オーストリア革命史(後編)

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こちらの続きです。

1919年の世界

 1919年、中東戦線ではハンガリーを経由してオスマン帝国に派遣されたドイツ軍部隊の奮闘により戦況が逆転し、すべての陸上戦線で協商国と中央同盟国の戦闘が終結した。ドイツはイギリスに対し「名誉ある和平」を提案し、講和条約策定に向け行動を始めた。
 1月にはルテニアの自治をモデルにハンガリー国内の親政府的なドイツ人が自治内閣を結成した。これに対し臨時政府はハンガリーのブルゲンラントにおいてドイツ民族主義を鼓舞する宣伝を展開し、主に保守派を中心とするドイツ人政治家を味方につけた。1月1日、ウィーンにハンガリーから逃れたヨハン・ユンカーを首班とするブルゲンラント臨時自治委員会が発足した。
 臨時政府とハンガリー政府間のこうした国境問題を受けて、カーロイ首相は二政府の会議を提案したが、周辺国を参加させるか、ドイツ帝国代表を陪席させるか否かで合意できず、実現しなかった。一方ドイツ軍部では仮に臨時政府が協商に加わったり赤化したりした場合の侵攻計画を練っていた。
 西部戦線終結したためドイツ軍ではすでに多くの兵士が動員解除となり、続々と本国に帰還しつつあった。しかしイギリスの海上封鎖はいまだ続き食糧が不足するなか、動員が解除され配給が一般人並みに減らされると、元兵士たちは憤慨するとともに、フランス降伏と同時に終結するはずだった戦争が継続されていることへの絶望にのめりこんだ。独立社民党をはじめとする反戦組織が着実と育つなか、南ドイツでは反プロイセンの風潮が生まれつつあった。そのようななか、動員解除されたアドルフ・ヒトラーというリンツ生まれの兵士が臨時政府の支配地域に越境した。ヒトラーのほかにも多数のバイエルン人がこのとき義勇兵として臨時政府に協力したといわれる。
 また、イタリアでは戦争での莫大な犠牲と、領土が全く得られなかったことにより不穏な雰囲気が増していた。「未回収のイタリア」奪還を訴える世論が激しくなるなか、臨時政府との国境部にはイタリア軍が新たに集結しつつあるのが臨時政府軍(フォルクスヴェーア:人民軍)により確認された。臨時政府国内では南スラブ戦線で得た捕虜にイタリアからの義勇兵がいたことが報じられ、派伊世論を煽った。

