アメリカ内戦

アメリカ内戦とは、1937年から1946年にかけて北アメリカで行われた一連の争乱である。これにより各陣営合計約3000万人が死亡した。

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左:AUS軍装甲部隊 右:捕虜となったCSA軍兵士
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左:ニューオーリンズ駅のプロパガンダ壁画 右:サンディカリスト民兵

前史

世界恐慌

 1776年に生まれたアメリカ合衆国は19世紀後半に急激な産業化をなしとげ、当時経済力に至っては大英帝国を越えるほどとなっていた。WW1では孤立主義を貫いて参戦を拒否し、荒れ果てたヨーロッパに援助物資と輸出品を届けて復興のきっかけを作り、1920年代には大量生産・大量消費の経済様式が完成し「狂騒の20年代」と呼ばれる空前の好景気を迎えることとなった。しかし、繁栄は長く続かず、過剰投機と折からの農作物の価格低迷、英独の経済的復興と盛り返しが重なり、1929年秋には世界恐慌が勃発した。

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放浪する失業者

 むろんのこと、1920年代に台頭していた新興中間層は恐慌でほとんど没落した。失業率は1932年時点で23%、内戦直前の1936年で39%にのぼった。失業者は野良犬のような惨めなぼろきれを着て、教会の施しを得つつ道端で寝転がるか、あるいはどこかの日雇い派遣に従事していた。失業者は仕事のためにアメリカ中を移動したが、その移動手段が貨物列車への無賃乗車だった。貨物列車への無賃乗車とは、世界恐慌時代のアメリカの象徴ともいえる共通体験である。
 カリフォルニア州にて貯水池建設をしている日雇い労働者の出身は様々だった。農夫、牧師、技術者、校長、銀行頭取――等しく皆が惨めで貧しかった。冬になると餓死者もちらほら出た。孤児も大量発生した。1931年の上院において、参考人R.S.ミッチェル氏はミズーリ州だけで貨物列車に無賃乗車した失業者を「38万7313人」と証言した。このうち孤児も少なからず含まれていた。

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スコッツボロの少年たち

 孤児は不良少年団として盗みをするほか生き延びるすべはなかった。女の孤児である場合、男装してこれに加わったり、妊娠の危険を冒してたった10セント*1のために売春していた。そこで問題となるのは、買い手が白人であるとは限らない、ということである。「スコッツボロの少年事件」は9人の黒人少年が無賃乗車中に白人少女を強姦したとして死刑を宣告された。この事件は結局内戦の混乱でこの少年たちが何者かに惨殺されたことで一応「解決」したが、この問題は全米で議論を巻き起こし、とりわけ全国黒人向上協会とアメリ共産党は人種差別批判の論陣を張った。アメリ共産党を指導しているフランスのパリ・インターもこれを支持した。
 厳しい時代にとりわけ辛苦をなめるのは黒人であり、既存の社会に対する恨みも人一倍あった。アメリカ内戦では人種差別打破のために戦った名もなき黒人が大勢いたが、彼らを待っていたのは勝者による粛清であり、より徹底した人種分離政策による強制移住と国外追放であることは当時まだ誰も予期していなかった。
 貧しくなると、何よりもまず人々は医者にかからなくなった。病気とはすなわち死に直結するようになり、統計上の死亡率は悪化した。ある程度余裕があったとしても少なくとも歯医者には行かなくなったので、当時の人々は総じて歯並びが悪く、汚かった。内戦勃発直前、全国徴兵検察官ジョン・B・ケリー*2は徴兵検査の結果40%が不合格だった、と後世の回顧録で証言している。歯が悪かったためである。このほかにも、栄養失調による発育不良や視力不良、基礎疾患、奇形、麻薬中毒などがあり、少年時代の売春の際に得たであろう鞭打ちの跡も少なくなかった。
 こうした「失われた世代」の怨嗟をよそに、ヘンリー・フォードは「放浪もまた良き経験である。学校教育よりもはるかに多くを学べるのだから」と語ったが、これが当時の権力者や資本家の一般的な認識だった。

ダストボウル

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 アメリカ農民は1920年代の恩恵をほとんど受けていなかった。WW1終結と同時に農作物価格は暴落し、恐慌以前でもジリ貧の生活だった。こうした農民を一気に破産に追いやったのは世界恐慌もさることながら、ダストボウルを抜きに語ることもできない。
 ダストボウルとは、1931年から1940年代後半にかけて中西部で発生した巨大な砂嵐ことを指す。20年代に普及したトラクターで耕された土壌は異常気象もあって乾燥化し、砂嵐となってアメリカ中を飛び回った。ダストボウルが通過した農地は表土が一切はがされて、耕作をあきらめざる得なかった。そして農地が抵当流れし、農民は先祖代々住んだ土地を棄てて西海岸へ長い流浪の旅に出かけて行った。
 特にオクラホマ州では被害が甚大で、人口の15%が州外に流出した。流浪のオクラホマ人は「オーキー」と呼ばれ蔑まれた。オクラホマ州知事であるウィリアム・アルファルファ・マレーの健闘は疑いなきものだったが、他の州同様に州予算内で知事にできることはあまりにも限られていた。内戦においてオクラホマ州では農民反乱が勃発し、州全体を反乱軍が一時支配することとなる。
 このような農民の悲惨な境遇を描いた一人が、文豪ジョン・スタインベックだった。内戦中の1939年に地下出版された『怒りの葡萄』は賛否両論を巻き起こしたが、サンディカリストファシストもこれを肯定的に評価した。『怒りの葡萄』はプロパガンダでも空想でもなく、当時のアメリカ人が身をもって味わった苦労を描いたリアリズム作品と受け止められたからだった。

ボーナスアーミー事件

 1924年、カルヴィン・クーリッジ大統領時代に退役軍人に対する恩給(ボーナス)基金創設を定める法が成立した。これは1日1ドルとして1945年に支払うというものである。当時、アメリカは「バナナ戦争」と呼ばれる中米への軍事介入を行っており、多数のアメリカ人が出兵していた。
 世界恐慌アメリカ人がどん底に突き落とされていた1932年、困窮した退役軍人らはボーナスの先払いを要求してワシントンDCに集結し、ハーバート・フーヴァー大統領との面会を要求した。しかし、フーヴァーはホワイトハウスに籠城することで応えた。何よりも人々の目を引いたのが、退役軍人らのみすぼらしい姿だった。痩せた体を包むボロボロの軍服は風でフワフワとあおがれて、今にも破れてしまいそうだった。退役軍人らはホワイトハウス近くにスラム街を建設したが、これは「フーヴァービル」と呼ばれた。
 ボーナスを要求する退役軍人――すなわちボーナスアーミーは事前に過激派を追放し、さらに非武装だった。大手新聞社と閣僚らはあたかもボーナスアーミーがサンディカリストの過激分子であるかのように述べていたが、実際の目撃者は正反対の印象を持った。むしろ危険で野蛮だったのは、ボーナスアーミーを包囲する警官隊だった。また、サンディカリストのジャック・リードがボーナスアーミーを訪れたことは確かだが、アメリカ社会党アメリ共産党も表立った具体的支援をしたわけではない。むしろ、スメドレー・バトラー少将のように軍内にもボーナスアーミー支持者は少なくなかった。
 7月28日、うだるような熱波が広がっていたワシントンDCにおいて、ボーナスアーミーと警官隊の衝突が起きた。治安維持不可能という報告を受けたフーヴァー大統領は、陸軍に鎮圧を命じた。この命令を受けたのが当時アメリカ軍唯一大将だったダグラス・マッカーサー参謀総長である。マッカーサーは「革命につながりそうな雰囲気が漂っている」と言い残し、周囲の反対を押し切って大将自ら街頭に繰り出した。陸軍省唯一の公用リムジンから降りたマッカーサーは、副官と新聞記者に囲まれつつ堂々たる様子で何かを待っていたが、当時の記者は皆が暑さで汗だくになっていながら、ただマッカーサーのみ涼しい顔をして直立不動だったと記録している。
 そうこうしているうちに、陸軍の機関銃部隊と騎兵部隊、そして戦車部隊がやって来た。これを見届けたマッカーサーはリムジンに乗り、鎮圧軍の隊伍に加わった。これと同時にホワイトハウスは「軍隊がまぎれもないサンディカリストによる暴動を終わらせる」と発表した。このときワシントンでは官公庁の終業時刻と重なっていたため街頭には多数の官吏が帰宅途中だったが、これに構わず部隊は無警告で鎮圧作戦を開始した。ジョージ・パットン少佐指揮下の抜刀した騎兵部隊が無差別に人々を蹴散らし、機関銃部隊は催涙弾3000発を発射した。人々は一方的に負傷し、死亡者も出た。
 フーヴァー大統領は民間人に攻撃しないこと、ボーナスアーミー宿営地である公園には侵入しないことを厳命していたが、マッカーサーは容赦なく命令に背きこれを実行した。ボーナスアーミーにとって公園にあるフーヴァービルは唯一の住居だったのであるが、鎮圧軍は催涙弾を直撃させ放火した。二人の副官――同情派のドワイト・アイゼンハワー少佐と強硬派のジョージ・モーズレー少佐――は等しく言葉を失った。
 公園では至る所から煙が立ち、これを野次馬根性で裕福な市民がヨットから見物していた。
 この事件で2名の退役軍人が死亡し、その他約200人以上が負傷した。この「ボーナスアーミー事件」は大惨事と見なされたが、後に起こる激動の内戦とその犠牲を考えれば微々たるものだったっといえよう。
 ところで、ボーナスアーミー事件には後のアメリカ政治と内戦で活躍する役者の多くが揃っていた。1937年1月の大統領選挙直前に、サンディカリスト政党とファシスト政党を禁止し選挙から追放したのはハーバート・フーヴァー大統領であり、フーヴァーから治安上の一時的な全権委任を受けたのはダグラス・マッカーサー参謀総長である。アメリカ社会党指導者ジャック・リードは、内戦時のサンディカリスト陣営「アメリカ・サンディカリスト国(CSA)」の国家元首であり、ボーナスアーミーを支持したスメドレー・バトラー少将はCSA軍に就いた。ドワイト・アイゼンハワーマッカーサー死後に「アメリカ太平洋州国(PSA)」の参謀総長となるが、ボーナスアーミーに対しハワイ諸島無人島への強制移住と強制労働を提案したジョージ・モーズレーと騎兵少佐ジョージ・パットンは「アメリカ連合国(AUS)」に参加することとなる。
 唯一欠けていたのが「キングフィッシュ」ことAUS大統領のヒューイ・ロングであるが、当時ロングはルイジアナ州知事として経済再生事業を実行したのち、上院議員に当選していた。ロングはワシントン中央の政治家や金融屋に対する猛烈な反対者であり、当然ボーナスアーミーに同情していた。

