河合義一
河合義一(1872-1974)は日本の農民運動家、満洲の政治家。満洲協和党(協和会)浜江省蘭西県支部輔導者、党浜江省支部輔導者、全国連合協議会議員。
兵庫県出身、同志社中学、東京外国語大学仏文科を卒業し、日本銀行に入行。後に日銀を退職し帰郷する。
故郷の高砂町会議員に当選し、農民運動に参加。小作争議にかかわり投獄されたこともあった。日本労農党を経由して社会大衆党に入り、1937年に衆院議員として初当選する。しかし1947年の東條政権において旧社大党議員は道復運動の咎で弾圧され、議員を辞職せざる得なかった。その後満洲に渡る。
ちょうど大規模な国家改造期にあたった満洲では兵庫県出身者の開拓地がある浜江省蘭西県において協和会の支部輔導者を務め、党国体制成立による党の優位性により、地域の政治、経済、行政において民衆を牧民し、その民意を代表した。日本人開拓移民を中心に支持を得て1951年10月に第1届中央補導委員会発足に合わせ、党浜江省支部輔導者に就任。全国連合協議会メンバーにもなる。いずれも1955年10月まで務めた。
阿部五郎
阿部五郎(1904-1963)は日本の政治家。協和党徳島県農地解放指導委員会指導者。
徳島県出身。徳島県立商業学校を卒業し、門司港の荷役事務員、労働共済会の主事を経て1920年代の無産政党である労働農民党に入党した。その後弁護士資格を得、戦後は経済破綻のため機能不全に陥った徳島県において、労働者及び農民の支援を受けつつ在地有力者として成長。労働争議や小作争議の仲裁、作物拠出の調整などを指導していた。
1960年に大日本政治会が解散し協和党政権が誕生すると、協和党徳島県農地解放指導委員会の指導者として、小作解放や不在地主の農地接収を断行した。この際、地元警察や地主の私兵との衝突もあり、党民兵である自衛隊が阿部邸を保衛していた。協和党全国指導会議メンバー。
1963年に糖尿病による心筋梗塞のため死去。同じ徳島県を選挙区としていた協和党の三木武夫議員が追悼演説を行った。