ゲラニウム作戦とドナウ占領下の旧ユーゴスラビア

 ゲラニウム作戦とは、1939年9月1日に開始された、ドナウ連邦軍によるセルビア侵攻を指す。WW2最初の戦役であり、これにともないユーゴスラビアを支援するイタリアがドナウに宣戦布告し、戦争はさらに拡大することとなった。

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ユーゴスラビア軍とドナウ軍装甲部隊

前史

ゲラニウム作戦

概要

 ドナウ軍はA軍集団(第2,7,10軍)と第1装甲集団他各航空戦力による60万人が作戦に参加し、対してユーゴスラビア軍は80万、後方に布陣するイタリア軍は30万人の兵力を擁していた。しかしドナウ軍は強力な航空戦力と装甲戦力を有しており、これが勝敗の鍵を握った。
 1日、まず国境に近い首都ベオグラードへの空襲が開始された。連日執拗に空襲が繰り返され、3000人以上の民間人が死亡した。8日、政府要人と国王ペタール二世が密かにイタリアへ脱出した。
 陸戦においては、ドナウ軍は第2軍と第10軍をスロベニアスラヴォニア方面から、第7軍をベオグラード正面から、そして第1装甲集団を事実上のドナウ保護領たるルーマニアのオルテニアを経由してベオグラード背後を占領、さらにベオグラードに各部隊を集結させマケドニアアルバニア方面へ進撃させた。アルバニアイタリア軍占領下であり、イタリア軍と本格的な戦闘が行われた。
 ユーゴスラビア軍はありあわせの装備で防衛することを余儀なくされたが、クロアチア人主体の第4軍はドナウ軍侵攻ルート上にある都市ザグレブの防衛という重要な任務を持ちながら、指揮下のクロアチア人部隊の多くが反乱を起こし機能不全に陥った。ドナウ軍は旧ウスタシャこと「クロアチア社会主義労農党」メンバーを活用して宣撫作戦を展開し、ローゼッカ大統領が「クロアチア人捕虜は停戦後に即時解放する」と演説したこともあり、ユーゴスラビア軍はあっさりとクロアチア人とセルビア人に分裂してしまった。
 9月12日、包囲下のベオグラードは砲撃と空襲に晒されるなか、ベオグラード市長の手で降伏し、これによりユーゴスラビアの大部分で戦闘が停止した。政府首脳はイタリアに亡命し、ユーゴスラビア軍最高司令部はドナウとの休戦交渉を許可した。イタリア軍は本土防衛のため積極攻勢を取らず、アルバニアダルマチア守備に徹した。12日、ドナウ代表ルードヴィヒ・アイマンスベルガー将軍とユーゴスラビア代表アレクサンダル・マルコヴィチ元外務大臣とミロイコ・ヤンコヴィチ将軍が休戦協定に署名し、休戦成立した。
 ドナウ軍は558名というわずかな犠牲を出した*1一方、ユーゴスラビア軍の犠牲者は数千人を超えた。民間人に対しては組織的虐殺が行われたが、詳細は不明な点も多い。

戦闘序列

・第2軍
 司令官:カール・ターブク歩兵大将 参謀長:ヘスレーニ・ヨーゼフ少将
・第7軍
 司令官:オイゲン・ルシンスキ歩兵大将 参謀長:ウラジミール・ガイドシュ少将
・第10軍
 司令官:アントニン・ハサル砲兵大将 参謀長:ヨセフ・ベラーネク少将
・第1装甲集団
 司令官:デンク・グスターフ中将 参謀長:マイル・イェネー少将

ドナウ占領下の旧ユーゴスラビア

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上:ユーゴスラビアの分割 下:ドイツ外務省による南スラブの民族分布図

 その後に続く「エーデルワイス作戦」でイタリア北部が陥落し、ダルマチアアルバニアからイタリア軍が撤退すると、ユーゴスラビアは完全にドナウの支配に下った。同年10月8日、12日の大統領令により、ユーゴスラビアの処分が決定した。
 ・ドナウ川以北の全ヴォイヴォディナをドナウ連邦に割譲し直接主権に置く
 ・モンテネグロのコトル湾をドナウ連邦に割譲し直接主権に置く
 ・上記と戦前におけるドナウ連邦領土を除く、旧二重帝国の支配地だった地域を分離し、これを「クロアチア保護領」とする
 ・残る部分に「セルビア総督府」を創設し、ドナウ国民の支配に置く
 ・なお、コソボの帰属問題は引き続き検討する
 こうして、大きく分けてユーゴスラビアクロアチア保護領セルビア総督府が支配することになった。また、コソボの一部は翌年保護領アルバニア国」の一部となった。