内戦直前の政治情勢

 まず、当時のアメリカは同時期の欧州とやや異なる政治的構図を有していた。そもそも、アメリカのもととなる植民地社会の建設はフランス革命による国民国家成立以前に遡るため、国民国家特有の強力な中央政府がなく、対照的に個人や法人の力が強かった。銃社会が示す通り、武力は国家でなく個人のものであり、闘争を通じて個人の権利を確保するという中世的な秩序が残っていた。
 また、アメリカはWW1に参戦しなかったため、当時の欧州各国国民が持っていた総動員体制の経験を有していなかった。全体主義の原点が戦時の総動員体制にあるとすれば、アメリカ人は全体主義革命の条件を有していなかった、と見なすことができる。これが欧州との決定的な違いの一つだった。
 以上の前提を踏まえ、アメリカにおける当時の政治情勢について述べる。
 アメリカ政治においては保守と進歩、さらに共和党民主党という分類尺度があるが、いずれも共通点として市民個人ならびに法人の権利を強力に擁護し、地方分権の立場から連邦政府への権限集中に批判的だった。これは当時のアメリカ政治において最も主流な意見だった。もちろん、これは総動員体制ならびに全体主義体制とは正反対のものであり、これがアメリカにおける恐慌の対処を困難にさせた。各州は自ら公共事業を以って失業者を救済しようとしたが、州の予算では到底不足していた。各州は連邦政府に資金援助を求めたが、フーヴァー大統領は州の自治を理由に拒否した。また、州独自の公共事業さえ拒否・反対する政治家も少なくなかった。
 ちなみに、大統領のハーバート・フーヴァーもこれに沿っていたが、どちらかといえば個人よりも大企業の権利擁護に近かった。フーヴァーの持論は、高度に発展した大企業は連邦政府や州政府よりも効果的な社会政策を行える、というものだった。フーヴァーが連邦政府主導で復興金融公社を設立し恐慌における金融危機の対処にあたったのだが、これは企業の体力を保持させ、とりわけ大企業の手によって(例えば新技術の発明)恐慌を乗り切るという目論見があったからである。実際に、1920年代にアメリカの大企業は、例えばフォーディズムといった形で生産の効率化だけでなく大量生産によって社会全体を裕福にしたことから、このフーヴァーの目論見は決して頓珍漢なものではなかった。
 こうした主流派のレッセフェール的路線のもとでは、倒産件数と失業者が増え続け、経済・社会はみるみる悪化するのは自明の理であった。
 主流派政治家の失政に対する代替勢力が育つのは、ヨーロッパと同様だった。この中で主要勢力として成長したのがサンディカリストファシストである。

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左は武装労働者、右は運動鎮圧中の州兵

 アメリカにも社会主義者は存在したが、これはWW1以前に持ち込まれたサンディカリズム運動が中核をなしていた。欧州ではWW1と総動員体制を通して社会主義勢力が兵士や労働者、農民などへ広がっていったが、アメリカの場合はほとんど労働組合運動に収まっていた。組合運動はしばしば資本家の雇ったスト破りによって弾圧され、死傷者もあった。
 こうした社会主義運動に対し、労働組合(サンディカ)でなく政党によってより強力に統制しようという試みは、サンディカリズムの母国フランスを通じて持ち込まれた。フランスは国際組織であるパリ・インターを設立し、各国で政党を創設し社会主義運動を支援していた。アメリカにおいても在野のアメリカ社会党からパリ・インターの支援でアメリ共産党が独立したが、これが後のCSA建国を主導することとなる。このアメリ共産党は内戦勃発直前のころウィリアム・フォスターを指導者とし、これにトーマス・ノーマン、アール・ブラウダーらが続いていた。アメリカ社会党はジャック・リードで、労働組合においては穏健派のアメリカ労働総同盟(AFL)、過激派の世界産業労働組合(IWW)という包括組織があるが、他にも各産業に各有力組合があった。1935年にAFLのうちコーポラティズム派が分離して産別組合会議(CIO)を結成したが、CIOは革命運動に反対せず、むしろ革命政権のもとでのコーポラティズム経済構築を主張していた。
 無論、こうした社会主義運動は一律に政府の弾圧を受け、さらに資本家によるスト破りから命を狙われた。世界恐慌後、失業者が増大し治安が悪化していくと、労働組合は組織的に武装しスト破りに対抗するようになった。企業や反組主義者はこれに反応して民兵組織を作るようになり、治安はさらに悪化していった。
 これら社会主義運動が抱く政治路線は様々で組織分裂も珍しくはなかった。フランス共産党員のジャック・ドリオは「労働組合員の意見を尊重するという『アメリカ的方式』」であると批判的に述べているが、まさにその通りであろう。一方で、武力さえ勝れば誰でも従わせることができるのも「アメリカ的方式」であり、パリ・インターはアメリ共産党に資金と武器を支援し、その結果としてアメリ共産党労働組合における最大手の「用心棒」に上り詰めた。武器により生存が保障されれば、庇護を求める労働者が集まるのは当然だった。内戦に至るまでのアメリ社会主義運動の興隆は、単なる政治選択としてだけでなく極限状態における不可避的な生存選択という面もあった。
 こうしたアメリカの社会主義運動は、アメリ共産党を筆頭として既存政治の激しい批判者として頭角を現した。弱小の連邦政府、経済の無為無策、政治家と資本家の腐敗に反対し目下の失業、飢餓、疫病の救済を主張した。すなわち、アメリカの全制度に反対していたのである。世界恐慌直後は路線の過激・穏健をめぐって対立もあったが、内戦直前にはどのグループも武力闘争で一致するようになった。
 一方、革命後の構想については各派路線が異なっていた。端的に述べると、狭義のサンディカリスト労働組合の秩序とシステムをそのまま国家に昇華することを、コミュニストレーニン的前衛党による中央集権と計画経済を、アナーキストは現場サンディカに全権力を移譲する完全に自由な社会を主張していた。また、1935年にフランスで反ドゴール政党である民主コミュニストサークル(CCD)を創設し、国外追放となったボリス・スヴァーリンがメキシコに到着すると、この影響を受けたスヴァーリニストと呼ばれるグループがアメリカにも現れた。スヴァーリニストは革命に賛成しつつも、独裁による革命の堕落を批判し、内戦中はとりわけコミュニストと対立していくこととなる。

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左は群衆に迎えられるヒューイ・ロング、右はロングの宣伝ポスター

 一方で、アメリカにおいて「ファシスト」ほど曖昧な定義を持つ言葉はない。
 一般に、内戦においてアメリカ連合国(AUS)側に立った勢力がファシストと呼ばれているのは当時も現在も変わらないが、実際には様々な集団の大同に過ぎず共通点は反組主義と反マッカーサー独裁のみだった。すなわち、ファシストのなかにはアメリカの既存政治システムの擁護者がいたのであり、これがAUSを理解する上での障害となるであろう。
 ファシストのうち既存政治の反対者のみを取り上げれば、まず筆頭に現れるのは「キングフィッシュ」ヒューイ・ロングである。ロングは南部のルイジアナ州知事を務めていたが、このころからロングの特徴である大衆扇動と強権性が発揮されていた。アメリカの伝統的政治と相いれないいわゆる「大きな政府」の支持者であるロングは、債権を積極的に発行して大企業に増税しつつ、州主導の公共事業、インフラ整備、学校建設を強力に推し進めていた。ロング知事のもと識字率が改善し失業者増加が抑えられたことは、民衆の篤い支持を得る原因になった。しかし、増税のため大企業と対立し、特にロングと対立したスタンダード石油社は保守派政治家を鉄砲玉としてロングに挑戦した。伝統的な保守派にとっては、新税創設はもちろんのこと債券発行はもってのほかであるから、ヒューイ・ロングは異質だったのである。ロングは選挙で刺客を破り、反ロング派の親族を解雇するといった徹底的な報復を行った。さらに、ロングはラジオを通じて大企業への憎悪を煽ることが得意だった。
 当時のアメリカにおいて、ある種独裁者気質な州知事はロングに限ったことではなかったが、ロングの特徴として既存の政治に対し完全に反対したことがあった。
 ボーナスアーミー事件が起きた1932年にルイジアナ州から上院議員に就任したロングは、反大企業の旗色を鮮明にした。同年勃発した南米のチャコ戦争に関し、領土係争地域であるグランチャコの油田を獲得すべくアメリカの石油大資本が起こした戦争であると主張し、州知事時代に対立したスタンダード石油社を「殺人者」「謀略家」「盗賊」と呼んで罵倒した。また、1933年に「ロングプラン」と呼ばれる大規模累進課税による富の再分配を上院で提案し、翌1934年にこれを「富の共有運動」と名付けて大衆運動へと発展させた。主流派政治家にとって受け入れがたい改革を行うよう、民衆の圧力をもって脅したのである。この富の共有運動は、実質的な私有財産制限と公的年金制度の創設という計画の壮大さもあり全米で議論を巻き起こし、大量の支持者と反対者を生んだ。
 ロングはラジオにおいて感情的な演説を通じ、民衆に呼び掛けた。「神は天地を創造され、豊かな穀物と科学の秘密を与えてくださった。それから何が起きたか?ロックフェラーとモルガン、そしてその取り巻きは富のほとんどを独占してしまった。いまや500万人が飢餓で苦しんでいる。神の賜りものがないのなら、然るべきところへ取り返さねばならない!」
 ロングの反大企業傾向は、反ユダヤ主義を刺激した。ロングを祀っていたのは広範な大衆運動だけでなく、少数の偏狭な反ユダヤ主義運動と人種差別主義者もいたのである。また、ロングがアメリカ人の根本的な価値観であるプロテスタントに篤かったことから、プロテスタントの過激な宗教運動――反ユダヤや反資本主義、反都市など様々であったが、彼らはひとくくりに「反動」と呼ばれていた――もまたロングを後援した。ラジオでの過激な説教が有名なチャールズ・カフリン神父もその一人であった。1935年に設立したロングの国政政党であるアメリカ第一党は、こうした多様なグループと支持者を抱えていた。
 ところで、ロングは反組主義者を自称したが、「富の共有運動」はしばしば「サンディカリズム」「コミュニズム」などという批判を受けた。確かにロングの方針はドゴール政権下のフランスのような大きな政府であったが、ロング自身は生産手段の国有化に反対したし、経済活動は自由に行われるべきだと考えていた。さらに、ロングは黒人に対し宥和的であると批判されたが、これはおおむね間違っていなかった。ロングの経済政策は黒人も対象にしていたし、何よりルイジアナ州の黒人はロングの熱烈な支持者であったのである。このような過去がありながら、アメリカ内戦後に人種分離派政治家の声に押されて厳格な人種隔離政策へ踏み切ったことは、大変皮肉なことであるだろう。
 さて、既存の政治に反対しなかったファシストは、簡単に言えば反組主義者であり反中央政府という共通点があった。ワシントンの中央政界から介入されることを欲さない、利権を抱えた南部の独裁者的な知事や上院議員と、フーヴァー大統領に飽き飽きしたりマッカーサー大将の独裁に反対した主流派政治家と大企業経営者が、彼らの大勢を占めていた。彼らはAUSに参加せざる得なかったのであり、富の共有運動への反対者も少なくなく、むしろロングの人気を恐れていたのである。
 以上が、崩壊しつつあったアメリカへの抜本的な反対者であるサンディカリストファシストの概要である。フォスターもロングも非常に過激な政治家であったが、内戦でサンディカリストまたはファシスト陣営に就いた多くは、彼らの純粋な支持者ではなく、現状に不満を持ちつつも態度を決めかねていた人々だった。内戦が勃発し、食糧が途絶え、治安が完全に崩壊し、命の危険を認識して初めて人々はサンディカリストまたはファシスト陣営に参加したのである。

