ウクライナ史

ウクライナ国旗と後の独裁者フルシチョウ

ウクライナ革命とウクライナの独立

独立ウクライナの誕生

ラーダ政権

 ロシア二月革命に伴い、ウクライナでは自治組織「ウクライナ中央ラーダ」が発足した。この「ラーダ」とは評議会を意味し、ロシア語のソビエトと同義である。しかし中央ラーダはメンシェヴィキや民主派で構成されており、十月革命で臨時政府を倒したボリシェヴィキは、ウクライナの征服を狙い侵攻した。ウクライナ軍は弱小で、一時はキエフを占領された。
 このラーダ政権を「ウクライナ人民共和国」という。

ヘチマン・スコロパードシクィーのクーデター

 ウクライナ人民共和国は西からロシアに攻め入るドイツ軍に協力したが、ドイツはウクライナのあまりの不甲斐なさから見限り、1918年4月29日に中央ラーダを解散させ、保守派のパウロ・スコロパードシクィーを「ヘチマン」に就任させ傀儡国家「ウクライナ国」が成立した。このヘチマンとはウクライナの伝統的なコサックの称号である。
 ヘチマンは中央ラーダ時代の改革をすべて帳消しにし、ロシア帝国時代の制度を復活させた。しかし、このあまりにも復古的統治から人心は離れ、ドイツ軍の武力で何とか崩壊を防いでいるありさまだった。

パウロ・スコロパードシクィー(1873-1945)

民主派との妥協

 政権を追われた中央ラーダ議員らは、過激な抵抗はボリシェヴィキに利すると考え中立路線に立った。彼らは「ウクライナ国民同盟」を結成し、ヘチマンに議会政治を促した。一方ラーダ議員の過激派の中には、ウクライナ国民同盟を生ぬるいとしてボリシェヴィキに協力するものも現れた。
 ヘチマンはウクライナ国民同盟の要求を理解し、1918年11月に閣僚会議を開き閣僚の議決を仰いだ。士官学校出身の保守強硬派により1票差で拒絶されたのち、ヘチマンは内閣を総辞職させ、民主派の閣僚をそろえて議会を開設した。このことからも、ヘチマンは議会開設を喫緊の課題と見なしていたことがわかる。
 このようにヘチマンは民主派と妥協し、ウクライナ国の分解は防がれた。

デニーキンのモスクワ遠征

 後にロシアの国家指導者となるアントン・デニーキン将軍は10月革命以降ドン共和国で活動していた白軍指導者の一人だった。ドイツ帝国政府はボリシェヴィキの息の根を止めるべくモスクワへの進軍を企図していたが、本国は厭戦機運に包まれており帝国軍の出兵は不可能だった。そのため、ドイツはロシア人主体の対ボリシェヴィキ侵攻を企図した。そこで白羽の矢が立ったのがデニーキンだった。
 デニーキン自身は協商派でありウクライナの独立はもちろん、ドイツとの協力さえ反対だったが、1918年末にフランスが降伏すると態度を変えざる得なかった。臨時全ロシア政府のアレクサンドル・コルチャークがイギリスからの支援が断絶したことを受け、ドイツへの協力を表明したためである。
 1919年春、フィンランドとバルト公国からニコライ・ユデーニチ将軍の北西ロシア軍が、シベリアからはコルチャーク提督が、そしてドン川からはデニーキン将軍の南ロシア軍がモスクワへ向け進軍を開始した。
 白軍の指導者らは大ロシア主義者であったため、フィンランドウクライナなどの独立を認めようとせず、これらドイツの傀儡国政府と白軍の関係は悪かった。ウクライナのヘチマン政権は軍を参加させず、義勇兵の拠出を拒んだ。しかしながら、ドイツ軍と白軍の関係は良好でありこれが白軍の生命線となった。ドイツ軍は戦車を含む豊富な物資と義勇兵を差し出したのである*1
 しかしながら、ヘチマン政権側も軍事行動を起こす必要があった。このころまだウクライナは南東部がネストル・マフノの黒軍に、北東部がボリシェヴィキに支配されていたため、領土統一をする必要があった。こうして、事実上ウクライナ軍は南ロシア軍の最左翼を担うこととなった。
 ヘチマンはウクライナ国民同盟と妥協し議会を開設したとはいえ、ウクライナ国民を構成する農民や労働者などからの支持は盤石でなく、何より旧敵国ドイツと繋がっていることは、ウクライナ民族主義者だけでなくロシア人やユダヤ人なども怒らせた。ヘチマン政権は対外戦争をするにはあまりにも不安定だった。
 ボリシェヴィキはこれを見逃さず、すぐさまウクライナの内部工作を行った。ウクライナ社会革命党の左派は、同党とウクライナ社会民主党が譲歩してウクライナ国民同盟に参加、ヘチマン政権の議会開設に賛同したことを、ドイツへの裏切り行為であると非難し離党、「ウクライナ共産党」を結成した。この共産党ボリシェヴィキとは系統が異なり「闘争派」と呼ばれたが、ボリシェヴィキは彼らと同盟関係を結んだ。闘争派は農村と工場に潜伏し蜂起の機会を伺った。
 1919年5月17日にデニーキンの南ロシア軍は兵力10余万をもって大規模攻勢を開始した。この攻勢でドンバス、ハリコフ、ツァーリツィンをボリシェヴィキは失った。ボリシェヴィキは退却し態勢を立て直し、反撃の準備をすることとなった。

南ロシア軍

「赤い夏」

 1919年7月に南ロシア軍は攻勢をかけるがボリシェヴィキも大軍をもって戦線を死守していた。
 窮地に陥ったボリシェヴィキウクライナ共産党闘争派、未だウクライナ南東部を支配するネストル・マフノの黒軍と共同での反撃を計画し、8月10日に実行した。
 後に「赤い夏」と呼ばれたウクライナ東部の農民反乱はヘチマン政権や南ロシア軍、ドイツ政府などに大きな打撃と衝撃を与えた。蜂起軍は一時的に白軍後方のハルキウ(ハリコフ)を占領したが、上手く統率されておらずウクライナ軍と白軍に各個撃破された。ボリシェヴィキはこの蜂起に乗じてハルキウ方面の南進を試みたが、8月末にはドイツからの援軍もあり押し戻された。
 南東ウクライナの黒軍は頑強に抵抗したが、1920年春までにはウクライナ軍により大方平定されている。
 かくして「赤い夏」は失敗し、ボリシェヴィキの反撃は成功せず9月に南ロシア軍は再び攻勢をかけた。これによりクルスク、ヴォロネジ、チェルニーヒウ、オリョールが「解放」され、10月にはモスクワ目前にある郊外都市であるトゥーラにまで迫ったが、ボリシェヴィキは12月に反撃しオリョールまで追い返された。
 対ボリシェヴィキ戦争は翌年まで続き、1920年春に白軍は一大攻勢を開始、ユデーニチ将軍はドイツ軍の支援でペトログラードを「解放」し、夏にデニーキンはついにモスクワを「解放」した。
 ボリシェヴィキの残党はアルハンゲリスクを経由してフランスに亡命するか、ウラルとシベリアに逃れていった。東へ逃れたボリシェヴィキは、デニーキンにより再建されたロシア共和国政府軍と数年間の闘争を繰り広げたが、結局鎮圧された。ともかく、ロシアは復活し、ボリシェヴィキの手から自由となった。
 失敗に終わった「赤い夏」は、その後フルシチョウ率いる人民戦線政権下では「ドイツ帝国帝国主義に反対するプロレタリアートによる階級闘争」と定義され、称揚されることとなった。