クロアチア独立国

 クロアチア保護領とはクロアチア人による非主権国家であり、いわば自治政府だった。ウィーンではクロアチアを直接併合すべきか議論がなされたが、棚上げという形になったためである。また、クロアチア保護領政府は「クロアチア独立国(Nezavisna Država Hrvatska)」と名乗っていた。
 クロアチア政府は戦前にドナウが養成したクロアチア社会主義労農党を通じてドナウに間接支配されており、軍は持たずとも連邦保安省の手で最新鋭の装備を手にした保安部隊が整備された。国家元首のアンテ・パヴェリッチは指導者を意味する「ポグラヴニク」を名乗り、ローゼッカ率いるドナウと同様の独裁国家の創設を試みた。
 パヴェリッチらクロアチア社会主義労農党はローゼッカからクロアチア人はドナウ文明の一員である旨の発表を得たことと同時に、クロアチアにおけるセルビア人への民族浄化の支援を取り付けた。WW2において行われたセルビア人に対する虐殺は、単にパヴェリッチとローゼッカらの個人的動機に留まらず、ユーゴスラビアの国民全体にあった社会矛盾と急速な識字化による不可避的なものであったともいわれる。
 とはいえ、この虐殺にクロアチアもドナウも積極関与したことは疑いようのない事実だった。クロアチア政府ミレ・ブダク(Mile Budak)文化・宣伝大臣はかの有名な発言を残した――「セルビア人の三分の一は殺し、三分の一は追放し、三分の一はカトリックに改宗させる」。当時の人口ピラミッドから類推すれば、若者と働き盛りの男性は殺し、老人は追放し、子供と処女はクロアチア人に同化させる、と言い換えるべきだろう。
 1939年末にさっそくキリル文字セルビア正教が禁止され、クロアチア社会主義労農党民兵と連邦保安省クロアチア人部隊によるセルビア人への虐殺が始まった。こうした虐殺事件は列挙すればきりがないが、有名なもののみ挙げるとグドヴァッツ事件、第一次グリナ事件が初期の虐殺として知られる。翌1940年春には一事件あたりの犠牲者数が数千人に増加し、虐殺がより大胆大規模なものになっていった。第二次グリナ事件では、第一次グリナ事件ですっかりおびえたセルビア人に対し、当局がカトリックへの改宗を提案、これを受け入れ集まったセルビア人のいる教会に火をつけ、騙し討ち的に虐殺された。その後も殺害は続き、合計約2千人のセルビア人が死亡した。

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改宗すべく集まったセルビア人ら。この直後焼殺された(第二次グリナ事件)。

 ガラヴィツェ事件では約15000人ものセルビア人、ロマ人、ドイツ人、ユダヤ人が虐殺された。ドナウ側がドイツ人とユダヤ人への危害を禁じていたのにもかかわらず、クロアチア側がコントロールが効かなくなっており、このことはローゼッカを激怒させた。
 こうした虐殺事件が多発し、クロアチア人がドナウ政府はもちろんクロアチア政府の統制さえ効かなくなっていると判明すると、ローゼッカは連邦保安省に「理性ある処理」を命令した。民族問題は予測不可能な現地住民に任せるのではなく、科学的知見に基づきウィーン中央で建てた計画によってなされるべきだ、ということだった。
 こうして、クロアチア各地に強制収容所が建設された。強制収容所は連邦保安省直轄のものとクロアチア直轄のもの、そしてその混合が存在したが、とりわけクロアチア人が管理しているヤセノヴァツ強制収容所は事実上の絶滅収容所だった。連邦保安省の収容所は、治安維持を目的とするパルチザンの収容所かドナウ連邦の公団に提供する労働力プールとしての役割があった。