内戦の経過

1936-37年 大統領選挙と内戦勃発

「善良なる過激派」マッカーサー将軍

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ダグラス・マッカーサー参謀総長(1937年)

 日々悪化する治安のため、1937年の大統領選挙も実施が危ぶまれるようになった。ハーバート・フーヴァー大統領はこれを機に議会に「緊急事態法案」を提出、反アメリカ活動に対する逮捕・拘束の権限を大統領に与えるものだった。フーヴァーはこの取り締まり活動をボーナスアーミー事件で活躍したダグラス・マッカーサー参謀総長に委任した結果、マッカーサーは「緊急事態委員会」の委員長に就任し、過激派に対する取り締まりを実行することとなった。
 マッカーサーが緊急事態委員会委員長として取り締まった1936年10月から1937年1月の期間は後に「血の四ヶ月」と呼ばれることとなる。
 また、マッカーサーアメリカ第一党とアメリ共産党をはじめとする過激主義政党を一斉に禁止し、大統領選挙から締め出した。自らを「善良なる過激派」と呼んだマッカーサーは既に民主主義に価値を見出しておらず、ただアメリカをサンディカリストファシストから救うことのみに没頭していた。反民主主義とテロリズムというマッカーサーの手法は、サンディカリストファシストなどのそれと全く変わっていなかった。
 緊急事態委員会のメンバーは陸軍とFBI出身で、自治体警察と民兵は現地の過激派勢力と癒着していることから取り締まり活動から追い出された。こうした強引で中央集権的な取り締まりには、もともと地方分権的な気風を持ち、世界恐慌連邦政府に対する信頼を捨てた一般的なアメリカ市民から反発を呼んだ。過激主義を忌諱する人々も、この取り締まり活動により過激主義が「比較的マシ」であると見なすようになった。
 こうした意味で、マッカーサーの登場は歴史の大きな転換点であるといえた。

交渉決裂、サンディカリスト蜂起

 マッカーサーによる取り締まり活動に呼応し、サンディカリストファシストによる暗殺と爆弾テロの件数は増加していった。緊急事態委員会による取り締まり活動は制服を着た非地元出身の軍人の手で行われるが、軍部隊がトラックに乗って到着すると、地元住民は途端に逃げ出し地元警官と民兵は軍部隊に銃撃を浴びせるのが日常茶飯事だった。憲法に反するあらゆる行為が軍部によって正当化され、市民の失踪が相次いだ。
 民主党共和党は民主主義を維持するために大同に至り「自由ブロック」を結成した。このため、大統領選挙はジョン・ガーナーただ一人が立候補するといういびつなものとなり、事実上の信任投票と化した選挙に対する失望が広がった。
 議会は内戦を回避するため、副大統領チャールズ・カーチスを特使として秘密裏にヒューイ・ロングと交渉を行ったが、緊急事態委員会が南部に対する取り締まりをやめなかったため交渉は破綻した。そもそも、議会は緊急事態委員会をコントロールできていなかったのだ。
 1937年1月、大統領選挙が実施されたが、過激派の妨害もあり投票率は過去最悪だった。こうした「茶番」選挙で勝利したジョン・ガーナーは民主主義守護のために過激派と一切交渉しない旨を発表し、内戦も辞さない強硬姿勢を見せた。また、緊急事態委員会解散後も活動を続ける軍部に迎合しなかったため、ガーナー大統領は早くも四面楚歌に陥ることとなった。
 1937年1月24日、大統領選挙の結果を否認したサンディカリストはついに武装蜂起し、アメリカ・サンディカリスト国(CSA)の独立を宣言した。いずれの州もCSAに参加しなかったため、元州兵、武装労働者と退役軍人で構成されるサンディカリスト軍は郡を占拠し自力で行政機構を乗っ取り始めた。この蜂起に対し北部を中心とする各州は戒厳を布告、憲法上認められた軍介入の許可を与えた。
 CSAの指導者にはジャック・リードが就任し、各サンディカリスト政党を大同させ「人民戦線(PF)」を設立した。また、当面の暫定措置として「革命軍事委員会」が設けられ、サンディカリスト政治家や労組関係者だけでなく、CSA側に就いた将軍スメドレー・バトラーやスペイン内戦志願兵などを迎え、国防の専門統制機関とした。

マッカーサー・クーデターとAUS独立

 ガーナーから疎まれていたマッカーサーだったが、1937年1月27日、CSA討伐を口実に部隊を動かしワシントンを占拠、クーデターを成功させた。マッカーサー連邦議会ホワイトハウスを閉鎖して合衆国憲法の一部停止を宣言し、自ら大統領を名乗りサンディカリストファシストに対する闘争を開始したのである。
 これに呼応し、ヒューイ・ロングはクーデターの正当性を一切否認、「合衆国は死んだ」と死亡宣告を下した。同じく27日にルイジアナ州バトンルージュにおいて「アメリカ連合国(AUS)」の独立を宣言する。ロングはAUSこそ合衆国の後継者であることを自負し、独立戦争の理念に立ち返った「第二次独立宣言」を発表し、民衆の支持を訴えた。
 この事件はアメリカをさらに分裂させることとなった。北部ではサンディカリストが、南部ではファシストがさらに蜂起を広げ、各州はクーデターを支持するか否かの選択を迫られることとなった。
 クーデターに対し、いずれもニューイングランド地方にあるバーモント州ニューハンプシャー州コネチカット州が拒否を表明したが、いずれも3か月以内に討伐軍を送り込まれ敗北した。ニューハンプシャー州はとりわけ反クーデター派民兵が奮戦したが、結局軍の圧倒的な火力の前にはなすすべもなかった。マッカーサーはこの三州に軍政長官を送り込み、州の自治を廃止して直接支配下に置いた。西海岸のカリフォルニア州などはクーデターを否認しつつ、マッカーサーに対CSA、対AUSの共同戦線構築を認めさせた。表面上クーデターを否認しつつ、マッカーサーへの兵力提供を申し出たという形だった。西海岸にはクーデターで終われた民主派の政治家が数多く逃げ込んでおり、彼らは新設された州民兵の手で軍部から政治的に保護された。
 南部のルイジアナ州アーカンソー州テネシー州ミシシッピ州アラバマ州ジョージア州ノースカロライナ州サウスカロライナ州フロリダ州は合衆国を離脱しAUSに参加することを表明した。テネシー州ノースカロライナ州はサンディカリスト民兵とAUS民兵ミニットマン」が州政府をめぐり戦闘を起こしたが、いずれもAUS側に軍配が上がった。
 AUSに参加した上院議員はAUS上院を結成し、サンディカリズムマッカーサー打倒に向けて結束を試みた。ロングは知事、上院議員アメリカ第一党やその他民兵組織だけの力では足りないと察し、一時的に「戦争遂行委員会」を置き、AUSに就いた大企業経営者と将軍らを迎えた。このなかにヘンリー・フォードが含まれていたのは皮肉なことだった。ともかく、AUSは一部大企業と軍の一部という決して悪くはない広範で強力な支持層を得ることに成功した。

1937-1938年 テロル戦

合衆国分解

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1937年4月

 アメリカ合衆国はCSA、AUS、マッカーサー政権、そしてそれを否認する議会残党の4つに分裂し、また政府各組織も分解していった。陸軍と国境警備隊、FBIはマッカーサーへ、海軍はCSA以外の各勢力に就いた。AUSとテキサス州には現地州兵と州軍が、CSAには現地労働組合が軍をなすようになった。現地警察は各々の勢力に就いた。アメリカは一般市民の銃所持が合法である国の一つだったが、アメリカの分解は民生向け以上の強力な武器が有象無象の勢力の手に渡ることとなった。
 とはいえ、USA陸軍を除けばいずれも元々職業軍人ではなく、縦横に組織された軍を維持するシステムに欠けていた。こうしたことから、内戦勃発当初、USA陸軍以外は稚拙な爆弾テロや暗殺、一撃離脱のゲリラ戦に終始することとなった。これを「テロル戦」と呼ぶ。USA陸軍は撃破されない限り装甲車に乗ってAUSまたはCSA支配地域で活動することができた。アメリカ内戦初期は、国家対国家の戦争よりも国家内部の戦争という面が色濃かったのである。
 1937年3月1日、東海岸でサンディカリストの大規模蜂起が始まったため、マッカーサーは中西部の都市デンバーへの遷都を宣言した。
 CSAは独立直後、ミシガン州南部、イリノイインディアナオハイオ州北部を掌握し、シカゴを首都とした。この地域はアメリカ最大の工業地帯であり、人口密集地でもあった。労働総取引所*3議長ジャック・リードは、高揚していたサンディカリスト運動を生かしつつCSAの支配地域を拡大するため、2月末から大規模攻勢を命じた。
 武装蜂起はAUS支配地域を含むほとんどの都市で行われた。多くの場合は反サンディカリスト民兵に鎮圧されたが、いくつか例外もある。
 ニューヨーク蜂起では労働者が港湾施設を含む市街の半分近くを掌握し「ニューヨーク・コミューン」の設立を宣言した。マッカーサーは討伐軍を送り込んだが、サンディカリストは摩天楼を要塞化し、上層階から銃撃したり投石したりし、討伐軍は停止せざる得なかった。サンディカリストを追い払うためには摩天楼ごと砲撃・爆破せねばならない、と理解したためである。マッカーサーは艦隊によるニューヨーク砲撃を考案したが、海軍は拒否した。そのため討伐軍が砲兵部隊をかき集めている間、サンディカリストはさらに重武装化し、いっぽう富裕層は市外へ脱出し貧しい一般市民はサンディカリスト軍に加わっていき、こうしてコミューンは足場を固めた。
 また、ボストンでも「ボストン・コミューン」が3か月ほど続いたが、討伐軍に撃破され5000人以上が処刑された。
 南部のAUS支配地においては、リッチモンドバーミンガムバトンルージュニューオーリンズ、ダンビルで大規模な労働者の武装蜂起が発生し、ミニットマンとの混戦に至った。AUSは反サンディカリストと反マッカーサーの寄り合い所帯であったため、各民兵の指揮統一がなされず、鎮圧も困難を極めた。ノースカロライナ州でのサンディカリストによるゲリラ戦のため、ミニットマンは対サンディカリスト戦闘に追われてマッカーサーの合衆国軍が攻め込む隙を与えてしまった。また、AUS軍がワシントンを攻撃するためにはリッチモンドを確保せねばならず、AUSによるワシントン攻略作戦は中止された。
 南部のテキサス州は中立を堅持しようとしたが、3月20日マッカーサー政府の指揮下にある国境警備隊が反乱を起こし、「テキサス国境独裁政府」を名乗って南部の都市サンアントニオを占領しテキサス州戦力と戦闘を起こした。国境警備隊は一時州都ヒューストンを伺う勢いだったが、テキサスレンジャーやテキサス州*4などといった、連邦政府から完全に独立したテキサス州独自の戦力のおかげで国境警備隊は鎮圧された。この事件により、曖昧な立場にあったテキサス州は腹を決めて「テキサス共和国」として州単独の独立を宣言した。これを「第二次テキサス革命」と呼ぶ。独立はAUSにのみ承認され、テキサス共和国はAUSに石油を与え、AUSから軍事支援を受ける同盟関係が構築された。
 西海岸でもサンディカリスト武装蜂起を起こし、シアトル、サンフランシスコ、ロサンゼルスでコミューンが結成された。州兵が介入し排除を試みたが失敗、停戦と戦闘が繰り返されつつコミューンはそのまま耐え続けた。しかしこれらコミューンはいずれも州を乗っ取るほどの支配地域と支持者を持つことができず、州も戦闘による産業とインフラ破壊を懸念し生かさず殺さずの方針とした。
 また、各地の炭鉱でストライキ武装蜂起がおこったが、いずれも多大な死者を出しつつ鎮圧された。

