ダグラス・マッカーサー

ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur、1880‐1941)はアメリカの軍人、陸軍元帥、独裁者。アメリカ内戦においてガーナー大統領に対しクーデターを起こし、内戦の直接的原因をつくった。航空機事故で悲劇的に死亡した。

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来歴

 マッカーサー一族はもともとスコットランドの没落貴族の家系であった。父アーサー・マッカーサー・ジュニアは南北戦争米西戦争に参加した職業軍人であり、息子たるマッカーサーは軍人として自然に育った。母メアリーはマッカーサー以外の兄弟が皆病死したため、ダグラスを酷く溺愛していた。
 1903年にウェストポイント陸軍士官学校を首席で卒業した。士官学校で横行していた年長者による凄惨なシゴキは、マッカーサーの不屈の精神を養った。卒業後はフィリピンに配属され、その後日露戦争の観戦武官に任命された父に従い日本に駐在した。このとき東郷平八郎乃木希典などと面会したと伝えられている。帰国後は陸軍省で勤務した。
 マッカーサーが初めて戦果を挙げたのがメキシコ革命の介入戦争だった。1913年にメキシコのビクトリアーノ・ウエルタ将軍が政権を掌握すると、これを承認しないアメリカのウィルソン政権はタンピコ事件*1を経て、アメリカ軍を送って介入した。旅団の偵察兵として従軍したマッカーサーは、メキシコ軍から蒸気機関車3両を単身で奪取し、輸送力不足だった介入部隊に送り届ける活躍を見せた。このとき、メキシコ軍の騎兵隊と戦闘に入り軍服に3発被弾したという。この功でマッカーサー名誉勲章を受勲した。

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国境戦争(1910-1919)

 メキシコ革命に対するアメリカの一連の介入は「国境戦争」と呼ばれ、WW1をよそに1919年まで続いた。この戦争でマッカーサーは師団参謀にまで昇進した。マッカーサーはカーフブーツとマフラーという特徴的な服装を好み、危険を顧みずにしばしば最前線まで乗り込んだ。戦争末期には旅団長に昇進し、凱旋した。国境戦争ではメキシコ人ゲリラを相手にする非対称戦争という面も色濃く、これがアメリカ内戦におけるマッカーサーの過激派に対する姿勢に表れていたことを指摘する歴史家もいる。
 戦後、ウェストポイント陸軍士官学校の校長に若くして就任した。シゴキの悪習を廃止し代わりにスポーツを充実させ、生徒には厳格な支配を敷いた。当時の生徒の一人は「泥酔した生徒が沢山いる部屋にマッカーサーが入ってくると、5分もしないうちに全員の心が石のように正気にかえった。こんなことができたのは世界中でマッカーサーただ一人であっただろう」、とのちに語っている。
 1922年にフィリピンのマニラ軍管区司令官に着任した。このとき上流階級の女性ルイーズ・クロムウェルブルックスと結婚したが、のちに離婚している。フィリピン駐在中、独立準備政府初代大統領のマニュエル・ケソンと交友を結び、マッカーサーはフィリピン政界でも知られた存在となった。1923年の関東大震災の際、フィリピンから日本への救援物資移送作戦を指揮し、このことから1925年にアメリカ陸軍史上最年少で少将に昇進した。
 少将となったあとは本土に転属されたり、アムステルダム五輪の米選手代表団になったりしたが、1929年に在フィリピン米軍司令官に命じられ、フィリピンに帰還した。司令官マッカーサーは将来の対日戦を予見し、現地軍の貧弱な装備と予算を嘆きつつ、なんとか軍備の拡充を試みた。ケソンらフィリピン人エリートとも対等に接し、彼らの支持を勝ち取った。ケソンらはマッカーサーのフィリピン総督就任を望んだが、そうならなかった。フーヴァー大統領が陸軍参謀総長に命じたためである。

