ヴァルミー作戦とドイツ本土の陥落

 初のWW2記事。まだまだ書き足らないので後日小ネタを追加します。
 ヴァルミー作戦(L'opération Valmy)またはライン戦役(Rheinschlacht)とは1940年5月から6月にかけて行われた戦役である。この結果、ドイツ本土は陥落しドイツは降伏した。

前史

 オーストリア皇太子に向け放たれた一発の銃声から始まったWW1は欧州全土を巻き込み、フランスにはドイツ軍がシュリーフェン計画に基づき侵攻してきた。フランス軍はドイツ軍を追い出すことができず、1918年春の「カイザーシュラハト」でついにパリが陥落、翌1919年にはサンディカリストによる革命が勃発しフランス第三共和政は終焉を迎えた。
 このとき建国されたサンディカリスト国家としての「フランス・コミューン」は「対独復讐」というスローガンを掲げたものの、ドイツの強大な軍事力と経済力の前に厳しい軍備制限と賠償金を課され、臥薪嘗胆を余儀なくされた。この状況を一変させたのが世界恐慌とドゴールによるクーデターである。
 そもそも、1920年代のドイツ協調外交は軍事力でなく経済力による周辺国との共存に移行していた。「中欧経済圏」と呼ばれる経済協力圏を打ち立て、WW1時代に巨大化した軍備を縮小していった。しかし、世界恐慌やそれに伴う様々な価格暴落などはこの構図を破壊した。ドイツ経済はフランスを含む周辺諸国を支える力を失い、自由放任主義に依らないフランスやドナウ連邦などは経済的躍進を迎えドイツに見捨てられた周辺諸国を吸い寄せていった。
 1935年にフランスは再軍備を宣言し本格的な軍拡路線に舵を切った。しかし、急激な軍拡はフランスの外貨・正貨貯蓄を急減させ、1930年代後半にはフランスはたびたび財政危機を迎えた。独裁者シャルル・ドゴールは対独復讐を鼓舞しつつこれを達成させるため、武力威嚇も辞さぬ強硬な手段での外貨回収を行った。1936年に勃発したアメリカ内戦、スペイン内戦では非公式な義勇軍を派遣し、現地銀行から正貨を奪った。しかし、こうした努力にもかかわらずフランスの貿易収支は限界を迎え、1938年にはスイス西部のロマンディ地方を占領し、現地資産を略奪した。
 こうしたフランス姿勢に対し、イギリスは「宥和外交」と呼ばれる路線の下、フランスの要求を認める代わりに戦争勃発を先延ばしさせた。ドイツは1936年成立の社会民主党政権により軍拡が始まったが、積極的な財政支出を嫌っていたため不徹底だった。当時のヴィルヘルム・ハイエ参謀総長は皇帝ヴィルヘルム二世に対し、フランス一国ならば勝てるものの、ドナウやロシアなどとの二正面戦争は難しい、と語った。
 1939年にフランスはついにスイス西部を完全併合したが、対独国境に面するフランス人の居住地域ではないバーゼル地域も併合したことは、ドイツに対し対独復讐作戦の実行を予期させた。同年9月にはドナウ連邦とユーゴスラビアの交渉が決裂し戦争が勃発した。これに対しイタリアが介入したが、ショーヴィニズムで暴走した世論を抱えたドナウ連邦はこれをものともしなかった。これを受けてフランス国内でも対独復讐の実行を求める声が高まり、再び経済危機にあった1940年春「アルザス・ロレーヌか戦争か」の最後通牒とともに対独復讐作戦「ヴァルミー作戦」が始まった。

戦力

枢軸軍

アルフォンス・ジョルジュ大将。人民軍最高会議の副議長であり、事実上の軍最高司令官である。

人民軍最高会議司令部(司令官:アルフォンス・ジョルジュ大将)
・予備軍集団(シャルル・アンツィジェール大将)
 第10軍(フランソワ・アスレル中将)
 第6軍(ジョルジュ・リンドネル中将)

