冷戦期中国史(1946-1957)

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南京の総統府を占領した人民解放軍

概要

 辛亥革命後の中国は軍閥が群雄割拠し、これに結び付いた列強が未だ利権を保持していた。この状況は世界恐慌と列強諸国同士の対立、そして日本の台頭に従って大きな変化を迎えた。
 1930年代からWW2にかけて、華北の馮玉祥率いる北京政府と華南の蒋介石率いる国民政府が激突し、その背後で北京政府を支援するドイツと、国民政府を支援する日本が対立を見せ、やがてパラオ奇襲攻撃による大東亜戦争開戦へと至った。また、もう満蒙では日本の傀儡国満洲とロシアの傀儡国モンゴルが対立し、一時日露中立による小康状態を経つつ、結局としてWW2末期の日本軍によるシベリア侵攻と征服へとつながった。
 こうした激変により、蒋介石の国民政府は中華民国の正統を確保し、唯一の中国政府となった。日本が手放さなかった満洲、蒙古、香港を除き、蒋介石は大中華を部分的に統一することができた。蒋介石は戦乱の跡残る中国の傷を癒し、さらに国内支配を固めるべく、経済の充実や旧北京政府関係者や共産党根拠地の粛清へと取り掛かることとなった。
 しかし、世界の冷戦突入や中国の人口爆発などがこれを阻んだ。結局として蒋介石の政策は上手くいかず、その不満が共産党に吸収され、やがてソ連とフランスが支援した紅軍による蜂起が発生、また華北における旧北京政府軍の反乱もあり、蒋介石の国民政府は急速に勢力を失った。何度かの反撃の試みも失敗し、1957年10月1日、首都南京の毛沢東中華人民共和国の成立を宣言した。
 蒋介石中華民国と国民革命軍は重慶、広州へと敗走し、海南島に集結する。ここで何とか紅軍の猛攻を食い止め、首の皮一枚繋がったような状態となった。海南島は赤化を免れた貴重な地域として、蒋介石の「大陸反攻」の拠点となるのだった。

統治再編と剿共開始(1946-48年)

戦争直後の中国
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旧北京政府の指導者、馮玉祥

 まず、1946年の中国がどのような状況であったか述べねばならない。政治的には、蒋介石の国民政府が旧北京政府の華北を併合して中国本土を統一し、さらにロシアの傀儡国家ウイグルスタンも併合して新疆省とした。チベットダライ・ラマガンデンポタン政府があったが、形式上国民政府に服属し事実上の自治区となっていた。
 ここで大中華のうち国民政府の支配になかった、具体的には国民政府の他に主権国家が占めていた地域を列挙すると、満洲満洲帝国)、外蒙古(蒙古国*1)、ウリヤスタイ(トゥヴァ共和国)、台湾と香港(いずれも日本領)があり、また南方では南沙諸島(日本領新南群島)、江心坡(ビルマ北部)、蔵南地区(インド国北東部辺境*2)である。
 中国の統治者は国民党であれ共産党であれ、これら失地の回復と中華統一が正統性の第一条件だった。このため、傀儡国家を含めて特に広い領域を支配していた日本帝国とは、北伐の同盟国であったのにもかかわらず、戦後の外交関係に暗い影を落とすこととなった。それだけでなく、中国人民は蒋介石以上にナショナリズムで燃え上がり、しばしば反日世論が興隆した。
 一方、それにも関わらず中国は日本及び大東亜共栄圏の経済に深く依存する矛盾があった。中国は満蒙を除いても天然資源が豊富だったが、また人口も多く、食糧と工業製品は自給不可能だった。毎年インドシナ産の米が大量に上海や香港に荷揚げされており、中国人の胃袋は大東亜共栄圏なしには満たすことができなかった。このため、蒋介石は口では中華統一を唱えつつ、実際には「中日合作」――政治的には対日連携、経済的には大東亜共栄圏への接続を維持せざるを得なかった。この矛盾を見抜いた知識人は国民党でなく共産党へ集まっていった。
 次に国内支配を見てみる。国民政府の与党は国民党であり、戦前からすでに一党独裁体制が固まっていた。ただし正確には独裁に対する憲法的裏付けがないため「一党専制」である。この下に国民革命軍といくつかの省があったが、いずれも一枚岩ではなく、蒋介石が所属していた黄埔軍官学校出身者と、各地域の軍官学校及び在地有力者が混在していた。国民党の蒋介石周辺グループでも、軍統や中統など複数の派閥に分かれていた。
 蒋介石ら国民党直系の支配が及ばず、在地勢力による間接的支配に留まっていた地域を列挙すると、閻錫山の山西省回族軍閥の馬家軍による甘粛省寧夏省、青海省の一部、陳済棠や李宗仁などの広西省、竜雲の雲南省がある。チベットガンデンポタンやその周辺にある大小の土侯もこれに含むことができる。旧北京政府支配地の華北山西省を除けば在地勢力を介さず直接支配する地域であったが、戦争で得た土地であるためその支配は盤石でなかった。WW2終結直後の蒋介石は、国内支配の強化に多くの資源を注ぎ込んでいる。
 まず、馮玉祥が捕縛され北京政府が正式に解体されたのがWW2後期の1945年である。蒋介石華北を一気に併合するのではなく、まず新たな北京政府をもう一度建て、国内外が落ち着いたら併合することにした。このとき北京に建てられた新政府は「連合政府」と呼ばれた。連合政府を率いるのは国民党、共産党、そして旧北京政府の一翼を担った「中国青年党」である。共産党は1936年12月の西安事件の結果、日本の仲介で国民党と協力するに至った。
 この青年党は1923年に曽琦や李璜などドイツ留学者が結成し、華北を拠点とする第三政党である。軍閥的兵力を持つ国民党と共産党とは異なり青年党には軍隊がなかったが、代わりに高等教育を受けた知的エリートが内部を占めていた。馮玉祥総統の下で青年党は政権に参与し、中堅行政官を中心に青年党が進出していった。北京政府軍のKMCと政府幹部の直隷派文官との間には緊張があったが、青年党の唱える「国家主義」という思想は富国強兵の理念に合致し、馮玉祥に重用された。ドイツ留学者が党幹部に多かったため、対独関係の結節点ともなっていた。
 このように、青年党は優秀な文官であったため北京政府滅亡後も連合政府に参加できた。国共青による合作組織を「連合戦線」と呼んだ。
 馮玉祥の裁判はWW2の終結を待たずに始まり、1946年4月に死刑判決が下され、7月に執行された。同様に直隷派系文官とその家族4万人も処刑された。罪状は「漢奸」だった。この漢奸裁判において、旧北京政府軍「国民軍(Kuominchün: KMC)」軍人は馮玉祥側近を除きほとんどが減刑、早期釈放あるいは不起訴となるなど穏当な結果に終わった。これは後の共産党粛清を見据えて武官を温存する意図とも、あるいは武官の粛清は大家族的に繋がった部下に恨みを残し弔い合戦が起こることを恐れたとも言われている。青年党に関してはその中庸で、旧北京政府の中枢に登用された文官は軒並み処刑または無期懲役となったが、党それ自体は壊滅を免れて中堅文官は放免された。やはり青年党員はKMC同様その能力を一定程度評価されていたといえる。
 次に、雲南省ではドイツ資産接収中の国民革命軍中央軍部隊が蒋介石の指示でクーデターを起こし、省政府主席であり雲南軍閥の指導者竜雲を失脚させた。この頃、雲南軍閥部隊は旧北京政府支配地域に駐屯していたが、これは逆クーデターを防ぐべく蒋介石が事前に仕組んだ罠だった。後任の小主席には国民党元老の李宗黄が就くが、無能のあまり学生デモに発砲する「12・1惨案」を起こしてしまい、蒋介石は結局雲南軍閥系の盧漢を省主席に招くしかなかった。
 そもそも雲南省戦間期においてドイツがフランスから戦時賠償で継承した鉄道利権があり、昆明からインドシナのハイフォン港まで資源を輸送していた。そのためドイツとの繋がりが深く、北伐を妨害すべく挙兵することもあった。雲南軍閥が旧北京政府側に直接就くことはなかったが、蒋介石にとっては是非潰すべき裏切り者だった。こうした雲南省の乗っ取り作戦も結局あまり上手くは行かず、中国統治の一筋縄ではいかぬ困難を示唆している。