フーヴァー政権下にて

 1930年、マッカーサーは史上最年少で陸軍参謀総長に就任した。1933年にはのちにアメリカ太平洋州国で活躍するドワイト・アイゼンハワーが就いた。
 WW1に参戦していなかったアメリカ軍は、当時国力に比しあまりにも小規模だった。そのうえ、世界恐慌で財政が悪化すると議会はさらなる軍縮を迫り、マッカーサーはこの対処に苦労した。マッカーサー軍縮派を「サンディカリスト」と罵った。世界恐慌アメリカ社会が乱れ始めると、マッカーサーはしきりに反対派を「アカ」と呼ぶようになった。
 マッカーサーの名は、1932年のボーナスアーミー事件で全米に知られるようになった。国境戦争やバナナ戦争*2などの退役軍人らが軍人恩給の先払いを要求してワシントンDCに座り込んだが、丸腰であるにもかかわらずマッカーサーは退役軍人らを武力で制圧したのである。この事件はアメリカ中で論争を巻き起こし、マッカーサー自身も行き詰まりを感じ燃え尽き気味となった。このころ、副官に対し自殺をほのめかすこともあったという。

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ボーナスアーミーのデモ隊
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左:マッカーサー 中央:パットン

 1934年に陸軍参謀総長の任期を全うし、フィリピン軍の軍事顧問に就任した。これを招聘したのはケソンだった。また、副官アイゼンハワーもフィリピン行きに続くよう命じられた。マッカーサーを崇拝した部下は多いが、アイゼンハワーはこのころマッカーサーと個人的問題を抱え、愛想をつかすようになったという。
 このころアメリカ本土では世界恐慌以降の失業と飢餓が社会をむしばみ、「革命前」と評されるほど治安が悪化していた。北部ではジャック・リードらサンディカリストが、南部ではヒューイ・ロングらファシストが暗躍し、憲法レベルでの破壊的な改革の機運が高まっていた。フーヴァー大統領は1936年末の選挙実施を危ぶみ、ボーナスアーミー事件で有名となったダグラス・マッカーサーを「緊急事態委員会」の委員長に指名し、超法規的な治安権限を与えたのである。
 マッカーサーは帰国してこれを承り、さっそく軍とFBIを動員して労働運動を弾圧、南部では反政府的な民兵を文字通り粉砕した。緊急事態委員会の治安活動は法の管理を完全に逸脱しており、令状なしの逮捕はもちろん、一般市民に対しても虐殺が行われた。まさにボーナスアーミー事件を全米規模で再現したのである。
 フーヴァーはマッカーサーが協調性に欠け、上官たる大統領の命令を超えて暴走することをボーナスアーミー事件でよく理解しており、緊急事態委員会の活動が世論における共和党の支持を損なうことも理解していた。しかし、この状態を放置すればリードまたはロングが大統領に当選するのは明白であり、共和党民主党もこれに同意し緊急事態委員会を不問としたのである。さらに、大統領選挙に際して両党は「自由ブロック」を名乗って候補者を一本化した。フーヴァーは大統領選挙に立候補したリードの人民戦線、ロングのアメリカ第一党に解散命令を下し、大統領選挙は事実上の信任投票と化した。
 緊急事態委員会委員長としてのマッカーサーの腕は、その法的正当性はともかくとして悪いものではなかった。リードとロングもそれぞれ地下に潜伏し、サンディカリストファシストなどの過激派組織は表面上壊滅した。しかし、とりわけサンディカリストは都市の摩天楼と地下鉄という物理構造上の利点もあり、その組織網をある程度温存することに成功した。サンディカリストの地下努力は1937年1月1日の「新年ストライキ」で実り、シカゴやボストン、ニューヨーク、ロサンゼルスなどを中心にアメリカ軍部隊が駆逐されたが、また数日後に機械化部隊がこれを制圧した。ほんの一時ではあるが緻密な組織網が強力な軍部隊を退けたこの事件は、内戦におけるサンディカリストの頑強なゲリラ戦術の歴史の始まりだった。