国境紛争
戦間期ウクライナの領土紛争

 大ロシア主義者としてウクライナを含む少数民族の独立を認めなかったデニーキンは、さっそくウクライナへの軍事的恫喝を開始した。デニーキンはロシア共和国の臨時全権指導者となっていた。まず、ウクライナの東隣にある、南ロシア軍に参加したドン共和国に圧力をかけ、主権を「返上」させた、その南にあるウクライナ人住民が多いクバン共和国では、不安定な政情に乗じクーデターでロシアに併合した。
 ウクライナのヘチマン政権はこれに恐怖した。ヘチマンは大ロシア主義に対抗するためウクライナ民族主義を鼓舞し、*2ウクライナ国民同盟もこれに便乗した。
 ドン共和国とは国境画定条約を結んでいたが、ドン共和国の滅亡に伴いその当時の国境を無効とし、ウクライナ軍は旧ドン共和国との国境地帯、ドンバス東部からドン川まで突如進軍を開始した。1920年冬のことである。ウクライナ軍の奇襲攻撃に対し、デニーキンのロシア軍は各地のボリシェヴィキ残党狩りに忙殺され、食い止めることができなかった。ロシア軍の反攻が行われたが、カメンスクを奪還したのみでウクライナ軍は未だロシア領内にとどまっていた。
 結局、ロシア政府は奪還をあきらめ、ドイツ帝国の仲介でウクライナ軍占領地域をウクライナに差し出した。ウクライナは主張領土すべてを併合することはできなかったが、大きな勝利となった。この「ドンバス戦争」は当時ロシアがいかに弱体化していたかを示す事件であり、ロシアとウクライナの間における、民族主義的確執をさらに悪化させる始まりでもあった。
 また、時間をさかのぼり1919年末には、リトアニア王国がブレストまでに至る南部の領土*3ベラルーシに返還するようドイツから恫喝された際、ウクライナは便乗しブレスト市周辺を併合した。ウクライナ人居住地域をすべて得たわけではないが、少なからぬ領土をウクライナは得ることとなり、民族主義的な意味では「成功体験」として記憶されるようになった。
 一方、ドイツ帝国の支援で独立を保っていたクリミア辺境政府とは困難を極めた。ウクライナはクリミアの領有権を主張し、ロシア系住民が多いクリミア側はウクライナへの帰属を拒否し、ドイツの庇護を受けた。ドイツ側はクリミア・ハン国を再建しようと計画したが、結局成功せず1923年にウクライナに併合された。クリミア辺境政府とウクライナ政府はお互い公式の公開書簡で罵り合うほど険悪で、これは人民戦線政権時代にも尾を引くこととなる。 

閲兵するヘチマン

1920年代のウクライナ

政党

 モスクワの陥落に伴いウクライナ国内の共産主義者アナーキスト、その他テロリストなどは弾圧され、ウクライナにはつかの間の平和が訪れた。
 戦争状態が終了し制憲議会が本格的に開かれると、ウクライナにおける政党も再編されていった。ここで1920年代初期のウクライナの主要政党を紹介する。
 
ウクライナ民主農民党
 非社会主義者系のウクライナ人農民団体を目標に創設された保守政党。スコロパドシクィーのクーデターに直接参加したこともあり、ヘチマン政権に最も近い政党である。しかしながら、参加している農民に大地主は確かに存在するが、全体的には自律的な中農が最も多い。というのも、ウクライナにおける大地主はロシア人やドイツ人などの非ウクライナ人であり、彼らは全ウクライナ土地所有者同盟に所属していたからである。
 農村地帯を支持基盤とするウクライナ民主農民党は、地方のゼムストヴォを支配しヘチマン政権に大きな影響力を与えることとなった。ゼムストヴォは必ずしもヘチマン政権に全面賛成していたわけではないが、ヘチマン側もゼムストヴォを頼りにしていた。
 党首セルヒー・シェーメトはヘチマンの秘書や首相を経験している。党のイデオローグであるヴャチェスラウ・ルィプィンシクィーは過激な反ロシア主義に反対し、ヘチマンの政策理論に影響を与えた。

ウクライナ民主農民党の主要メンバー

〇全ウクライナ土地所有者同盟
 「地主同盟」とも。ロシア人やドイツ人などの大地主と貴族の利益を代表している。もともとペトログラードの制憲議会に参加していた組織のウクライナ支部であることからも、大地主と貴族はウクライナ民族主義に興味がないことが伺える。国会の議席数は少ないが、政治的影響力は少なくない。

ウクライナ社会連邦党
 政党名に反し、この政党は社会主義と距離を置いている。思想的には「リベラル保守」を自称し、ウクライナ民主農民党と社会主義者を繋ぐ役目を果たしていた。反対者を出しつつもヘチマン政権には賛成し、実際に閣僚や中央省庁幹部などを輩出していた。支持基盤は教養的インテリ層や未だ脆弱な中間層などが多い。

ウクライナ社会革命党
 社会革命党はナロードニキ運動の系統に立つ社会主義政党である。インテリや労働者、農民などの幅広い層が参加しているこの政党は、反対意見を一切許さず縦の権威が強力なボリシェヴィキとは対照的に、自由闊達な議論が許されているがそれゆえ無秩序だった。
 帝政時代はロシアの社会革命党の戦闘団が数多くの暗殺事件を引き起こし、ロシア革命でもボリシェヴィキと並んで武闘派だったことからヘチマン政権はこれを警戒していた。
 しかしながら、1918年のヘチマン政権成立の際に党多数派だった左派が離党してウクライナ共産党(闘争派)を結成、翌1919年の「赤い夏」で壊滅したためウクライナ社会革命党は穏健な政党となった。実際に、わずかではあるが入閣者も存在した。
 とはいえ、ウクライナ社会革命党はヘチマン政権と対立せざる得なかった。傘下にある農民団体の「全ウクライナ農民同盟」は一時私有財産制の廃止を要求し、土地改革をめぐってヘチマン政権を非難した。このため党付属組織の過激派は官憲により弾圧され、それに伴いウクライナ社会革命党はロシア革命時に比べて大きく弱体化することとなった。

ウクライナ社会民主党
 社会民主主義を標榜する政党だが、メンシェヴィキを含むロシア社会民主労働党とは全くの別系統である。党の代表であるウォロズィムィル・ウィヌィチェンコは社会主義よりも民主化を要求していたため、ヘチマン政権による議会開設を好意的に受け止め、協力的な姿勢を見せた。しかし、過激派のシモン・ペトリューラはヘチマン政権成立直後に逮捕され、国外追放された。ペトリューラは後にフランスにたどり着き「ウクライナ共産党(パリインター)」の創設に参加することとなった。
 1920年代初期のヘチマン側の妥協により議会が開設され、ゼムストヴォが整備されて民主主義制度が整備されると、ウクライナ社会民主党アムステルダム・インターに加盟して労働組合運動を指導し、野党的立場に身を置くこととなった。ウィヌィチェンコの合法路線が功を奏し、1920年代においてウクライナ社会民主党は、一部の過激派の逮捕を除き官憲の弾圧をうまくかわしていった。

党指導者ウィヌィチェンコと亡命したペトリューラ
 

ウクライナ共産党(地下)
 これは鎮圧されたウクライナ共産党(闘争派)の残党であり、議会に参加しない地下政党である。パリにあるウクライナ共産党(パリインター)と通信し、協力関係を結んでいる。官憲の摘発もあり規模は大きくない。

土地改革と政党再編

 このように、全体的に見れば1920年代初期におけるウクライナの政党は保守・中道・革新とイデオロギー的に典型的なものであった。一方で、この議会政党は階級をはっきり代表しておらず、例えば貧農はウクライナ社会民主党には物足りず、一方大貴族もウクライナ民主農民党に不満を持つこととなった。
 1921年、ヘチマンのスコロパドシクィーは国会開設の譲歩で失った大貴族からの支持を取り戻すべく、大貴族に対し妥協的な土地改革に甘んじた。すなわち、土地改革は有償であり不徹底だった。これには特にウクライナ社会革命党の全ウクライナ農民同盟から抗議が上がったが、ヘチマンは官憲による弾圧で応じた。
 スコロパドシクィーはかつて国会開設で協力関係にあった左派勢力を疎ましく思い、さらにウクライナ民主農民党とウクライナ社会連邦党の不甲斐なさに呆れ、政党を再編して翼賛政党を建設することを試みたが、ゼムストヴォの強力な反対で失敗した。結局、1922年にウクライナ国民同盟を解散させ、二つの左翼政党を追放し「全ウクライナ国家同盟」という緩やかな政党連合を設置することになった。
 この全ウクライナ国家同盟はウクライナがドイツの支援で工業化し発展していくとともに、同盟への参加が事物をスムーズに進める便宜を意味するようになっていく。