政治協商会議

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政治協商会議を祝う毛沢東蒋介石

 雲南で起きた「12・1惨案」とは、民主的な憲政移行を要求する学生デモの弾圧事件だった。大東亜戦争直後の国民政府の優先課題の一つが憲政移行だったが、これはまた蒋介石による国内支配の教化とも関わっている。
 憲政移行とは憲法制定を意味する。そもそも、三民主義の唱道者孫中山は中国の近代化ついて「軍政→訓政→憲政」という過程での段階発展論を示した。戦争終結当時中華民国は訓政の段階にあった。蒋介石は西北や南西などに鎮座する軍閥の討伐を見据え、国内の支持を獲得するために戦後の憲政移行を約束していた。北京政府が滅亡し戦争が終結すると、国内の経済・社会的混乱による民衆の過激化が手伝い、蒋介石は憲政移行へと急がざるを得なかった。1946年末は各地でデモが一層盛り上がり、昆明の「12・1惨案」はその中で最も悲劇的で、また蒋介石の失点となった事件だった。
 学生運動共産党の圧力もあり、蒋介石は国民党単独の憲政移行という路線を若干譲歩せざるを得ず、国民党以外の諸勢力との協議の場を作ることとなった。こうして1947年1月6日誕生したのが「政治協商会議」である。参加したのは国民党、共産党、青年党、無所属のほか民主派を糾合した中国民主同盟(民盟)がある。議席数において国民党は過半数を切っていたが、実際の軍事力と政治力において国民党が圧倒していたことには変わりなかった。
 各地で抗議行動が続くなか南京で行われた政治協商会議においては、国民党が一党独裁を事実上維持しようとしたのに対し、共産党国共合作の人民戦線継続を主張した。少数派の青年党は党国分離による全体主義体制のより公正な深化を訴えた。喧々諤々のなか国民党が譲歩する形で1月31日に結論がまとまった。
 こうした共産党や青年党を含めた複数政党制の憲政へ移行するかと思われたが、蒋介石に全くそうした考えはなかった。むしろ、政治協商会議は共産党を油断させる謀略であり、剿共作戦を取るための時間稼ぎに過ぎなかった。この目論見を示唆するかのように、政治協商会議閉幕後の2月10日に重慶で行われた共産党の祝賀会に対し、国民党特務が殴りこむ「較場口事件」が起こった。各地で軍統や中統など国民党特務が不穏な動きを見せていた。
 蒋介石による次なる粛清の標的が共産党であることは明白だった。1947年6月26日、蒋介石共産党支配地域に対する全面侵攻を命令した。政治協商会議とその不穏な最後は、共産党を含む複数政党の合作と民主的な憲政移行の可能性を蒋介石が自ら捨てたターニングポイントであると考えることができる。

剿共の開始と青年党事件
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延安の毛沢東

 1947年6月26日、中国各地で国民革命軍部隊と特務が一斉に行動を開始した。馮玉祥政府崩壊の裏で共産党が革命根拠地を拡大しつつあった陝西省山西省山東省、甘粛省、新疆省、他内蒙古などへ大規模な部隊が流れ込んだ。同日、北平、青島、上海、済南では共産党アジトの一斉検挙が行われ、大通りでは共産主義者とされる者たちが膝をついて座らされ、そのまま特務が拳銃で一人ずつ頭を撃っていった。共産党の細胞が触手を伸ばしていた上海の工場でも特務が押し入り、目についた者を連れ去り拷問にかけ、口から出た名前の者を片っ端から捕まえて銃殺した。そのため工場はしばらく操業停止せざるを得なかった。
 弾圧を受けたのは共産党だけではなかった。政治協商会議に参加した青年党及び民盟も特務の弾圧を受けた。農村に根強い根拠地を作った共産党に対し、都市部の中産階級を基盤とした青年党と民盟は脆くも国民党に屈した。7月11日には民盟の主要幹部である李公樸が、15日には同じく民盟の聞一多が特務に暗殺され、民盟は大打撃を被った。
 同時期に青年党も本部が襲撃され、陳啓天などがサンディカリストとして粛清された。この「粛青」事件で青年党は大きく動揺し、趙毓松、張英華、夏濤聲など満洲へ亡命する者、劉鵬九など捕虜交換船に乗って新大陸へ亡命する者、左舜生など国民党への恭順者へと分裂した。こうして、青年党は国民政府のヘゲモニー政党兼官吏の供給装置に堕してしまい、影響力を失った。また、満洲へ亡命した青年党員は数千に及び、満洲国における党国体制の成立を手伝うこととなる。

憲政の完成
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国民大会の代表者ら
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国民大会会場前