イタリアとハンガリーの参戦

 1月11日、ブルゲンラント国境部で何者かが臨時政府軍に発砲したことをきっかけに臨時政府軍が反撃を開始した。激戦が繰り広げられたがショプロン市が陥落したあとの13日に停戦協定が締結され、やや臨時政府軍が後退する形で中立地帯が設定された。この事件をきっかけに「報復」としてハンガリー軍が越境攻撃を開始した。
 2月1日、イタリア軍がついに攻撃を開始し、イタリア国境方面でも戦闘が始まった。こうして臨時政府はイタリアとハンガリーに挟まれる形で戦争に引きずり込まれた。臨時政府は緊急徴兵を計画したが、臨時政府に対する民衆の愛着は大してなく、かかるような国際情勢からやむなく協力したり、あるいは臨時政府ではなく政党やフライコールなどに忠誠を誓うものが多数だった。臨時政府軍は臨時政府主体の徴兵を控え、有力なフライコールを取り入れ積極的に活用させることで軍事力を増強した。フライコールは団員の命と指揮権を差し出す代わりに臨時政府から便宜や政治的な影響力などを引き出した。ドナウ社会主義労農党の国民衛兵隊はこうした過程で急成長した。
 2月9日、イタリア軍ユーゴスラビア軍に挟撃され、国民衛兵隊において大隊長にまで成り上がったアレクシス・ローゼッカ少佐は負傷し、罷免された。臨時政府軍はリュブリャナを放棄して北へ撤退した。ローゼッカはここで前線を離れ、一転してウィーンにある後方の特務機関に参加する。ここでローゼッカは様々な政治家や実力者などと関係を築き、後の政権獲得の地歩を整えていったという。
 もともとハンガリー生まれでハンガリー語に堪能だったローゼッカはハンガリーに入国し、地下活動をする共産主義者らと接触した(当時クン・ベーラは収監中だった)。臨時政府はハンガリー打倒のために共産主義者を利用しようとしていたためである。このほかにも、何度かローゼッカは対仏秘密使節の随員として参加した。フランスと臨時政府は極秘に接触しており、1919年夏にはフランスから軍事顧問団とルノーFTをはじめとする兵器がスイスを通じて臨時政府に送られた。
 2月10日、今まで事実上分離していたプラハ人民政府と臨時政府の戦力が正式に統合された。プラハ人民政府は臨時政府との協力を絶ち完全に独立することを望んでいたが、臨時政府存亡の危機を受けて方針を転換、積極的に協力する姿勢を見せた。エドヴァルト・ベネシュやカレル・クラマーシュなどのプラハ人民政府要員がこの方針を決定し主導したが、イギリスに亡命中のトマーシュ・ガリク・マサリクはプラハ人民政府の決定を批難した。後にドナウ革命戦争と呼ばれるこの戦争における動乱のなかで、「ドナウ人」という意識が育ち始めた証左であると述べる歴史学者もいる。
 この同日、ハンガリー西部のカポシュヴァールで12日には南部のセゲドで革命的社会主義者共産主義者などを含む労働者タナーチが行政権を奪取した。ベーム・ヴィルモシュ国防副大臣は海軍陸戦隊をもって鎮圧し、ハンガリー社民党の息のかかった別のタナーチに行政権を移させた。このように、ハンガリー王国国内では確実に反政府運動が勢力を伸ばしていた。2月14日はトルナ県が共産主義者に奪取された。
 これらの事件を受け王国政府は白色テロを実行し、共産主義者を多数収監した。
 このころ2月にはスロバキアストライキが頻発した混乱に乗じ、臨時政府軍が攻勢をかけスロバキア西部を制圧した。2月15日にはプレスブルクが包囲され、翌16日にプレスブルク市内のスロバキア人労働者が蜂起しハンガリー兵を武装解除した。
 一方ユーゴスラビア軍に奪還されたスロベニアは正式にユーゴスラビア編入されたが、その際イストリア半島などの「未回収のイタリア」はイタリア軍が占拠して引かず、ユーゴスラビア軍との衝突が散発した。プーラ(ポーラ)港とリエカ(フィウーメ)港は臨時政府軍の残存部隊がいまだに籠城していた。二重帝国崩壊の際、海軍はどの陣営に付くかを決めかねていたが、ホルティ・ミクローシュをはじめとする現場指揮官たちは中立を貫いていた。しかしイタリア参戦後臨時政府軍の主力が撤退すると、スロベニア各地で臨時政府支持者や海兵などに対する虐殺が始まり、リエカには難民が殺到した。またスロベニア南部にはドイツ人入植地があり、これに対する襲撃も難民発生に拍車をかけた。
 2月20日イタリア軍は旧二重帝国艦隊に降伏を要求した。これを受けて艦隊は中立を取りやめ、臨時政府への帰順を決定。翌21日にはプーラへの攻撃が始まったためプーラに駐留していた艦隊が脱出し、イタリア海軍の艦隊と砲撃戦を行うも奇跡的に逃れた(イストリア沖海戦)。これをきっかけにオトラント海峡開戦で得たホルティの名声はさらに高まった。2月末にイギリス軍が介入をし、リエカに入港して臨時政府軍艦隊と避難民を保護した。イギリス軍がこのような行動を起こすに至ったのは、イギリスが中欧をドイツに、バルカンをイタリアに支配されることをよく思わず、臨時政府支配地を欧州大陸最後のイギリスの拠点としようとすると同時に、独英講和準備中のなかドイツに対する牽制があったとされる。事実、ドイツは1919年になってもいまだ海上封鎖を突破できず、地中海はイギリスの支配下にあった。