第1軍集団(ルネ・プリュー大将)
 アルデンヌの突破と浸透を目的とする。
・フラヴィニ軍(ジャン・フラヴィニ中将)
 第14軍団(トゥジェ・ドュ=ヴィジエ少将)
  第1機甲師団(フェルナン・ケレル准将)
  第2機甲師団(エミル・ブリュシェ准将)
  第7機甲師団(サンタンジェ・ムーラン准将)
  第70歩兵師団(エマニュエル・モラニエ准将)
 第19軍団(マレー・ド=ラフォン少将)
  第5機甲師団(ヨゼフ・ブーグレン准将)
  第6機甲師団(ボネ・ド=ラトゥール准将)
 第20軍団(ジャン・ラフォンテーヌ少将)
  浸透のための歩兵部隊。
・第2軍(バプチスト・リマッセ中将)
・第3軍(ボワ・ド=ボーシュスン中将)
・第4軍(ユーゲンヌ・ポール中将)

第2軍集団(アンリ・ジロー大将)
 ベルギーへの侵攻とドイツ軍の陽動。
・第1軍(フェルナン・デンツ中将)
・第7軍(ジャン・メール中将)
・第9軍(ジャン=バプチスト・モラニエ中将)
 第8軍団(ルイ・ボワロン少将)
  第3機甲師団(アメデー・ガステー准将)
  第4機甲師団(ピエール・サンディエ准将)
  第12歩兵師団(ガストン・ダマドー准将)
 装甲部隊が海岸線を突破しアントワープを目指す。

第3軍集団(ジョルジュ・ブランシャール大将)
 マジノ線の防衛。
・第5軍(ルシアン=アントワーヌ・ルガール中将)
・第8軍(ルイ・ルブルティ中将)

ちなみに、イタリア国境ではアルプス軍集団(エマニュエル=ユルベン・リボー大将)が鎮座していた。

同盟軍

形式上のドイツ軍最高司令官であり皇帝のヴィルヘルム2世。この翌年心労がたたって死去する。

参謀本部参謀総長:マックス・ホフマン元帥)
(予備)
・第14軍(ヴィルヘルム・カイテル砲兵大将)
・第12軍(フェードア・フォン・ボック騎兵大将)

A軍集団(司令官:ヴェルナー・フォン・ブロンベルク上級大将)
・第1軍(ゲルト・フォン・ルントシュテット歩兵大将)
・第2軍(ヴェルナー・フォン・フリッチュ)
・第5軍(ヴィルヘルム・リスト歩兵大将)
・第4軍(ヴィルヘルム・フォン・レープ砲兵大将)

B軍集団(クルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルト上級大将)
・第16軍(エルンスト・カビッシュ砲兵大将)
・第11軍(ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ砲兵大将)

C軍集団(司令官:ループレヒト・フォン・バイエルン上級大将)
・第15軍(ヴァルター・ハイッツ上級大将)
・第6軍(エーリッヒ・フォン・フロットウ歩兵大将)
・第8軍(レオンハルト・カウピッシュ砲兵大将)
・第3軍(クルト・リープマン歩兵大将)

作戦内容

フランス側

 1939年、ジャン・フラヴィニ中将(当時)らは当初、フランス占領下のスイス西部を経由し南ドイツに浸透する作戦を提示した。しかし、アルフォンス・ジョルジュ大将はこれを認めず、フラヴィニの第二案であるアルデンヌの森を突破し敵を包囲する作戦を採用し、ドゴールにより「ヴァルミー作戦」と名付けられた。ヴァルミーとはフランス革命戦争において初めて革命軍が挙げた戦果である「ヴァルミーの戦い」に由来している。
 ヴァルミー作戦では、まずはドイツ軍をベルギーにおびき寄せ、その陰で機甲部隊がベルギー南部にあるアルデンヌの森を突破し、そしてドイツ軍を包囲する、というアイデアを主幹とした。この作戦の決行にあたり、機甲部隊の迅速な展開、抜け目ない包囲の完成が鍵となった。1939年初頭のスイス西部ロマンディ占領の際は機甲部隊が活躍しており、機甲部隊展開の予行演習ともなった。
 包囲をいかに完璧にするかに関しては様々な議論が行われた。特に包囲網北辺のアルベール運河をドイツ軍が突破し脱出する可能性が指摘され、様々なアイデアを検討した結果、空軍による架橋制圧と破壊による対策が決まった。
 その後ヴァルミー作戦はいくつかの微調整を加え、1940年春に決行された。

ドイツ側

 エルザス・ロートリンゲンからベルギー海岸部まで伸びる要塞線「ヒンデンブルク線」でフランス軍を食い止め、突破された場合は予備軍が素早く食い止める――これが参謀本部の採用していた対仏戦略だった。しかし、この消極的な防衛策は裏目に出ることとなる。