ヘチマンと閣僚ら

中欧経済圏への加盟

 1923年にウクライナはドイツと関税同盟を締結したのを皮切りに、リトアニアルーマニアポーランド、ロシアなどとも同様に関税同盟を結び、いわゆる「中欧経済圏」の恩恵を享受するようになった。同年にドナウ連邦もウクライナと似たような条約を結んでいる。
 ドイツからの投資によりキエフオデッサ、ドンバスに工業地帯が出現し、とりわけドンバスは帝政時代からの炭鉱を引き継いで世界有数の産業地帯となった。また、農業部門では機械化が始まり、農地所有の不公平により低かった耕作能率をカバーするようになった。収穫された小麦はドイツだけでなくリトアニアや北欧、中東などにも輸出された。革命における天文学的インフレで農民の抱える負債が帳消しになったこともあり、このころウクライナにおける農民の暮らしは史上最も余裕のあるものとなった。
 好景気は国内の閉塞感を打破し、政治的安定を生むこととなった。
 しかし、ウクライナの近代化に伴い産業部門においても民族問題が出現したことも指摘せねばならない。
 ドイツ人の投資によって立ち上がった合弁企業の経営陣にはドイツ本国から来たドイツ人が多かった。すなわち外国籍の資本家がウクライナ国籍の労働者を働かせる関係が生まれることとなった。また、労働者の間においても、中間管理職や技術職などにいち早く出世したのはウクライナ人ではなく、ドイツ人やユダヤ人などだった。ウクライナにはドイツ系、ユダヤ系市民は少なからずおり、すなわち彼らは外国人ではなかったが、後に民族主義的文脈から非難されるようになる。
 農業部門における民族問題は、ヘチマン政権による農民運動の弾圧や土地改革、そして何より農民自身の識字率といった政治的自覚の低さにより、あまり問題化されなかった。しかし農民の子供たち、すなわち新制公立学校で読み書きを覚えるも、食い扶持がなく上京し就職した労働者らは、産業部門における民族問題を無視することはなかった。
 とはいえ、この問題はしばらく好景気のため一部の知識人の間の議論にとどまっていた。しかしながら、1930年代にはウクライナ自体を破壊しかねない爆弾として問題化するようになる。

「国父」スコロパドシクィー

 ヘチマンのスコロパドシクィーは現実主義者であり賢明な人物だった。クーデター直後は閣内の保守派を排除してでも国会開設に妥協することで、国内の安定を得てボリシェヴィキの鎮圧に成功した。そして、次は左翼政党を与党から排除し翼賛政党連合を創設することに成功した。
 ドイツ側はもしスコロパドシクィーが統治に失敗したらヴィルヘルム・ハプスブルクを送り込み君主とする計画もあったが、スコロパドシクィーの抜け目ない統治に肩透かしを食らったという。
 暫定的な傀儡指導者として擁立されたヘチマンは、ドイツとの革新的利益が何であるかを理解し、それを順守することで統治における自由を得た。ドイツが欲することはウクライナが反組*4政権であり、小麦を輸出すること、そしてロシアが対独反攻しないように睨みを利かす番犬であることだった。ヘチマンはこれらを履行した。
 ヘチマンは対露監視というドイツの要求を利用し、軍事支援を得ることでウクライナ軍の拡大に成功した。ウクライナ軍はドイツ製の武器を使用する代わりに、ウクライナ国内にドイツ武器メーカーの工場が設置され、生産技術をウクライナ国民が学ぶことができたのである。ウクライナ軍はデニーキンのモスクワ遠征時に約50万人と最大の兵員を数え、ボリシェヴィ打倒に伴い減りはしたものの、1920年代後半においては未だ約40万人だった。ドイツ海軍の援助でウクライナ海軍が創設された。
 さらに、ヘチマンは自らを「国父」として君主並みに神格化させようとした。これは外国に干渉された際に外国人国王の擁立を回避するためでもあったが、何より内政をより強力に掌握するためでもあった。ウクライナ独立正教会はヘチマンの神格化に手を貸した。
 くわえて、ヘチマンに抗う者を拘束するために内務省に秘密警察と国家憲兵隊が再設置された。大量の様々な将校を抱えるウクライナ軍は政治警察業務に不適格とされ、参加できなかった。
 当初は民主派と妥協していたヘチマンだったが、ウクライナ国家同盟の成立後は選挙干渉を強めていった。ウクライナ国家同盟は政党連合であり、選挙の際は立候補を調整することで一選挙区一候補を徹底した。これに対し野党たるウクライナ社会民主党ウクライナ社会革命党などに対しては、政治的圧力をかけ立候補する選挙区を制限した。一般に野党は都市でしか立候補できなかった。
 このシステムのため、農村において選挙は事実上の信任投票であり、かつ反対票を投じる場合は別室で行うことを強制されたため、ウクライナ国家同盟を支持するほかなかった。投票所では日用雑貨がウクライナ国家同盟員により安値で販売されており、投票率の維持に関心が払われていた。
 都市の選挙区においては複数人が立候補し、秘密投票が維持された。一部を除けば概ね野党が勝利していた。
 こうして、ウクライナ議会は歪んだ選挙制度の上に立ち、農村選挙区の割合はすなわち与党ウクライナ国家同盟の議席率となった。農村選挙区による議席数は全体の8割だったため、ウクライナ国家同盟は常に議席の8割を維持していた。しかし、農村選挙区の議席数は戦間期に農村人口が都市へ大幅に流出しても見直されることはなかった。

1930年代のウクライナ

ウクライナ共産党の再編

 「赤い夏」の流れをくむ国内にあるウクライナ共産党は非合法化され、地下活動に従事していた。この地下共産党を率いた指導者は何人かいたが、逮捕されたり国外追放されたりした。1932年から人民戦線成立の1936年までの労働運動が激化する時期に党を率いていたのはアナトリー・ピソツィクィーである。
 通称闘争派と呼ばれるウクライナ共産党員のうち、フランスに亡命したグループを率いていたのはフルィホリー・フルィニコだったが、パリインターに設置されたウクライナ共産党と統合する際に主導権を失った。
 パリインターのウクライナ共産党は闘争派に限らず、フランスに亡命したボリシェヴィキを含むあらゆる過激な社会主義者らで構成されていた。これを率いていたのはミキータ・フルシチョウ、アンチン・ドラホムィレツィクィー、オレクサンドル・シュムシクィー、シモン・ペトリューラであった。ウクライナ共産党は彼らにより再編され、パリにあるこのウクライナ共産党が、ウクライナ国内の地下共産党を指導するようになった。
 とりわけ、1932年にドゴール・クーデターが起き、ドゴールがフランス共産党を経由してパリインターを支援し始めると、ウクライナ共産党の活動は一気に拡大した。フランスによるウクライナ社会主義者に対する支援は、反ドイツ活動の一環として行われた。
 また、パリのウクライナ共産党にはヴィルヘルム・ハプスブルクの姿もあった。1919年から1920年にかけてヴィルヘルムはヘチマンと戴冠の可能性について交渉したが、結局失敗した。その後ポーランドガリツィアに移住したヴィルヘルムは、度々パリを訪れサンディカリストコミュニストなどと交流するようになった。ヴィルヘルムは貴賤結婚で皇位継承権を喪失していたこともあり、フルシチョウらはウクライナ人に人気なヴィルヘルムの入党を受け入れたのである。

