東亜競技大会
東亜競技大会とは2年に1度開催される国際夏季スポーツ大会である。
歴史
戦間期アジアにおいては「極東選手権競技大会」が存在し、日本を含むアジア各国が参加していた。しかし、中華民国の代表権問題や北伐に絡む馮玉祥政府と蒋介石政府の対立、そして蒋介石率いる国民政府に肩入れする日本の一時ボイコットなどもあり、極東選手権競技大会は次第に国際政治の対立に巻き込まれていった。
極東選手権競技大会はアメリカ植民地のフィリピンが主催していたが、1937年勃発のアメリカ内戦でアメリカ本国が大混乱に陥ると、アジア主義高まる日本は「東洋の盟主」を示すため、日本、満洲国、中華民国国民政府をもって一斉ボイコットした。これをきっかけに極東選手権競技大会は開催されなくなった。このため一時アジアのスポーツ大会が開催されないという空白期があったが、1940年6月に皇紀2600年を記念して新たに「東亜競技大会」が始まった。ちなみに、極東選手権競技大会主催のフィリピンは1940年1月に日本軍に占領され、この東亜競技大会参加をもってアメリカからの独立を内外にアピールすることとなった。
1940年大会を第1回目とし、それ以降は極東選手権競技大会と同様に2年に1回、すなわち偶数年には東亜競技大会が開催されるようになった。
歴代大会
1940年:第1回東亜競技大会(開催地:東京、奈良、兵庫) 皇紀2600年を記念
1942年:第2回東亜競技大会(新京) 満洲国建国10周年を記念
1944年:第3回東亜競技大会(名古屋)
1946年:第4回東亜競技大会(南京)
1948年:第5回東亜競技大会(マニラ)
1950年:第6回東亜競技大会(上海)
1952年:第7回東亜競技大会(京城)
1954年:第8回東亜競技大会(ジャカルタ)
1956年:第9回東亜競技大会(バンコク) 大東亜戦勝10周年を記念
1958年:第10回東亜競技大会(大阪) 中華人民共和国成立により中華民国が参加資格停止
1960年:第11回東亜競技大会(奉天)
日本本国の政治危機のため開催が9月に延期。6月の協和党政権誕生に合わせ急遽、主体維新記念とした。
1962年:第12回東亜競技大会(サイゴン) 中華民国の参加資格が回復
1964年:第13回東亜競技大会(東京)
10月の党大会に合わせ9月開催。第1期党全国指導会議発足3周年を記念。詳細は後述。
1966年:第14回東亜競技大会(マンダレー)
1968年:第15回東亜競技大会(釜山)
1970年:第16回東亜競技大会(大連) 主体維新10周年記念
1972年:第17回東亜競技大会(プノンペン)
1974年:第18回東亜競技大会(福岡→札幌) 1973年の日中開戦の影響で開催地変更
1976年:第19回東亜競技大会(マニラ)
1978年:第20回東亜競技大会(ジャカルタ) 共匪殲滅記念
1980年:第21回東亜競技大会(ノヴォシビルスク)
大東亜共栄圏外で開催された初の大会で、フランス及びソ連圏のスパルタキアーダと共同開催した。
東亜ソ連平和友好記念。
……
著名な大会
第1回東亜競技大会
皇紀2600年記念として東京、奈良、兵庫で開催された。また、複数都市で同時開催した唯一の東亜競技大会である。参加国は日本、満洲国、中華民国(国民政府)、フィリピン、タイ。秩父宮雍仁親王が開閉会式に臨席した。
第13回大会
1960年に宮城進軍事件が勃発したのち協和党政権が誕生し、1961年10月には正式に協和党の第1期全国指導会議が発足した。したがって東京開催の1964年大会は全国指導会議発足3周年記念大会とされ、ドナウ社会主義労農党の党大会を参考に「勝利の大会」と呼ばれた。この大会では新政権の正統性を示し、主体主義を称揚してサンディカリスト及び赤色中国に対抗する目的で、盛大な開会式が行われた。
開会式には、党身分団体である日本協和青年団によるマスゲーム*1が披露され、主体学生同盟による一糸乱れぬ行進と舞踏、アジアの発展を誇示する宣伝煽動の数々が続いた。そして永仁親王による開会宣言を経て、アジア各地を巡った聖火*2が聖火台に点火された。昭和天皇は主体維新を警戒する立場から参加せず、代理として協和党の事実上の元勲である永仁親王が参加したのだった。開会式の最後には「大東亜万歳!主体維新万歳!」と皆が一体となり叫んだ。
ちなみに第13回大会は党大会を兼ねており、昼はスポーツ競技で夜は党大会をするという形で東京聖戦競技場は慌ただしく利用された。
第21回大会
1980年の第21回大会は最もユニークな大会の一つである。大東亜共栄圏の外で中立国であるシベリアのノヴォシビルスクで開催され、さらにサンディカリストのスポーツ大会であるスパルタキアーダを兼用したのだった。これは1973年から78年にかけての日中戦争と、日ソ和平による戦争終結、そして戦時中の反共反組反白*3の反動による日ソ宥和ムードに由来している。
それ以前の大会でもドナウ連邦などの選手が客人として参加することはあったが、第21回大会はアジア人選手が本格的に白人と戦った初めての大会となった。スパルタキアーダのマスコットキャラクターである「こぐまのミーシャ」はアジアにも紹介され、以降アジアにマスコットブームが到来した。