 1947年11月12日、国民党国民大会が開催された。憲政移行のための憲法案は大詰めを迎えたが、政治協商会議での決議は全く取り入れられず、国民党以外の各党は裏切られた形となった。国民大会には弾圧で骨抜きと化した青年党の一部残士が参加していた。弾圧を受けた青年党は国民大会参加派と拒否派に分裂してしまい、国民党の独壇場という有様だった。こうして総統の独裁を認めた中華民国憲法案は承認され、翌年1948年の12月25日に批准、施行されることとなった。
 かくして中国は憲政移行が決まったが、依然として事実上の国民党一党独裁であり、それ以外の共産党を含む諸派が関わる隙もなく、むしろ軍と特務により武力で弾圧・排除された。こうした結果に共産党や民盟、青年党はもちろん、中国人民一般も強い不満を残した。中国社会は相変わらず官への不信が拭えず、能動性の欠けた住民を警察や軍、特務が無理やり武力で牧民する構図が続くこととなった。
 憲政移行の準備を整えた蒋介石は余裕を見せ、翌1948年3月に蒋介石共産党根拠地撲滅の最終段階と謳い、全面攻撃から重点攻撃への移行を宣言した。国民革命軍は西北へと進み、山岳地帯での凄惨な治安作戦を展開した。6月には共産党支配地域の中心都市である延安が包囲の末に陥落したが、毛沢東共産党指導部は既に脱出した後だった。
 9月に国民革命軍が新疆入りするなか、11月には憲政移行の最終段階として制憲国民大会が実施された。参加したのは国民党とその衛星政党である青年党、民社党、民盟の一部である。民盟も青年党同様弾圧で骨抜きにされていた。年末の12月25日、憲政は予定通り批准、施行され、憲政移行が完成した。

内政への注力(1949−51年)

 剿共戦がある程度進み、憲政が完成すると蒋介石の目は国内改革へと向けられた。1949年4月には行憲国民大会で蒋介石総統が選出され、翁文灝内閣が成立した。翁文灝行政院長*3の第一の関心は通貨改革だった。
 通貨改革の詳細については後述するが、王雲五財政部長や前江西省長である蒋経国の尽力で8月に新通貨「金円」が発行された。宋美鈴など浙江財閥の妨害や特務との対立もあったが、これと連動した日本による正貨供給と為替レート改革のため、中国のハイパーインフレは収まった。これがきっかけで中国経済はみるみるうちに回復しはじめ、国民党政権を延命させたと歴史家に評価されている。
 経済回復で自信をつけた蒋介石と中国国民は、日本に対し国権返還をますます主張するようになった。対して国内経済のダメージが中国よりも尾を引いた日本は、下等と思われた中国の経済回復に衝撃を受け、日本国内の改革へと目を向けざるを得なくなっていく。こうした状況下で東條政権が1947年に成立し、道復運動や共産党などによる反政府運動とその弾圧、大陸や南方への棄民が行われていった。

蒙疆問題

 ここでは少し時間を巻き戻し、大東亜戦争以前から続いていた懸案である、中国の統一と蒙疆問題について述べる。
 中華民国の中心をなす国民政府が北京政府に打ち勝ったものの、実質的支配地が限られていたのは既に述べたとおりだが、実質的支配地にない領土のうち特に辺境部には中国人の支配にさえ服さざる地域が存在した。日本の傀儡政権という点で満洲国はその筆頭だが、他にもチベットガンデンポタン外蒙古の蒙古国があり、いずれも列強の傀儡国家または支配圏にあったという点で共通している。戦前においてモンゴルとウイグルスタンはロシアの傀儡国家であり、チベットは英領インド政府の強い影響下にあった。WW2により列強間のバランスが大きく崩れ、モンゴルとチベットは束の間ではあったが真に独立を謳歌することとなり、ウイグルスタンは西北軍閥に滅ぼされ新疆省となった。ここでモンゴルとチベットに待ったをかけたのが、これらを含む大清帝国の領土を引き継ぐと主張した国民政府であった。日本は言うまでもなくモンゴルとチベットを影響下に置こうとし、日中対立の争点の一つとして発展していくこととなる。
 大東亜戦争の末期に日本がシベリアへ攻め込んだ際、大モンゴル国満洲国軍の蒙人部隊である興安軍を先鋒にして攻撃を受けてロシア人顧問の下に徹底抗戦を行っていたが、日本軍がバイカル湖に到達するとロシア人は一斉撤退し、このときモンゴルはロシアよりも先に降伏した。日本はモンゴルを庇護して中華民国の領土主張を牽制しようとし、結果とした大モンゴル国は内閣が全員失脚しただけで皇帝も国家も破壊されずに済み、そのまま主人をロシアから日本に変えて温存することとなった。
 チベットはイギリスの支配を脱したものの、モンゴルとは異なり日本軍が来ることはなかった。そもそもチベットは一応中華民国において自治を認められた政権ではあるが、その法的領域は限られ、北東のアムド地方は青海省、東のカム地方は西康省として中国人の支配に服することとしていた。しかし実際には、西康省の西半分はガンデンポタンに忠誠を誓うチベット人王侯が実効支配しており、さらに青海省に至っては中国人の西北軍閥が支配するごく一部を除きチベット人自治にあっただけでなく、彼らはガンデンポタンにさえ服さず完全な自治をなしていたのである。このようにチベットは確かに中国人の支配は限られていたが、一方でラサのガンデンポタンの支配地域も限られていた。この微妙な空白は、まさに険しいチベット高原という地理的特殊によってもたらされていた。
 新疆は中華民国の最も西北に位置し、漢人テュルク系民族が混在していた。その地理上、民族上ロシアの中央アジア政策の延長線上にあり、WW1以前からロシアはこの地域に介入してきた。1931年にテュルク系民族を含むムスリムと漢族の対立が暴動にまで発展すると*4、1933年には日本の満洲国建国に対抗してロシアはテュルク系民族出身のホージャ・ニヤーズを擁立し、「ウイグルスタン共和国」として分離独立せしめた。ロシア傀儡のウイグルスタン共和国ではロシアの支援で近代化が行われ、ロシア人も少なからぬ数が入植した。しかしこの「白い満洲国」はWW2におけるロシアの破滅に伴い崩壊し、国民政府により西北軍閥の馬仲英が新疆省首席に任命され、新疆は西北軍閥の縄張りの一つとして中華民国政府の支配に下った。
 蒋介石は残るモンゴルとチベットへの野心を示したが、まずチベット雲南軍閥への対処と地理的隔絶性により進展せず、やはりガンデンポタン自治に委ねたほうがいいとしてすぐに現状維持に落ち着いた。対照的に、モンゴルに関しては日本に対し盛んに領土返還を要求し、経済苦境を誤魔化す目的もあって国民党特務の操る大衆組織「藍衣社」*5を通じて反日世論を煽動した結果、日本と鋭い対立に至った。中国の実質的支配下にあった内蒙古は王侯を弾圧し本土同様の中央集権的支配体制を敷いたが、蒙古国の外蒙古へは軍の投入を憚り、結局日本の支配を許してしまった。そもそも、宣伝上は外蒙古返還を原則としながらも、実際には日本から援助を引き出すための取引材料だったと考えて妥当である。事実、外蒙返還運動の自粛を条件に、蒋介石は日本から北辺総督府産の金塊を受けとり、暴落した法幣に代わる新たな通貨再建の一助としたのである。
 中国支配下の新疆は、モンゴルのようなプロレスじみた芝居にはならなかった。ロシアに最も近かった新疆は、今度はウクライナによる圧力を受け始めたのである。1945年にウクライナの外務人民委員に就任し、その後成立したソ連外務大臣である新進気鋭の若手バラノウシクィーは、1947年と1948年の二度にわたり「バラノウシクィー宣言」を発した。その内容は、まず旧ロシア共和国の中央アジアに成立した、トルキスタン人民戦線政権*6の承認であり、次はトルキスタン民族自決の点から支持しつつ、新疆をテュルク系民族民族自決に従って、サンディカリストの手で分離独立させることを呼びかけるものだった。
 これ以来、中国共産党民族主義の原則に反した動きに苦々しい思いをしつつ、中国赤化の支援を得るために新疆の赤化工作を本格化させ、新疆へはトルキスタンを経由してウクライナ工作員が次々入った。省首席の馬仲英は新疆のロシア人を虐殺し白系政権のシベリア共和国に追放したが、赤匪の工作と煽動に脅かされることとなった。

