エーデルワイス作戦とイタリア戦線

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前史

 WW1においてイタリアが所属する協商国は敗北し、イタリアは中央同盟国との停戦を得たが、それでも国民の間に広がった徒労と失望は惨憺たるものだった。塹壕戦で団結した国民の愛国心は暴走し、後のファシスト党含む民兵によるオーストリア革命への介入が起こった。この結果、旧二重帝国領のチロルやイストリア半島などを獲得したが、オーストリア革命で成立したドナウ連邦とは癒えない傷を残してしまった。
 1922年に「ローマ進軍」で国家ファシスト党は政権を獲得し、指導者ベニート・ムッソリーニは「統帥」と呼ばれる独裁者へとなった。さらに、1929年にはファシスト党一党独裁が完成した。ドナウ連邦とは対立しつつも、ドナウの全体主義運動に多大な影響を与えたことは否定できず、1933-4年にはドナウ社会主義労農党の一党独裁が成立した。また、ドナウ党のイデオローグであるホライ・ルーリンツはイタリア・ファシズムの支持者だった。
 盤石に思われたムッソリーニの支配体制は世界恐慌で一変する。ほとんどの国有企業を民営化し自由経済に委ねたことで知られるイタリア経済は、世界恐慌の影響をそのまま受けて失業者が100万人を超え、一気に経済危機へ陥った。
 中欧経済圏と呼ばれる生存圏を持つドイツ帝国とは異なり、植民地こそ持てその数は少ないイタリアは、フランスやドナウなどと同様にブロック経済化に失敗した。また、ドイツに妥協し金本位制固執したことも災いした。
 こうして、経済失策を収拾できなかったムッソリーニ政権は1933年にピエトロ・バドリオ将軍率いるクーデターにより打倒された。この前年にはフランスでシャルル・ドゴール将軍によるクーデターが起こっている。バドリオ政権は国家ファシスト党を乗っ取りつつ、サンディカリストムッソリーニ側近を粛清して王党派に支配させた。ムッソリーニもまたスイスに亡命せざる得なかった。
 しかし、ドゴール政権やドナウ党政権などと同時期に出現したバドリオ政権は、反帝協定といった全体主義国家の隊伍には加わらなかった。確かにドイツとは対立していたが、ドイツよりもドナウのほうがより差し迫った脅威であり、特に南ヨーロッパ諸国の支配をめぐって対立した。
 この方針はWW2まで変わらず、実際にゲラニウム作戦*1でドナウ軍と戦火を交えるに至っている。そのときすでに宣戦布告がなされており、イタリア=ドナウ国境は臨戦状態に突入していた。この状況の打開を試みた大作戦が、ドナウ連邦による「エーデルワイス作戦」である。

WW2

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エーデルワイス作戦(1940年5月15日~6月12日)

 1940年5月に行われた、ドナウ連邦軍によるイタリア侵攻作戦の一つを指す。
 1939年9月のドナウによるユーゴスラビア侵攻と同時にイタリアはドナウ連邦に宣戦布告し、戦争が始まった。かつて軍事クーデターでムッソリーニを追いやったピエトロ・バドリオ首相はドイツに飛び、軍事支援の確約を得た。こうしてイタリアはドイツ率いる同盟国に参加した。
 当初アルプスのドナウ・イタリア国境には動きがなく、しばらくイタリア軍ボスニアユーゴスラビア軍残党(チェトニク)によるゲリラ戦の支援と、アルバニアの防衛に専念した。ドナウ軍はアルバニアへの侵攻をはばかっていたが、これはアルプスを経由してイタリア本土を攻撃する「エーデルワイス作戦」の準備のためだった。
 1940年5月、ライン川フランス軍が快進撃するなか、ドナウ軍はアルバニア侵攻という偽情報を流布してイタリア軍を油断させつつ、アルプス地方に軍勢を集めた。5月15日、ドナウ軍の第1装甲集団は「中立国」スイスを経由してアルプス越えを決行した。アルプスを越えイタリアに向かう道路は限られており、イタリア軍に察知される危険があった。しかしいくつかの偶然と天候が幸いし、ドナウ軍はそのまま国境を突破、一気にミラノを経由してイタリア軍を背後から攻撃した。
 エーデルワイス作戦で北イタリアのイタリア軍部隊が壊滅したことはイタリア世論に大きな動揺をもたらした。さらに、スイスからドナウによる支援でベニート・ムッソリーニが帰国したことも少なからぬ効果があった。6月、ムッソリーニは「イタリア社会共和国」を建国、ファシズム体制の復活を宣言し自ら統帥に就任した。しかしイタリア社会共和国は事実上ドナウの傀儡だった。
 ドナウ軍は前線のイタリア軍主力を包囲、撃破し、装甲部隊の一部は北アペニン山脈を突破した。しかし、イタリア軍は大損害にも関わらず兵力を集めて防衛線を構築することに成功し、6月13日にドナウ軍の快進撃は停止した。
 エーデルワイス作戦によりドナウ軍は約2万人、イタリア軍は約20万人を失った。ドナウ軍が得た捕虜のうち、ムッソリーニに忠誠を誓ったものはイタリア社会共和国に処分を任せることとした。この戦いでイタリア軍は航空戦力の大部分を戦わずして失った。

トラジメーノ線(1940年6月13日~1941年1月7日)