世界恐慌

 ウクライナは比較的早いうちに世界恐慌の影響を受けた。世界恐慌から1932、3年ごろまでドイツ本国は為替ダンピングのおかげで好景気を維持していたが、正貨の過剰流入で次第に失速していった。ウクライナは1930年から1931年までが恐慌のピークで、農業生産物価格の暴落と工業生産物が中欧経済圏内で消化しきれなかったことが最大の原因だった。ウクライナはドイツからさらなる資金援助を受け取り経済の立て直しに取り組まざるを得なかった。
 世界恐慌以降、ドイツはより安価な小麦を南米から輸入するようになり、工業生産物の消費国である周辺の国々は外貨不足で購入を控えていったため、ウクライナ経済は慢性的な閉塞感をもって不景気に突入していった。貿易で利益を上げていた分、貿易構造の変化はウクライナにとって大きな損失となった。
 ヘチマンによる政治的圧力でベルリンからの借款は継続されたが、景気を好転させることはなくただ外債として積み重なっていった。

人口学的危機と民族主義

 世界恐慌ウクライナの失業者を指数関数的に増やしていった。そもそも、当時のウクライナ人口爆発中であり、農村部で増えすぎた人口が都市に流入し職にあぶれていた。
 この都市人口の急速な増加はドイツやポーランドなどとは比べ物にならない速度だった。例えば、東部の工業都市ハルキウの人口は1923年において12万人であったのに対し1933年には33万人、中部の工業都市ドニプロは2万人に対し18万人にまで増加した。
 人口爆発と同時にウクライナ人の識字化も急速だった。ウクライナ国民において多数を占めるウクライナ人の識字率は大変低かったが、戦間期にかけて急に識字化していった。一方、少数派のユダヤ人とドイツ人の識字率は従来より高かった。識字化は教育を修めた知能労働者の増加を示していたが、世界恐慌により彼らは就職できず、人口爆発と識字化により失業者はウクライナ人を中心にかつてないほど増えていった。
 少数派たるユダヤ人とドイツ人が先に豊かになったのに対し、多数派たるウクライナ人が彼らに続くことができず失業の憂き目に遭ったことは、階級的緊張と民族主義的問題を絡め合わせ、深刻化させるに至った。
 具体的にはウクライナ民族主義に基づく反ドイツ人、反ユダヤ人運動である。もともと旧ロシア帝国を含み東欧は「ポグロム」と呼ばれる反ユダヤ人暴動が社会不安とともに起こっていたこともあり、ウクライナには都市から農村までもともと反ユダヤ主義の気風があった。ウクライナ農村のユダヤ人は金融業を専ら担い、独自の伝統衣装を身にまとっていたこともあり、ウクライナ人から奇異のまなざしを向けられていたのである。
 ドイツ人はユダヤ人より少なかったが、ウクライナ経済の重要な立場を占めていた。ドイツ人は農村において南部の地主に多かったが、都市部においては資本家の大半を占めた。これはユダヤ人も同様である。ドイツ人の場合、ドイツ本国のファシズム運動たる「フェルキッシュ運動」の影響でドイツ人による民族主義運動が存在した。小規模ながら「汎ドイツ・ウクライナ同盟」はウクライナ国家同盟に属し2議席を保持していた。
 全ヨーロッパに影響を与えたフェルキシズムの影響をウクライナは免れることはなく、一民族を一国家とするフェルキシズムの人種的世界観はコミュニストも極右勢力も参考にした。ウクライナ共産党階級闘争と反ドイツ人・反ユダヤ人運動を同一とし、帝政時代の「黒百手組」を引き継ぐ極右勢力は、スト潰しでヘチマン政権の支援を得つつ、反ドイツ人・反ユダヤ人運動を組織した。
 1931年にはオデッサユダヤ人商店が暴徒に襲われるポグロムが、ロシア内戦以来久しぶりに発生した。また、ウクライナ社会民主党により高等教育機関における非ウクライナ人学生数を制限する法案が提出された。コミュニストだけでなく社会民主主義者も民族主義に迎合していったのである。

ヘチマンとファシズム

 ムッソリーニのローマ進軍に対してヘチマンはかなりの興味を示していたが、議会政治を促すドイツ帝国政府への配慮もあり、社会民主主義者を排したウクライナ国家同盟を成立させた他は抜本的なファシズム的改革には踏み切れていなかった。そもそも、社会民主主義者の排除自体がドイツの社会民主党を介してドイツ世論に悪影響を与えた。
 しかし、世界恐慌以降の社会混乱はヘチマンにファシズム国家の建設を決断させるに至った。ヘチマンはウクライナムッソリーニになろうとしたのである。
 1920年代の経済成長により都市部では工業地帯が建設されたと同時に、知識労働者と技術労働者がウクライナ社会に影響を与えるほどの数まで増加し、中間層が生まれた。ヘチマンによる官製ファシズム運動は、サンディカリズムコミュニズムなどの過激主義になびく貧しい労働者や農民などに対して恐れを抱く中間層に働きかけたものだった。
 ウクライナ国家同盟の全政党に属する知識労働者・技術労働者の労働組合が統合された。ヘチマンはこの他にも農村の社会化を試み、大地主と中農を組織化したが、これは都市部ほどうまくいかなかった。地方を支配するゼムストヴォはもともとヘチマン政権における野党的立場を維持しており、これがファシズム国家建設の妨げとなった。 
 ドイツのウーファを手本に国営スタジオが設立されイデオロギー宣伝を行った。ヘチマンに対する個人崇拝、反組・反共主義ウクライナ民族主義をテーマとする宣伝映像が多数制作された。
 しかし、結局のところヘチマンによるファシズム改革は従来の国家制度との抜本的な違いを持たなかった。ヘチマン政権による政敵に対する弾圧は受動的なもので、ファシズム国家を建設するための粛清は行われなかった。反ヘチマン的な存在であるゼムストヴォは温存された。ファシズム改革は現状の問題に対する社会改革として組織されたのにも関わらず、実際は抜本的なものにならなかった。
 一方で、ヘチマンによる与党主体のファシズムではなく、野党によるファシズムも登場した。こうした政治家はポピュリスト的な熱しやすく冷めやすい感情的な人気で支えられたため、登場してもすぐに消えていった。こうしたファシズム政治家のなかでもウォロディムィル・オスキールコとステパーン・バンデーラは例外的に長い人気を保った。
 野党ファシストはサンディカリストを攻撃し、彼らによる革命の恐怖をあおると同時に、手ぬるいヘチマンを批判し、ヘチマンによる抜本的な改革を主張した。こうした「改革的な保守派」はドイツ帝国における汎ドイツ同盟と似たところがあるが、彼らはドイツ民族主義に対する闘争を宣言し、過激なウクライナ民族主義を掲げた。また、反ユダヤ主義も人一倍強かった。
 野党ファシストが政権を獲得することはなかったが、ウクライナにおけるウクライナ民族主義と反ドイツ主義、反ユダヤ主義の醸成に一役買い、人民戦線政権においても国民感情としてこれは引き継がれた。