クーデター決行、内戦へ

 1937年1月24日、自由ブロックのジョン・ガンス・ガーナーは文字通り一人勝ちした。この予想通りの結果を受けて、ジャック・リードやフォスター、ブラウダーらサンディカリストの指導者は武装蜂起を起こし、アメリカ・サンディカリスト国(CSA)の独立を宣言した。この事件はまさにマッカーサーの失態と呼ぶべき結果であったが、実際の事情は複雑だった。
 選挙中、ガーナーはマッカーサーへの権力集中を危惧している旨を部下に告げており、この発言は軍へ密告された。これに憤慨したマッカーサーがあえて警察行動を控えたことが、CSA独立を招いたという指摘が後世の歴史家によりなされている。
 いずれにせよ、ガーナーが力ではなく文治を公式に主張していたことは確かで、またマッカーサーがこれを快く思わなかったのは確かだった。3日後の1月27日、選挙終了とともに緊急事態委員会とその権限が消滅したにもかかわらず、マッカーサーはワシントンのホワイトハウスに部隊を突入させ、ガーナーを拘束、合衆国憲法の一部停止を宣言した。クーデターである。
 ガーナーがマッカーサーに対抗する上での味方は上院議員の一部とワシントンの地元警察しかおらず、武力の差からしてクーデターは当然の帰結だった。マッカーサーはガーナーにもはや再起する能力はないと判断し、あらかじめマッカーサー側が書いた大統領辞任の宣言書をガーナーに署名させ、西海岸へ追放した。
 アメリカ市民自身の手で合衆国憲法が葬られたこの事件は、全米を失望させ、もはや誰もアメリカ合衆国を擁護する者はいなくなった。クーデターを予期した反マッカーサー派の上院議員は事前にワシントンを脱出し、ルイジアナ州に逃れた。クーデターと同日、上院議員ヒューイ・ロングはクーデターの報を受けてすぐに「合衆国の死亡」を宣告し、上院議員らとともに独立戦争の原点に立ち返る「第二次独立宣言」を発表した。こうして役者は揃い、アメリカ内戦は始まった。

テロル戦

 マッカーサー・クーデターの直後ニューイングランド地方の一部州が公然と反旗を翻したが、マッカーサーは素早く軍を派遣し州政府を力づくで潰した。
 マッカーサーと軍は東海岸と中央部のいわゆる「自由回廊」を拠点に、CSAが支配する北部とAUSの南部に対して警察行動を展開した。マッカーサー率いる軍の支配地域では、連邦政府とすべての自治体は軍の管理下に置かれ、自治体の自治は制限された。「秩序を守るために」法を無視したあらゆる措置が認められている、とマッカーサーは宣言し、「史上これほど絶大な権力を手にしたアメリカ人はいない」と言われた。
 当のマッカーサー本人は、クーデター以降生気を取り戻し愉快な様子だったという。軍の将兵や一部官僚も、マッカーサーのカリスマに魅了され熱気をもって従うようになった。
 マッカーサーを支持した少数の上院議員を「民政諮問委員」にまとめつつ、支配地域の内政は参謀本部とその附属機関が指導するようになった。例えば、「参謀本部民政局」には「古き良きアメリカ的保守派」の軍人であり、マッカーサーの友人であるコートニー・ホイットニーが就任し、さらに参謀本部付属のプロパガンダ機関である「社会教育委員会」は、マッカーサーを支持するジャーナリストや映画界などから人材を引き入れた。経済統制に関しては、大企業の権益を擁護しつつ、適宜軍が介入して間接的にコントロールしていた。エドガー・フーヴァー率いるFBIは無尽蔵に予算と規模を拡大し、あらゆる地域のあらゆる組織にFBIの密告者が現れるようになった。
 内戦初期、CSA軍もAUS軍もアメリカ軍に対抗し得る近代軍が不足していたため、住民の支持を根拠とするゲリラ戦が行われた。アメリカ軍はゲリラの根拠地に突入し、住民を老若男女関係なく殺害する警察行動をもって対抗した。これは、バナナ戦争における反米サンディカリストゲリラに対する戦争で有効と認められた戦術であり、すなわち疑わしき者は根こそぎ殺害し、恐怖を持って支配するというものだった。また、残忍な警察行動部隊は「死の部隊」とも呼ばれた。
 内戦勃発からの1年間だけでも、判明しているだけで約6000以上の集落が地図から消滅した。マッカーサーはより効率的な警察行動を行うため、当時前人未到の領域だった空軍による絨毯爆撃を試し、これを取り入れた*3。一部区画がサンディカリストに奪取されたニューヨークにおいては、容赦なく摩天楼に砲撃を加えて断固たる態度を見せた。
 マッカーサーはこうした残酷な作戦に何ら罪悪感を感じていなかったようで、ジャーナリストの質問に対し「私が法を犯しているのは知っている。しかし、非常時において優先されるのは法よりも善である。私はアメリカ人であるから聖書に従い、そしてその善に従っているのだ」と返答した。
 また、マッカーサーは内戦遂行にあたりドイツの支援を頼りにしていた。権威ある君主に率いられたドイツの体制にマッカーサーは関心を示していたようである。そのため、内戦後に設立されたドイツ領アメリカ政府には、かつてマッカーサーに仕えていた軍人が多数参加していた。

