大塚有章

大塚有章(1897-1976)は日本及び満洲帝国の政治家。「大塚反党集団事件」で知られる。満洲協和党第2、3期中央輔導委員(1955-1960、除名)、弘報部大臣(1955-1959)。

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満洲映画協会撮影所

 1920年早稲田大学を卒業。満鉄に入社するもすぐに退職、難波大輔の親戚である国光英子と結婚する。無産運動に参加するもすぐに離れた。1926年から河上肇に私淑し、1932年に日本共産党に入党する。同年10月より「赤色ギャング事件」を指導し、資金調達のための組織的な銀行強盗に参加した。1933年に逮捕され、1942年に満期釈放される。その際、甘粕正彦の手引きで満洲映画協会に就職した。
 満映では政府によるプロパガンダの要請に積極的に応え、党国体制成立下の1955年10月に満洲協和党第2期党大会にて第2期中央輔導委員に選出され、プロパガンダを担当する国務院弘報部大臣に任命された。1959年10月の第3期中央輔導委員にも留任している。しかし1960年11月に突如全職務を解任され大塚反党集団事件の存在が暴露された。大塚は逮捕され、その後は国務院治安部国家保衛総局の管理下で新京郊外に監禁されていたという。1976年に死去した。
 この大塚反党集団事件は未だ謎が多い。党の公式見解では、大塚は中国共産党への憧れと忠誠を隠し続け、1957年の中国赤化革命と1960年の日本の宮城進軍事件による日中対立の顕在化をきっかけに、満洲帝国にて親中サンディカリスト政権の樹立を目的とするクーデターを計画していたとされる。しかし、クーデター計画は事前に密告され、大塚は山海関経由で中国へ逃亡しようとしたが、島田三郎指揮下の国家保衛総局に阻止された――という筋書きである。事実上の党指導者だった池田純久中央輔導委員による甘粕正彦系人士粛清の謀略という説もあったが、ドナウ連邦軍の情報機関は実際に大塚がサンディカリストであったという説に同意している。多くの資料が封印され真相ははっきりしないが、事件の背景には満洲協和党中央における「向日」、「向中」の外交路線対立があったようである。すなわち、党内闘争において一定程度の幹部が中国共産党政権に理解を示していたが、向日派が最終的に勝利し、その結果として大塚一人に向中派の責任が被せられ最終的に失脚したということである。
 なお、中国共産党はこの事件にいち早く反応して満洲協和党を批難した。日中戦争(第二次大東亜戦争または中国解放戦争)の新京の戦いにおいては、人民解放軍機甲師団が大塚有章のいる監禁施設の目前まで迫り、奪還を試みたとされる。国家保衛総局部隊と現場にいた自衛隊*1が間一髪のところで大塚をトラックに乗せ、安全な場所まで運搬したという。大塚は現在に至るまで名誉回復がなされず、出版や映像などで肖像を映すことは禁止されている。そのため、大塚有章の肖像写真は大変貴重で骨董市では高値で取引される。

*1:民兵