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ノーフォーク港爆破事件

 ところで、3月2日には東海岸のAUS支配地域であるノーフォーク港で積載された弾薬が爆発する「ノーフォーク港爆破事件」が起こった。約3000人が死亡する大惨事となったが、内戦中であったため後世に残った情報は乏しく、詳しいことは不明のままである。この事故はUSA軍またはCSA軍の破壊工作による説が疑われたが、単なる事故説の可能性も拭いきれるものではない。ともかく、この爆発でノーフォーク港は1940年末まで使用不可能となった。

ホワイト・ウォッシュ作戦

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1937年8月、12月

 内戦の勃発から半年近くが経ち、各勢力は地元の足場固めをして戦闘に備えた。マッカーサー率いるUSAは北部と南部を失陥したものの、東海岸と中部、西海岸を保持し、陸軍部隊を送り込んで州知事を威嚇することでさらなる州の分離を阻止した。6月7日、マッカーサーはラジオで、東海岸と西海岸をつなぐ中部の「自由回廊」を死守すると宣言した。アメリカが完全分解しかねない最悪の時期を乗り切ったマッカーサーは、まずはサンディカリスト率いるCSAの討伐を決心。大軍を送り込む計画を建てた。
 こうして始まった「ホワイト・ウォッシュ作戦」は、東海岸方面からCSAに侵攻し、人海戦術による警察行動をもって占領する計画だった。警察行動とは、CSA関係者と疑われる住民を証拠がなくとも容赦なく射殺し、彼らの住居や農場を焼き払うことだった。このような戦術は、USA軍が経験した直近の戦争であるバナナ戦争における、対ゲリラ戦術が基となっている。マッカーサーは「アメリカからサンディカリズムという病気を取り除かねばならない。いくら死者が出ようが問題ないのだ」と語った。
 1937年7月に作戦は実行され、サンディカリズム根絶のために凄惨な警察行動が行われた。しかしながら、USA軍はCSAのゲリラ活動を防ぎきれたとは言えなかった。当時北部の労働者のほとんどはCSAを支持していたため、マッカーサーの支配地域でも労働者による妨害が行われた。作戦に参加するはずだった大勢の兵士は、戦線が分散していたことや鉄道労働者のサボタージュもあり、作戦予定を下回る数しか参加できなかった。そもそも、USA軍は自前の鉄道部隊に兵士を輸送させるべきだったが、これができなかった。USA軍はWW1に参戦せず、総力戦を未経験だったため常に軍外部の支援が必要だったのである。
 とはいえ、USA軍討伐部隊は妨害こそ受け、創設直後のCSA軍に完全撃退はされず、一方CSA側の地元住民が土地勘を働かせたため効果的な損害も与えられず、ダラダラと終わりなきゲリラ狩りが続いていった。USA軍が進撃すれば、今度は手薄なところにCSA軍が襲撃をするーーこうしたことが繰り返されつつ、CSAの支配地域は次第に拡大していった。CSA最東端の都市ピッツバーグはUSA軍に包囲されたが、USA軍が大規模作戦に慣れていなかったため、住民も兵士も大半が包囲前に脱出してしまった。
 USA軍は比較的訓練されていたが、それでも軍紀は決してよいとは言えず乱暴狼藉が目立った。このことは、住民のマッカーサー政権不信をより深刻にした。
 ホワイト・ウォッシュ作戦が行われていた1937年夏、テキサス州の北隣にあるオクラホマ州では、ダストボウルに窮した怒れる農民が「オクラホマ農民軍」を結成し州全域を占領した。メキシコ国境部では、メキシコを経由してサンディカリスト工作員が侵入し、反乱を扇動していた。
 秋にはUSA軍がCSA支配地域の南西方面、イリノイ州方面から侵攻したが、民心を失っていたことから主要幹線道路と鉄道を支配するにとどまった。USA軍のCSA侵攻戦では、CSA支配地域における反サンディカリズム民兵「黒色軍団」が斥候兵となったが、事態の決定的な打開へとつながらなかった。
 ホワイト・ウォッシュ作戦でUSA軍が攻め込んだ地域は、翌1938年春までに大方奪還されてしまった。
 また、1937年12月25日は一斉停戦が行われ、兵士は塹壕でクリスマスを祝った。内戦中唯一のクリスマス休戦だった。
 

マッカーサー南進

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1938年4月、8月

 ホワイト・ウォッシュ作戦が失敗した翌年の1938年、マッカーサーらは南部にあるAUSへの侵攻作戦を実行。4月よりテネシー州アーカンソー州を占領した。しかし、内戦による社会疲弊のためWW1よりも長い戦線を後方が維持できず、USA軍は物資不足に見舞われた。このためUSA軍は略奪による現地調達に頼らざるをえず、自由回廊において農民反乱が頻発した。
 マッカーサーはそれでもAUS打倒を優先しようとしたが、東海岸でAUS軍がリッチモンドを奪還しワシントンに迫っていたことや、副官アイゼンハワーが自殺をほのめかしつつ諫めたこともあり、同年夏には撤退し自由回廊の警察行動を開始した。マッカーサーによる鎮圧作戦はまたもや失敗してしまった。

1939年-1940年 合衆国最後の日

テーラン・ヴァイス作戦

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1939年5月、12月

 USA軍はCSAとAUS鎮圧作戦に失敗し、自信と物資弾薬を失った。さらに自由回廊の民衆をサンディカリズムへとなびかせてしまった。1939年1月時点で自由回廊におけるUSA軍の支配は「点と線」の状態だった。
 一方、CSAとAUSはUSA軍を退かせたことで自信をつけ、さらに防衛戦闘を通じて政府改革や組織的な職業軍構築をなしとげ、革命直後のカオスをようやく脱することに成功した。この自己改革を通して、CSAとAUS各々で内部の勢力均衡が塗り替わっていった。
 すなわち、CSAにおいてはサンディカに立脚する狭義のサンディカリストアナキストなどに対し、中央主導で統制する専門家集団を擁するコミュニストが台頭していった。これはCSAの自発的な変化でもあったが、フランスの全体主義化に影響を受けたパリ・インターの方針によるものでもあった。台頭したコミュニストがもはや労働者でなく、労働者の代表でもないことを少なからずが認識しはじめ、アナキストやスヴァーリニストが密かに力をつけ始めた。1938年10月にCSAに入国したアナキストのネストル・マフノとスヴァーリニストの大元ボリス・スヴァーリンの存在も無視できない。
 AUSにおいても似たような現象がみられた。AUSも全体主義革命と統制国家構築へ舵を切ったが、この過程で多大な資産と権力を持つ経営者の発言力が増していった。ロングら第一党はこれをうまく利用したかったが、もともと第一党と経営者は犬猿の仲であったため、この仲介役としてチャールズ・リンドバーグの重要性が増していった。リンドバーグは次期大統領であると公然と認識されるようになった。
 この路線に反発したのが、反ユダヤ主義キリスト教原理主義、人種分離主義過激派の民兵組織で、ウィリアム・ペリーの銀色軍団やハイラム・ウェズレイエヴァンスのKKKだった。ペリーは戦争遂行委員会メンバーである唯一の過激派民兵指導者であり、また、KKKアーカンソー州知事ホーマー・アトキンスなど政界とのパイプも保持しており、その影響力は黙殺するに容易ではなかった。チャールズ・カフリン神父もこれに近かった。
 さて、戦線ではCSA軍とAUS軍が反抗作戦に出て、6月までに自由回廊は喪失した。この際、サンディカリズムファシズムを恐れる住民が一斉に流民として東西へ脱出した。治安が崩壊し数十万規模の死者が出たが、交通機関を保持していたUSA軍が難民に「規律を取り戻させ」つつ最終列車に乗せたため、結局のところ難民は脱出に成功した。マッカーサーは年齢にかかわらず全男子の徴兵を命令し、難民を東海岸と中部の戦線に配置した。女性志願兵部隊が軍の正式な指揮下に入った。
 東海岸においてAUS軍とUSA軍が激突する戦線上に位置していたリッチモンドでは、5回目の戦役である第五次リッチモンドの戦いでAUS軍がUSA軍の攻撃を食い止め、7月19日に包囲殲滅を経て圧勝した。AUSにとって記念すべき勝利だった。これによりAUS軍は破竹の勢いで北進し、USA軍にとって東海岸もまた失陥の危険が現れた。
 マッカーサーは「テーラン・ヴァイス」作戦を発動し、軍と難民の海上脱出を命令した。
 USA軍は遅滞戦術でCSAとAUS軍の挟撃を遅らせ、物流会社と交通会社を丸ごと徴用して難民の組織的な海上脱出を行った。このときは軍の監視もあって秩序は崩壊せず、USA軍が完全に東海岸を失陥する12月25日までに約1000万人が脱出に成功した。自由回廊失陥時点での東海岸におけるUSA軍支配地域の住民が約2100万人であることを考慮すれば、大成功と言えた。
 AUS軍はニューヨーク手前まで北進し、CSA軍はその以北地域を占領してニューヨーク・コミューンとの接続に成功した。USA軍は12月までにポートランド港とボストン港に籠城していたが、年末までに撤退した。マッカーサーは「I shall return」と言い残して輸送機で脱出した。最後の部隊が撤退すると、海軍艦隊が港湾都市へ向け容赦なく艦砲射撃を与え、CSA軍に損害を与えた。勝利のためなら犠牲をいとわないというマッカーサー精神の発露だった。
 また、1939年9月2日には欧州でWW2が勃発し、ドナウに対しセルビアとイタリアが戦闘開始に至った。フランスとドイツの対決は時間の問題となり、イギリスは対米支援を縮小し始めた。ちなみに、翌1940年のフランス軍による対独侵攻作戦であるヴァルミー作戦の結果、ドイツ本土からはテーラン・ヴァイス作戦のような難民の大量脱出が起こった。ドイツ海軍元帥エーリッヒ・レーダーはテーラン・ヴァイス作戦の影響を受けたことをのちに明かしている。