テーラン・ヴァイス作戦

 しかし、結局のところ恐怖だけで住民を完全に支配することはできず、特にサンディカリストは地下のゲリラ網を発達させ、アメリカ軍に総攻撃を加えて1939年6月までに自由回廊を占領せしめた。マッカーサーは警察行動だけで自由回廊を維持するには十分であるという考えを固執していたが、結局それが仇となった形だった。
 自由回廊の駐留部隊は一気に劣勢となり、マッカーサーに協力的だった住民はリンチされ、一転して自由回廊は地獄の様相を呈した。復讐を恐れた兵士と一部住民は我先に列車に乗り、砲撃のなか東へと撤退していった。この混乱の際に数十万人が死亡したとされるが、詳細は不明である。
 アメリカ軍は何とか体制を立て直し東海岸の守りを固めたが、CSA軍とAUS軍にジリジリ押されており、指揮旺盛だった参謀本部にも敗戦ムードが漂い始めていた。マッカーサーもこの敗北に自信を喪失しかけた。副官アイゼンハワーによると「うなだれて自室にこもり、我々(副官)の心配をよそに3日間も職務を放棄したあと、今度は生まれ変わったように戻ってき」て、「軍民を立て直す大作戦」の研究を始めたという。
 この作戦こそ、マッカーサーが「アメリカのカエサル」と呼ばれるようになる東海岸からの大撤退作戦「テーラン・ヴァイス作戦」だった。
 テーラン・ヴァイス作戦とは、軍民を総動員して東海岸のあらゆるインフラと人員を海軍艦艇を通じて撤退させ、西海岸に引越しして反攻の機会を伺う内容だった。この作戦では敵に何も残さぬべく工場とインフラの焦土作戦が含まれており、さらに住民の半分を海上脱出させるということもあり、その壮大さゆえ参謀本部でも悲観論が横行した。
 マッカーサーは自らこの作戦の解説を行い、熱のこもった演説に軍人も上院議員も官僚も、さらには大企業経営者も皆まるで催眠術にかかったように、マッカーサーの演説に乗せられ、熱狂的にマッカーサーに従うようになったという。
 内戦勃発当初マッカーサーを警戒していたイギリスとカナダ政府は、マッカーサーの親独傾倒を憂慮しこのころから積極的に支援するようになった。そのため、マッカーサー海上脱出させるべき人員や設備をカナダを経由して陸路で移送することができるようになり、作戦はより順調に進んでいった。しかし、カナダ領に入ったアメリカが所有する物資の処分をめぐりカナダと対立するなど*4、その関係は刺々しいものだった。
 全男子を徴兵した軍は、住民の避難を優先させつつ敵に渡す鉄道や送電線などのインフラは容赦なく破壊し、焦土作戦の様相を示した。赤化の恐怖で尻に火がついた徴用兵は首尾よく動き、作戦を円滑に進めた。
 1939年12月25日までに、東海岸の支配地域における住民約2100万人のうち約1000万人が脱出し、作戦は見事に成功した。マッカーサーは最後まで東海岸に踏みとどまり「I shall return」と言い残し、輸送機で脱出した。撤退終了後、海軍の艦艇は東海岸の各港を砲撃し、破壊し尽くした。このおかげで、CSAは東海岸を占領してもフランスからの支援物資にありつけることができなかった。