作戦の経過

5月10日:対独宣戦布告と同時に作戦開始、フランス軍がベルギーへ侵入
5月13日:フラヴィニ軍先鋒がアルデンヌの森を越えドイツ領に到達
5月16日:ドイツ軍A軍集団が退却開始
5月21日:ドイツ軍A軍集団が完全に包囲される
6月4日:ドナウ軍がバイエルン地方へ侵攻、ドイツ軍全部隊撤退開始
6月21日:ベルリン陥落、休戦

アルデンヌ・海岸線突破

1940年5月10日。

 1940年5月10日、ついに作戦が始まった。作戦の鍵は速度にあった。フランス軍最左翼にある第9軍と中央部にあるフラヴィニ軍はそれぞれ海岸部とアルデンヌの森を突破し、ドイツ軍を包囲する任務を負っていた。
 第9軍は海岸部の要塞線が非常に薄かったこともあり易々と突破した。第9軍の目的はアントワープを占領し包囲されたドイツ軍の海上脱出を防ぐことにあった。アントワープ占領にあたりベルギー軍は頑強に抵抗し人民空軍による空爆を経て13日にようやく占領した。フラヴィニ軍はベルギー南部のアルデンヌの森に入り13日にはドイツ領へ到達した。アルデンヌの森は辺境でありドイツ軍、ベルギー軍の守備隊がほとんどなかったため戦闘は起こらなかったが、道路が少なく進軍が遅れ機甲部隊による交通渋滞がしばしば発生した。
 この二軍が進撃する間、フランス・ベルギー国境ではフランス軍とドイツ軍・ベルギー軍が激突しており、ゆっくりではあったが戦線が北東にずれつつあった。アルザス・ロレーヌではほとんど動きがなく膠着状態だった。
 フラヴィニ軍がアルデンヌの森を突破すると、第1軍集団の第3、第4、第10軍が後に続き包囲を開始した。この三軍は歩兵の自動車化が比較的進んでおり、素早い包囲を可能にした。

ドイツ軍包囲

5月13日。

 作戦開始から6日後の5月16日、ドイツ軍参謀本部はようやくフランス軍の真意をつかみ、包囲されかけていることを悟った。ベルギーに張り付いているA軍集団が総退却を開始した時点ではまだ完全には包囲されていないものの、ベルギー・ドイツ国境部はフランス軍機甲部隊が制圧しており、撤退にはオランダの中立を侵犯し、オランダを経由する必要があった。A軍集団参謀本部を経由してオランダに軍事通行権を求めたが、オランダはフランス軍に報復される懸念からそれを渋った。
 結局5月21日に空挺部隊の助けを借りつつフランス軍がオランダ=ベルギー間国境南にあるアルベール運河の主要架橋を破壊または占領するに至るまで、オランダは表面上中立を堅持した。しかしドイツ軍A軍集団の一部はマーストリヒト付近から独断で脱出した。このときオランダ軍とドイツ軍の間で戦闘が発生した。
 フランス軍はこれを理由に20日にオランダのロッテルダム空爆し、即日オランダは降伏した。フランス軍部隊はオランダ領を侵攻し翌21日にドイツ軍A軍集団を完全包囲した。

反攻失敗

5月21日。

 ドイツ軍は包囲を解放するため予備軍と包囲を免れたB軍集団をもって反撃を図った。5月21日、北上するフラヴィニ軍に対し臨時編成されたドイツ軍機甲部隊の「ロンメル戦闘団」がケルン付近で奇襲を仕掛けた(ケルンの戦い)。ドイツ軍部隊の一部が集結途中に輸送する列車ごと襲撃、撃破されたことやいくつかの偶然が重なり、フラヴィニ軍の反撃でドイツ軍の反攻は失敗した。
 この戦いの後フランス軍ライン川を突破し、ドイツ軍反攻の可能性は完全に潰された。包囲されたA軍集団の救出どころか、ドイツ軍はライン以東の防衛さえ危うくなっていった。
 ドイツ軍は諦めず警察から退役軍人まで前線に送るべく試行錯誤したが、もともとドイツ本土ではフランスだけでなくドナウとも対峙していたことから人的資源の余裕がなかった。小国であるポーランドでさえこのとき対独侵攻のチャンスを伺っていた。