翁文灝の通貨改革
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金円券

 戦勝直後はアジアの経済全体が混乱の渦にあり、日本は大東亜共栄圏の盟主としてこれを治めねばならなかった。さもなくば、日本は欧米よりも無能であるとしてアジア人から見限られ、戦後秩序の構築に失敗する恐れがあった。大東亜共栄圏ナンバー2の国力を持つ中華民国はモンゴルや満洲の問題もあり対日批判の最前線だった。何より暴落した法幣と混乱する経済こそ、日本による失政であると批判したのである。一方日本もまた国内経済が壊滅的打撃を受けただけでなく、復員兵とその雇用、そして食糧不足もあって経済再建は急務であり、特に暴落した通貨を再建しいち早く大東亜共栄圏内部の自由貿易を打ち立ててアジアをインフレと飢餓から救うことは喫緊の課題だった。
 中央儲備銀行の設立は、大東亜共栄圏経済の再建策の第一歩だった。暴落した法幣はかつてイギリスが印刷し、戦争勃発後は複数の大手銀行が印刷、発行していた。蒋介石は列強に不可欠な中央銀行を創設し、通貨政策を政府の適切な管理に置くべきと考えた。そこで中国初の中央銀行である「中央儲備銀行」設立の話が挙がったが、問題はインフレを鎮めて新通貨の価値を維持するのためは金銀の準備が必要であり、その金銀をどれほど日本が用意するかだった。中国はもともと銀が豊富であることで知られていたが、世界恐慌の際にはドイツに銀が大量流出し、初期の法幣暴落の原因にもなっていた。金は中国はもちろん日本も少なく、通貨価値を不安定なものにせしめていた。確実な金銀の準備は通貨再建に不可欠だったが、仮に国民党が中産階級や資本家の私有財産である金銀を回収することになれば、混乱は必須だった。こうしたことから、新たな金銀準備は日本が融通したほうが有利だったのである。
 日本側もその事情は理解しており、いずれにせよ中国だけでなく大東亜共栄圏の国家はどれも例外なく日本の援助がなければ通貨再建は不可能だったので、金塊を融通しなければならないことに合意していた。中国は日本に次ぐ国力とアジア最大の人口を擁しており、優先順位は最高だった。しかしないものはないので、まずは金を掘り起こさねばならず、これが北辺総督府の金山開発となるのだった。北辺総督府について詳細は省くが、ロシアから併合したシベリア最東端にある極寒の山岳地帯は巨大金鉱が眠っているとされ、ロシア統治時代に試掘がなされたが、地理的隔絶性のため資本家は投資をしぶり、本格的生産は未だ成功していなかった。そもそも、わずかな原住民の村落以外に人の生活拠点が一切なく、金鉱を稼働させるためにはまず真潟(マガダン)にまで道路を敷かねばならなかった。あまりに初期投資が巨大だったため、結局戦後日本が緊急の必要性に駆られて採算度外視で開発を始めるまで、北辺総督府は何もない辺境であったのだった。北辺総督府は陸軍に任せられ、満洲国とシベリアで捕まえたサンディカリストの囚人を遣い、多くの犠牲者を出しつつ金採掘を開始した。1948年には金塊が上海に送られ始めたのだった。
 こうして優先的に中国に割り当てられた金塊は、モンゴル問題における反日運動停止を条件に蒋介石側に移され、そして汚職のために多少中抜きされつつも、1949年に翁文灝総理による中央儲備銀行設立と兌換可能な新通貨「金円」の発行、デノミネーションに至った。通貨価値が落ち着くと日本との貿易や投資が盛んになり、天津と上海には日系企業が進出し、工場が建てられていった。中国人労働者の人件費は安く、日本で生産するより遥かに安上がりであり、また日本政府は大東亜共栄圏内の国境を超えた投資や工場移転を推奨していたことも背景にあった。通貨価値が安定し、新たな雇用がもたらされたことで中国経済は回復傾向に転じ、経済混乱によるサンディカリストの革命という最悪の可能性を回避したのだった。

国共内戦(1952−57年)

グルジャ国境紛争

 戦前はロシアの支援の下「ウイグルスタン」があった新疆省では、戦後国民党や共産党、日本特務による群雄割拠の状態だった。そんな新疆へも1948年には鉄道で国民革命軍の正規部隊が到着した。モンゴルに駐留する日本の蒙古軍は独断先行で新疆分離工作を続けたが、本国からの再三の中止要求の末、ついに新疆の支配権を蒋介石に譲った。蒋介石は新疆を固めることで、ソ連からの赤匪及びスパイ流入を阻止し、共産党を包囲殲滅する計略だった。
 新疆省が設置されて中国西北の要として機能し、サンディカリスト国家の隣国トルキスタンとの国境は閉鎖された。トルキスタン中国共産党との連絡は厳しく取り締まられ、共産党は厳しい戦いを強いられた。蒋介石政権は通貨改革で経済を上向き成長させ、さらにジワジワと赤匪を締め上げていった。
 こうして中国は不安定な状態で少しずつ経済発展へと突き進んでいたが、その終焉の予兆は早くも現れ始めた。新疆とトルキスタンの間では散発的な国境紛争が起きていた。戦間期は二大国たる日露の対立最前線がノモンハンであったが、それが新疆に移っていた形だった。日本の東条首相は防組の観点から中国に対し日本軍の新疆進駐を要求していたが、蒋介石は戦争で膨張した日本への警戒と主権援護の観点からこれを拒否していた。すなわち、新疆国境紛争を国民革命軍自身の手でなしとげることが、大東亜共栄圏における中国の地位上昇に不可欠であると判断していたためである。
 1952年1月、新疆省に対するトルキスタン軍の圧迫が急激に増し、グルジャで大規模な戦闘へと発展した(グルジャの戦い)。国民革命軍は増派で抑え込んだが、トルキスタン側はソ連軍を就けて圧倒的な近代化戦力で叩き、国民革命軍は5000人以上を失う大打撃を被った。その後も散発的なテロと戦闘がグルジャで続き、守りの薄くなった国境からは続々とサンディカリスト工作員が侵入し始めた。新疆の赤化が始まったのである。
 この事件で、以前からの粛清で不安定化した中原の緊張は頂点に達した。財閥は買い占めてハイパーインフレが起こり、日本は中央儲備銀行への金準備を増額させるべく真潟から金塊を急遽直送した。経済復興で貨幣経済へより傾斜しつつあったぶん育ちつつあった中間層の被害は甚大であり、没落中間層を囲い込んだ共産党に伸張が再び見られた。ウランバートルに司令部を置く日本軍部隊である外蒙軍*7が外蒙と新疆省の国境付近に集結したが、中国軍には加勢しなかった。この見殺し的な対応は、日中対立だけでなく、中国を混乱のうちに置いておくことにより日本の介入する余地を増やすという日本軍部及び政府の思惑もあったとされている。しかし、非公式な形で義勇軍が日本及び満洲から送られている。彼らの多くはアジア主義者の人士だった。