オスキールコとバンデーラ

人民戦線政権成立から戦勝までのウクライナ

革命前夜

 中・東欧でも数少ない豊かさを誇ったウクライナは、人口爆発世界恐慌により沈みつつあった。
 合法野党であるウクライナ社民党は鬱屈した世相に対しテロを行う過激な若手党員の対応に苦慮しつつ、党指導部も抜本的な国家変革の必要を認め、パリ・インターに接近していった。
 フランスコミューンの首都パリに存在するインターナショナル組織である通称パリ・インターでは、1932年のドゴールのクーデター後初めて開かれた1934年大会で「人民戦線」路線を提唱、反対者には除名さえ辞さない強硬方針をもって承認させた。社民党はパリ・インターではなくドイツ帝国の息のかかった社会民主主義インターナショナル組織「アムステルダム・インター」に所属していたが、党首ヴィヌィチェンコは人民戦線戦術を機にパリ・インターに興味を示していった。
 パリにあるウクライナ共産党ウクライナ社民党との人民戦線を目指し、働きかけていた。1934年末、フルシチョウの命でシモン・ペトリューラがドイツへ赴き、ヴィヌィチェンコと会談を持つことに成功した。このとき人民戦線構築の約束が交わされたとされる。この時点での方針は、ウクライナ社民党によるゼネストで真の普通選挙を認めさせ、そのうえでウクライナ社民党ウクライナ共産党が共同出馬する、といった穏健なものだった。
 しかし現場で熾烈な闘争にさらされている地下ウクライナ共産党はそうはいかなかった。地下共産党普通選挙の実現を待たず、ロシア革命同様テロリズムで変革をもたらそうとした。まず地下共産党ウクライナ社会革命党と関係を持ち、黒百手組に代表される右派テロリズムに対抗した。ロシア革命に参加した元兵士たちは武装し、民兵として活動していった。これを「赤衛隊」という。
 赤衛隊と官憲・右派民兵との激しい闘争は社会を不安定化させ、工場の生産はたびたび停止した。官憲は不確かな情報をもとに工場を丸ごと摘発しようと右派民兵を差し向け、これに対し赤衛隊が報復するという事例が多かった。この内戦に近い状態によりウクライナ経済は大きな損失を被った。
 社会の不安定化はヘチマン支持層の離反を促した。ウクライナ軍はより強力な指導者を、中産階級は経済と社会の安定を求めるようになった。また、農民層はロシア革命から約10年以上経ち、再び農民債務が増大し貧富の差が拡大していった。かつてウクライナ民主農民党を支持した中小零細農民もウクライナ社会革命党による農村でのテロリズムに協力するようになっていった。
 こうして、ヘチマン政権退陣は現実味を帯びていったのである。

国際情勢

 フランスにおけるドゴール政権の誕生以降、フランスは一貫して反帝国主義に基づくドイツ敵視政策を行っていた。対するドイツは世界恐慌で国力が減少しつつあり、また国内の厭戦機運がぬぐえず同盟国を必要としていた。当初はドナウ連邦を対フランスの駒としようとしたが、1936年のスペイン内戦におけるドナウとフランスの歩み寄り、同年のパリオリンピックにおける相互訪問外交でド仏関係が蜜月に入ると、このドイツの戦略は破綻した。
 イギリスはドイツと長年対立しており対仏同盟参加の望みは薄かったが*5、ドイツは仮に戦争となった場合、独仏相互が消耗し、戦後の覇権をイギリスとロシアに分割されることを恐れた。
 このため、ドイツは両国をフランスと対立させ、将来の対仏同盟に組み込もうと画策した。スペイン内戦ではスペイン王国に送り込んだドイツのスパイによる工作で、スペイン領モロッコをイギリスに売却させようとした。スペイン領モロッコはフランスと国境を接しているためである。
 ロシアに対しては、ドイツは表面上ウクライナのサンディカリストを攻撃しつつ、一方でドイツ国内の通過を黙認するなど消極的な支援をもって、ウクライナの赤化を結果的には助けることとなった。もしウクライナがサンディカリスト国家となれば、ロシアとウクライナが戦うことは必須であり、ロシアを対仏同盟に組み込むと同時にロシアの国力消耗と戦後秩序での影響力低下は確実だったからである。
 ではドイツが具体的にどれほどウクライナ共産党を支援したかについては、わからないことが多い。事実として、非合法化された野党勢力ウクライナ社民党党首ウィヌィチェンコによるワルシャワやベルリンで行われた会談を妨害しなかったことや、後述するゼネストにおいてヘチマンに辞任を示唆したことなどがある。

人民戦線政権成立

 ウクライナの治安は年を経るごとに悪化していった。ゼムストヴォやウクライナ国家同盟の一部などもヘチマン支配に疑問を呈し始め、さらには軍部もこれに同調した。
 国外にいるフルシチョウ率いるウクライナ共産党は、ドイツが軍事介入する前に強行帰国し「人民の力で」政権を奪取すべき、と主張した。この意見はパリ・インターを経由しドゴール元帥の耳にも伝わり、政権奪取に向けての一大作戦が決行されることになった。
 1937年9月、議会でウィヌィチェンコはヘチマンの辞任と挙国一致政権の樹立を求める演説を行い、議席を失った。これに対しウクライナ共産党ウクライナ社民党、他各政党による合同ゼネストで応え、経済活動は麻痺した。さらにエール・フランス機でフルシチョウらパリ組が強行帰国し、労働者の圧倒的歓迎に迎えられた。
 ゼネストの鎮圧が内戦を意味することは明白であり、政治意欲を失ったヘチマンは自ら辞任し、ドイツへ亡命した。
 内戦を覚悟していたフルシチョウだったが、この地滑り的勝利に歓迎した一方、この勝利はフルシチョウだけでなくウィヌィチェンコらのものでもあり、ウクライナの新体制が複数指導体制となることに不満だった。フルシチョウは権力欲が強かった。
 ウクライナ国家同盟は解散し、ヘチマン関係者や大資本家、バンデーラなどは国外に亡命した。オスキールコは留まり人民戦線政権に参加しようとしたが、うまく権力を獲得できずのちに粛清された。
 ともあれ、ウクライナ社会主義国となった。普通選挙を経て、政党「人民戦線」が与党に君臨し、共産党を含むあらゆる政党は解散し翼賛体制に組み込まれた。国家元首(全ウクライナ中央執行委員会議長)に旧ウクライナ社民党のウォロディムィル・ウィヌィチェンコ、首相(人民委員会議議長)に旧ウクライナ社民党のイサーク・マゼーパが就任した。パリ組のシモン・ペトリューラとミキータ・フルシチョウはそれぞれ内務人民委員と人民戦線書記長となった。
 人民戦線でのポストを見ると、政治局と書記局を兼務しているのはウィヌィチェンコ、ペトリューラ、フルシチョウの三人であり、この複数指導体制は「トロイカ」と呼ばれた。とはいえ、当時はフルシチョウをのぞき、誰も書記長という役職が持ちえる権限の強大さを知ることはなかった。フルシチョウはのちに書記長という肩書を利用し、政敵を抹殺し大テロル(大粛清)を行うこととなる。

