レオン・ブルム
レオン・ブルム(Léon Blum、1872-1950)はフランスの政治家、ドゴール・クーデター当時の公安委員長(首相)。
ユダヤ系中産階級としてパリに生まれる。アンリ4世高校出身で同級生にはアンドレ・ジッドがいた。若いころのブルムは文学少年だったが、1894年のドレフュス事件をきっかけに政治に興味を持つようになった。1896年には社会主義者ジャン・ジョレスと出会う。
1905年に社会党(SFIO)が結成されると、ブルムは同党で知られた存在となる。1914年のWW1勃発直後ジョレスが右翼青年に暗殺されると、ブルムはジョレスの指導的地位を引き継いだ。戦時中は公共事業大臣マルセル・サンバの首席補佐官を務めるなど「ユニオン・サクレ」の一員として戦争に協力していた。
1918年におけるパリ陥落からやや時間を置きつつ、ようやくブルムは反戦派の兵士と労働者に加わった。しかし、これはあまりにも遅かった。事態の主導権はLO. フロッサールやマルセル・カシャンなどのような党少数派が握るようになり、主流派のブルムは出遅れた形となった。また、ブルムは兵士と労働者の過激な暴走を嫌っていた。党少数派が社会党を乗っ取り「フランス共産党(PCF)」と改名すると、ブルムは脱党し社会党を再結成した。こうして、社会党には穏健派が集結するようになった。
コミューン建国の当初、社会党と共産党の仲は悪かったが、国政の混乱から度々連立や協力をせざる得なかった。ブルムは1920年代前半に早くも異例の若さで公安委員長(首相)に就任している。在任期間は例のごとく短かったが、価格凍結令などの緊急法案を通すことに成功した。
さらに、1931年には再び公安委員長に就任した。当時世界恐慌でフランス経済は危機に瀕しており、外貨が流出していた。ブルムはこれを止めるべく、金本位制を離脱し公共事業と増税を実施した。一連の政策は「ブルムの実験」と呼ばれる。しかし、こうした政策は焼け石に水で、大量の失業者を救うことはできなかった。こうして世論の支持を失ったブルムは、1932年7月20日にドゴールによるクーデターで打倒された。
皮肉なことに、ドゴールは「ブルムの実験」を多少修正しつつ継続し、かなりの効果を上げていた。すなわち、ブルム政権の課題は政策よりもそれを実行する安定と力だったということである。
1935年、労働総取引所(議会)の復帰にともない社会党はドゴールに協力し人民戦線に加わるべきか議論が交わされた。ブルムは反ドゴールを鮮明にしたが、結局党内若手勢力によりドゴールへの協力が決定した。ブルムはこれに対し、スヴァーリンの民主コミュニストサークル(CCD)への合流も検討したが、結局諦めた。ブルムはコミュニストでなかったためである。
とはいえ非人民戦線での立候補と当選には成功し、議席を維持した。しかしドゴール独裁体制ではほとんど影響力を行使できず、1940年に開戦に反対して議員を辞した。そしてこのまま引退した。その後、1950年にひっそりと亡くなった。