バルドゥール・フォン・シーラッハ

バルドゥール・ベネディクト・フォン・シーラッハ(Baldur Benedikt von Schirach, 1907-1974)はドナウの政治家。

 由緒ある貴族の家に生まれ、母語は英語だった。ベルリンで生まれたシーラッハは田園教育を受け、17歳のころ(1924年)には汎ドイツ同盟の青年団に所属していた。1925年に汎ドイツ同盟の招きでローゼッカが訪独、会場の警備をしていたシーラッハはローゼッカの演説に心酔する。ローゼッカに誘われたシーラッハは1927年にウィーンへ移住、1928年には21歳にして党学生指導者に選出された。
 当時ローゼッカ青年団は存在せず、ドナウ党左派においても各地で青年団が乱立していた。1928年よりホライ・ルーリンツの指導で統一され、1931年にローゼッカ青年団が誕生した。しかしこれは合同共産党の青年組織をあえて除いた形となり合同共産党からは反発が起きた。
 ローゼッカの指示でホライが青年事業から外され、1932年よりシーラッハはローゼッカ青年団の実権を握った。ローゼッカ青年団は当時流行していた田園教育をさらに発展させ、青年たちに階級の差別なく同一の教育――自己統率や滅私奉公、ローゼッカへの個人崇拝などを与えた。このほかにも、ブルジョワ政党や共産党系の青年組織を破壊・吸収していき、ローゼッカ青年団はドナウ連邦唯一の青年組織となった。
 1940年には連邦軍の一兵士として対独戦線に参加した。軍役から帰ってくると、若い指導者を好むローゼッカ青年団の理念に基づき指導者を退任した*1。とはいえ、退任後も一定の権威を青年団内部で保持した。その後シーラッハはウィーン市がある下オーストリア州知事兼ウィーン特別市市長となった。1942年には枢軸各国の青年団体を集めた「ヨーロッパ青少年会議」を開催し、フランス(ガリア青年軍団)、スペイン、ポルトガルポルトガル青年団)、占領下のドイツ、ポーランドデンマークブルガリアウクライナクロアチアイタリア社会共和国ギリシャアルバニアノルウェーフィンランド、オランダ、ルーマニア、スイスの代表団が参加した。そこでは「ヨーロッパ青年団連盟」の設立を決議した。
 戦後は「青年外交」における青年使節の団長を務めたり入植地における青年団の支援などをし、1960年代の混乱においても権力を維持し続けた。1966年には冷戦中のカナダに訪問し、シーラッハの家族と一時再会し涙を流した。1974年に死去。国葬が行われた。