中原大乱
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馮玉祥の功臣「五虎将」の一人である張之江

 この混乱で以前からの旧北京政府関係者粛清の反動が膿のように爆発した。1952年9月、旧KMC将官である張之江は、農民反乱で秩序を失った河南省の収拾を大義名分に武装蜂起し、省政府を接収した。これをきっかけに華北にいる旧KNC関係者や旧KMC出身の国民革命軍部隊が武装蜂起に参加し、華北全土が反蒋介石の狼煙を上げたのだった。張之江の反乱から始まる一連の動乱を「中原大乱」という。
 しかし、この中原大乱を論ずるのはあまりにも複雑である。というのも、反乱勢力は単なる旧北京政府関係者で必ずしも結びつかず、どうやら反蒋のほかにも共産党員である鹿鍾麟や日本内通分子の宋哲元などがおり、各陣営の様々な思惑があったようである。しかしながら、日本に関しては天皇から政府、関東軍にまで意思や路線が合致していたとは考えにくいのは、現場の独断専行が戦前から横行していた点を鑑みれば当然である。
 反乱軍によって北京が占領され政府樹立の機運が高まるなか、共産党は反乱への全面支援を公表して政府参加を要求した。張之江は共産党に接近し、共産党が反蒋共闘の理論的根拠とした「新民主主義」論を受け入れ、共産党を含む左派の広い加勢を呼びかけた。しかし、これに反組主義者は反発し宋哲元ら右派は中立宣言をした。これはソ連を助力しないという日本の意思の現れでもあった。こうして、一時は南京の国民政府を打倒するかに思われた反乱軍は早くも亀裂を見せ、旧KNCを中心とする反乱軍主力は1953年半ばまでには国民革命軍に撃破され、宋哲元はシベリアのチタへ亡命した。
 こうして蒋介石は勝利し、旧KMCの反乱は失敗に帰した。しかし、この事件こそ中国赤化の足がかりとなった。戦闘のため華北は完全に荒廃して流民が大挙し、没落した中間層や農民を共産党支配下に入れることで勢力を回復どころか拡大した。一度は方位殲滅された華北共産党根拠地は活気を取り戻し、再び国民革命軍が華北に大量投入されることとなった。これは国民革命軍を疲弊させ、優秀な軍官を消耗せしめた。
このように、構図は再び国民党対共産党の内戦へと傾斜することとなった。

新疆赤化
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国民革命軍の隊列

 1954年、憲法移行はどこ吹く風か、中国全土に事実上の戒厳が敷かれ、連日のように軍、特務、警察による作戦行動が続いていた。民生は放置され、ハイパーインフレが進行中だった。
 新疆では進駐している国民革命軍中央軍の圧倒的兵力と練度にもかかわらず、紅軍が支配地域をジワジワと広げていった。はじめは国境地帯で地形的にトルキスタン側に有利だったがグルジャが、次に新疆内陸からしか侵入できないはずの北部のアルタイ地域と、タクラマカン砂漠を囲うオアシス都市へと戦闘地域は拡大していった。紅軍はゲリラでありながら戦車やトラックなど機械化兵器駆使していた。国民革命軍から鹵獲したものもあったが、ソ連やフランス、トルキスタンの支援が少なからずを締めていた。国共内戦はもはや国際的な代理戦争と化していた。
 これに対し、内戦を指揮していた蒋介石も日本の富永恭次首相も冷戦という国際政治のダイナミックな構造に対する自覚が薄かったと批難されざるを得ない。富永は戦勝と大東亜共栄圏の栄華にあぐらをかいて国共内戦の切迫に気が付かず、むしろこの混乱に乗じて中国における日本の経済権益を拡大しようとする有様だった。蒋介石は離反する民心と中国ナショナリズムの間でジレンマに陥り、日本軍による支援や派兵の申し出に対し国内問題であることを理由に断り続けた。
 対照的に、事態を性格に捉えていたのが中国及び周辺諸国に情報網を持つ、軍の特務機関及び海外の駐留軍司令部だった。カルカッタの日本軍駐留部隊、軍事顧問団、及び特務によるベンガル軍はインド動乱にてチャンドラ・ボースのインド国を支援し、ネルーなどのサンディカリスト政権と対峙していたが、風雲急を告げる中国情勢を敏感に察知し、チベットガンデンポタン政府への工作を本国に無断で断行した。
 昭南に司令部がある南方軍は、戦後に山下奉文将軍の軍改革ですっかり規模を縮小していたが、それでもビルマ、タイ、ベトナムラオスの対中国境部が不穏化していることを見抜き、南方各国への治安工作支援を怠らなかった。中立国シベリアをはさみソ連と退治するバイカル軍、そして傀儡国蒙古国の駐留軍である外蒙軍は新疆戦争を目の前にし、歯がゆい思いで見守っていた。本国に無断で蒋介石政権へ派兵の申し出をしたのはこれら軍であるが、蒋介石は拒否した。
 そうこうしているうちに、まず新疆南部のホータン、カシュガル、アクスなどオアシス都市が陥落した。グルジャは辛うじて保っていたが風前の灯火だった。翌1955年になると、蒋介石は国内世論を安心させるため第二回行憲国民大会を予定通り実施したが、一方共産党は紅軍を「中国人民解放軍」と改名、さらに華北における一斉反攻作戦を計画していた。
 一方新疆では、1955年5月から6月にかけての「新疆1955年夏季攻勢」でグルジャが陥落し、アルタイも国民革命軍は点と線だけの支配となった。続いてアルタイの諸都市、さらに新疆の軍事的拠点であるウルムチへ向けて9月から11月に「新疆1955年秋季攻勢」が、12月から翌1956年3月にかけて「新疆1955年冬季攻勢」が勃発した。国民革命軍と解放軍は都市を巡る一進一退の簒奪戦を繰り返したが、ついに蒋介石の支配地はウルムチのみとなった。
 もはや新疆は陥落も同然だった。1956年5月から10月にかけて「ウルムチ包囲戦」が行われ、国民革命軍新疆駐留部隊は包囲戦された。共産党の圧倒的な勝利だった。