ドナウの参戦と停戦

 6月4日にはフランス軍の快進撃に驚嘆したドナウがドイツに宣戦を布告し、バイエルン方面の進撃を開始した。ドナウ国境付近のドイツ軍部隊は兵員を対仏戦に移送しており充足率が低く、あっけなく退却していった。
 ドナウ参戦の報を受けドイツ軍参謀本部は意気消沈となり、本土失陥を覚悟し全軍撤退を命じた。一方未だ占領されていないドイツ中央部、ドイツ東部では徹底抗戦が叫ばれ、ベルリンでは急遽武装した退役軍人が決戦に備えていた。全軍撤退命令は民間には伝えられず、噂や枢軸軍の伝単などでそれが広まると民間人の継戦ムードは静まっていった。
 6月18日にはザクセンがドナウ軍に難なく占領され、6月20日には密かに皇帝ヴィルヘルム二世がベルリンを脱出した。「カイザー逃亡」の報せはドイツ軍民の士気を徹底的に打ち砕き、翌21日に帝国議会の独断でベルリンの無防備都市宣言と降伏宣言がなされた。敗北の混乱から各地で秩序が失われ、街頭の治安はむしろ混乱していくことになった。

降伏、脱出、継戦、その後

 包囲下にあったA軍集団は連日爆撃にさらされ疲弊していたが、徹底抗戦するつもりだった。しかしカイザー脱出と降伏宣言により、21日にフランス軍に降伏した。
 包囲を逃れドイツ中央部に後退したドイツ軍部隊は治安維持を行いつつ、難民の海上脱出を手伝った。シュレーズヴィヒやキール、ロストクなどではドイツ海軍が難民をノルウェースウェーデンにピストン輸送しており、これは6月初頭に港が占領されるまで続けられた。
 フランス軍が北方の海岸部に近づくと、この部隊はユトランド半島に集結し防戦した。デンマークにはイギリス軍も上陸したが、ユトランド半島は防戦に向かず、6月20日デンマークは降伏し独英軍部隊は海上脱出した。
 ドイツ東部では対ポーランドを念頭に展開していた部隊が治安維持と難民保護にあたっていたが、降伏宣言に対しエーリッヒ・フォン・マンシュタイン中将(当時)が否認し、「ドイツ東方軍」を名乗って残存する継戦派部隊をかき集め、難民とともにリトアニアを経由してロシアへ逃れた。マンシュタインとドイツ東方軍は東部戦線において最も頑強な敵軍としてフランス軍に恐れられることとなる。ドイツ陥落においてポーランド軍が最後までドイツに侵攻しなかったのは、ドイツ東方軍がフランス軍に占領されるギリギリまで国境に駐留し、ポーランドを牽制していたからであると言われる。
 6月22日に仏独停戦協定、ド独停戦協定が結ばれ、25日に協定が発効することで正式にドイツとの戦闘が終結した。両協定の結果、アルザス・ロレーヌを除く領土の保全、軍備制限、占領の受け入れが決定され、仏ド軍が進駐を開始した。これに加え翌年ポーランドの干渉を受けて西プロイセンとポーゼン、上シュレジエンがポーランド軍占領下に入った*1ことにより、ドイツ本土はメクレンブルク、ブランデンブルク、東プロイセン、シュレジエン、ポンメルンを残して外国軍の占領下におかれることとなった。
 同日、ノルウェーストックホルムドイツ帝国亡命政府が発足した。これに対し降伏したベルリン政府は「ドイツ国」を名乗り対仏、対ド協力をしていくこととなる。

