周恩来

周恩来(1898-1976)は中国の政治家、毛沢東政権における外交部長、政務院・国務院総理。
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 江蘇省淮安府出身、天津の南開中学校で学ぶ。その後日本へ留学し明治大学へ進学した。1920年には革命間もないフランスのパリに留学し、1924年に中国へ帰国する。
 中国では国民革命軍の黄埔軍官学校に入学し当時の連仏路線に従っていた。蒋介石がサンディカリスト排除を行った際、周恩来はこれを離れて正式に中国共産党の中央部に就いた。この地位は1930年代の国共内戦、WW2、戦後の国共内戦クライマックスでも変わらなかった。
 1957年に中華人民共和国が成立し共産党が政権を掌握すると、周恩来は政務院総理と外交部長に就任した。1961年に全国人民代表大会により憲法が改正されると、国務院総理兼外交部長へと肩書を変えた。
 周恩来は日本留学の経験などから日中双方から知日派と理解され、日中通商再開交渉を指導することとなった。日本の重光葵首相、その急死後首相となった岸信介の訪中を温かく歓迎し、1959年には日中国交正常化における調印までに至った。この時点で条約としてほとんど発効したも同然の状態で、残りは日本側の批准を待つのみとなった。しかし、1960年に枢密院は異例の批准拒否の決定を下した。政局混乱による政権奪取を狙う近衛文麿の策動で起きた「宮城進軍事件」で宮城が包囲されたためである。これをきっかけに岸内閣は総辞職、大日本政治会は解散し、協和党政権が誕生した。協和党政権は中国とのイデオロギー対決の姿勢を進め、中国を経済封鎖した。周恩来は事態の責任を取り1963年に外交部長を辞任した。後任は解放軍出身の陳毅である。
 一方、周恩来は内政において建設事業などの経済政策を担当した。そのほか、毛沢東を崇拝する演劇の監督をするなどして、文化大革命への遠因を作った。当時の中国経済赤旗建国3か年計画(1960-62)、第1次5ヶ年計画(1963-67)の計画経済が始動していたが、人口爆発と食糧不足、経済システム全体の非効率、毛沢東党主席における高度な経済知識の欠如のため、中国経済は危機的状況にあった。歴史家のなかには、仮に日本との通商が再開しても経済の再浮上は不可能であったと指摘する者もいる。頼みの綱はソ連とフランスからの技術・兵器援助だった。
 こうした経済路線に異論は相次ぎ、1964年には廬山会議で彭徳懐国防部長が毛沢東による巧みな逆襲で失脚し、1965年には劉少奇が経済路線の主導権を毛沢東から奪った。民衆の間でも闇市の拡大が相次ぎ、党中央は1962年に反右派闘争や1966年に社会主義教育運動を組織して弾圧を試みたが、闇経済とつながる地元党有力者(土皇帝)は闇経済の商人でなく、革命以前の国民党関係者やインテリなどへ矛先を向けるよう誘導し、弾圧をかわしていった。こうした中央と現場における党権力の離反を危惧した毛沢東は、1967年に文化大革命を発動し、党中央幹部と土皇帝の排除を決断する。
 文化大革命における周恩来の役割は複雑である、毛沢東を熱烈崇拝して失脚を回避しただけでなく、文革の推進者として革命の元勲らを蹴落とし批判すること憚らなかった。しかしその一方、紅衛兵による文化財の破壊に対し解放軍を送って止めさせ、図書館から略奪された古文書の極秘回収事業を指揮し、一部の盟友に対する紅衛兵の暴行を止めようと努力した。四人組の江青はこれについて「消防隊長」と評した。他の文革推進幹部と同様、各省における武闘*1の仲裁を行い指導力を発揮した。

 しかし、周恩来の古巣である外交部は紅衛兵の魔の手を逃れられなかった。1968年8月、無政府状態の首都南京は紅衛兵の無数のセクトが席巻し、襲撃が相次いでいた。国交がない日本が持つ唯一の公的窓口である南京日本事務所が8月22日夜、紅衛兵に襲撃・放火され、島津久大特使*2が暴行される事件が起きた。日本側はこれを「南京国恥事件」と呼び、反中世論を高まらせたのだった。この事件を煽動したのは外交部の奪権を試みる王力であるにもかかわらず、陳毅の責任とされ失脚した。外交部長の座は江青ら四人組に近い王力に奪われてしまった。王力は対日外交のノウハウがなく、向ソ一辺倒で日中対決へと加速させていき、後の日中戦争の遠因を作ったといえる。
 文化大革命で起きた目まぐるしく流動的な権力闘争は、1970年の第9回党大会において林彪毛沢東の後継者と認められたことを以て一旦終結した。周恩来林彪率いる人民解放軍に後れを取り、他文官である江青ら四人組、新疆王として中ソ経済提携の実務を握った高崗と争うこととなった。
 しかし毛沢東らと同様、周恩来の体は権力闘争の激務で疲弊し、1972年には癌を患っていると発覚した。毛沢東は医師団に対し周恩来へこれを伝えることを禁止したため、日中開戦後の1974年になると周恩来の病状は末期的となった。この頃癌を告知され、解放軍の病院に入院、戦争末期の1976年に死去した。周恩来の死に際し、対立していた林彪や四人組などはこれを祝い、人民に対して大々的な追悼集会を禁止し、解放軍の兵士は戦時を理由にこれを徹底させるため、人民を銃床で殴りつけた。
 日本側において、周恩来毛沢東側近というよりは日中交渉の指導者という印象が強く、日中戦争において中国の体制変革なくして和平なしという意見が多数を占めていた頃、周恩来毛沢東林彪打倒後の新指導者候補として秘かに注目を浴びていた。そのため、大平正芳外務大臣周恩来死去の報せを聞き膝から崩れ落ちたという。
 日中戦争後、日本の協和党政権は周恩来を当時の中国における良心として顕彰し、歴史工作を行った。京都の嵐山には、現在も周恩来による漢詩『雨中嵐山』碑が立っている。

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*1:紅衛兵セクト争い及び紅衛兵と地元党有力者との闘争。

*2:1906-90。日本の外交官。ラングーン総領事、ドナウ駐箚特命全権大使、タイ駐箚特命全権大使などを歴任。