三大会戦

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 精強を誇った蒋介石も、新疆を失ってからは坂を下るように支配地を失陥していった。華北を巡る3つの大規模戦を「三大会戦」と呼ぶ。平津、西北、徐蚌会戦は華北の北東、北西、南部でほぼ同時に勃発し、いずれも解放軍の勝利に終わった。異なる地域で同時多発的に戦役が起きたのは、共産党が広がった支配地域で十分な戦力を蓄え、計画的に大攻勢を仕掛けたためである。三大会戦で国民革命軍は各個撃破され、もはや蒋介石直系の中央軍は無きに等しかった。その代わりに傍流の新桂系が台頭し、蒋介石の統治を一層困難にさせた。
 では、まずは平津会戦から詳述する。平津会戦は満洲国に近い北平から天津にかけての河北省北部をめぐって、1956年8月から1957年1月にかけて行われた。
 旧北京政府粛清でただでさえ脆弱だった華北における国民政府の支配は、旧KMCの反乱とその平定で完全に破壊された。知識人や農民はもちろん地主でさえ非協力的となった。この権力の空白に対し、剿共で一時ボロボロだった共産党は一気に浸透し、勢力を回復した。それだけでなく、支配地域で土地改革を断行し農民の支持を得た。この頃共産党支配地域の税収は国民党支配地域のそれの12倍にも及んでいた。歴代の中国政権は農民を直接支配できず、士大夫による間接的支配にとどまっていたため、共産党が直接農民を支配・徴税し始めたことは中国史上初のことだった。農民の協力を得た解放軍は、新疆から途絶され、各部隊がバラバラに位置する山岳部に拠点を持っていたのにも関わらず、相互連携し強力な攻勢作戦をかけることができたのだった。
 平津会戦は国民革命軍の敗北に終わり、解放軍は北京、天津、河北省、山東省、河南省の一部を占領した。解放軍は延べ100万、国民革命軍は60万の将兵を動員したが、損失は解放軍4万に対し国民革命軍52万と圧倒的だった。解放軍は中原野戦軍、後の第2野戦軍が参加していたが、これは司令官を劉伯承、政治委員を鄧小平とする軍団だった。鄧小平は毛沢東から事実上の後継者と見なされた人物だったが、日中戦争時に林彪に謀殺されることとなる。
 戦役では張家口、北平、天津などが包囲されたが、空路・海路による補給輸送の努力も実を結ばず、解放軍の総攻撃に敗れた。天津総攻撃は1月14日に発動し、国民革命軍13万人が全滅した。一部は青島や大連方面に逃れた。古都北平は名将傅作義率いる将兵25万人がいたが、敗北を悟った傅作義は解放軍に降伏し、1月15日に解放軍は入城した。毛沢東林彪などはこれに大いに喜び、2月3日には盛大な軍事パレードが行われた。ただし、住民は必ずしも歓迎しておらず、既に満華国境では数万人の難民が陸路越境していた。
 西北会戦は1956年9月から同年11月にかけて、通称「西北地域」と呼ぶ甘粛省寧夏省、青海省陝西省方面をめぐる戦役である。西北地域は新疆と中国本土をつなぐ鉄道が貫き、新疆戦線の命綱といえた。西北は回族を中心とする地方軍閥「馬家軍」の支配下にあり、国民革命軍とともに解放軍を邀撃したが、ソ連軍の装備をした解放軍とその農村根拠地により包囲殲滅され、西北鉄路は解放軍の手に落ちた。これを行ったのは西北野戦軍、後の第1野戦軍であり、司令官兼政治員は彭徳懐である。彭徳懐は中国建国後、毛沢東に対し失政を諌めたが粛清された人物だった。
 馬家軍のうち、寧夏省主席の馬鴻逵は空路で南京へ逃れ、国共内戦終結後は蒋介石とともに海南島へ移動した。その後敗戦責任を問われると日本に亡命し、北海道で牧場経営に専念することとなった。ちなみに、寧夏省は日本軍の内蒙古占領の際、オアシス地域である銀川は中国側に、アルシャーなど無人の砂漠地帯は日本軍側に分割された。青海省主席の馬歩芳は数百名の側室を持つことで有名だったが、同様に海南島に逃れた。その後は中華民国サウジアラビア大使となったが、すぐに失脚しサウジアラビアに永住した。また、馬鴻賓は解放軍に投降した。
 以上の平津会戦、西北会戦はもともと解放軍側に地の利や人的資源の優位があったが、徐蚌会戦は解放軍と国民革命軍が長江以北から淮河のあたりで互角に正面衝突した戦いだった。1956年11月から1957年1月までに行われ、参加した解放軍は劉伯承の第2野戦軍、華東野戦軍から改名した陳毅の指揮する第3野戦軍だった。首都南京及び産業都市上海に迫る攻勢であったため蒋介石は死守を隷下の部隊に厳命したが、民心の離反や作戦ミスのために大敗北に至った。解放軍は66万に対して13万、国民革命軍は80万に対して55万の兵力を失った。
 徐蚌会戦は蒋介石に致命的一撃を加えた。三大会戦の結果として国民革命軍は華北、西北、新疆の支配を失い、江南の南京、上海を失うのは時間の問題だった。それだけでなく、戦闘で蒋介石は自身の支持基盤である黄埔軍系将校の多くを失ってしまった。これを見た新広西派など有力軍閥蒋介石の引退を要求して突き上げを始めた。蒋介石共産党との内戦だけでなく国民党内の内戦をも抱えるにいたり、もはや敗北は誰の目にも明らかだった。