人民戦線政権下のウクライナ

 ウクライナ国は「ウクライナ・ラーダ社会主義共和国」に改名し、名実ともに社会主義国家となった。
 各職場にラーダ(ソビエト)で結成され、下級ラーダは上級ラーダに代表を送り、「ラーダ大会」が開かれた。このラーダ大会は立法府に相当するが、開催は稀である。閉会中は「全ウクライナ中央執行委員会」がラーダ大会を代行した。さらに全ウクライナ中央執行委員会は行政府たる「人民委員会議」を選出した。ウィヌィチェンコの肩書である全ウクライナ中央執行委員会議長は名誉職だったが、「ウクライナ・ラーダの父」と呼ばれるようになったその巨大な権威から、閣僚の実質的な任命権を独占していた。
 一方、独裁政党である「人民戦線」はウクライナ語で「ナロフロント」と呼ばれ、事実上ウクライナにおけるすべてを指導していた*6。ナロフロント大会で中央委員会を選出し、さらに中央委員会から若干名の政治局員と書記を選出する。この政治局員と書記が事実上党を支配している。
 トロイカのうちウィヌィチェンコとペトリューラは政府ポストを有していたが、フルシチョウはそうでなかった。フルシチョウ派はウィヌィチェンコ派に比べて劣勢だったのである。しかし、戦争におけるフルシチョウの活躍はフルシチョウ派の押し上げをもたらすこととなる。
 産業は国有化され、経営は労働組合・企業に限らずすべて国家による支配に移行した。ヘチマン時代の経済諮問機関をもとに「デルシュプラン(Державний плановий комітет;国家計画委員会)」が組織され、フランスやドナウに倣い計画経済が構築された。中欧経済圏から追放され、フランスやドナウ、イギリスなどの経済圏に加入することとなった。
 当初は革命前のブルジョワやドイツ人、ユダヤ人などは変わらず生活していたが、革命に伴う国家機構の変革により混乱が生じると、彼らによるテロと民衆や内務人民委員部(NKVS)から断定され、私刑に遭ったり公開裁判で裁かれ処刑されたりした。人民戦線政権において、反ドイツ主義、反ユダヤ主義は激しさを増した。これは民衆における反ドイツ主義、反ユダヤ主義に歯止めが効かなくなっていたこともあるが、NKVSの指導者シモン・ペトリューラが筋金入りの反ユダヤ主義だったこともある。
 1937年12月には地下ウクライナ共産党員のヤーコウ・ブラウンがポグロムで撲殺されたものの、NKVSの圧力で容疑者に無罪判決が下された「ブラウン事件」が発生した。このときの検事総長がアンドリー・ウィシンシクィーであり、のちのフルシチョウによる政敵抹殺で活躍することとなる。
 NKVSは密告を奨励し、「ウクライナの亭主が安心して話せるのは家内とのベッドの中だけ」と言われるほど真偽不明の嫌疑が溢れた。資本家、ドイツ人、ユダヤ人などが次々と虐殺されていくのを見た都市のホワイトカラーは、これを恐れて積極的に人民戦線に協力することで、難を避けようとした。ある事務員は人民戦線党員(ナロフロンテッツ)が立ち会うなか、職場でユダヤ人同僚を批判し、党員の信用を得て入党した。
 こうした上からだけでなく下からの密告と粛清の嵐は「大テロル」と呼ばれた。
 農業においてはヘチマン時代からの機械化の努力が完成する形となった。農地は分割でなく集団化され、多くの農民が職を失った。彼らは都市労働者とならざるを得なかったが、この不満を解消するためのわら人形がユダヤ人だった。
 国際政治においてはフランスが提唱した反帝国主義外交に同調し、1939年には「反帝協定」を批准し枢軸国の仲間入りをした。ウクライナ国内では「ロシアのスパイ」が次々摘発されていったが、反ユダヤ主義政策ほどの圧迫はロシア人に対してはまだ見られなかった。そもそも、ウクライナにはロシア系国民が無視できないほど存在したのである。
 革命の理想からほど遠い官僚国家化と反ユダヤ主義に失望する人々も現れた。政治局員のカルル・サウリッチは勇気をもってウクライナの現状を批判し、とりわけフルシチョウの権力欲を攻撃した。しかし、とりわけペトリューラがサウリッチの意見に難色を示したこともあり、サウリッチは失脚した。1939年に首都キーウ*7で開かれた公開裁判で反党行為帝国主義者のスパイ、テロ行為の罪状で重労働30年が言い渡された。このとき呼ばれた「スヴァーリニスト」という言葉は、ドゴール独裁に反対しアメリカに亡命したユダヤ人のボリス・スヴァーリンに由来する。このときからスヴァーリニストは「裏切者」を意味するようになった。このサウリッチとその部下に対する公開裁判を「スヴァーリニスト裁判」という。サウリッチは1944年に銃殺された。
 さて、ヘチマン時代の社会問題だった過剰な知識労働者たちは、ドイツ人とユダヤ人への迫害と計画経済による経済成長によって求人数が増加し、失業率は減少していった。しかし、この反ユダヤ主義という残酷な解決手段をとったことで、ウクライナ・ラーダに対する西欧諸国の印象は悪化していった。公式上反ユダヤ主義に反対していたドナウ連邦は、もともとロシアと友好関係を結んでいたこともありウクライナに対し否定的になった。ウクライナによる過激なユダヤ人に対する排撃には、反ユダヤ主義政党の汎ドイツ同盟総統たるヘルマン・フォン・ゲーリングでさえ批難をしている。

左二枚はヴォルィーニ地方で起こった反ユダヤ暴動(ポグロム)の写真。右はヴィーンヌィツャポグロムを扱った、ロシアで製作された反共反組ポスター。

戦争と大テロルの時代

WW2

東部戦線の推移

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 ドイツ人とユダヤ人を生贄にして挙国一致したウクライナだったが、この過激な統治はロシアを刺激した。
 ボリシェヴィキ崩壊後に建てられたロシア共和国は、1925年にケレンスキー大統領が暗殺されると内戦の英雄アントン・デニーキンが後継し、自らを「統帥(ヴォーシュチ)」と呼び独裁体制を構築した。ロシアにおいてもヘチマン政権と同様の問題が起き、反ユダヤ主義暴動がおこったが、ウクライナとは異なり国家により組織化されたものではなかった。また、政権にかかわるドイツ人貴族らはウクライナから亡命したドイツ人難民に衝撃を受け、ウクライナに対する態度を硬化させるようになった。
 くわえて、ロシア共和国は大ロシアたる旧ロシア帝国崩壊後における崩れかけのアイデンティティを何とか支えるべく、ロシアの民族主義を鼓舞した。これはウクライナ民族主義に対する攻撃だった。特に言語問題におけるロシアとウクライナの対立はヘチマン時代にも存在したが、人民戦線政権が誕生するとよりそれが激化していった。
 さらに、人民戦線政権はロシアのサンディカリストコミュニストアナキストなどのほか、ロシア社会民主党の左派を支援しロシアでの革命を狙っていた。このロシア社民党左派はWW2におけるロシア崩壊後に、コミュニズム政権をウクライナの支援で建設することとなる。
 民族主義イデオロギー以外においても両国は対立していった。そもそもウクライナは枢軸国であり、ロシアは同盟国である。宇露対立はフランスとドイツの対立と関係していた。この関係は両国のヘゲモニーを衝突させた。ロシアと比較的友好的だったグルジアは、人民戦線政権の成立とともにウクライナへとパトロンを鞍替えした。ロシアとウクライナの間に存在するベラルーシは、二国対立の最前線であり、WW2における東部戦線勃発のきっかけとなった。
 ドイツ帝国本土が枢軸国の手で占領されてから1年近くたった1941年3月28日、ベラルーシ軍の親ウクライナ派がクーデターを起こしドイツ人国王ワデマールを退位させた。ベラルーシ王国という緩衝地帯が一気にウクライナ側に渡ったことでロシアは激怒し、4月6日にロシア軍はベラルーシ東部に侵攻、外交による解決の努力は実を結ばず、ウクライナベラルーシ西部を占領しついに戦闘に至った。これが東部戦線の始まりである。
 1942年秋にロシアの首都ペトログラードが包囲され同年冬に降伏すると、ペトログラードにはウクライナ主導で「ロシア・ソビエト社会主義共和国」が設立されロシア侵攻の橋頭保となった。このロシア・ソビエトを率いたのはロシア社民党左派で元ボリシェヴィキのニコライ・ブハーリンである。
 ミキータ・フルシチョウが権威を伸ばしたのは、戦争中にスタウカ(ウクライナ軍最高司令部)の上に設立された「ウクライナ国防委員会」の議員と議長代行をフルシチョウが務め、戦争指導に決定的な関与をしたためである。加えて、1943年にシモン・ペトリューラが病死したことも見逃せない。

戦後秩序の成立

 1946年夏には停戦が成立し、ロシアはウラル以西を手放すこととなった。デニーキン統帥はモスクワで戦死した。
 ウクライナはオリョール、ヴォロネジ県などを併合し、ベラルーシもやや領土を東に伸ばしたが、抜本的にロシアの領土を併合することはなかった。その代わり、各地に傀儡政権を設立させてゆっくりとロシアを分解していった。
 ドン・クバンにはドン・クバン・ラーダ社会主義共和国、北カフカスには北カフカスソビエト社会主義共和国、ロシア共和国とロシア・ソビエトの間には緩衝政権としてヴォルガ・ソビエト社会主義共和国がウクライナの手で成立した。
 当初は各独立した社会主義共和国による連帯と協調による国家連合を目指すとされた。しかし、これが実現することはなかった。

