川俣清音

川俣清音(1899-1972)は日本の政治家、大日本政治会全体派及び協和党斎礼会に所属。

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宮城進軍事件(1960年)

 北海道出身、早稲田大学を卒業し農民運動に参加。1924年に日本農民組合(日農)の結成に参加し、中央委員を務める。加藤勘十や浅沼稲次郎など、後に1960年の主体維新で活躍する面々と知り合った。
 1936年に社会大衆党から衆議院に当選。その後も戦時中に渡り議員をつづけたが、1947年に当時勃発していた石原莞爾の信奉者による反政府運動「道復運動」の咎で憲兵隊に議員辞職を強制された。旧社会大衆党は労働運動と農民運動を基盤としていたが、戦後労働者と農民が道復運動に参加したため、大日本政治会(日政)における旧社大党出身者を構成する「日政全体派」はこれに連座して大打撃を受けた。加藤勘十や浅沼稲次郎らとともに渡満を余儀なくされたが、その後も「宮城進軍事件」まで満洲に残り続けた加藤と浅沼とは異なり、川俣は東條政権が富永政権に代わると帰朝し、日政全体派の指導者三輪寿壮とともに全体派の再建を急いだ。
 1950年代後半にかけて、加藤や浅沼などを含む渡満者が発案した「主体主義」が内地日本人の心をつかみ反政府運動の道標となると、コミュニズムに対する主体主義の称揚を要求する声は高まり、1960年の宮城進軍事件による岸内閣の退陣に結実した。これに合わせて解散した日政に替えて、重臣近衛文麿の指導で「協和党」が誕生すると、加藤や浅沼ら渡満者の一部も帰朝してきた。川俣は旧日政全体派を代表して加藤や浅沼を迎え、彼らを包容することで協和党における進出の足掛かりをつかんだ。1960年に近衛文麿お抱えの派閥として「齋礼会」が設立され、浅沼と川俣はこれに加入した。演説が上手い浅沼は齋礼会の指導者へと出世することとなる。