太原包囲戦

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 以上の三大会戦に含まれないが、同時に大規模で特に日本にとって重要視されたのが山西省の「太原包囲戦」である。日本軍が独断で支援し断乎抗戦したが、結局は解放軍の人海戦術の中に没した。
 日本人義勇兵も参加した太原包囲戦の敗北は、日本軍の蒙古軍及び関東軍の介入を呼び、1957年3月に内蒙古三省と大同市、張家口市が日本軍に占領され、蒙古国に併合された。国民党指導部は激怒し、中華民国は蒙古国と国交断絶するに至った。
 一方、昭和天皇の大御心もあり東京は中国共産党との対決を望まず、外務省は内蒙古の主権が中国に属すると声明し、内戦終結後に新中国へ返還するとした。結局として、宮城進軍事件と協和党政権誕生により日中交渉は停止し、内蒙古は蒙古国の主権に属することと外務省も認めることとなる。
 ちなみに蒙古国に関して、蒋介石は日本の歓心を買うために1956年1月に独立を認めたが、それがすぐに破綻した形となる。共産党、後の中華人民共和国は蒙古国の主権を日中戦争敗戦まで一切認めなかった。

混乱と亡命
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土地改革における批判闘争大会。数十万人の地主とその家族が迫害で命を落とした。

 三大会戦敗北の責任を取り蒋介石は総統を辞任した。総統代理に就任した新桂系の李宗仁は、国民党政権崩壊を止めるべく、1957年4月1日より「北平和談」に使節を送った。和談では「国内和平協定」がまとまったが、国民党指導部は蒋介石の意向もあってこれを拒否、最後の和平交渉は決裂した。
 4月23日、解放軍は長江を越えて首都南京、上海、杭州を占領。これを「京滬杭戦役」という。5月から6月にかけて武漢西安、青島なども相次いで占領された。10月1日に毛沢東は南京で中華人民共和国の成立を発表し、日本も国民党を見捨てて日中交渉を開始した。重光葵及び後任の岸信介首相は、死に体と化した国民党よりも、中国を支配し人民の支持を確保した共産党のほうが良い交渉相手となると見なしていた。
 蒋介石四川省広東省雲南省など中原辺境部の拠点維持を試みたが、解放軍の猛攻は止まらなかった。雲南軍閥に至っては戦わずに降伏した。雲南省政府主席盧漢は12月9日、中華人民共和国への帰順を宣言し、解放軍の軍勢を受け入れたのである。四川省広東省本土も1957年年末までにすべて陥落した。
 国民革命軍は解放軍占領地に地下組織を構築しつつ、広東省の最南端にある海南島で籠城する戦略を選んだ。蒋介石は日本や大陸のアジア主義軍人を呼び寄せて「白団」として軍事顧問団を結成し、解放軍による猛攻をついに防ぎきり、海南島を確保した。海南島は1960年の日本における協和党政権誕生まで耐えきり、後の日本と中国の戦争における戦略基地として活躍することとなる。
 その他に反共拠点として、ガンデンポタンや蒙古国、満洲国などが機能し始めていた。これら日本の大陸拠点では狂信的なアジア主義者の日本人軍人が多く、中国を見捨てた日本政府に憤慨し独自に共産党との対決準備を整え始めていた。これが中国建国後の国境紛争や、全面戦争勃発の火種となっていく。
 国共内戦では数多くの難民が発生した。
 難民は天津や青島、上海から海路で日本や南方アジアに移住したほか、陸路においては華北を中心に蒙古国や満洲国へ大移動が見られた。その他、国民党人士を中心に海南島や日本領香港などへの亡命もあった。亡命者の多くは、共産党政権での粛清が見込まれた国民党関係者や資本家、地主、軍人、警察官のほか、特に華北においては国民党に弾圧された中産階級も多く見られた。全体として難民は教育をよく受けていたので、特に満洲国では知的水準の高く党国体制を支える人材(悪く言えば洗脳しやすい人材)としてよく歓迎された。日本においては、低賃金労働者の主流が朝鮮人から中国人難民へと切り替わるきっかけとなった。
 WW2終結から国共内戦終結後3年間における、難民の移住先別の概数を述べると、満洲国は約980万人、南方は約400万人、日本は約700万人、朝鮮は約130万人、台湾は約48万人、香港は約170万人、海南島は約100万人、蒙古国は約100万人*8となった。
 このような莫大な数の難民を生み出したのは、建国前から共産党が支配地で行っていた破壊的な血の粛清だった。毛沢東は農民の支持を得るため土地改革を急ぎ、国共内戦初期から積極的な農村工作を行った。三大会戦以前からすでに大規模な土地改革が実行され、その地域に住む地主や、知識人、中間層などは農民のリンチに遭い、命からがら都市へ、港湾へ、そして国外へと逃げていったのである。とはいえ、こうした粛清は中国建国後すぐに計画経済への移行と人民公社建設を実現せしめる基礎となった。労農国家としての新中国建設は、国共内戦から始まっていたと言える。
 

背景

 以上のような破滅的な国民党の敗北には様々な背景があった。ここでは経済と民族主義の面から解説する。

経済

食糧

 中国は清朝にて人口爆発を迎え、過剰人口に悩まされていた。農地の地力は限界を迎え、毎年どこかで飢餓が起こっていた。蒋介石による北伐と中国本土統一後は少し落ち着いたが、ハイパーインフレ国共内戦の混乱で再び食糧不足へと傾斜していった。
 中国は大東亜共栄圏からの食糧輸入を試みたが、満洲国や日本なども同様に人口爆発で食糧が不足し、大規模輸入は難しかった。食糧不足が人間を苛立たせ、大動乱を呼び寄せるのは歴史の常である。蒋介石の支配が崩れ労働者や農民が共産党側に就いた背景の一つが過剰人口と食糧不足だった。
 この問題は共産党による中華人民共和国建国後も未解決のまま続き、都市住民の辺境移住や人民公社化などの策を実行したものの、大躍進の破綻もありついに片付かないまま日中戦争へと突入していった。慢性的な飢餓は餓死者の数をいたずらに積み上げ、ついには数千万人が食糧不足で死ぬこととなる。
 また、食糧不足は中国人を外国へ移住せしめる要因ともなった。蒋介石政権時代は数百万の中国人が日本などで出稼ぎ労働をしていたほか、国共内戦末期には大量の中国人が諸外国へ流出している。

