太原包囲戦

太原包囲戦とは国共内戦における戦役の一つである。三大会戦に含まれないが、同様に大規模で特に日本にとって重要視された。日本軍が独断で支援し断乎抗戦したが、結局は解放軍の人海戦術の中に没した。太原の敗北は宮城進軍事件の遠因となった。

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左:閻錫山 右:山西省

前史

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左:河本大作 右:日本軍の空輸支援

 そもそも山西省は国民政府の直接支配にはなく、閻錫山率いる山西軍閥支配下にあった。閻錫山は旧北京政府に地方軍閥として表面上参加しつつ、実際には一貫して中立方針*1を貫いたため、旧北京政府滅亡後も蒋介石による粛清を免れていた。しかしながら、旧北京政府のKMC軍に参加した自身の部隊は大東亜戦争の北伐で国民革命軍に撃破されており、これで戦力の1/3を失っていた。戦後、蒋介石は兵力不足の山西省に浸透しつつ、共産党の延安根拠地の最前線という性質上、治安線への支援と関与を行っていた。
 対する閻錫山は蒋介石の影響力拡大とバランスを取るため、日本との協力へ傾倒した。いわゆる「晋日合作」は、武器弾薬の補給や軍事顧問団派遣、軍需工場の建設、日系企業の進出など多岐に渡るもので、これら支援も合って山西省の太原は華北には珍しい重工業が比較的発達していた。都市部には日本人や朝鮮人の経営する商店、ホテル、レストランなどもあった。
 国共内戦の戦況が悪化すると、山岳地帯の山西省共産党が易々と侵攻していった。旧KMCの中原大乱以降はその傾向に拍車がかかり、次第に農村地域は閻錫山の支配が届かなくなっていった。山西軍閥は優秀な指揮官にあふれていたが、名将傅作義も国民党特務及び日本軍特務の両方から共産党との通謀を疑われるなど、非農村部への浸透も時間の問題だった。
 閻錫山は山西省それ自体の経済的・インフラ的価値や、地政学的価値、蒋介石から捨て石にされる危険を鑑み、共産党の一大構成に備えて太原の要塞化を命令した。太原は三方を山々に囲まれ、籠城には適した地形だった。軍民一致でトーチカ建設が命令され、日本人居留民も共に汗を流した。
 日本軍の関東軍と蒙古軍は本国に無断で重火器を空輸または鉄道輸送していった。山西軍閥の支配する山西省内蒙古は日本の権益が多く、また今後もそれを拡大すべきであると認識していたためであった。こうした日本軍の大規模支援は、蒋介石の国民革命軍に対する乏しい支援と不仲とは対照的である。ただし、日本軍の支援や冷徹な野心だけでなく、当時の熱狂的なアジア主義の気風によるものであった。今村方策など自ら包囲下の太原に留まったアジア主義者も少なくなかった。

太原の日本人

 前述のように、太原は日本資本の進出先であったため数多くの日本人や朝鮮人が住んでいた。最も有名であるのは満州事変の関係者とされる河本大作であり、晋日合作で設立された「西北実業建設公司」の総顧問として閻錫山や山西省幹部などとの親交を結んでいた。城野宏は河本大作の部下で、太原特務機関の現地工作に従事していた。また、平野零児は河本の義弟で作家だった。
 朝鮮人も太原にいた。朝鮮人商人だけでなく、満洲国の朝鮮人特務指導者元容徳の指揮下で朴正煕も太原特務機関におり、現地の戦闘準備に参加している。そのためか朴正煕が所属した間島特設隊出身である満洲国の朝鮮人軍人崔周鍾も朝鮮人義勇兵を率いて戦闘に参加していた。
 その他に、当時の日本の反政府組織である、ブントからは森田実などの工作者も義勇兵として参加していた。後の協和党政権へつながる反政府運動の結節点がアジア主義であったため、アジア救済の大義に基づき多くの青年が義勇兵として参加したのだった。

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太原の衛星写真

戦闘の推移

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 1956年10月15日、中国人民解放軍の徐向前将軍は太原攻撃を命じた。ちょうど新疆でウルムチ駐留の国民革命軍が包囲下に敗れ、華北と西北では三大会戦が勃発していた頃である。徐向前は防衛兵力の分厚い東南部を迂回し、東部の山中を一気に打通する作戦に出た。閻錫山軍内部の共産党内通者の助力で防衛線を奇襲突破したが、太原防衛総司令官の王靖国及び日本人義勇軍日僑興亜滅共自衛隊」(通称:日僑自衛隊)を指揮する今村方策の組織的な防衛と反攻で食い止め、失地を奪還した。この争奪戦で両軍それぞれ2万人が死傷した。10月24日には河北省で国民党特務の「援晋兵団」が山西省の解放軍に対する奇襲攻撃を試みたが、共産党及び解放軍は密通でこれを把握し阻止した。
 この戦いで閻錫山軍は疲労したが、日本軍は空路で太原との補給網を維持し、絶えず物資の搬入と負傷者の後送を行った。逃げ遅れた邦人のうち従軍看護婦を除く女性と子供は満洲国の赤峰に送られ、代わりに日本や満洲、朝鮮などから集まった血気盛んな義勇兵がやって来た。無論彼らは熱烈なアジア主義者で、協和党政権の満洲を例外として、日本や朝鮮などでは官憲が発した義勇兵応募の厳禁に反して飛来したのだった。
 解放軍は空路支援を断つべく11月16日には太原西方の攻勢を命令し、いくつかの飛行場が占領された。これで太原への支援はますます細くなった。しかし、12月には平津会戦の激化のため包囲攻撃は小休止となる。山西省の東隣にある河北省では、閻錫山軍の傅作義が解放軍の猛攻に圧倒され、北平の無血開城を受け入れて降伏した。
 翌1957年、平津会戦の敗北で山西救援が絶望的となると、太原城内も悲壮感が漂い始めた。食糧と弾薬は不足していた。王靖国の娘王瑞書は共産党から降伏勧告を受け取ったが、王靖国は断固拒否した。太原内部の共産党工作員の活躍で城内の防衛戦図が流出する事件も発生し、多数の容疑者が検挙、即銃殺された。閻錫山は蒋介石の招きで3月末に空路南京へ脱出し、戻ることはなかった。
 華中で解放軍が長江を渡河していた4月22日、徐向前は太原総攻撃を開始した。城外陣地の守備隊は全滅し、24日には太原城内の市街戦が始まった。王靖国は相次ぐ降伏勧告を毅然と拒否し、自らも武器を取って戦った。25日には解放軍部隊が太原防衛司令部に突入し、王靖国や今村方策、梁敦厚*2と閻慧卿*3ら200人が自決した。こうして太原の戦いは終結した。