大テロルのクライマックス

ウィヌィチェンコ事件

 1946年12月1日、戦後間もないレニングラード*8を訪問していたウォロディムィル・ウィヌィチェンコ全ウクライナ中央執行委員会議長は、暴漢レオニード・ニコラエフに暗殺された。国家元首の暗殺というこの衝撃的事件は「ウィヌィチェンコ事件」と呼ばれるようになる。
 ウィヌィチェンコ事件はフルシチョウの陰謀であるという説が濃厚である。事件当時の治安を担当していたロシア内務人民委員部(NKVD)に出向していたウクライナ人イワン・ザポロージェッツはNKVDレニングラード局長だったが、暗殺事件を咎められ裁判が行われたものの、当時としては異例の重労働3年しか課されず、そして刑は執行されなかった。ザポロージェッツはNKVSに戻りアストラハンの砂漠開拓事業に携わったが、1948年に口封じをするようにサボタージュ容疑で処刑されたのである。
 いずれにせよ、ここで問題となるのは国家元首の後任に誰を据えるかである。さらに問題だったのは、ウィヌィチェンコの死により人民戦線で政治局員と書記を兼務しているのがフルシチョウしかいなくなったことである。これはフルシチョウにとってはチャンスであり、ウィヌィチェンコ派にとっては危機だった。国家元首の後任選定は党内争いの天王山だった。
 

人民戦線第5回大会とレニングラード裁判

 12月20日、キーウにて急遽ナロフロントの党大会が開催された。フルシチョウ派とウィヌィチェンコ派の決戦の場だった。開会式の『インターナショナル』斉唱のときでさえ、打ち合わせをしたり先を案じたりする党員らのヒソヒソ声がよく聴こえたという。
 党大会では規定通り中央委員会の選出が行われることとなった。秘密投票の結果、数に勝るウィヌィチェンコ派が中央委員会を支配することになると、集計委員会議長でありフルシチョウの腹心であるラーザル・カハノーウィチは発表前の集票結果をフルシチョウに報告し、集票結果を改鋳した。こうしてウィヌィチェンコ派が一人もいない異様な中央委員会が選出された。
 そのとき会場はどよめき、ボリス・マルトス全ウクライナ中央執行委員会暫定議長が大声で批難した。しかし、時すでに遅かった。このときフルシチョウの勝利が決定したのである。
 カハノーウィチによる集票結果の改鋳は、ナロフロントの事務的裏方である書記局の力が発揮された形となった。フルシチョウが書記長である以上、ウクライナの全政治家はフルシチョウの管理にあるといえた。
 1947年、ウィヌィチェンコ事件を処理する公開裁判である「第一次レニングラード裁判」が開かれた。まず実行犯のニコラエフと、その仲間とされた20数名が処刑され、ザポロージェッツら数名が死刑を免れた。裁判の対象は逮捕者の親、子供、親戚、同僚、友人、遠い親戚……、と指数関数的に広がり、その後数年で合計レニングラード市民約1万2千人が裁判を受け、約半分が処刑されたという。この対象はユダヤ人やドイツ人、インテリ、貴族などだった。
 裁判でニコラエフは「暗殺はウクライナ人民戦線の指示によるものだった」と「自白」した。この「自白」をもとに、ウィヌィチェンコ事件と党内粛清が結びつき、同年秋には「マゼーパ・スヴァーリニストセンター」という架空の組織による暗殺だったとして再び裁判が開かれ、ウィヌィチェンコ派のナロフロント幹部が引きずり出された。
 この「マゼーパ・スヴァーリニストセンター」の裁判が「第二次レニングラード裁判」であり、1947年8月に行われた。文字通りイサーク・マゼーパを領袖とするウィヌィチェンコ派と戦前に失脚したスヴァーリニストの生き残りが粛清されたのである。
 被告は以下の通り:
 イサーク・マゼーパ(人民委員会議議長)
 ボリス・マルトス(全ウクライナ中央執行委員会暫定議長)
 ワレンティン・サドウシクィー(保健人民委員、人口学者)
 ユーリー・マズレンコ(財務人民委員)
 セルヒー・オスタペンコ(デルシュプラン議員)
 ヘオルヒー・イェレーニン(全ウクライナ労働組合中央評議会議長)
 クジマ・トゥリャーンシクィー(食品加工業人民委員、元西ウクライナ共産党政治局員*9
 ユーリ・ピャトコウ(重工業人民委員部次官)
 ウォロディムィル・ドロシェンコ(全ウクライナ中央執行委員会委員、批評家)
 パナス・フェデンコ(外務人民委員)
 ヨシップ・べズパルコ(通信人民委員)

 この裁判で被告人は全員「マゼーパ・スヴァーリニストセンター」の一員であり、ウィヌィチェンコを暗殺しさらにフルシチョウらの暗殺を計画していたことを「自白」した。判決は全員死刑だった。第二次レニングラード裁判ではウィヌィチェンコ派の重要な閣僚が勢ぞろいし、彼らの処刑により閣僚ポストが空いた。これを埋めたのはフルシチョウ派だった。

キーウ裁判

 1948年1月に公開裁判が再び行われた。陥落したモスクワのクレムリンからロシア、ドイツ、イギリスの支援でウクライナ国内に反政府組織が作られ、政権獲得を狙っていたという「外患テロリスト本部事件」が「発覚」したためである。この裁判ではウィヌィチェンコ派の残党だけでなく、ウィヌィチェンコとは距離を置いていた元ウクライナ社民党員、ロシア革命時代に社民党員だった元共産党員、元闘争派など雑多な者たちが裁かれた。
 被告は以下の通り:
 フリホリー・フルィニコ(元財務人民委員、国立銀行総裁、デルシュプラン議長、パリ・インターのウクライナ共産党におけるフルシチョウ以前の指導者)
 アナトリー・ピソツィクィー(地下ウクライナ共産党時代の指導者)
 セメン・ジマンシュテイン(地下ウクライナ共産党幹部)
 フェジル・ジャルコ(元書記候補)
 パナス・リュブチェンコ(駐ペトログラード特使、元闘争派)
 レウコ・コワリウ(元闘争派指導者)
 ユーリ・ヴォイツェヒウシクィー(全ウクライナ中央執行委員会副議長)
 ワシーリ・ブィストゥルコウ(全ウクライナ中央執行委員会委員、デルシュプラン議員)
 オレクサ・トルィリシクィー(農学者)
 レウ・アフマートウ(NKVS労働集落部長)
 ミコラ・コワリシクィー(全ウクライナ中央執行委員会委員)
 ミコラ・ミコラエウ(ロスチウ・ラーダ書記長)
 ミハイロ・ポロス(デルシュプラン議員、元闘争派)
 アントン・プルィホティコ(全ウクライナ中央執行委員会委員、元闘争派幹部)
 セルヒー・バチィンシクィー(繊維産業人民委員、元ウクライナ社会革命党幹部)
 ウセウォロト・ホルボウィチ(交通路人民委員、元ウクライナ社会革命党員)
 イワン・ネモロウシクィー(キーウ新聞研究所所長、元闘争派でラーダ政権時代は国防大臣を歴任)