 イタリアはバドリオら首脳部の巧みな手により何とか自力で部隊再建を成功させ、何重もの防衛線を敷くことでドナウ軍を食い止めようとした。中部イタリアに形成されたトラジメーノ線は古代における第二次ポエニ戦争の古戦場に由来し、地形の力を借りつつドナウ軍を迎え撃ち、さらなる足止めをかけた。
 トラジメーノ線の戦いにおいて、ドナウ軍は装甲部隊と空挺部隊を投入したが、トラジメーノ線を突破するまでの約5か月間に約10万人の犠牲者を出した。イタリア軍は約3万人といわれる。
 イタリア軍の奮闘は同盟国であるイギリス軍の支援を促した。北イタリアの工業地帯を失ったイタリアはイギリスのレンドリースの対象となり、長期戦を行うことができたのである。
 また、こうした長期戦はドナウ軍の想定外であり、北アフリカ戦線の援護が滞るなどの悪影響が見られた。そもそも、ドナウはイタリアを侮っており、北イタリアにおける反ドレジスタンスの出現にも驚かされた。連邦保安省によるレジスタンスに対する容赦ない弾圧は、戦後のドナウ・イタリア関係に暗い影を落とすこととなった。

ローマの戦い(1941年1月8日~9月3日)

 地道な戦術爆撃の甲斐もありドナウ軍はトラジメーノ線を突破、一気に南進しローマにまで迫った。イタリア軍はローマ失陥を何としてでも避けるべく急増の防衛線(カエサル線)を築き、ドナウ軍を4か月間足止めさせることに成功した。
 長期化する戦闘にドナウ軍の神経はすり減り、軍民関係なく攻撃するようになった。レジスタンスは活発だったが、同時にイタリア社会共和国軍のレジスタンス狩りも熾烈を極めていた。
 1941年4月、ドナウ軍は敵後方に空挺部隊を投入するという博打を行い、ついにローマを占領することに成功した。戦闘により少なからぬ遺跡が破壊された。
 ドナウ軍の犠牲者は約3万人で、イタリア軍も約3万人である。

グスタボ線(1941年9月4日~12月19日)

 イタリア軍ナポリを防衛すべく強固な防衛線「グスタボ線」を引き、ドナウ軍と激突した。
 ドナウ軍の犠牲者は約4万人、イタリア軍は不明である。

ガリバルディ線(1941年12月20日~1942年4月16日)

 ガリバルディ線は南イタリア最後の防衛線で、これ以南は防御に有利な自然地形に乏しかった。ドナウ軍は約3か月かけてガリバルディ線を突破した。この防衛線ではじめてイギリス軍の援軍が参加した。
 ドナウ軍の犠牲者は約1.5万、イタリア軍とイギリス軍は不明である。

南イタリアシチリアの戦い(1942年4月17日~1943年1月30日)

 ガリバルディ線を失ったイタリア軍は、半島の南端でタラント方面とシチリア方面に分かれ抵抗を続けた。ドナウ軍は1943年1月にようやく全土を占領したが、特にシチリア島では海へ脱出できなかったイタリア軍残党がパルチザンとして活動し、しばしば治安が攪乱された。

イタリア社会共和国

 失脚したかつての統領ムッソリーニはスイスに隠遁し、燃え尽きた日々を送っていた。国家権力の支えを失ったドゥーチェは国際的なファシスト運動をけん引することもできず、また世界恐慌以降顕著になっていった全体主義革命の波に乗ることができなかった。ムッソリーニはフランスやドイツ、ドナウ、イギリスなどの一部国々の限られた人間たちと連絡を取り合っていたが、ドナウ党の理論家ホライ・ルーリンツもまたムッソリーニの友人の一人だった。ホライは何度もムッソリーニに再登板を求めていたが、ムッソリーニには断っていた。
 開戦しイタリア王国軍が北イタリアを失うと、ローゼッカと国防委員会はスイスにいるムッソリーニを無理やりでも連れ出して、傀儡国家の指導者へと仕立てることを要求し、空挺部隊による「柏作戦」が立案、決行された。こうして無理やり再登板させられたムッソリーニは、ミラノに置かれたドナウの傀儡政権「イタリア社会共和国」の指導者となった。
 イタリア社会共和国は戦時という特殊な時局もありドナウの強い影響下に置かれていたが、国内平定用に一定の民兵と正規軍を持つことを許された。何より、国際的に知られたムッソリーニ個人の威光やホライとムッソリーニの友人関係、理論家ニコラ・ボムバッチといった思想面での充実もあり、傀儡と呼ぶにはもったいないほどの国力を持っていた。
 WW2終結時、復興後のイタリア社会共和国の国力を侮れないと見たローゼッカの意向もあり、戦勝と同時にドナウとイタリアの国境問題は処理された。チロルは南北に分割し、トリエステのイタリア人には市民権選択の余地を与え、ドナウが手にしたアフリカ植民地のリビアエリトリアソマリアなどにおいてイタリア人はこれまで通りの特権と居住権を認められた。戦後ドナウ海軍を近代化する際、手本にしたのはイタリア海軍だった。イタリアは永久に敵対するより、多少面子を損なってでも友好関係を結ぶべきであるとウィーンの指導部は理解したのである。

*1:ゼラニウム作戦とも。1939年に勃発したドナウ連邦によるユーゴスラビア侵攻作戦。