イオン・ディク=ディセスク

イオン・ディク=ディセスク(1893-1958、Ion Dic-Dicescu)はルーマニアコミュニストフランス共産党員、軍人。

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フランス赤軍時代のディク=ディセスク
 もともとルーマニア社会党員だった。WW1で重傷を負いロシア帝国にある野戦病院に後送されるが、最終的にペトログラードで療養することとなった。ペトログラードにあるルノー社工場で会計士としての仕事を得て働いているなか、2月革命に遭遇する。4月にはボリシェヴィキに入党し、10月革命後は外務人民委員に勤務することとなった。
 1918年にはオデッサに移動し、内戦においてルーマニア人部隊を運用すべく「ルーマニア軍事革命委員会」の設立を指導した。その後は『プラウダ』の戦線特派員や中央アジア革命軍事委員会に参加していた。ロシア内戦の敗北後は辛くも脱出し、フランスへ亡命した。
 フランスではフランス共産党(PCF)に入党し、サン・シール陸軍士官学校に入学、卒業後もそこで一時期働いていたようである。
 ディク=ディセスクは人民軍に入営する資格と素質があったが、ルクセンブルク条約に伴う軍備制限により、フランス共産党のミリスである「フランス赤軍」にいた。
 ドゴール・クーデターにより人民軍に復帰、1939年に少将に昇進し対独侵攻作戦に参加する。東部戦線では兵員不足のためルーマニア外人部隊「ミハイ勇敢公旅団」を組織しルーマニア王国やドナウ連邦、ウクライナなどのルーマニア人を入営させた。ドナウ連邦はおりしもルーマニア人追放中で、ルーマニア王国は戦争参加に熱心でなかったため両国とも積極的に同旅団にルーマニア人を送り込んだ。同旅団はのちに師団に拡大している。
 戦後、ルーマニア王国情勢の不安定化もあり多数のルーマニア人が同師団を経由してフランスへ亡命した。それ以外にも、コミュニズム教育を施してルーマニアに帰国させることもパリインター主導で行われた。
 ディク=ディセスクは東部戦線の功で中将に昇進し、終戦を迎えた。戦後はルーマニアに帰国せず、フランスにとどまった。