さらなる泥沼化

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1940年5月、8月、12月

 テーラン・ヴァイス作戦後、マッカーサーはカナダとパナマ経由で輸送した戦力をアメリカ中部に再配置し、参謀本部も中部のデンヴァーに移動した。この時点の支配地域であるアメリカ西海岸と中部は人口希薄地帯だったが、テーラン・ヴァイス作戦のおかげでマンパワーにある程度余裕ができた。マッカーサーは万全の準備でサンディカリストファシストを迎える覚悟だった。また、マッカーサーは内戦当初からCSA、AUS支配地域への無差別爆撃を行っていたが、東海岸失陥後はカナダ軍の空軍基地を借りて越境爆撃を強化した。
 しかし、横槍が入った。マッカーサー・クーデターにおいて反抗的な態度だった西海岸諸州は、マッカーサー東海岸を失陥した1939年末に反マッカーサーデモを組織し、公然と反抗したのである。マッカーサーは軍を送って弾圧したが、カリフォルニア州知事フランク・メリアム*5や、民主派の中央政治家クールベルト・オルソン、アルフ・ランドンらは地下に潜伏した。マッカーサーカリフォルニア州に対する絨毯爆撃を行い、5000人以上が死亡した。
 メリアムとオルソンは1940年1月1日、カリフォルニア州ロサンゼルスにて「アメリカ太平洋州国(PSA)」の設立と、USAからの分離独立を宣言した。ランドンは1月19日にオレゴン州ポートランドで「アメリカ合衆国自由連立政府(GLA)」の発足を宣言した。PSAはアメリカ合衆国憲法の限界を指摘し、完全な国家の再構築を主張していたが、これに反対した保守政治家と一部革新政治家はGLAに加わった。GLAはあくまで合衆国憲法を擁護しつつ、マッカーサーの排除をもって一致した寄り合い所帯だった。また、PSA初代大統領であるメリアムの独裁的気質も批判された。
 しかしいずれも、支配するべき地域をUSA軍に占領されていた。マッカーサーは報復としてカリフォルニア州オレゴン州ワシントン州の解体を命令し、軍政長官部を設置した。この過程で、USA軍と州民兵・州軍との戦闘がおこった。PSAとGLAの抵抗は激しく、治安を完全に回復するには夏まで待たねばならなかった。
 これとほぼ同時の1月4日、太平洋に浮かぶハワイ準州で独立派の蜂起が勃発したが、鎮圧された。蜂起は日本の支援によるものと断定され、USAのみならずAUS、CSAで排日運動が盛り上がった。USA、CSAとAUSが対日石油禁輸措置を発動したことは、日本軍による東南アジア侵略の遠因となった。
 2月1日にはサンディカリスト国家のメキシコが対米越境攻撃を開始し、同日夕方に正式に対米宣戦布告を発表した。アメリカの内戦に外国軍が介入するという事件はサンディカリストの間でも衝撃を呼び、これに反対したアリゾナ・コミューンとニューメキシコ・コミューンのサンディカリストは分離して「サンタフェ政府」を名乗り、AUS、USA軍だけでなくメキシコ軍との戦闘を開始した。
 さて、北部と東海岸の支配を勝ち取ったCSAは、その矛先をAUSに向けた。CSA参謀総長であり革命軍事委員会委員のスメドレー・バトラーは南進作戦を立て、実行した。いわゆる「1940年春季攻勢」である。作戦は古典的だったが、近代戦を支える体制が整備され、さらに豊富なマンパワーもあり作戦は順調に進んだ。6月にはグラスゴーの戦いが勃発し、初めて装甲戦力主体の大規模戦がなされた。AUS軍も少ない工業力ながら近代戦を支える体制を整えていた。
 CSA軍は春から初夏にかけてテネシー州ヴァージニア州を占領し、ケンタッキー州に攻め入った。進撃速度は内戦後期と比べれば遅かった。当時は未だ歩兵と騎兵が多く、自動車による機械化輸送体制が未熟だったためである。CSA支配地域において、家庭用自動車やトラックは現地サンディカの所有であって、軍の所有でなかった。現地サンディカが武器を持って抵抗する場合があり、徴発は容易ではなかったのだ。
 攻勢の間、革命軍事委員会は総選挙を開催して労働総取引所を民主的に改選したが、CSA内部では体制の重要人物である元首ジャック・リードと参謀総長スメドレー・バトラーが病死するという出来事が起こった。リードは遺言でウィリアム・フォスター、アール・ブラウダー、ノーマン・トーマスによる三頭体制を指示し彼らもひとまずこれに従ったが、権力の空白をめぐって権力闘争が起きるのは自明だった。コミュニストであるブラウダーは革命軍事委員会委員長に選出され、全体主義的な中央集権体制構築に取り掛かることとなった。この出来事は、アナキストやスヴァーリニストは無論、狭義のサンディカリストやリード側近に対する粛清の始まりであったと後世の歴史家は指摘している。
 9月、CSA軍はUSA軍牙城のデンヴァーに迫ったが、マッカーサー指揮下の必死の抵抗で撃退された。マッカーサーはトーチカに徴発兵士を物理的に縛り付け、督戦隊を組織して死守を命じた。そして、戦車と職業軍人らによるUSA軍精鋭部隊が出撃し、CSA軍3万人を包囲殲滅した。テーラン・ヴァイス作戦に続き、第一次デンヴァーの戦いの勝利はマッカーサーの名を世界に轟かせた。CSAが占領した中部の北にあるノースダコタ州サウスダコタ州では、USA軍が農民を扇動して反サンディカリスト反乱を起こした。CSAの戦法を模倣したのだった。しばらくUSAは勢力を保つだろうと、各国各紙は予測していた。
 また、ちょうどそのころ、AUS軍も反攻に出てケンタッキー州をCSAから奪還した。こうしてCSA軍の進撃はくじかれた。一方ヨーロッパではドイツが本土を失陥しイギリスが参戦したことでWW2が本格化していたが、アメリカ内戦の参加国はいずれも中立を表明した。CSAとカナダの国境では戦闘は起こっていなかった。

1941−1942 南北対決

鉄の嵐作戦

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1941年8月、12月

 マッカーサーのUSA軍部隊は、ノースダコタサウスダコタの反乱を利用してミズーリ河まで東進した。西海岸におけるPSAとGLAの反乱はコントロール可能なレベルまで抑えていた。1941年3月8日にカナダ各地でサンディカリスト武装蜂起が失敗に終わり、英連邦全体でアメリカ内戦介入論が広がっていた。こうした状況のなか、マッカーサーは英連邦とカナダの特使と会見すべくトロントへ飛んだ。しかし3月20日、帰路の飛行機は離陸直後に墜落し、マッカーサーは死亡した。
 この事件は世界に衝撃を与えたが、イギリス側は事故死であると発表した。後世になされたイギリス側の主張によれば、イギリスはマッカーサー体制を正式承認しつつ、西海岸の勢力に自治を与えるようマッカーサーに要求したが、拒否されたという。ただし、これに関しては反論も多く、実際はそれ以上の譲歩をイギリスが要求したのではないかと疑われている。イギリス側の過大要求にマッカーサーが激怒*6し、暗殺を招いたとすれば一応道理は立っていた。
 ともあれ、突然の最高司令官の死によりUSA軍は恐慌状態に陥った。兵だけでなく将校やFBI員まで脱走しはじめ、残った政権幹部らは生き残りを図るべく、PSAやAUSと秘密裏に交渉を開始した。
 一方サンディカリストのCSA軍はまず最大の敵であるAUSを撃破するべく、「鉄の嵐作戦」を実行した。この作戦はブラウダー革命軍事委員会委員長と、スペイン内戦帰りの指揮官や参謀らの肝いりであり、欧州で得た最新の戦訓や技術などを活用している。その一つがゲレ・エクレールこと電撃戦であり、鉄の嵐作戦はアメリカ内戦で初めての本格的な電撃戦が盛り込まれた。
 CSA軍は中部のテネシー州東海岸ノースカロライナ州を陥落せしめ、テネシー州ではAUS軍将兵6万人が包囲され、その後降伏した。東海岸では港町のノーフォークとウィルミントンが包囲された。AUS軍は全軍を退却させて被害を最小限に抑えるべく試みたが、CSA軍の進撃が停止したのはチャッタヌーガでAUS軍が勝利した8月13日まで待たねばならなかった。
 さらに、CSA軍は破竹の勢いでマッカーサーなきUSA支配地にも侵攻した。この「モヒカン作戦」では、ミズーリ川を突破したCSA軍がデンヴァーに突進し、USA軍3万人が包囲、降伏した。USA軍の崩壊に合わせ、西海岸のワシントン州オレゴン州、アイダボ州、モンタナ州が駐留USA軍を殲滅し、行政権を確保、GLAに合流した。
 PSAのカリフォルニア州も権力を回復し、内陸部のネバダ州、アリゾナ州を併合した。さらに独自にメキシコ政府と停戦協定を結び、メキシコ軍によるニューメキシコ州占領を黙認する代わりに、PSAによるアリゾナ州支配を認めさせた。この停戦協定は広く激しい賛否を巻き起こし、PSA支配地域では反乱も起きたが間もなく鎮圧された。
 USA軍崩壊による権力空白に便乗し、ユタ州ではモルモン教徒が権力を奪取し「デセレット国」独立を宣言した。デセレット国は西のGLA、PSAと東のCSA、USA、AUSが接する微妙な位置にあるため、ヨーロッパにおけるスイスのような中立地帯としての役割が与えられた。
 一方、モヒカン作戦中のCSA軍は8月2日にデンヴァーを包囲した。ヒューイ・ロングはUSA軍のFBI員や軍人をみすみすCSAに渡してはならぬとし、8月14日にUSA軍と停戦協定を結び、USA軍と共闘してデンヴァー脱出回廊をつくるべく軍に行動を命じた。9月1日にはデンヴァーの南にある、USA軍支配地であるプエブロにAUS軍が進駐した。FBI長官でありプエブロ守備隊臨時司令官のジョン・エドガー・フーヴァーは降伏し、FBIが蓄積した対CSA諜報情報と引き換えに免責され、AUSの戦争遂行委員会戦時情報局に入局した。
 9月11日、デンヴァー市議会に赤旗が翻り、ついにアメリカ合衆国本土は地図から消滅した*7
 AUSはデンヴァー包囲突破こそかなわなかったが、すでにデンヴァーから脱出していたUSA将兵と官僚の一部を捕縛し、AUS体制に引き入れた。対CSA空爆作戦を指揮していた「鬼畜」カーチス・ルメイはAUS空軍に迎えられた。ほかにも少なからぬ脱出者がPSAやデセレット国に亡命した。マッカーサーの副官アイゼンハワーはPSA軍に逃れた。代わって、CSA軍に降伏した将兵、市民のほとんどはデンヴァー市内の収容所に集められた。そこから順次無蓋貨車に押し込まれ、強制収容所に送られた。CSA兵はデンヴァー中から搔き集めたマッカーサー肖像画を広場で焼き、その火で捕虜を火あぶりにしたという事件も起きた。
 1941年秋にはGLA政権に参加していた「アカ」寄りの進歩主義者が反乱を起こした。GLA政府は各派のよせあつめのため、ろくな中央権力が乏しく、また州兵と州軍を除いて戦力を持っていなかったため、反乱鎮圧は困難を極めた。とはいえ、反乱軍側もパリ・インターやCSAなどからの統制を欠いており、そちらも烏合の衆だった。このうち、元GLA政府評議委員のグレン・タイラーによるアイダボ州の農民反乱は比較的しぶとかった。
 同年末、カナダ軍はUSA軍の残党が活動していたアラスカ準州を占領した。AUS海兵隊カリブ海に浮かぶプエルトリコパナマ運河を占領し、併合した。