ハンガリー王国の実態

 1918年秋に独立したハンガリー王国だったが、実態はドイツ帝国の傀儡に過ぎなかった。ハンガリー王国国民のほとんどを占める農民、労働者、兵士は既に離反しており、各地ではゼネスト一揆、反乱が頻発していた。また王国政府側も決して一枚岩ではなく、自由主義者、右派社会民主主義者、ジェントリーと呼ばれる保守派貴族の連立で成り立っており、政府内で意見は常にまとまっていなかった。無論国王にそれらをまとめる力は全くなかった。
 ハンガリー王国に反対する勢力は革命的社会主義者または左派社会主義者と呼ばれ、彼らは政権に参加するハンガリー社会民主党に頼らず、地下政党であるハンガリー共産党に従いゼネストを起こし、地域行政を奪取するべくタナーチ(評議会)を結成していた。とはいえ各タナーチにおいても臨時政府に協力的だったりそうでなかったりと一枚岩とはいえなかった。これにはハンガリー王国の抱える民族問題が関係していた。
 ハンガリー王国が主張する領土は二重帝国におけるハンガリー王冠領に一致していたが、これはハンガリー人以外にも様々な民族が居住していた。クロアチア・スラボニアにはクロアチア人、スロバキアにはスロバキア人、トランシルヴァニアにはルーマニア人、ヴォイヴォディナにはセルビア人といった具合である。しかしこれら各民族はオーストリア革命による無秩序に乗じて独立を試みており、クロアチア・スラボニアとヴォイヴォディナの一部は事実上南スラブ人国家へ、トランシルヴァニアルーマニア王国が実効支配していないとはいえルーマニア人住民の民族会議が、スロバキアハンガリー王国プラハ人民政府が分割していた。ハンガリー王国に忠誠を示していた少数民族は北東部にある辺境のルテニア人と都市部に住むドイツ人だった。
 独立派の少数民族は必ずしもタナーチ勢力に迎合せず、またタナーチ勢力に参加するハンガリー人の多くは少数民族の独立に反対し「大ハンガリー」に固執していた。地下共産党指導者のクン・ベーラも例外ではない。こうした民族問題の噴出はハンガリーに限ったことではなく、ブレスト=リトフスク条約で独立した旧ロシア帝国においても起きていた。ドイツ帝国宗主国としてこれら問題への介入と調停を試みていたが、ドイツが示した解決策は賢明であるとは限らなかった。
 また、ハンガリー内政に影を落としていた問題として土地改革があった。一般にハンガリー西部では大地主と大貴族による非効率的な小作農業、ハンガリー東部では独立自営農民による中規模自作農が多かったが、WW1において後者が徴兵されたことによりハンガリーにおける小麦収穫高は戦前と比べ1/6に落ちてしまい、中欧は飢餓に陥っていた。こうした土地問題の解決策として、王国政府に協力した社会民主党右派は農場の協同組合化を主張した。自由主義者ロシア革命式の土地分割も行うべしと主張したが、ハンガリー自由主義者の勢力は小さく大した影響力を持たなかった。そもそも大農場で利益を得ていたジェントリーは土地改革自体に反対し、結局大農場をそのまま法人にする協同組合の創設が決定した。
 かくして2月6日にハンガリー王国で「土地改革法」が施行された。これに対しタナーチ勢力をはじめとする急進農民は自力で武力をもって土地を奪取、分割し、少数民族もこれに倣った。ハンガリーでは毎日のように国家憲兵が出動しこれらの鎮圧にあたっていたため、ハンガリー王国はさながら内戦の様相を呈しつつあった。
 このようにハンガリー王国は内憂外患まみれであり、宗主国ドイツ帝国でさえも存続を危ぶんでいた。