 判決ではネモロウシクィーを除き死刑が下された。ネモロウシクィーは1950年に強制収容所で病死した。

モスクワ裁判

 1949年3月に開かれた「モスクワ裁判」は、訴追の対象者がウクライナだけでなくロシアにまで広がった。裁判ではロシア・ソビエトの元首でありロシア社民党左派の領袖ニコライ・ブハーリンをはじめとするウクライナ以外の主要なコミュニストだけでなく、ウォロディムィル・ツェサルシクィーやフセウォロト・バルィツィクィーなどのNKVSにおけるペトリューラ派幹部も含まれていた。これは近いうちにNKVSでも粛清が起こることを示唆していた。
 この裁判では21人が処刑され、これに伴いその関係者合計数千人が訴追された。
 一連の裁判ではブラウン事件で活躍したアンドリー・ウィシンシクィー検事総長が特別検察官を務め、尋問にも参加した。尋問では精神的・肉体的拷問が行われ、被疑者はありもしない罪を「自白」した。ウィシンシクィーは「自白は、すべての証拠を上回る、いわば女王である」と明言した。

ブハーリンとチャルヴャコウ。全ベラルーシ中央執行委員会議長チャルヴャコウは裁判直前に自殺した。

大テロルの終焉

 こうした裁判でフルシチョウ派に敵対したウィヌィチェンコ派やロシア・ソビエト諸派はほとんどが消え、ミキータ・フルシチョウとその一派がウクライナだけでなく東欧を完全に支配するに至った。
 この劇的な粛清により、ロシアでは革命前の支配層がほとんど絶滅するかロシア共和国に亡命した。ロシア人知識人も少なからずが死亡し、ウクライナ人に出世の機会を与えた。
 WW2に勝利してもフルシチョウによる反ロシア主義は変わらなかった。ロシア語やロシア文化の普及運動などは「ブルジョワナショナリズム」と批判され、多くの無実のロシア人文化人が逮捕され、強制収容所に送られた。ドン、クバン、テレク、カフカスヴォルガ川では集中的にロシア語教員が失職し、ウクライナ語教員に置き換えられた。フルシチョウは旧ロシア帝国の支配言語をロシア語からウクライナ語にしようと試みた。
 また、ドン、クバン、テレク、カフカス、南ヴォルガで話されている南ロシア方言をウクライナ語の一方言と見なし、国勢調査では住民をウクライナ語話者として登録することを強制した。
 ヴォルガ川のテュルク系、フィン系少数民族は対ブルジョワナショナリズム闘争の観点からキーウからの支援を得た。ヴォルガ・ソビエトは既にデニーキン時代のロシア化政策で、多くの少数民族が自身の言語に不自由になりつつあったなか、少数民族言語の復興運動を組織しロシア語を排除した。純粋なロシア系住民さえ少数民族言語の学習を強制された。
 経済においてはウクライナで行ったよりもさらに急激な計画経済化と農業集団化がロシアで行われた。1946年から1948年にかけては飢餓が発生し、多くの農民が餓死や都市への移住、またはシベリアへの脱出を余儀なくされた。
 このように、形式上東欧は各々の独立したソビエト政権に支配されていたことになっていたが、粛清でウクライナ以外のソビエト政権幹部が壊滅すると、事実上ウクライナによる支配に従属するようになったのである。
 NKVSにおいては、シモン・ペトリューラ派の人民委員イワン・ボホンコが1949年6月に失脚した。ボホンコはペトリューラ譲りの反ユダヤ主義者、反ロシア主義者であり、苛烈な粛清の実行者だった。ペトリューラ時代の幹部は完全ではなかったがゆっくりと少しずつ失脚していき、ボホンコの後任にはフルシチョウに忠誠を誓ったNKVS幹部のパウロ・スドプラトウが就任した。スドプラトウの下で政治的粛清は落ち着いていき、また治安機関を強化し人民による私刑やポグロムなどもなくなっていった。もっとも、このころになるとウクライナにおけるユダヤ人は1万人未満だったといわれる。
 

フルシチョウ憲法制定、ソ連の誕生

 政権を固めたフルシチョウは、従来の分立的な国家の連帯ではなく、ウクライナ主導の連邦国家の形成へと路線を変更した。憲法の起草は1947年から行われ、ウィヌィチェンコ派以外の当時はまだ粛清されていなかった政治家も参加した。
 この通称「フルシチョウ憲法」では、今まであいまいだった「党の指導性」を初めて明記した。また、これに伴い諸派連合だった人民戦線は解散し、改めて「ラーダ連邦共産党*10」が発足した。
 フルシチョウ憲法制定に伴い、ウクライナやロシアなどの上に連邦国家「ラーダ社会主義共和国連邦*11」が誕生した。全ソビエト国家が自動的に加盟したわけではなく、国境が一部「修正」された。
 まず、ロシア・ソビエトの南ロシア、すなわち国勢調査で「ウクライナ語話者」が住んでいるとされたドン、クバン、テレク、カフカス、南ヴォルガはウクライナに併合された。これにより、ウクライナの領土は3倍以上に膨れ上がった。これと同時に、ウクライナの傀儡政権だったドン・クバン・ソビエトと北カフカスソビエトは解散した。
 さらに、北極海に面する北ロシアはロシア・ソビエトから分離し「ポモール・ソビエト」となった。ポモールとは中世ロシアにおいて、モスクワを中心とする中央ロシアから移住した人々だった。独自の方言を有していたが、ロシア語話者であることに変わりはなかった。ポモール・ソビエトの分離は、明らかに反ロシア主義的な分離工作だった。
 ヴォルガ・ソビエトは解散したが、精細な民族分布調査に基づきモルドヴィン・ソビエトタタールスタン・ソビエト、チュヴァシ・ソビエト、ウドムルト・ソビエト、マリ・ソビエト、バシコルトスタン・ソビエトが発足した。旧ロシア帝国から少数民族が分離独立した形である。これらヴォルガの少数民族国家は、ウクライナやロシアなどと同列の連邦構成国家であるという点においても、キーウから重視されていたことが伺える。
 フルシチョウ憲法により、従来のラーダ大会と中央執行委員会は最高会議と最高会議幹部会に改組され、人民委員会議は閣僚会議に改組された。さらに、各国赤軍ウクライナ主導で統合されソ連軍が誕生した。この当時はソ連軍がキーウに完全に従属し、中央集権的で巨大な組織だったが、ドゴール死後ソ連で「ボナパルティズム批判」が起こると、軍は分権化し縮小していくことになる。

ソ連構成国

ウクライナ・ラーダ社会主義共和国
ベラルーシ・サビエト社会主義共和国
ロシア・ソビエト社会主義共和国
ポモール・ソビエト社会主義共和国
モルドヴィン・ソビエト社会主義共和国
タタールスタン・ソビエト社会主義共和国
チュヴァシ・ソビエト社会主義共和国
ウドムルト・ソビエト社会主義共和国
マリ・ソビエト社会主義共和国
バシコルトスタン・ソビエト社会主義共和国
グルジア・ラーダ社会主義共和国
アルメニア・ラーダ社会主義共和国
アゼルバイジャン・ラーダ社会主義共和国

*1:義勇兵社会主義者に反対する右翼の若者から構成されており、汎ドイツ同盟も少なからぬ人員を送った。

*2:これに反対する大ロシア主義者の閣僚は既にロシアに亡命していた。

*3:ポーランドリトアニア王国時代の歴史的背景に基づくものであり、住民のほとんどはウクライナ人とベラルーシ人だった。

*4:サンディカリズム

*5:イギリスは対独牽制のため英仏海軍協定で再軍備を認め、海軍を増強させたほど一時は親仏の立場にあった。

*6:ただし党の指導性が公式に憲法に明記されるのは1950年のフルシチョウ憲法を待たねばならない。

*7:ウクライナ語名。ロシア語では「キエフ」。

*8:ペトログラードから改名された。

*9:西ウクライナ共産党とはポーランドガリツィアに存在した共産党。地下活動を続けていたが人気の不振とWW2にともなうポーランドとの同盟から、パリ・インターの命令で1939年に解散した。

*10:ロシア語ではソビエト連邦共産党

*11:ロシア語ではソビエト社会主義共和国連邦。日本ではこちらの名のほうが知られている。