イギリス参戦

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1942年8月、10月

 GLAはサンディカリストの反乱を収拾できず、東からCSA軍、南からPSA軍による介入を受けた。そもそもGLAは最後の大統領ガーナーのような、憲法レベルでの変革と軍事独裁に反対した旧来の政治家グループの寄せ集めであり、この点において民衆から支持される理由はなかった。GLAが設立にあたり、場当たり的に現地のサンディカリストグループを引き入れてしまったことは、GLAを率いる政治家らに将来の展望が全くなかったことを端的に示していると言えよう。
 CSA軍はAUSに止めを刺すべく、「ラファイエット作戦」を発動した。CSA軍の機甲部隊がミシシッピ川方面とデンヴァー方面から挟撃してアーカンソー州オクラホマ州に攻め込み、カンザス州では多くのAUS将兵が包囲された。これをカンザス・ポケットとという。東海岸ではサウスカロライナ州北部とジョージア州北部に攻め入った。AUS軍は貴重なマンパワーの喪失を阻止すべく、住民と部隊を素早く後方に移動させて反撃の機会をうかがうほかなかった。
 CSA軍の進撃により、ついにメキシコ軍占領地からCSAまでが陸続きとなり、人や物資の往来が始まった。サンタフェ政府は北からCSA軍の討伐部隊が送られ鎮圧された。さらに、西ではGLA崩壊後の空白を縫って西海岸へと突進し、ワシントン州のシアトルを占領してついに東西海岸が繋がった。CSAは旧アメリカ合衆国本土の約3/4を支配するに至り、まさに勝利は目前とみられた。
 しかし、こうした楽観論はイギリスの参戦で脆くも崩れ去った。北アフリカ戦線で第一次エルアラメインの戦いに勝利しリビアの大半を占領したイギリスは戦力に余裕が生まれ、これを機に伸張しすぎたCSAを叩くべく宣戦布告をした。もちろん、イギリスは突然方針を転換したわけではなく、何度か起こっていたカナダにおけるサンディカリストの反乱に危機感を抱き、タイミングをうかがっていたのだった。
 ブラウダーは予想より早いイギリス参戦に焦りつつ、部隊の抜本的な再配置とカナダでの組織的なサンディカリストの一斉蜂起を命じた。トロントやセントジョーンズなど数都市で武装蜂起が行われたが、アメリカ内戦勃発当初のような大規模なものに発展しなかった。CSAは北米大陸の東西にわたり合計約800kmの大戦線を抱えることとなり、革命軍事委員会は全人種に対し女性を含む徴兵を命令した。
 10月、イギリス軍とカナダ軍は東海岸北部のバーモント州から南へ直進し、ニューイングランド地方を分断した。カナダでもCSA同様根こそぎ動員が行われた。西海岸ではカナダ軍が寡兵ながらやすやすとワシントン州に侵入した。西海岸はCSA軍が占領したばかりで支配が盤石ではなかったためである。
 イギリスの参戦により、一時は南部の最大都市アトランタにまで迫っていたCSA軍は進撃を停止し、AUSは命拾いすることとなった。カンザス・ポケットではAUS軍が包囲のなか越冬しようとしていた。
 1942年はCSAにとって分水嶺となった年だった。イギリスの参戦はさることながら、CSA内部の権力闘争もある種の節目を迎えたといえる。ブラウダーは中央権力を強化し、自身の礼賛者とスペイン帰りのサンディカリスト戦士を周りに固め、ジャック・リード体制を支えていたウィリアム・フォスターやノーマン・トーマスとその幹部らを粛清し始めた。リード時代のナンバー2だったウィリアム・フォスターが突如姿を消しその後自殺した事件は、ブラウダーの大粛清の開始を象徴する出来事だった。
 まず、フォスターの右腕として知られた補佐官のサミュエル・ハンマースマークがスパイ容疑で逮捕、処刑された。忠実なフォスター派であるウィリアム・ダンも逮捕され、兄でありスヴァーリニストのヴィンセント・ダン逃亡が発覚すると処刑された。フォスター率いる狭義のサンディカリストが目指した、サンディカ国家システムのイデオローグであるウィンダム・モーティマーは1943年に失脚した。
 フォスターの補佐官の一人で、ブラウダーの友人でも会ったアレクサンダー・ビッテルマン人民戦線宣伝部長も失脚せざる得なかった。アメリカ労働運動の功労者である、当時72歳だったジェイ・フォックスは機関誌の一つ『アジテーター』の編集長だったが、高齢ゆえ粛清を免れた。
 アナキストに関しては、労働総取引所執行委員であり反マフィア行動委員会委員長のカルロ・トレスカが逮捕、処刑された。
 スヴァーリニストのボリス・スヴァーリンは素早く逃亡したが、アメリカの在野スヴァーリニスト運動を率いたジェームス・キャノンは逮捕、処刑された。スヴァーリニストらは弾圧で地下に逃れたが、労働総取引所執行委員のマックス・イーストマンは完全に幻滅し、カナダへ亡命した。この事件でスヴァーリニストはさらに「スパイ」や「裏切り者」などの汚名を着せられ、熱狂的な粛清がなされた。
 かくして、1942年から1943年の間に労働総取引所執行委員会のメンバー約1/3が失脚、逮捕または行方不明となった。
 フォスター率いる狭義のサンディカリストに比べればアナキストの党勢は大きくなく、スヴァーリニストはさらに少なかったが、大粛清が始まると反ブラウダー派として結集していった。フランスでドゴールから弾圧を受けて事実上亡命してきたネストル・マフノとボリス・スヴァーリンは、ロシア革命とフランスで培ったセンスを駆使して秘密警察の追及をかわし、地下に潜伏した。この二人には欠席裁判で死刑判決がなされた。
 ブラウダーとしては、マフノとスヴァーリンは単に「人民の敵」というだけでなく、ヨーロッパから来た人間であり、「アメリカ的でない」と見なしていた。CSA指導部のうち、パリ・インターからの過剰介入を避けヨーロッパの戦争に巻き込まれたくないと望んでいたのはブラウダーだけではなかった。CSAは反帝協定にも枢軸国にも加わっておらず、ヨーロッパ戦線に対しモンロー主義的中立を貫いていた。こうした背景を踏まえると、イギリスの参戦とはヨーロッパによるアメリカへの介入であり、ブラウダーの失政でもあった。この事件に憤慨する人々はCSAに限らずAUSやPSAでも少なくなかったが、ともかくブラウダーは人民を引き締めて失政の責任を転換するために、この大粛清を内戦中に行わざるを得なかったとされる。
 さて、1942年12月、ミネソタ州アイオワ州などの中北西部の穀倉地帯にて農民反乱が勃発した。これはブラウダーの中央集権化路線の下、軍により食糧が徴発されていたことが原因だったが、マフノやスヴァーリンなどをはじめ反ブラウダー派は反乱に一斉加勢し、CSAを揺るがす一大反乱に成長していった。反乱軍からすれば、ブラウダーの中央集権化路線こそ欧州の猿真似であり、「アメリカ的」でなかったのだ。
 反乱軍には次のようなメンバーが参加していた。
 まず、ネストル・マフノ率いるアナキストらに関しては、アメリカの労働運動に古くから参加していたロシア人のアロン・バロン、ロシア革命以来の同志でありCSA軍参謀のヴィクトル・ビラーシュ、CSA軍将軍であり革命軍事委員会委員であったセミョーン・カレートニコフが続いた。彼らはロシア革命をその身をもって経験しており、農民を扇動し味方につけた。
 スヴァーリニストにおいては、ボリス・スヴァーリンのほかスヴァーリニスト政党である社会主義労働者党(SWP)党首マックス・シェフトマンもジェームス・キャノン処刑をもって武装蜂起に参加した。このほかにもフランス時代の同志であるアルベール・トライアン、スヴァーリニズム理論家のルシアン・ローラ、哲学者のピエール・カーンらが含まれていた。
 最初に粛清された共産党フォスター派では、フォスターの優秀な軍事顧問で、スペイン帰り組における数少ない反ブラウダー派だったジャック・シュールマン少将、1934年の西海岸ストライキを指導した若手のサミュエル・ダーシーが参加した。フォスター派は政権中枢を担った幹部が大方粛清されたため、指導層に欠いていた。その代わり、リード政権時代にサンディカの運営を担いつつ、ブラウダー政権の中央集権化で疎外されていた若い世代が反乱軍に参加した。

