マルセル・カシャン

マルセル・カシャン(1869-1958、Marcel Cachin)はフランスコミューンの政治家。パリインター議長。

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1929年ごろ

 1892年にフランス労働党(POF)に入党しジロンド県のリブールヌで活動を開始する。その後党は合併と分裂を繰り返し、フランス社会党(PSdF)に所属していたカシャンは1904年にアムステルダムの、1905年にパリの社会主義者会議に参加した。党はやがて第二インターナショナルに所属し(SFIO)、カシャンはそこで演説と宣伝の才能を見出された。やがて「プロパガンダ議員」という愛称で呼ばれるようになった。
 WW1が勃発すると社会党(SFIO)は「ユニオン・サクレ」として戦争協力に参加した。カシャンもそれに従っていたが、やがて少数反戦派として頭角を現し、1918年秋には党機関紙『ユマニテ』を掌握し反戦記事を繰り返した。カシャンの活動はドイツ軍の攻勢に敗れた兵士たちに大きな影響を与え、兵士らをコミューン革命へと駆り立てた。
 こうしてフランス第三共和政を崩壊に導いた社会主義者らは社会党の名を改め「フランス共産党(PCF)」とした。フランス共産党はモスクワのインターナショナルに加盟したが、ロシアのボリシェヴィキが内戦に敗れるとインターナショナルの主導権はパリに移り、カシャンの主導でいわゆる「パリインター」として再建された。また、カシャンはボリシェヴィキと同様ドイツのスパルタクス団を支援したが、ドイツの革命に失敗した。「反ドイツ帝国主義」という視点から、のちのドナウ連邦であるウィーンの臨時政府への武器支援を提案し、人民軍により実行された*1
 フランス共産党では書記長のLO. フロッサールとともに党内に少なからぬ影響力を残していたが、カシャンはパリインターでの仕事に専念していた。1920年代初期は各国共産党と連携し、フランスに課せられたルクセンブルク条約の撤廃運動と反ドイツ運動を行わせている。しかし、カシャンの路線はドイツやイタリアなどにおける弾圧下の共産党に対する支援が不十分で、ルーマニアにおいては国内党組織がほとんど壊滅する始末だった。これに対し、ロシア出身の強硬派コミュニストたちは不満を募らせていった。
 また、パリインターではボリシェヴィキ流の民主集中制が導入されなかったため、各国の共産党は理論面にかなり自由だった。とりわけ規模が大きかったアメリ共産党に至っては、フランス共産党に従属することもなかった。
 しかし、1932年にドゴールがクーデターを起こすと、フランス共産党内でもジャック・ドリオのような過激派がドゴールに取り入り勢力を伸ばしていった。パリインターにおいてもロシア出身のコミュニストに推されたモーリス・トレーズが追い上げ、ドゴールの指示でパリインター議長をトレーズと交代することとなった。トレーズは民主集中制を導入し各国代表を厳格に支配、与党人民戦線が示した路線に基づき積極的な革命攻勢へと出ることとなった。
 一線を退くこととなったカシャンは、ブルターニュの片田舎に農園を購入し、そこで余生を過ごした。名目上フランス共産党に所属したままであり、労働総取引所にも人民戦線推薦で当選している。晩年はブルターニュにおける少数民族文化の保護に力を注いでいった。
 

*1:このとき中欧に渡った武官の一人にドゴールがいた。