ボカーニ・デジェー
ボカーニ・デジェー(Bokányi Dezső、1871-1947)はドナウ連邦の政治家。 ボカーニは1871年ブダペストのペスト地区に生まれた。ボカーニ家は代々石工で、デジェーの父親も石工だった。デジェーが幼いころ父親は珪肺で死亡した。珪肺とは結晶シリカを吸引することで起こる病気で、石工の職業病だった。ボカーニ・デジェーは二年間カトリックの寺院に預けられ読み書きを修めたが、その後すぐに石工の修業を始めて家業を継いだ。
このころ、ハンガリーには産業革命が到来し、同時に労働運動が過熱していった。ボカーニは労働組合に参加し、類まれな演説の才能を見せた。ちなみにこのころ、ブダペストにあるマーチャーシュ聖堂の修復に参加したという。
ボカーニは社会民主党に入党し、党大会にも出席した。1894年に党中央委員に抜擢され、ドイツ語が話せたことからマルクスやエンゲルスなどの著作をドイツ語からハンガリー語に翻訳する作業に参加した。党機関紙『人民の声』の編集委員でもあり、当時労働者から人気だった。
第一次世界大戦が勃発すると、労働運動は愛国主義の下に抑えつけられ、労働環境は極度に悪化していった。ボカーニは当時スイスのツィンメルワルトで開催された社会民主主義者による反戦会議に参加し、党内部の有力な反戦派に成長した。
オーストリア革命が勃発すると、ボカーニは急進派として労働者のゼネストを指導しようとしたが、継戦派により独立したハンガリー王国に参加した、社会民主党主流派からは反対され、対立した。ハンガリー王国崩壊期にボカーニはハンガリーでの共産主義革命を目論む地下共産党と接触し、社会民主党少数派と地下共産党の合併に合意した。こうして誕生したのが通称「合同共産党」こと「ハンガリー社会党」である。
この功で、ボカーニはドナウ連邦ハンガリー共和国初代厚生大臣に就任した。厚生大臣時代のボカーニは寡婦年金の創設や年金基金の国営化などを行った*1。
戦間期はしばらく合同共産党に務めていたが、党首クン・ベーラとは距離を置いていた。1931年のハンガリー・クーデター*2ではローゼッカへの忠誠を表明し、合同共産党の解党とドナウ党への吸収を決議した。
ローゼッカによる権力掌握後は、新設された宣伝省の主席次官に就任し、ドナウにおけるメディア統制を行った。この統制が甘いのではないかという声が党中央部*3から上がったこともあり、ボカーニは高齢を理由に罷免された。
その後はドナウ放送協会(ODR)でアナウンサーを務めたり、宣伝省連邦著述家本部の指導下で雑誌編集者を務めたりした。1947年病死。