アプトン・シンクレア

アプトン・シンクレア(Upton Beall Sinclair Jr., 1878-1946)はアメリカおよびCSAの政治家、作家。CSA軍カリフォルニア州司令官、西海岸戦線司令官。
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 メリーランド州ボルチモア出身。子供のころから読書家で作家を望んだ。1904年にシカゴの食肉工場において一般労働者として働き、食肉業の劣悪な労働環境を暴露したルポルタージュ『ジャングル』を1906年に発表。同作はアメリカでベストセラーとなった。これで名声を得ると、社会主義者団体の設立やユートピアコロニーの建設を模索するようになった。
 その後ジャック・リードの社会党に入党。1910年代は炭鉱労働者の闘争を支援し、ニューヨークで反ロックフェラーのデモを組織していた。1920年には、進歩主義団体のアメリカ自由人権協会支部を設立するため、カリフォルニア州へ移住する。当時のカリフォルニア州は保守的な企業家とカトリック教会が政治的主導権を握り、共和党が歴代知事を輩出していた。これに対し、シンクレアら社会党カリフォルニア州で増加しつつあった労働者に目をつけ、彼らを選挙に動員しようと企図していた。
 世界恐慌の怨嗟が深まる1934年、シンクレアら社会党は知事選挙を前にカリフォルニア州貧困撲滅運動(End Poverty in California; EPIC)を示し、野党民主党にも統一候補擁立など共闘を呼び掛けた。この運動はカリフォルニア州民主党にも一定の感心をもたらしたが、ニューヨーク州を地盤とする有力民主党員であり反サンディカリストのアル・スミス*1による猛烈な批難もあり、サンディカリストのレッテルを恐れたカリフォルニア州民主党は結局社会党との共同戦線を拒否した。シンクレアは労働者の直接行動による抵抗を試みたが、これも失敗した。選挙では労働者の票は社会党民主党に分裂し、大企業の支援を受ける共和党のフランク・メリアムの当選を許してしまった。
 カリフォルニア州選挙直前の1934年5月に決行されたこの直接行動は「西海岸ウェストフロントストライキ」と呼ばれた。急死した共和党のジェームズ・ロルフ前知事の代行として知事を務めていたメリアムは毅然とした態度で望み、警官隊を動員してこのストライキを鎮圧した。この事件はむしろメリアムら保守派政治家、メディア及び大企業の団結をもたらし、「ストップ・シンクレア」運動までが組織された。ウォルトディズニーやハリウッドが反サンディカリズムプロパガンダを生産したきっかけとなったのも、この運動である。
 1937年にアメリカ内戦が勃発したが、このときカリフォルニア州CSA軍司令官に任命されたシンクレアは州の権力奪取に失敗した。むしろマッカーサーとの交渉で有利な合意を勝ち取り、さらに東海岸の政治家の亡命を受け入れたメリアムのイニシアチブを許してしまった。メリアムは州兵を駆使して赤衛隊との警察戦を行った。しかし、1939年にマッカーサー軍が東海岸を失陥すると、メリアムは反旗を翻してアメリカ太平洋州国(PSA)として独立を宣言した。カリフォルニア州はメリアムのPSA、マッカーサーのUSA軍、シンクレアらサンディカリストのCSA系民兵による三つ巴の内戦へと発展した。
 シンクレアは何度も攻勢を起こし、北のオレゴン州などではサンディカリストの支配地域も確立され、さらに1942年にはメリアムへの爆殺テロを成功させたものの、結局カリフォルニア州の奪取は最後まで叶わなかった。
 1946年8月の内戦及びWW2終結期の頃、シンクレアは戦傷による感染症で死亡したとされる。遺体は同志により密葬され、西海岸のどこかに眠っているという。
 ちなみに、シンクレアはオカルトが好きで、テレパシーに関して個人的に研究していたらしい。

*1:1932年大統領選挙では民主党の大統領候補として立候補したが、共和党のハーバード・フーバーに敗れた。