に現れたのは、1935年3月の「フランス再軍備宣言」だった。これはドイツとの休戦協定「シャルロッテンブルク平和条約」に違反しており、ドイツは猛反発した。ドイツは北イタリアの保養地ストレーザにてイギリスのマクドナルド首相とイタリアのバドリオ首相を集め、同年4月「ストレーザ戦線」を組んでフランスへの抗議と警告を示した。このストレーザ戦線は、ドイツ勢力圏外の国であるイギリスとイタリアを巻き込んだ、という点で先に述べたドイツの外交方針を読み取ることができる。
 しかし、ストレーザ戦線は早くも崩壊した。1935年5月にイギリスは早くも「英仏海軍協定」を締結してフランスの再軍備を認め、さらに海軍拡張の余地を与えることでドイツに対抗させようとしたのである。さらに、10月に始まったイタリアによるエチオピア侵攻は、とりわけドイツの反発を呼ぶこととなり、こうしてストレーザ戦線は簡単に破綻した。
 ストレーザ戦線はイギリスとドイツの外交方針が初めて直接交わった事件であるといえる。
 1936年7月にはスペイン内戦が勃発し、このころからアメリカ情勢も不安定化し翌1937年4月にはアメリカ内戦が勃発した。これにより、国際的な緊張は一気に高まっていった。
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 ドイツ帝国スペイン王国政府の政策顧問を少なからず送り込み、影響力を持った。このときスペイン領モロッコをイギリスに売却させようと諭している。これはスペイン領モロッコがフランスと接しているため、ドイツがイギリスとフランスの衝突を誘おうと試みたものだった。しかし、結局イギリスにその意図を見抜かれ売却交渉は失敗した。
 ドナウ連邦はサンディカリストと敵対するファシストカトリック勢力に支援をし、フランスとイデオロギー的対立を見せていた。フランスを恐れるイギリスとドイツからすれば、大変好都合である。
 1937年、ドナウ連邦はいわゆる「ルーマニア問題」を解決するべく、8月30日に「デブレツェン条約」で半ば脅しながらルーマニア領の北トランシルヴァニアを無理矢理割譲させた。ドナウ連邦はドイツ帝国が対フランス戦略からドナウの拡張を黙認せざる得ないことを理解しており、実際にドイツ政府はルーマニアを見捨てた。しかし、このことに対し中欧経済圏各国とドイツ国内世論は猛反発し、一転してドイツはドナウに対する関税値上げの報復を行うこととなった。
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 ドイツの関税操作で経済危機に立たされたドナウ連邦は、中欧経済圏内の反ドイツ的な国々と新規関税協定を結んで中欧経済圏の切り崩しを図りつつ、ドナウ社会主義労農党外交問題指導者ヘルマン・ノイバッハーの主導でフランスとの「和解」が行われた。
 フランスもこれに応じ、熱烈なドゴール崇拝者でもある外務人民委員ピエール・ラヴァルは与党人民戦線におけるジャコバン派の助言に従い、仏ドの新条約に「反帝協定」と名付けた。名目上、植民地化を試みる帝国に対する友好的連帯の条約だったが、この「帝国」がドイツを意味していることは明らかだった。1937年11月25日に協定は調印され、これによりドナウ連邦ははっきりとフランスの対独復讐の隊列に加わることとなった。
 1937年6月に人民戦線政権が成立したウクライナも、翌年1月に反帝協定に参加した。これにより、欧州情勢は一気に変化することとなった。
 ドナウはもともと縮小傾向だったスペインやアメリカのファシストへの支援を打ち切り、イデオロギー対立を棚上げすることに成功した。こうして、フランスとドナウの関係は蜜月に入った。

