フランツ・フォン・エップ

フランツ・リッター・フォン・エップ(Franz Ritter von Epp, 1868-1952)はドイツ帝国の政治家。民族突撃隊東アフリカ指導者。
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 ドイツ帝国バイエルン王国出身。カトリック教徒で同王国の士官学校を卒業。1900年の義和団事件鎮圧及び1900年から1901年にかけてのドイツ領南西アフリカにおけるヘレロ・ナマクア人反乱鎮圧において活躍した。WW1では西部戦線、イタリア戦線、ルーマニア戦線などに参加し鉄十字勲章を受勲、戦争終結時の階級は大佐だった。
 戦後は軍縮に伴い除隊、1927年に祖国党に入党したものの、1928年にヘルマン・フォン・ゲーリングが東アフリカ総督に就任したことを機にアフリカに移住し、ゲーリングによるフェルキッシュ政党である汎ドイツ同盟のアフリカ支部に入党した。
 その後、ヘレロ・ナマクア反乱鎮圧の経験を買われ1928-1930年には南西アフリカ治安長官となり、1930年には東アフリカの治安長官へ就任。翌1931年には原住民反乱を鎮圧した。ゲーリング東アフリカ総督の下、植民地警察が事実上の民族突撃隊アフリカ支部へと変貌するなか、大方の治安課題が片付いたことを理由に、1933年にラインハルト・ハイドリヒに禅譲する形で辞任した。ハイドリヒは海軍を不名誉除隊し東アフリカへと渡った流れ者だったが、植民地警察に就職し出世した若者だった。このハイドリヒという男は後にノイプロイセン建国と黒人絶滅作戦において活躍することとなる。
 一方、帰国したエップは上流階級であることを生かし汎ドイツ同盟の報道官として活躍するようになり、国際会議にも出席した。エップは汎ドイツ同盟と軍や貴族を繋ぐパイプ役の一人だった。
 ゲーリングがアフリカにいる間、代わりに本国の汎ドイツ同盟を指導していた軍出身のパウル・フォン・ヒンデンブルクが1934年に死去すると、エップは党を乗っ取ることを計画した。しかし、翌1935年にゲーリングが帰国したことでこの計画が成功することはなかった。これがきっかけでエップは汎ドイツ同盟の中枢から外された。この頃、ゲーリングは社会不安に付け込み汎ドイツ同盟への支持を伸ばしていったが、エップはゲーリング全体主義的素質を嫌うようになる。
 結局、1939年にWW2で予備役招集されたことをきっかけに党を辞任。戦中は隠遁生活を送り、戦後に独領南西アフリカを併合した南アフリカへ移住、同地で息を引き取った。