攻勢、撤退、滅亡

 このようななかの1919年5月、ハンガリー王国軍は王国北部のスロバキアにて攻勢を開始した。スロバキアは臨時政府の一部を成すプラハ人民政府が送った義勇軍が駐屯しており、プラハ人民政府はスロバキアハンガリー王国から引き離し「チェコスロバキア国家」を樹立する野心を見せていた。ハンガリー王国軍部隊はシュトロムフェルド・アウエールという当時無名の司令官が指揮していたが、攻勢の成功は彼の名を一気に知らしめた。シュトロムフェルドは名将として頭角を現し、各地の反政府分子を次々と鎮圧していった。なお、シュトロムフェルドを登用したのは王国政府のベーム・ヴィルモシュ国防副大臣*1とされる。王国軍が占領したスロバキア東部では自治政府が設立されたが、政府閣僚のほとんどはスロバキア人ではなくハンガリー人だった。
 スロバキア攻勢勝利の報はハンガリー人を湧き上げた。これまで月に数百名しか志願者がいなかった王国軍は、この勝利を機に志願者が万単位に増加した。すなわち、滅亡危ぶまれるハンガリー王国ハンガリーナショナリズムを煽ることで延命を図ったのである。
 6月に王国軍はトランシルヴァニアに侵攻し、ルーマニア人により事実上支配されていた地域はほとんど奪還された。しかし隣国ルーマニア王国としてはこれ以上不愉快な話はなかった。ルーマニア政府はドイツ外務省に働きかけ、トランシルヴァニア問題の仲裁を要求した。結果、ドイツ外務省はトランシルヴァニア問題の仲裁に乗り出した。
 そもそもトランシルヴァニアハンガリールーマニアの間に位置する地域で、二重帝国時代はハンガリー領だった。もともとハンガリー人が住んでいたとされるが、いつごろからかルーマニア人が山岳地域に入植し、やがてハンガリー本国とトランシルヴァニアを分断する形でルーマニア人が居住するようになった。トランシルヴァニア問題の厄介な点は、どちらか領有するにしても異民族の巨大な居住地帯が誕生してしまうことだった。
 ドイツ外務省はどちらかといえばルーマニア側の肩を持ったようである。6月24日には駐ブダペストのドイツ大使館付き武官はトランシルヴァニアからの一部撤退と中立地帯設置を求める発言をした。6月29日にベルリンにてトランシルヴァニア問題の裁定が下され、ハンガリー軍のトランシルヴァニア一部撤退と中立地帯の創設、そして「小トランシルヴァニア*2ルーマニア王国領有が決定した。しかしこの決定は王国政府にとってとうてい飲めるものではなかった。翌7月13日、ドイツ帝国による支援停止の脅しに屈し、ハンガリー王国軍はついにトランシルヴァニアからの撤退を行った。せっかく手にした土地から撤退することは当然耐え難く、ハンガリー民族主義が高揚していたハンガリー王国にとってはなおさらだった。この事件は、ハンガリー王国に対する民心に致命的な傷を与えた。
 熱狂して王国軍に志願した若者の多くが興ざめし、軍から逃げ出し始めた。そして彼らは反体制派であるタナーチ勢力に合流したのである。
 7月20日には西スロバキアとブルゲンラントにおいて臨時政府軍の一斉攻勢が始まり、ハンガリー王国軍の防衛線は崩壊した。この攻勢では中欧史上初めて戦車が投入された。スイスをはさんだ隣国フランスから密輸入したものだった。名将シュトロムフェルドもこの攻勢には耐えかね、トランシルヴァニア撤退を口実に軍を離脱した。25日は王国軍、王国政府の崩壊が決定的となった。ブダペストではタナーチ勢力により労働者や兵士が街頭に出て、王国政府庁舎へと突撃した。しかし既に政府庁舎はもぬけの殻で、政府要人は既に田舎に避難するかドイツへ亡命していた。
 8月1日、ブダペストを支配するブダペスト労兵タナーチにて地下共産党指導者クン・ベーラがタナーチ国家の樹立を宣言した。偶然にも同日フランスでは第三共和政が崩壊しコミューン政府が成立していた。後に「左派臨時政府」とも呼ばれるクンによるハンガリー新政府は、ソビエトのような共産主義国家建設を望んだが、西からやってくる臨時政府軍を前に降伏するほかなかった。左派臨時政府はウィーンの臨時政府の同盟者と認められる代わりに後の「ドナウ連邦」を構成する一政府となり、ハンガリー独立の夢はここに敗れた。

