ジャック・リード

ジョン“ジャック”サイラス・リード(John "Jack" Silas Reed、1887-1940)はアメリカのジャーナリスト、政治家。アメリカ・サンディカリスト国(CSA)革命軍事委員会委員長、労働総取引所議長、アメリカ人民戦線議長。

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右:某ゲームでのリード 左:CSA指導者時代のリード(1940年)

 オレゴン州ポートランド出身。自伝によれば故郷に愛着はなかった。若いころから労働者に密着したジャーナリズムを展開し、メキシコ革命ルポルタージュを書いたことからその名が知られるようになった。
 1917年には革命下のロシアに渡航。1918年1月にレーニンと知り合う。1919年にはロシア革命ルポルタージュ『世界を揺るがした10日間』を書きあげ、レーニンに「私はこの著作を無条件に全世界の労働者に推薦する」と言わしめた。
 デニーキン軍による攻勢の直前にリードは辛くもロシアを脱出し、複数国を経由して1921年アメリカへ帰国した。
 戦間期において、リードはアメリカ社会党に入党し主要メンバーとなり、ジャーナリストとしてだけでなく政治家としても頭角を現すようになった。1937年1月の大統領選挙では大統領候補としての出馬を望んだが、非常事態委員会のダグラス・マッカーサー委員長による弾圧で、他のサンディカリストと同様に地下に逃れざるを得なかった。
 1937年にアメリカ・サンディカリスト国(CSA)が成立すると、リードは最も労働者の間で名が知られていることから、CSAの指導者に祭り上げられた。リード自身に強力な基盤も指導性もなかったが、彼の名声は複数のセクト対立を仲裁させ、「アメリカ人民戦線(PF)」の結成に至った。リードはCSA臨時政府である「革命軍事委員会(Revolutionary War commitee)」の委員長として内戦を指揮した。
 リードは内戦という事態を鑑み、労働者の支持を維持すべく中央集権化といった抜本的改革は避け、分権的な各労働組合自治を容認し、代わりに各職場からの大量の志願兵を獲得することに成功した。しかし、生産方針をめぐって革命軍事委員会と労働者が衝突することもあり、リードの体制は地方分権派(アナキスト)からも中央集権派(全体主義者)からも非難された。
 また、経済活動の維持という観点から企業経営者は一定の租税を条件に身の安全を保障し、常に物資の生産に気を配った。内戦中だったが、合衆国やアメリカ連合国などの支配地域との貿易も黙認していた。
 こうしたリードの方針は賛否両論だったが、少なくともリードが欧州の政治情勢に迎合しなかったのは、各派一致して評価されている。リードはパリ・インターにもドゴールにも追随せず、モンロー主義的なアメリカ独自の政治方針を守った。具体的には、全体主義から革命の理想と情熱を守ったのである。この点においては、政策面からして欧州の全体主義者と近いアール・ブラウダーからさえ肯定的な評価を得た。
 晩年のリードは病床に臥せ、ブラウダーやウィリアム・フォスター、ノーマン・トーマスら閣僚に内政を放任しがちになった。
 1940年8月27日に死去、国葬された。
 内戦においてCSAが敗北すると、シカゴに建てられたリードの墓はイギリス軍により爆破された。また、戦後パリやロンドン、アムステルダムなどでリードの名前を関した道路や公共施設などが建築された。