1943−1944 戦局転換の予兆

CSA、守勢へ

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1943年5月、10月

 1943年1月、CSA軍はアメリカ統一の一環としてロッキー山脈にある弱小の勢力であるデセレット国に侵攻した。1ヶ月足らずで降伏するという予想に反し、デセレット国軍と住民はゲリラ戦で頑強に抵抗し、CSA軍の進撃は停止してしまった。デセレット国の事実上の国教であるモルモン教で団結した住民は、他に例を見ない強力な連帯を見せ、地の利もあってCSA軍兵士を心理的・肉体的に追い詰めていったのだ。
 結局、同年10月にデセレット国軍はAUSの支援を得て大反攻を成し遂げ、CSA軍を追い出した。デセレット戦役の敗北は、イギリス参戦と農民反乱で垣間見えたCSAの凋落を決定づけたのである。
 さらに、内憂外患で四苦八苦していたCSAの混乱をつき、ジョージ・パットン参謀総長の指導下で1943年3月にAUS軍は大規模な北進を開始した。CSA軍の得意だった電撃戦をAUS軍は学習し、装甲戦力で戦線を突破してCSA軍の一部を包囲殲滅した。また、カンザス・ポケットの救出にも成功した。この一連の作戦は「ジェファーソン作戦」と名付けられ、AUS反攻の起点として記憶されることとなる。
 東海岸のイギリス軍もこれに便乗し、一大攻勢をしてハドソン川の渡河に成功した。しかし、CSA軍は精鋭部隊を送って食い止めた。
 7月に入るとCSA軍はデセレット進行部隊と農民反乱鎮圧部隊から兵員を抽出し、東海岸のイギリス軍に対する反攻作戦を行った。最新鋭の戦車や航空機などが激突したこの戦いは、フランスの英国上陸作戦やウクライナのドンバス攻防とともに並べられる凄惨なものとなった。CSA軍はハリフォードを奪還しボストンを占領したが、イギリス軍はボストン港をまるごと空爆で破壊し、使用不能とした。その後CSA軍は東ニューイングランドを放置し、軍を北上させカナダのケベックに向かった。
 一方で、CSAは全方位が戦線となっていたため国内の警察行動を控えざる得なくなり、農民反乱はますます活発化してノースダコタ州サウスダコタ州の権力を奪取していった。マフノは正式にCSAの対立政府を樹立し、自らその指導者に就任した。西海岸のイギリス軍もこれに乗じてアイダボ州を占領した。
 AUS軍はジェファーソン作戦の勢いに乗り、8月から10月にかけてケンタッキー州ノースカロライナ州の一部を奪還した。さらに10月にはデセレット国軍の反攻作戦と連動し、中部のデンヴァーとプエブロを奪還し、デセレット国と鉄道交通が回復した。
 東海岸のAUSとCSAの戦線はブルドーザー式に南北に移動し、現地の秩序はほとんど崩壊していた。このスキをつき、人種差別に憤慨する黒人民兵武装蜂起をし、北上した戦線の後方において主要道路から離れた地方部を支配し、「アメリカ黒人国(AFA)」を名乗った。サンディカリズム国家CSAは表面上人種差別を廃止していたが、実際には差別的待遇が残っており、これに裏切られていたCSAの黒人は動揺し、共産党員の黒人ハリー・ヘイウッドをはじめ一部がブラウダー政権から離反してAFAの義勇軍に参加していった。
 AFAの武装蜂起は黒人住民が比較的多いAUSにも衝撃を与えた。比較的進歩主義的なヒューイ・ロングは、黒人に対し従軍を禁止こそすれど白人と平等に民兵団と公共事業参加の道を与えていた。AFA蜂起はAUSの世論を一気に硬化させ、人種分離論を勢い付けた。上院議員や地方長官*8のなかにも保守派を中心に人種分離に賛成する者が多く、さらにウィリアム・ペリーのような人種差別過激派は放置すれば暴発しかねなかった。ロングは譲歩し、法の保証のもとに戦後人種分離することを上院議員らに約束しつつ、人種分離賛成派からペリーら過激派の切り崩しを図った。その手段は賄賂から脅迫まで豊富だったが、いずれも徹底していた。これに対しペリーやカフリンがロング批判を強めると、やがてロングは内戦集結まで彼らの排除を待てない、と確信するようになったのだった。

長いナイフの夜

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1944年4月、8月
 
 1944年1月には、南西部のCSA飛び地であるニューメキシコ・コミューンが東隣にあるテキサス共和国に攻勢をかけたが、わずかな土地を占領するにとどまった。ニューヨーク・コミューンはメキシコの直接的支援を受けていた。また、メキシコは旧USAに宣戦布告することで内戦に関与したが、経済封鎖で外貨の稼ぎ頭である石油産業が停滞し、さらに本来の産業能力が低かったため大規模な軍事行動に出ることができなかった。メキシコはPSAとテキサス共和国に対して休戦協定を結ぶことで、戦線を一本化した。ちなみに、ブラウダーの粛清を追われた者のうち一部はメキシコに避難していた。
 武装蜂起から1年以上経過していたCSA北西部の農民反乱軍は未だに勢力を保持していた。イギリス軍とCSA軍による二正面作戦を強いられたにもかかわらずである。反乱軍とその臨時政府の指導者であるマフノは、非アメリカ人でありながら現地住民の支持を勝ち取ることに成功し、彼らを組織化して綿密な組織網と情報網を構築した。ブラウダーから送られた暗殺団を何度も検挙し、敵の侵入をいち早く察知してゲリラ戦を行えるようになった。マフノの農民反乱軍は、内戦ぼっ発以来培われたサンディカリストによるゲリラ戦システムの最終形態だった。
 カナダにいるイギリス軍は農民反乱を好機とし、モンタナ州とアイダボ州に侵攻した。イギリス軍勢はやすやすと主要鉄道と都市を占領したが、反乱軍側は事前に住民や物資などを田舎に疎開させ、残された都市にはブービートラップを設置することで敵に損害を与えた。そしてイギリス軍部隊が疲弊すると、これを見計らってゲリラ兵が襲撃した。イギリス軍もCSA軍も組織化された農民の組織網を破壊することができず、支配地域は「点と線」にとどまり、また占領してもすぐに奪還されたのだった。
 3月にかけて反乱軍は中部のアイオワ州ネブラスカ州北部に攻勢を仕掛け、CSA軍を撤退させることに成功した。反乱軍に手間取られていたCSA軍は、同時期対AUS戦線でルイビルレキシントンを攻撃したが、猛反撃により奪還ならなかった。1941年から1942年にかけてのCSA軍は無敗を誇ったが、このころになると膨大だったマンパワーも枯渇していき、連日の空爆で生産能力が減退したため所々で敗北が目立つようになっていった。
 中部を攻勢から守ったAUS軍は東海岸にて進撃し、ダンヒルを奪還しついに因縁の地リッチモンドに到達した。リッチモンドはちょうど南北戦線の最北部に立っており、この時点で8回以上もCSAや旧USAと争奪戦が行われていた街だった。しかし、リッチモンドとはすでに内戦前に作成された地図上の存在にすぎず、戦禍のため廃墟と化し人口は1000人を切っていた。

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廃墟と化したリッチモンド(1946)

 春になると、北部では雪が解け大規模作戦が可能となった。衰退しつつあったCSAはブラウダーによる鉄の規律と粛清もあり何とか持ち直し、勢力を回復すべく反攻作戦が企図された。
 まず、カナダに対しては中部と東海岸では電撃的に機甲師団が奇襲をかけ、そのまま本土へなだれ込んだ。中部においては成功したが、東部においてはケベック兵の猛戦もあり反撃を許し、モントリオール直前で阻止された。この攻勢でカナダは東西交通が分断された。
 さらに反乱軍に対して反撃し、ミネソタ州アイオワ州に侵攻してミネアポリスとメインシティを奪還した。反乱軍は政府機能をサウスダコタ州に移転せざるを得なかった。
 対イギリス作戦が落ち着くと、CSA軍は踵を返し東海岸でAUS軍に対し一斉攻撃をかけた。ノースカロライナ州の一部を奪還したが、往時のような選挙区を一変させるかのような大戦果にまでは発展しなかった。
 ところで、この作戦において東海岸の戦線に存在するAFAは一種の干渉政権のような役割を果たした。AFAは主要交通網から離れた辺境部を支配したためである。AFAは中央政府を持つほどの発展に至る時間も余裕もなかったが、黒人が現地住民を完全に支配したことは確かだった。黒人は武装し、地元の武装白人住民を制したのである。
 この事態に最も頭を悩ませたのはAUSのロング大統領だった。AFA支配地域からの難民は日に日に増加し、黒人兵が白人女性を暴行したといった証言はすぐにメディアに報じられた。世論は憤慨し、ペリーら銀色軍団やKKKなどの過激派はロングが指導力不足であると指摘した。民兵や軍の一部がペリーに同調し、クーデターが企図されているという報告が戦争遂行委員会戦時諜報局によってなされ、ロングはペリーの排除を決断した。「長いナイフの夜事件」である。
 6月30日深夜、ヒューイ・ロングはチャールズ・リンドバーグにペリーの粛清を告げ、経営者グループの支持を得るよう説得し、了承を得た。同時にAUS軍とロングの私有民兵らはルイジアナ州各地にある過激派民兵アジトを襲撃し、ペリーをその場で銃殺したのだ。
 実際に粛清された人数は目標を絞ったために多くはなかったが、この事件はAUS中に衝撃を与えた。マッカーサーの暴政に立ち向かうとされたロング自身が、マッカーサーと同様の武力弾圧を行ったためである。KKKメンバーであったアーカンソー州地方長官ホーマー・アトキンスやラジオ説教師のチャールズ・カフリンらはこれを批難したが、厳格な報道統制とリンドバーグによる援護もありロングは何とか事態を乗り切った。結局、ロングは人種分離派だけでなくリンドバーグら財界グループにも介入の口実を与えてしまったのである。
 