イタリアの撤退

 ユーゴスラビア軍と協力し「未回収のイタリア」を占領しチロルでも大部分を占領したイタリア軍だったが、1919年半ばには既に前線で厭戦ムードが広がっていた。チロルでは臨時政府軍の強固な陣地により進撃が停止し、スロベニアリュブリャナより西ではいまだにイタリア軍が占領していたためスロベニア人住民は抗議し、ゲリラ的な抵抗が起こっていた。
 ユーゴスラビアでは成立からしばらく経ち各民族が冷静を取り戻し始めると、民族同士で国家の主導権をめぐる対立が始まった。セルビア人政党は想定外の領土拡張に一時喜んでいたが、自分たちはむしろ異民族を取り込んでまで巨大化することを望んでいなかったと気付きつつあった。クロアチア人もセルビア人に対して猜疑心を抱き始めていた。イタリア、ユーゴスラビア占領下のスロベニア人も例外ではなく、イタリアが領土的野心を隠そうとしていないことや、ユーゴ編入による経済の崩壊から次第にイタリアとユーゴから離反し始め、むしろウィーンの臨時政府を支持するようになってきた。
 1919年9月、スロベニア方面でも臨時政府軍の攻勢が始まり、ユーゴスラビア軍占領地域である東スロベニアは難なく「解放」された。その後「アドリア海へ!」を合言葉にイストリア半島へ進撃しイタリア軍と一進一退の攻防を繰り返していた。アドリア海に面するリエカ港を「解放」した直後、1919年10月28日にシャルロッテンブルク講和条約が締結されWW1が集結し、それにともない英独の圧力で休戦した。
 休戦に際してはイストリア半島に休戦ラインが引かれ、休戦ライン内では住民は姿を消しただ塹壕と陣地のみが残った。チロルでは戦線にほとんど変化はなく、ブレンナー峠をもって両国の休戦ラインとなった。かくして1919年11月にイタリア軍は撤退した。

ドナウ連邦の形成

 オーストリア革命戦争の進展と並行して、臨時政府では統一国家樹立が模索されていた。革命によるカオスを鎮め、国際的承認を得られる統一国家の樹立が最終目標であり、それへ向け臨時政府を構成する機関のなかで最も権力を持つウィーンの政府とプラハ人民政府が中心となって協議を行っていた。
 1919年7月10日に結ばれた「ブリュン協定」は後のドナウ連邦の骨子となった。ブリュン協定では共和制、強力な自治権を持つ共和国が構成する連邦、議会主義、民族語教育の充実などが提唱された他、来たるドナウ連邦の体制はウィーンとプラハが主導することが確認された。後にブダペストで組織される左派臨時政府はこれに基づく連邦構成組織への加盟を求め、認められた。
 しかし一方で当時作成されたドナウ連邦構想はいずれも現状の体制――ウィーンとプラハによる主導体制――を固めるための手段に過ぎず、将来的な展望が欠けていたという批判がある。またこのドナウ連邦構想は挫折した民族主義的分離主義と、その反動たる二重帝国的な連邦主義の妥協手段だったという指摘もある。とにかく、臨時政府ができるだけ早く革命による混乱を終結させ統一政府を設けようとしていたのは確かである。
 1919年11月9日に制憲議会創設へ向け旧ハンガリー王国を含む臨時政府全土で選挙が実施され、社会民主党系である複数の政党が勝利した。
 翌年の1920年4月1日にドナウ連邦憲法案が国民投票で承認され国号が「ドナウ連邦」に変更、正式にドナウ連邦が成立した。この際ウィーンの臨時政府はドナウ連邦オーストリア共和国へ、プラハ人民政府はドナウ連邦チェコスロバキア共和国へ、「左派臨時政府」ことブダペストの臨時政府はドナウ連邦ハンガリー共和国となった。ドナウ連邦憲法では、この三構成国が互いに協力することが求められた。
 7月10日には第一回連邦議会選挙と各共和国議会選挙が一斉に行われた。連邦議会では社会民主党系が敗北し右派連立内閣が組織され、ドナウ連邦の時代が新たに始まることとなった。ドナウ連邦初代首相はヨハン・ショーパ、初代大統領はミヒャエル・ハイニシュである。

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ドナウ連邦成立を祝う群衆(ウィーン、1920年

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ドナウ連邦の構成共和国。

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こちらに続く。

*1:ハンガリー社会民主党右派出身。ローゼッカ体制では国外に亡命した。

*2:ハンガリー王国行政区分が定めるトランシルヴァニアの範囲。ルーマニア王国が公式に認定しているトランシルヴァニアの範囲よりやや小さい。