敗因

1935年から1938年まで参謀総長を務めたヴィルヘルム・ハイエ(左端)。チリのディアズ将軍の訪独を迎える。

 WW1に勝利し栄光を手にしたドイツだったが、WW2勃発時の本土陸上戦力は盤石であるとは言い難かった。
 ルクセンブルク条約でアルジェリアを除くフランスの植民地を得ると、植民地を維持し開発するために植民地軍が再編、拡大した。これに対し、中欧経済圏の発足と協調外交で本土防備の必要性が重視されなくなり、本土の陸軍は軍縮していった。また、シャルレッテンブルク条約で英独が和平を結ぶと英独建艦競争が再び始まり、予算の大部分を海軍に投下せざる得なくなっていった。こうして、ドイツ軍の本土陸軍戦力は疎かになり装備の老朽化が問題化していった。
 ドイツの陸軍軽視と対英戦を念頭に置いた戦略のため、本土防衛戦略において対仏戦の可能性は1935年のフランス再軍備宣言までほとんど顧みられなかった。ハンス・フォン・ゼークト参謀総長(当時)は独仏国境に「ヒンデンブルク線」と呼ばれる陣地線を1930年より改修して要塞線を建築し、防衛的な対仏戦略を構築した。この戦略はヴァルミー作戦まで維持された。要塞線はベルギーとフランスの国境線まで延長される予定だったが、海に近いベルギーは要塞の建設に不適であること、建設資金負担を巡ってベルギー政府とドイツ政府間で紛糾したことを理由に、ベルギーにおけるヒンデンブルク線は不完全なままWW2に突入した。実際、フランス軍機甲戦力は要塞が建設されなかったアルデンヌの森を経て突破することになった。
 ドイツ軍がこのような防衛一辺倒な戦略を採用したのは、資金的理由のほかにもいくつか理由があった。まず、WW1で多大な犠牲者を出したため戦後反戦世論が根強かった点、次にドイツ軍そのものが硬直化していた点である。
 戦間期における反戦世論はドイツに限ったものではなく、イギリスなどにもみられた。フランスやドナウなどの全体主義国が積極的に戦争を肯定するのに対し、非全体主義国であるドイツはそれができず、反戦世論が支配的だった。多大なる犠牲を出して領土と植民地を得たのにもかかわらず、経済的失政で失業問題を解決できなかったことは、戦争の英雄的犠牲に対する無慈悲な裏切りであると見なされ、国家への信頼に傷がついたのである。
 軍の硬直化も重大な障害だった。ルクセンブルク条約の軍備制限で老齢の将軍が素早く退役していったフランスとは対照的に、ドイツ軍はWW1時代の将軍が退役せずに残っていた。1923年にルーデンドルフが失脚した際、軍内のルーデンドルフ派であるヒンデンブルクやマックス・ホフマン(1938年より本土陥落まで参謀総長)は植民地に左遷されたものの、退役することはなかった。
 ルーデンドルフ失脚以降の軍部はハンス・フォン・ゼークトが主導していたが、ゼークトは予算不足を理由に軍の機械化に消極的だった。これには騎兵科の反対を抑えられなかったこともある。1935年にゼークトが失脚し、1936年にオットー・ヴェルス首相の下軍拡路線にかじを切るとようやく機械化戦力が充実していったが、歩兵科と騎兵科の主導権争いから過剰な種類の機械化兵器が配備されるようになり、また電撃戦のような機械化戦力の集中運用は却下され分散されたため、ヴァルミー作戦では思うように機械化戦力が生かされなかった。
 また、ケルンの戦いで見られたようにドイツ軍の機械化兵器はフランス軍のそれよりも劣っていた。例えば、ドイツ軍の戦車は1920年代に大量生産されたI型突撃戦車とII型突撃戦車を近代化改修したものであったが、主砲の小ささや速度の遅さなどは完全に克服されなかった。これに対しフランス軍の戦車は1920年代後期に開発されたイギリスのヴィッカーズ戦車を基にしており、ドイツの戦車と比べて基幹設計が一回り若かったと言える。
 実戦におけるドイツ軍の展開も問題があった。
 そもそもドイツ軍は本土陸上部隊を軽視しており、資金と人材の多くは海軍や植民地部隊などに投下されていた。そのため、ドイツ軍は本土防衛において一国を相手にすることが限界であり、ドナウと臨戦態勢にあったことは戦略の根底を破壊した。当時のドイツ軍は外交的失敗もあり、対仏、対ド、対波、そしてバルト公国の対露国境に守備隊を配置せざるを得ず、兵員の質的低下と充足率の不足を招いてしまった。
 また、ドイツ軍はフランス軍の侵攻ルートを最後まで見抜けなかった。1939年初頭にフランスがバーゼルを含むスイス西部を占領したことから、ドイツ軍は南ドイツからフランス軍が侵入する可能性を最後まで検討し、A軍集団が包囲されるまで南ドイツに良質な部隊を配置していた。これに対し、アルデンヌの森を進軍に不適と断じ、強力な守備隊の配置を怠った。フラヴィニ軍が最初に交戦した戦力である第1軍は比較的充足率が低く、簡単に撃破されてしまった。
 このように、ドイツ軍はいくつもの決定的ミスを重ねており、これが敗戦と本土陥落という最悪の事態を招いてしまった。とはいえ、フランス側もまさかそこまで作戦が成功するとは予想しておらず、作戦経過を伝えられたドゴール元帥は驚嘆したという。

*1:ポーランドが東部戦線に参加することを条件とした。