1945‐1946年 勝者なき終戦

ドイツ軍上陸

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1945年5月、8月、12月

 1945年2月、CSA軍は空挺部隊をもって、東海岸と中部の間にあるカナダ五大湖地方を占領した。停滞していたモントリオール手前の戦線を揺さぶるためだったが、イギリス軍は巧みに後退し防衛線も築いた。中部ではカナダを東西分断したCSA軍部隊が西進し、地元住民と血みどろの戦闘を繰り広げていた。
 一方、反乱軍は相変わらず持久しており、前年イギリス軍に占領されたロッキー山脈地方をやすやすと包囲殲滅し奪還した。中部ではCSA軍とAUS軍の間で最後の大規模戦車戦「レキシントン突出部の戦い」が起き、AUS軍が勝利した。CSAは表面上体力を保っていたが、あらゆる面において戦争遂行の限界に達していた。マンパワーも国内インフラも使い果たしていたのである。
 こうしたなか、CSAの止めを刺したのはドイツ人だった。6月6日、ヨーロッパと北アフリカアナトリアで戦っていたドイツ帝国軍は勢力を結集してヨーロッパから撤退し、ニューヨークとフィラデルフィアの間に位置するトムス・リヴァーに一挙上陸したのである。この作戦を指導したのは皇帝ヴィルヘルム三世その人であった。知己と決断力に富んだヴィルヘルム三世は、ヨーロッパにおける戦争の長期化に加えて仏英航空戦(バタイユ・ド=ドゥーヴル)でイギリス軍が敗北しつつあること、イギリス軍によるヨーロッパ上陸作戦が延期に延期を重ねていたこと、ロシア軍が敗北しつつあったことを勘案し、ドイツ本国の奪還は不可能であると判断。そしてイギリスの反対を押し切り独自に上陸作戦を決行したのだった。
 この「ネプトゥーン作戦」は史上初めてドイツ軍がアメリカに上陸した出来事であり、これ以前からCSAには衰退の兆候があったとはいえ、戦局を一変させた歴史のターニングポイントとして記憶されることとなった。
 6月から8月にかけて、ドイツ軍はフィラデルフィアを占領しハリスバーグで一時足止めされるもこれを撃破した。ハリスバーグの戦いでの勝利の報を聞き、一時は黙殺を試みたイギリス軍は一転して勝ち馬に乗るように東海岸で軍事行動を起こし、CSA軍をハドソン川まで押し出した。CSAの首都シカゴへ向け、東からはイギリス軍とドイツ軍が迫っていた。
 AUS軍も東海岸ノースカロライナ州のほとんどを奪還した。緩衝地帯としてのバランスを失ったAFAは当然AUS軍の攻撃を受け、崩壊した。AUS軍が入市したダンヒルには、AUS軍が組織的に各地から黒人をサンディカリスト残党兵として搔き集め、順に殺害された。ダンヒル周辺の黒人は完全に0人となった。
 南部ではテキサス共和国とPSAがニューメキシコ・コミューンとの休戦協定を破棄し、東西から攻勢をかけた。サンディカリスト兵は人口希薄な砂漠地帯に巧みに潜伏し、ゲリラ戦を展開した。
 さて、ドイツ軍とイギリス軍は1945年末までに西進を続け、CSA軍は戦力再編のためオハイオ川防衛線まで撤退した。この過程でニューヨーク、ワシントン、デラウェアにCSA軍部隊が孤立したが、ブラウダーは彼らを「肉の要塞」として放置することを選んだ。
 これと連動し、AUS軍は東部で攻勢をかけ、リッチモンドチャールストンを奪還、ノースカロライナ州を完全に占領してドイツ軍支配地域と接続した。中部でもネブラスカ州ワイオミング州の一部を占領した。CSA反乱軍はイリノイ州ウィスコンシン州の一部を占領し、CSAは東西から挟撃される形となり、また残る領土はわずかとなった。ニューメキシコ・コミューンは完全に消滅し、カナダ本土からCSA軍は撤退しカナダの東西交通が回復した。
 この年、CSAは支配地域の半分を失い、首都の陥落は目前だった。ブラウダーは全住民の武装を命令し、軍民男女年齢の区別なく、十分とは言えなかった武器を手にして絶望的戦況に立ち向かうことを命令した。ブラウダーはラジオで悲壮な面持ちで語りかけ、全住民に勤労者としての誇りをかけ、サンディカリズムと名誉に殉じることを呼びかけた。反乱軍は反ブラウダーであるを除けば実質的なCSAであったので、住民は西へ西へと逃走した。軍と人民戦線党員や警察は銃を向けてこれを抑止し、住民すなわち民兵を各戦線に配置した。
 反乱軍側も自身の崩壊が近いという雰囲気が流れ、ネストル・マフノは各勢力と秘密交渉を図ったが実を結ばなかった。そこでゲリラ組織網を利用し、CSAからAUS、テキサス共和国やPSAなどを通じてメキシコに逃れ、そこから第三国へ脱出するルートを構築した。スヴァーリンを含む反乱軍の主要政治家はこれを経由して地獄から脱することとなる。
 ところで、1945年3月にパナマ大統領のアルヌルフォ・アリアスがパナマ運河を国有化した。アリアスは民族主義政党パナメニスタ党指導者だったが、サンディカリストではなかった。それにもかかわらず、パナマ運河奪還を望むAUSのプロパガンダでアリアスはサンディカリストとしてでっち上げられ、同盟国各国から経済制裁を受けることとなった。

戦争終結、秩序再編

 

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1946年7月、1947年4月

 1946年となった。サンディカリストの敗北を決定的となり、残るAUS、PSA、イギリス、ドイツの間で戦後秩序をめぐる駆け引きが始まった。サンディカリスト国家の領土を戦後分割することで各国は合意した。分割対象はCSAとメキシコだったが、これにアリアス大統領のパナマが加わった。というのも、これはAUSやドイツなどがパナマへの領土的野心を隠さなかったからに他ならない。ヴィルヘルム三世は本国抜きでのドイツ再建が不可避となりつつあるなか、ジブラルタルシンガポールなどのような地政学的価値のあるパナマを得ることこそ、戦後ドイツ帝国の名誉が失われることを防ぐであろうと考えた。
 1946年1月、AUS、PSA、テキサス共和国、同盟国は同時にメキシコへ宣戦布告した。AUSと同盟を結ぶテキサス共和国はメキシコ北東部、PSAは北西部、イギリスはユカタン半島から易々と進行していった。ドイツ軍はこれに乗じてパナマに宣戦布告をし、パナマ運河を含むパナマ全域を占領した。
 CSAでは冬季に一時軍勢が停止しつつ、3月に雪が解けると各軍はCSAの本丸へ向け突撃を開始した。CSA軍民は捨て身の狂信的な戦いぶりで各軍勢の進撃を遅らせたが、とはいえCSAから脱出する方法はもはやなかった。四方八方が敵だった。
 残されたCSAの領土はかつての工業地帯だったが、連日の空襲で見る影もなかった。しかし、破壊された摩天楼と市街地は装甲部隊の全身を阻み、巨大な要塞となった。首都であるシカゴのほか、デトロイトインディアナポリス、サウスベントのほか、未だ陥落していなかった東海岸のニューヨークが包囲下のなか抵抗を継続した。
 シカゴは毎昼毎夜砲撃され、至る所で火の手が上がった。その様子は聖書における地獄の業火と比喩された。アール・ブラウダーは地下壕近くまで敵兵が及んだことを知り、ついに拳銃自殺した。政権閣僚のうち包囲から脱出できなかった者は戦死したり自殺したりした。脱出した政治家でも、兵士に見破られ逮捕される者もおり、国外脱出は困難を極めた。
 ともかく、シカゴは5月2日に無条件降伏をした。デトロイトとサウスベント、ニューヨークは夏まで耐え、その後無条件降伏をした。かくして、CSAは滅亡した。
 CSA反乱軍はサウスダコタ州を除きほとんど討伐されたが、民衆の支持は篤く残り、当地の秩序が新たな支配者によって完全に取り戻されるには2,3年を要することとなる。そのため、前述のように反乱軍の旧支配地はCSA関係者の亡命ルートに用いられた。
 このあと、1946年8月25日にレイキャビク休戦協定が同盟国と枢軸国間で結ばれ、そこで枢軸国がアメリカ内戦による秩序変更を認めたことで、ひとまず世界大戦としてのアメリカ内戦は終結した。翌1947年4月に内戦参加国の間でワシントン条約が結ばれ、これをもってアメリカ内戦はその後の秩序変更を含めて正式に終結したこととなる。
 ワシントン条約では、南部と中南部をAUSが、旧テキサス州オクラホマ州ニューメキシコ州テキサス共和国が、西海岸南部をPSAが、旧ユタ州とアイダボ州の一部をデセレット国が、旧米領五大湖地方からニューヨークにかけてをドイツ帝国が、残りをイギリスが支配することを相互承認し、また、メキシコにおいても北部に設立された傀儡政権であるリオグランデ共和国とソノア・シラノア共和国、ユカタン国、残された新生メキシコ、ドイツ領となったパナマについても相互承認を終えた。新生メキシコについては、ドイツの計らいでオットー・フォン・ハプスブルクを君主に戴くことで合意した。
 旧USAの産業地帯をドイツに継承させるという一見荒唐無稽な案が実現したのは、1946年3月よりフランス軍によるイギリス本土上陸作戦が始まり、在米英軍の多くは撤退せざるを得なかった。こうした兵力損失の穴埋めをドイツ軍が行ったことから、ドイツの発言力が相対的に増したとされる。
 また、レイキャビク休戦協定の結果、ドイツだけでなくイギリスにオランダ、そしてのちにノルウェーがヨーロッパ本国の領土を失い、新大陸に「引っ越し」せざる得なかった。ドイツのアメリカ支配はこうした「引っ越し」のモデルケースとなった。メキシコにおけるオットー・フォン・ハプスブルクの戴冠も、WW1で失われたハプスブルク支配の「引っ越し」と考えることができた。
 内戦とは一国内部の戦争であり、通常内戦終結後は国家の統合が図られ、南北戦争もまたそうだった。しかし、アメリカ内戦の場合は貧困と社会荒廃の末にアメリカはイデオロギーで分裂し、外国の介入もあり分裂が修復されることは二度となかったのである。AUSやPSAなどは別々の一つの独立国家として再出発をすることとなった。

内戦の影響

犠牲者と人口移動

 アメリカ内戦の犠牲者については軍民の境界があいまいだったため、軍人あるいは民間のみの犠牲者を算出することは困難であるが、軍民総合した犠牲者は各勢力合計3000万から4000万人であると算出されている。1920年代生まれの世代は男性の7‐8割が死亡し、新たな「失われた世代」となった。
 内戦中あるいは内戦後、戦禍を逃れるためにあるいは戦後の懲罰的な強制移住のために、多くの人々が一家離散と移住を経験した。
 内戦以前のアメリカは南部から北部の産業地帯への移住が特に黒人の間で顕著にみられたが、内戦で北部のインフラが破壊されるとこの動きは停止した。北部の黒人は人種差別の激しい南部への移住を望まなかったため、移住者の大半はPSAかカナダを選んだ。しかし、移住先でサンディカリストのレッテルを張られ、強制送還されることも少なくなかった。AUSは戦後人種分離政策に基づく黒人自治区を創設し、安い労働力を求めたため次第にAUSへの黒人移住者も増加していった。
 北部の産業とインフラは完全に破壊されたが、ヴィルヘルム三世はドイツ再建のため元CSA市民の免罪を大々的に行い、出国を抑えた。

サミュエル・モリソンによる研究

 内戦時にハーバード大学歴史学教授で、その後カナダ陸軍に従軍したサミュエル・モリソンは内戦の犠牲者に関する綿密な研究を残した。1937年から1946年にかけて、戦闘による戦死、戦病死だけでなく民間人も含む病死、餓死、出生抑制を鑑みると、旧アメリカ合衆国では約2440万人*9、カナダでは130万人が死亡したという。

各勢力の解説

 別途新たな記事で紹介予定。こうご期待。

アメリカ・サンディカリスト国(CSA)

donau.hatenablog.com

アメリカ太平洋州国(PSA)

*1:公衆電話の発信二回分の料金に相当する。

*2:戦後ドイツ領アメリカで活躍した女優グレース・ケリーの父。

*3:議会的なもの。ちなみに当時フランスでは事実上ドゴール元帥の傀儡だった存在であったが、CSAでは権力を有していた。

*4:州兵、民兵とは別。

*5:ちなみに内戦勃発時に軍とサンディカリストにより二度暗殺未遂に遭った。

*6:マッカーサーは感情が激しかった。

*7:外地であればアラスカやプエルトリコなどが未だ残っていた。

*8:合衆国憲法における州知事に相当。

*9:テーラン・ヴァイス作戦で脱出後カナダ軍に就いた者も含む。