スメドレー・バトラー

スメドレー・バトラー(Smedley Darlington Butler、1881年-1940年6月21日)はアメリカ合衆国(USA)とアメリカ・サンディカリスト国(CSA)の軍人、最終階級は元帥。アメリカ内戦前半期のCSA軍を指導した。
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 ペンシルベニア州出身。17歳のころ年齢詐称をし米西戦争に従軍、その後義和団事件メキシコ革命干渉戦争といった20世紀初期にUSAが経験したあらゆる戦争に参加した。戦間期は「バナナ戦争」と呼ばれる、中米への干渉戦争に一貫して参加し少将*1にまで上り詰めた。バナナ戦争では名誉勲章を二度も受勲している。名誉勲章の複数受勲はUSAの歴史において19人しかいなかった。
 バナナ戦争は「ユナイテッド・フルーツ社」をはじめとする巨大企業の覇権行為の一部をなしており、中米ではこうしたアメリカの姿勢を「帝国主義」と見なし、反対するサンディカリストゲリラが起こった。バトラーはこれに胸を痛め、1935年にアメリカの帝国主義を告発する『War Is a Racket』を出版している。
 1924年にはフィラデルフィア市の保安長に推薦、承諾した。バトラーはフィラデルフィア市にはびこる汚職の一掃を頼まれたが、ついには「フィラデルフィア市はこれまで見てきたいかなる戦場よりもひどい」と辞任した。
 1931年に退役。1932年に起きた「ボーナス・アーミー事件」では、恩給を求める退役軍人のデモ隊を武力鎮圧したダグラス・マッカーサー参謀総長を批難した。
 フーバー大統領が世界恐慌を収拾できず、社会が混乱していくなか、バトラーは退役軍人団体と接触しつつ、また秘密裏にジョン・ジャック・リードのアメリカ社会党とも連絡を取った。
 1936年末にマッカーサーが緊急事態委員会委員長に任命され、ファシズム政党や他のサンディカリズム政党などとともにアメリカ社会党が禁止されると、バトラーも身の危険を感じシカゴの労働組合組織に逃れた。とくにサンディカリズム運動が激しかったシカゴでは、地元警察もサンディカリスト側に就いており、退役軍人らとともにバトラーの身辺警護を担った。
 1937年に内戦が勃発すると、アメリカ・サンディカリスト国(CSA)の臨時政府である「革命軍事委員会(Revolutionary War commitee)」に参加、事実上の参謀総長となった。ただし、高齢のため大まかな方針を決定するにとどまり、実際にはウィリアム・フォスターやアール・ブラウダーなどの活動家出身の政治家が作戦の実務を担っていた。このような非軍人が民政と軍事を混同し内戦に関与する事態をバトラーは問題視していたが、革命により誕生したCSA軍は現場労働者による分権的軍隊であったこと、そもそもバトラーの権力基盤が弱かったこともあり、最期までCSA内政には大きく関与できなかった。
 また、対立するフォスターとブラウダーの仲介にリードとともに骨を砕いた。
 1940年6月21日に死去、国葬された。8月27日にはジャック・リードが死去し、CSAの権力バランスは大いに乱れ、やがてブラウダーの独裁へとつながっていくこととなる。

*1:平時の最高階級。