後日談と太原包囲戦の意義

 太原包囲戦は国共内戦三大会戦には含まないが、特に日本や満洲に置いて大きな注目を集めた戦いだった。それは無論、日本人が数多く参加したこともあるが、この戦いが玉砕に終わっただけでなく、中国赤化のターニングポイントでもあり、日本の対中国政策の敗北でもあったからである。
 包囲戦における閻錫山軍の犠牲者、生還者の性格な数は不明である。日本人義勇兵に置いては約2600人のうち約1000人が生還、すなわち捕虜となった。捕虜は共産党側の収容所に抑留されたが、国共内戦勝利後、周恩来総理による対日通商回復交渉の一環として、そのほとんどは宮城進軍事件までに釈放された。ごく一部の捕虜がその後も抑留され続けたが、日中対立、文化大革命日中戦争の混乱の中で全員死亡したと見られる。文書もよく残っておらず、詳細は不明である。
 帰還した日本人青年は「生きて虜囚の辱めを受けず」の通り、降伏を恥じて変名したり自決したりする者も少なくなかった。しかし元義勇兵の作家平野零児が彼らを「反共義士」として顕彰し、満洲協和党及び1960年成立の日本の協和党が日中対立の激化を踏まえ、彼らを国家規模で称揚するようになった。「太原包囲戦従軍記章」が製作され、元義勇兵には軍人恩給が支給された。また、真のアジア主義戦士として青年の間で認められ、党幹部にまで出世した者もあった。ブントの森田実はその一人である。
 生還した朝鮮人も、満洲国を中心に大いに出世するきっかけを掴んだ。朴正煕は後に満洲国における朝鮮人民族エリートとなった。
 太原包囲戦を含む山西軍閥崩壊の結果、多くの閻錫山軍将兵が日本影響下の蒙古国へ脱出した。蒙古軍と関東軍は彼らの救援を目的に「内蒙作戦」を独断で実施。綏遠省、察哈爾省 、寧夏省の他、大同市など万里の長城より北側が日本軍に占領された。蒙古国はこれら内蒙地域を東京の許可なしに自国に編入し、毛沢東蒋介石を大いに怒らせた。
 この内蒙問題は日中通商回復交渉の際、中国側に引き渡すことで解決する予定だったが、宮城進軍事件で交渉決裂に至ったため、蒙古国領として(日本側においては)確定し、共産党から逃れた中国人の避難地域となり、閻錫山も移住した。しかし、モンゴル人国家という蒙古国の性格や、内戦で閻錫山軍が有力者は無論その組織までも徹底して失ったことにより、中国人住民は一方的に弾圧されることとなった。蒙古国と蒙古軍は共産党内通者の捜索に血眼を挙げ、多くの漢族系中国人が蒙古北方に強制移住された。
 最後に指摘せねばならないのは、太原包囲戦と世論の密接な関係とその影響だった。
 当時大日本政治会を与党とする日本政府は干渉に消極的で、アジア主義系の反政府運動に繋がることを恐れ、義勇兵の存在はおろか太原包囲戦の戦況さえ報道を禁じた。一方、満洲協和党による党国体制下の満洲国は積極的に関与し、義勇兵を称揚して解放軍を中傷し、反共世論を高めていった。
 例えば、満洲日日新聞は協和党中央による工作で「奸臣傅作義」キャンペーンを始め、満洲国臣民の熱狂を煽った。傅作義を呪う歌まで制作された。後に中国共産党のスパイとして粛清された大塚有章弘報部大臣は反対したが、事実上の党指導者である池田純久は大塚の頭越しに弘報部を指導したという。このため日本政府は満洲国へ度々苦情を伝えたが、池田はどこ吹く風だった。池田の息のかかった関東軍は池田を断固支持した。
 こうした宣伝工作に興奮したのは、共産党の弾圧で満洲国に逃れた難民、そして日満のアジア主義青年たちだった。日本の情報封鎖も満洲国のために意味をなさなかった。日本青年運動の流れをくむアジア主義青年一般は戦闘に注目し、義勇兵を送り出したブントなどアジア主義の過激派組織は勢いを増した。ブレーン組織「新日本研究会」を組織し政権奪取を伺っていた近衛文麿と永仁親王は、太原包囲戦の敗北を日本政府の無為無策のためであると批難し、周恩来の対日交渉と併せて、日本政府――大日本政治会政権――反アジア主義――容共、と結びつけた。この導火線はアジア主義青年による1960年の宮城進軍事件で爆発し、永仁親王らは政権を獲得することとなる。

*1:いわゆる「山西モンロー主義」。

*2:省主席代理

*3:閻錫山の妹