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ヤセノヴァツ強制収容所における虐殺の様子

 また、児童収容所も存在した。児童収容所とは、表面的には戦争孤児の保護施設であるが、実際にはクロアチア在住のセルビア人から奪った子供をクロアチア人またはドナウ国民として育てる施設だった。同様の事業はトランシルヴァニアにおいて連邦保安省により行われていた。WW2のあいだ、クロアチア人在住のセルビア人のうち合計約60万人が児童収容所に収容された。さらに、セルビア人女性が駐留ドナウ軍や連邦保安省部隊などに拉致されたり、セルビア人女性向けの慰安婦の募集が存在したりした。くわえて、困窮したセルビア人女性がドナウ国民に接近し、結婚してドナウ市民権を獲得することはセルビア総督府同様珍しくなかった。

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スタラ・グラディシュカ児童収容所

 クロアチア保護領における各民族人口は、1939年のドナウ外務省によって行われた調査によるとクロアチア人が330万、セルビア人が192万、ボシュニャック人が70万、ドイツ人が15万、チェコ人とスロバキア人が6万、ユダヤ人が4万、スロベニア人が3万人いたという。この調査の通り、クロアチア保護領においてはセルビア人が多いことが、虐殺にともなう治安を著しく悪化させる原因となった。

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虐殺でよく用いられた「セルビア人カッター(Srbosjek)」

セルビア総督府

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 クロアチア保護領とは異なり、セルビア総督府とはドナウの植民地であった。セルビア人は総督府に雇われることがあっても指導的地位に一切就くことはなかった。セルビア総督府の目的は、ドナウの戦争経済を人的・物質的に支えることであった。この目的の達成のため、連邦保安省と国民衛兵隊の監視下で強制収容所が設立され、セルビア人がそこで年中無休で働いたり、あるいはセルビア人をドナウ連邦内の農園に強制出稼ぎさせたりした。セルビア人の利益は不当に制限され、ほとんどはドナウ連邦に充てられた。
 
セルビア総督:サーラシ・フェレンツ(党官房長、ローゼッカの重要な部下の一人)
   総督次官:コヴァルツ・エミル
セルビア総督府行政委員会
 フリードリヒ・ジーベルト(財務担当)
 ルードヴィヒ・アイヒホルツ(教育・文化担当)
 アントン・ケーラー(農業担当)
 ヨーゼフ・キンメル(建設担当、国民衛兵隊大佐)
 ヴァゴー・ベーラ(経済・労働担当、国民衛兵隊大将でドナウ全国福祉団指導者)
 ヘルマン・センコウスキー(郵便・鉄道担当)
セルビアにおける労働配置全権特使:セーレシ・イェネー

 このように、セルビア総督府において経済関連は国民衛兵隊員が占めており、セルビア総督府と国民衛兵隊のつながりは深かった。実際に、国民衛兵隊員が所有する公団が中心にセルビア総督府へ進出し、強制労働者の管理も国民衛兵隊の任務だった。一方、連邦保安省の任務はパルチザン退治だった。
 何度も述べているようにセルビア総督府は非主権国家でさえなかったので、セルビア人によるファシズム全体主義運動はすべて禁じられた。すべてがドナウ国民出身の指導者と官僚に指導され、戦争経済を維持する労働者を創るべく、愚民政策がすすめられた。
 例えば、教育においては高等教育はもちろん中等教育も廃止され、最低限の読み書きと計算を学ぶ4年間の初等教育のみ存在した。文化娯楽においては、ドナウとは比べ物にならないほどの質と量ではあったが、総督府の援助で映画や演劇などの娯楽が作られ、セルビア人に親しまれた。メディアは総督府直轄となり「ノヴォ・ヴレメ」といったセルビア語新聞が5,6紙発行されていたが、プロパガンダ色が強かったため職場や役所などでの強制購入以外はほとんど読まれていなかった。ラジオ・ベオグラードはドナウ連邦の宣伝省に接収された。
 食糧配給は民族によって異なっていた。ドナウ国民は一日当たり2310カロリーで、軍人や保安員、国民衛兵隊員の場合さらに追加された。一方でセルビア人は654カロリーであり、アルバニア人は930カロリーだった。総督府セルビア人向け食糧を制限し、その分をドナウ本国へと送っていた。
 警察は一応存続したが、国境警備隊に改組された旧国家憲兵を含みすべて連邦保安省による「連邦警察・保安総司令部」の指揮下となった。無論、これら部隊の指揮官は保安員または国民衛兵隊員だった。警察と国境警備隊は治安の悪化により通常業務だけでなく対パルチザン戦にも参加するようになった。

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セルビア総督府国境警備隊。制服はWW1時代の軍服と思われる。