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作戦を指揮するマッカーサー

デンヴァーの勝利、突然の死

 テーラン・ヴァイス作戦が成功したとはいえ、東海岸失陥は世界中に報じられ、西海岸の反マッカーサー的な政治からはここで一気に反旗を翻し、アメリカ太平洋州国(PSA)や自由連立政府(GLA)などが分離独立した。マッカーサーは討伐作戦と絨毯爆撃で対応した。また、このころ副官のアイゼンハワーは完全にマッカーサーを見限り、辞表を提出して在カナダ米軍部隊へ異動した。
 マッカーサーは中西部のデンヴァーにて構え、防衛戦を構築して軍を立て直した。1940年9月にCSA軍は総攻撃を加えたが、アメリカ軍はこれをかわしてCSA軍を包囲殲滅する大勝利を飾った。この勝利にマッカーサー支配地域の住民は沸き立ち、再びマッカーサー人気が興った。
 こうしたなかの1941年3月、マッカーサーは不仲だったイギリス、カナダと連携すべく、自らカナダへ飛んでイギリス、カナダ政府と軍首脳と会談を行った。しかし、会談を終えたその帰路、3月20日マッカーサーが搭乗した輸送機は離陸に失敗し墜落、マッカーサーを含む搭乗員全員が死亡したのである。
 この突然の死は、現在でも不可解な謎を残している。事故調査は、参加を求めたドイツ政府の要請を断りカナダ軍が単独で行い、パイロットによる操縦ミスが原因と断定した。堅実な訓練を受けた空軍のパイロットにのみ、事故の原因を求めるのは不自然であり、マッカーサーの死亡直後から各国の報道は、カナダ軍が意図的に機体の整備ミスを起こし墜落させたのではないかと疑った。
 こうした謀略論の論拠を支えるのは、マッカーサーとイギリスの不仲と、マッカーサーの親独傾倒だった。当時イギリスとドイツは同盟国としてフランスとドナウ率いる枢軸国との戦争状態に至っていたが、それにもかかわらず英独は決して連携しているとは言えなかった。平時から世界の覇権をめぐり争っていた二国は、しばしば情報共有を拒んだり、お互いの部隊を支援せず見殺しにすることもあった。
 マッカーサーの部下の一人で、戦後ドイツ領アメリカで活躍したチャールズ・ウィロビー*5は、死亡直前の会談においてイギリスから参戦と引き換えにアメリカ北部の割譲を要求され、マッカーサーはこれを拒んだために殺害されたことや、後にPSA参謀総長となるアイゼンハワーがこの陰謀に関わっていることを主張したが、これがどこまで正しいかどうかは不明である。そもそも、ウィロビーはドイツ政府との距離が近く、その主張に中立性が欠けているという批判は誤っていない。
 ともあれ、マッカーサーという「アメリカのカエサル」を失った軍は空中分解していき、その後はCSA軍の猛攻に耐えきれず、かつてマッカーサーに従った軍人たちは戦士したり、AUSに就いたり、PSAに就いたり、カナダに逃れたりしてバラバラとなった。エドガー・フーヴァーはAUSに亡命しAUSの秘密警察構築において顧問として寄与することとなった。

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死後神格化されたマッカーサー

その後

 マッカーサーは、その印象的な人間性と事績、そしてその最期のためにアメリカのみならず世界中で強烈に記憶されることとなった。冷戦期において、反組・反共の政治家はしばしば「〇〇のマッカーサー」と呼ばれた。アメリカにおいては内戦後しばらくマッカーサーの話題はタブーとなったが、1970、80年代から反体制派によりマッカーサーが顕彰され、内戦と英独の占領で失われたアメリカ性の象徴として、神格化されるようになった。
 戦後、ドイツ領アメリカの外交官となったダグラス・マッカーサー二世*6は「ダグラス・マッカーサーは大勢の人間を拷問し、火炙りにかけたが、それは彼らがアメリカを破壊したサンディカリストだったからだ。内戦の犠牲と苦しみは無駄ではなく、必要な痛みだった。アメリカが生まれ変わるための痛みだったのだ」と擁護した。CSA軍に従軍した文豪アーネスト・ヘミングウェイは「あの戦争で最も人を殺したのは、ドゴールでも、ローゼッカでも、フルシチョウでも、ヒロヒトでもなく、マッカーサーだった。マッカーサーは殺戮の化身だった」と批難した。

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マッカーサーカリカチュア。コーンパイプはマッカーサーのトレードマークでもあった。

*1:ウエルタ派の兵士がアメリ海兵隊員を拘束した事件。

*2:戦間期に行われたアメリカによる中米諸国への介入。

*3:スペイン内戦におけるフランス人民空軍による初の戦略爆撃であるマドリード空襲よりも早かった。

*4:1939年にはカナダに陸路移送された金準備の一部をカナダ軍が接収する事件が起きた。マッカーサーはイギリスとカナダを大いに警戒するようになり、それ以降重要物資はアメリカ海軍の手で運搬することとなった。

*5:後にカール・フォン・チェッペ・ヴァイデンバッハに改名。

*6:若くして病死した兄アーサー・マッカーサーの三男。