国共内戦期の産業

 戦間期は列強の経済圏に分割されていた中国は、その産業も経済圏ごとに発達した。満洲国を中国の一部に含めるとすれば、日系資本の満洲国、ドイツ資本の河北省、山東省、雲南省、国際資本の上海、英米資本の華中、華南というところである。
 大東亜戦争終結から国共内戦終結にかけて中国工業は、政治的不安定にも関わらず力強く成長していた。大別すれば大東亜共栄圏向けの輸出産業、国内向けの重工業がある。輸出産業は紡績や食品などの軽工業でこれらは国内向けにも生産していたが、主に日本や満洲との貿易で栄えた産業である。北京政府崩壊後、華北の旧ドイツ資本紡績工場は、国民党と日本の草刈り場となった。輸出産業は莫大な利益を生み出し、国民党政権の運転資金にもなった。
 一方、重工業は蒋介石政権が国内向け、つまり富国強兵のために設置したものである。首都南京の化学コンビナートや、湖南省の株洲工業地帯が有名で、特に株洲は「中国のルール地方」と呼ばれた。しかし、人口や国力を考えればこれら重工業は日本のそれと比べて未だ小規模だった。これら重工業建設は毛沢東政権にも引き継がれ、後に「三線建設」という形で全国各地に分散建設されていった。毛沢東蒋介石も富国強兵と中国統一という原則を捨てることはなかったのである。
 また、当時の産業能力では中国人民の需要を満たすには遥かに及ばず、これが蒋介石政権の大東亜共栄圏依存の原因となった。中国は常に大東亜共栄圏の南方資源と日本の技術支援に依存し、それと引き換えに日系資本の進出を許してしまったのである。ハイパーインフレの鎮静と通貨再建も、日本の北辺総督府から運んだ金塊がなければ為し得なかった。
 こうした状況に対し、毛沢東共産党は中国の奴隷化であると批判した。経済利権に参与できない中間層や知識人も蒋介石を批難し、これが政治協商会議や中国民主連盟結成などの原動力となっていった。蒋介石は、中国経済の維持と民族主義の間で板挟みに合っていたと言える。こうした点からすれば、国共内戦後期に蒋介石が日本に深く頼らず、自力で共産党を潰そうと固執したのも一理あるだろう。
 

移民労働者

 中国は清朝の時代から低賃金労働者「苦力」で知られていた。国共内戦期においても、待遇が多少改善してきたとはいえ苦力はよく見られるものだった。そればかりではなく、日本や大東亜共栄圏に対して積極的に移出していた。
 冷戦時代、日本がオホーツク海よりさらに北にある北辺総督府にて中国人赤匪を強制労働させていたのは有名だが、これは主に満洲帝国で捕まえた犯罪者だった。中華民国出身の移民労働力は、内地、朝鮮半島、南方、南洋諸島満洲帝国において自由意志を以て働く出稼ぎ労働者のである。日本は大東亜共栄圏運営の上で、こうした中国人労働力をアジア建設の道具としただけでなく、経済的地位向上や満蒙開拓のため不足していた朝鮮人労働者の代替手段として調達していた。これら中国人出稼ぎ労働者の数は、中国政府も日本政府も正確な数を把握していなかったが、数百万人に上ると言われる。
 中国から日本への出稼ぎ労働は、食糧消費の減少や外貨獲得の点で国民党に利益をもたらし、また法外に低賃金な労働力として日本側にも利益をもたらした。出稼ぎ労働者利権は「中国通」と呼ばれるアジア主義人士を通じ、軍人や官僚、政治家の間で分配された。日本人労働者はその利益を受けないどころか、むしろ雇用を奪われる立場だった。こうして生まれた日本人余剰人口は満洲や馬来への移民となる他なかった。
 ちなみに、中国が赤化した1957年、日本などに滞在していた出稼ぎ労働者のうち、希望者はそのまま永住権を付与された*9。そして出稼ぎ労働者は中国本土からの難民と合流し、結果として日本や朝鮮などの都市部には巨大な華僑社会が誕生した。日本に多様な中華料理が広まったのもこの時期である。華僑の一部は、日中戦争後に中国に帰還したり、あるいは帰化して活躍したりする者があった。協和党政権はアジア主義称揚のためにこれを推奨し、華僑党員も数多く生まれた。このように、日本内地の「アジア主義化」においては中国人労働力と難民が不可欠な要素だった。
 

民族主義

 国民党政権崩壊期の中国は、大東亜共栄圏に対する「開国」の時代だった。蒋介石も中国人民も、アジアそして日本に向き合わざる得なかったのである。そして、それは中華民族主義に対する本質的な矛盾でもあった。中国領土の保全と統一、経済自立を主とする民族主義から鑑みれば、西蔵、蒙古、満洲、香港を日本人に支配され、さらに日本人との交易を強いられていることは屈辱だった。また、日本との貿易関係は中国の産業発展を偏向させ、富国強兵に必要な重工業ではなく奢侈財や消費財の生産を促したという批判もあった。いわゆる開発経済学の問題が戦後最初に現出したのは中国だったと言える。
 蒋介石三民主義の矛盾、とりわけ民族主義民生主義の矛盾に苦しんだ。人民が飢えないためには大東亜共栄圏との交易しかないが、一方それは中国の経済的・政治的従属をもたらしたのである。中国共産党やその他反蒋介石派は常にこの点から蒋介石を攻撃した。中国共産党を支援するソ連はこれに着目し、「バラノウシクィー宣言」では日本帝国主義の大陸撤退も呼びかけている。しかし新疆のテュルク系民族独立にも言及するなど、この頃から中国とソ連は不協和音を見せていた。
 ともかく、民族主義の論点は国民党を破って成立した共産党政権にも引き継がれていった。やがて共産党が軍事的勝利を経て政権を獲得すると、新政権の正統性確保のため民族主義は再び注目された。毛沢東民族主義民生主義に対し、自力更生によるアウタルキー経済の構築と、満洲など旧領回復による民族主義的中華統一という結論を出した。すなわち富国強兵である。これがために、中国は人民共和国成立後一転して鎖国状態になり、飢餓目前の食糧水準のなか全民武装と重工業開発へと邁進することとなった。
 しかしながら、こうした路線の非現実性に対する批判もあり、高崗はソ連との、周恩来は日本との対等で公平な通商を志向した。結局として前者は実現し後者は破綻したのだった。ソ連毛沢東失地回復熱を煽り武器や産業技術向上を支援した結果、ソ連の手を汚さない形で日中の軍事衝突に後年至ったのである。ただし、周恩来による日中通商再開交渉の破綻は、直接的には条約批准拒否を呼びかけた重臣近衛文麿と、宮城進軍事件を引き起こした永仁親王らにあると見ていいだろう。

 最後に、国民党政権期の中国史をつぶさに解剖すると、端々にその後の日中の歴史展開の伏線を見ることができる。1973年に勃発した破滅的な日中戦争の全体に日中対立があり、その前提に協和党政権誕生と共産党政権誕生があり、さらにその前提に大東亜共栄圏の歪な構造の存在があった。20世紀はアジア発展の世紀だったが、同時にアジア人同士が奪い合い殺し合う世紀でもあったのである。

*1:戦後新たに建国された日本の傀儡国

*2:1914年のシムラ条約で割譲されたチベット南部の地域。

*3:首相に相当。

*4:ロシアは裏でこの対立を煽動していたとされる

*5:すなわち青シャツ隊である。ムッソリーニの黒シャツ隊のオマージュ。

*6:ウイグルスタンとは別。

*7:モンゴル軍とは別。

*8:ただし内蒙古三省などの地域に元来住んでいた中国人を除く。

*9:ただし法的には中華民国国籍のまま。