 クロアチアでのセルビア人虐殺のため、大量のセルビア人が難民として総督府に殺到した。総督府はこれを快く思わなかったが、山深い地方部の総督府保護領の境界線を完全に監視することもできず、難民は止められなかった。その一方で難民の増加に関わらず、セルビア人向け食糧配給の総量は増えなかったため、結果としてセルビア人は飢餓状態に陥った。セルビア人はより多くの食糧を得るため、工場での強制労働を志願せざる得なかった。また、貧困から逃れるべく駐留ドナウ軍人や国民衛兵隊員、保安員と結婚するセルビア人女性が後を絶たなかった。
 セルビア総督府においても虐殺がなかったわけではなく、ルーマニア人やロマ人、クロアチア人やアルバニア人を標的とする自発的な虐殺が何度も起こっていたが、ロマ人以外のものについては1940年以内に連邦保安省の努力もあり小康化した。
 1943年にはクロアチアを含む旧ユーゴスラビア占領政策の綻びが現れ、パルチザン活動が活発化し、ウィーン中央は抜本的な路線変更について検討するようになった。セルビアについてはクロアチア保護領の一部を総督府に移すことで、セルビア人の「安全地帯」を作る「スヴェスルビヤ構想」があったが、これを主導したヘルマン・ノイバッハー外務大臣の失脚もあり実現しなかった。一方、モンテネグロとサンジャクの分離は実現し、1944年に「モンテネグロ総督府」が誕生した。
 セルビア総督府の人口は1939年末では約450万人存在し、1946年には約364万人だった。

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スヴェスルビヤの「安全地帯」

抵抗運動

 旧ユーゴスラビアにおける抵抗運動として代表的なものはドラジャ・ミハイロヴィチ率いる「チェトニク」と「チトー」率いるパルチザンだった。
 チェトニクはバルカン戦争時代からの古い歴史を持つセルビアファシズム民兵団体で、WW2ではミハイロヴィチら降伏を拒否した旧ユーゴスラビア軍将校らにより再建され、抵抗運動を開始した。セルビア民族主義の色が濃く、チェトニクの任務はセルビア人虐殺を止めることであり、ドナウ軍との対決を恐れ、クロアチア保護領クロアチア民兵らと戦っていた。また、山岳戦を苦手とし地元住民の支持もなかった。それにもかかわらず、同盟国とユーゴスラビア亡命政府からは正式な抵抗運動として承認され、支援を受けていた。
 戦争後半に同盟国軍が地中海から締め出されると、支援はいよいよ停止しただでさえ問題を抱えていたチェトニクは崩壊へ突き進んでいった。1945年に反ミハイロヴィチ派が離反してパルチザンに合流し、ミハイロヴィチとその側近は逃亡を開始した。翌1946年7月にミハイロヴィチは拘束され、軍法会議により死刑判決を受けて銃殺された。

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ドラジャ・ミハイロヴィチとその裁判

 もう一つの抵抗運動であるパルチザンは、パリ・インターに所属するユーゴスラビア共産党政治局員の本名不明の「チトー」なる指導者により始まった。「チトー」はアメリカ内戦の外人部隊に参加したことがある戦闘経験豊富なサンディカリストであり、チェトニクとは対照的に山岳のゲリラ戦を得意とした。ドナウ軍による幾度の討伐作戦を切り抜け、フランスからも同盟国からも一切の支援を受けずに活動を続けていた抵抗運動である。
 戦争末期にはチェトニクを吸収し、事実上旧ユーゴスラビアにおける唯一の抵抗運動となった。
 戦争終結後もパルチザン運動は衰えなかった。1950年代に入り冷戦構造が明確化すると、フランスとソ連から秘密裏の支援を受けるようになった。パルチザン運動はウィーンの連邦政府を悩ます頭痛の種であり、クロアチア保護領の本土化を阻む障害だった。1952年の大規模討伐作戦でパルチザンは大打撃を受け、1957年に保安省閥による新政権が恩赦を発表するとパルチザンの多くは投降していった。
 その後もパルチザンは細々と続いたが、1970年ごろに「チトー」が死去すると小さな山岳マフィアへと変貌していった。

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パルチザン兵、「全体主義に死を、人民に自由を!」と叫ぶパルチザン兵のスチェパン・フィリポヴィチ。

*1:ユーゴスラビア降伏後の対イタリア戦による犠牲者は別としている。