1938年 宥和外交のクライマックス

 ドイツを敵に回したドナウ連邦は、反帝協定加盟以降積極的な中欧経済圏切り崩しに取り掛かることができた。反帝協定調印に先立つ1937年3月ごろに作成された、アレクシス・ローゼッカ大統領、ホライ・ルーリンツイデオロギー指導者、エドゥアルト・ベネシュ外務大臣、アルフレート・ヤンサ陸軍総司令官、フランチシェク・バルトシュ参謀総長、ハインリッヒ・グライスナー経済計画局長による「ゲデレー合意」では、ドナウ連邦はドイツ帝国の欧州大陸における権益を奪い取り、中南欧の小国を征服して外貨を略奪するほかない旨が確認された。北トランシルヴァニア割譲もその一環だったのである。
 フランスはウクライナとドナウ連邦という強力な同盟国を得たことで、ますます攻勢を強めていった。もともとフランス系住民が多いスイス西部のロマンディや、ドイツ帝国のエルザス・ロートリンゲンルクセンブルク、ベルギーのワロニエンにおける反独運動を支援し、ドイツに圧力をかけた。特にスイスに対しては軍事行動も辞さぬ強硬姿勢をフランスは示し、一触即発の緊張が続いた(5月危機)。
 また、WW1で旧オーストリア領のフォアアールベルクはスイスに併合されていたドナウ連邦は、これに乗じてスイスにフォアアールベルク割譲を要求した。
 この事態を収拾すべく動いたのはイギリスのチェンバレン首相だった。イギリスはここでフランスの肩を持つことで恩を売り、さらにフランスの矛先をドイツに向けたままにさせておくことで英仏戦争を回避させる一方、スイス西部のロマンディを要求通り分離させることでイギリスの軍備増強の時間を稼ごうとした。
 1938年9月29日、フランスのリヨンでいわゆる「リヨン会談」が開かれ、この結果スイスのロマンディ地方がフランスに割譲され、フォアアールベルクはドナウに割譲された。一国スイスを除けば、どの国も満足する結果となった。ドイツからすれば、確かにロマンディ割譲は屈辱だったが、ドイツ本土のルクセンブルクやエルザス・ロートリンゲンが奪われるよりははるかに良かった。

1939年 宥和外交の破綻

 リヨン協定から間もない1939年3月、フランス人民軍はスイス本土に進駐し外貨を略奪した。これにより宥和外交による平和共存体制は半年も持たずに破綻してしまった。これによりフランスは破綻寸前の財政を食いつなぐことができたが、翌1940年にはほとんど底がつき「ヴァルミー作戦」を発動し対独復讐戦争に踏み切らざるを得なくなった。
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 フランス軍がドイツ本土に侵攻し帝国軍を打ち負かすと、ドナウ連邦とポーランドはこれに乗じてドイツ領の領の一部を占領した。イギリスではネヴィル・チェンバレン内閣が倒れ強硬派のウィンストン・チャーチル内閣が発足、これにてようやくイギリスはドイツと手を結び共同戦線を張った。
 また、ドナウ連邦は1939年9月にユーゴスラビアに対しヴォイヴォディナの割譲を要求し、拒否された。これによりドナウはユーゴスラビアに対する侵攻作戦「ゼラニウム作戦」を発動し、1ヶ月足らずで降伏に追い込んだ。これに対しユーゴスラビアを支援していたイタリアは激怒し、ドナウ・イタリア間の戦争に発展することとなる。これがWW2の始まりだった。さらに、翌1940年にはトランシルヴァニア全土を割譲させ、ルーマニアを事実上の保護国化する「ブダペスト条約」が締結された。
 ウクライナは1941年に偶発的理由から対露戦争に突入した。
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 こうして、反帝協定加盟国による枢軸国vs独英露伊による同盟国という構図が固まり、WW2となった。

年表

・1935年
3月 フランス再軍備宣言
4月 ストレーザ戦線
6月 英仏海軍協定
10月 エチオピア戦争開始

・1936年
8月 パリオリンピック

・1937年
8月30日 北トランシルヴァニア割譲
11月25日 ドナウとフランスが反帝協定締結

・1938年
1月 ウクライナが反帝協定加盟
9月29日 リヨン協定締結

・1939年
3月 フランス軍がスイス本土に進駐
5月 南トランシルヴァニア

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トランシルヴァニアの割譲