ジャック・ドリオ

ジャック・ドリオ(1898-1962, Jacques Doriot)はフランスの政治家。ドゴール時代におけるフランス共産党(PCF)の指導者、フランスの元首。
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 北フランスのオワーズ県出身。WW1に従軍し、戦後PCFに入党した。演説の才能が開花し1924年には若くして党中央委員に就任し、1929年から1932年において、アルベール・トライアン、ベノワ・フラションとともに党複数指導体制の一翼を担う。
 このころ、祖国の敗戦と大恐慌に対する既存政治家の無力を痛感し、ムッソリーニファシズムエドゥアール・ベルトのソレリアニズム、計画経済で知られる新社会主義論に傾倒していく。ドゴールら人民軍とも連絡を取り、ドゴールにベルトを紹介したのはドリオだったという。1932年のドゴール・クーデターの際は、PCFが保有するミリス(民兵)をもって協力した。
 このためドゴール・クーデターを熱烈に支持し、PCF内の反ドゴール派を粛清して複数指導体制を停止し、自信を頂点とする独裁的な党運営を構築した。ジョルジュ・エティエンヌ=ボネによる統一政党結成工作に関しては、ボリシェヴィキを模範とする強力な一党独裁を主張したため他党からは反対され、結果として人民戦線という政党連合へと妥協することとなった。
 ドゴール体制では諮問機関である元帥会議の議員と、フランス経済の司令塔たる国民経済評議会の議長に就任し、計画経済を推進して完全雇用再軍備を成し遂げた。ドリオは空軍を重視して傾斜生産を命じたことは顰蹙を食らったが、結果としてバタイユ・ド=ドゥーブルの勝利に貢献したと後世評価されている。
 政権でドリオはドゴール元帥の絶大な信頼を得て、演説を得意としてしばしば露出したため、ピエール・ラヴァル公安委員長(首相)と並んでドゴールの忠実な臣下として記憶された。

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1939年

 戦後、長らく政権中枢にいたドリオだったが、経済運営の観点からアフリカにおける脱植民地化に慎重な立場を取ったため、アフリカのサンディカリストらから批判を浴びた。アルジェリア独立運動が激化し、ドゴールは1954年に元帥会議メンバーを一新し、ドリオは事実上失脚してしまった。
 1957年11月10日にドゴールがアイルランドで暗殺されると、下野していたドリオは再登場し、PCFを人民戦線から離脱させ、ドゴール後の政権獲得に意欲を燃やした。しかし、かつては青年代表としてクーデターに参加したものの、当時はすでに59歳であり、ドリオはむしろ若者らにとって既存政治の代表だった。ソ連民族自決の観点からアルジェリア問題、アフリカ問題においてドリオを攻撃し始め、いわゆる仏ソ対立が表面化し始めた。これに呼応してモーリス・トレーズ率いるPCF左派が分裂し「フランス労働党」(コミュニスト)が結成され、ドリオに公然と反旗を翻した。
 こうした国家的危機に対して、1958年3月の総選挙の直前に人民軍とPCFはクーデターを決行、フランス労働党は弾圧によって壊滅し、トレーズはキエフへ亡命した。
 結果として人民戦線(サンディカリスト)とPCF(ソレリアン)、そして人民軍による挙国一致政権が誕生し、ドリオは元帥に代わって新設された国家元首である「労働総取引所議長」に就任した。ドリオはアルジェリア死守を呼びかけ喝采を浴びつつ、アフリカにおいてはパリ・インターを通じたフランスの影響下での独立ということで妥協し、ソ連に付け入るスキを与えないようたった2年間で独立を達成させる「独立2か年計画」を組織、1960年に西アフリカコミューン、赤道アフリカコミューン、二つのコンゴコミューンなどが独立し「アフリカの年」として記憶される。
 しかし、性急な独立は明らかに稚拙で、独立国家として耐えうる社会の近代化が道半ばであると当初から指摘されていた。この指摘は正しく、コンゴ・コミューン(ヴィルヘルムシュタット)のコンゴ動乱をはじめとしてドナウ連邦やソ連の介入を招き、アフリカは長い軍閥時代へと突入することとなる。
 1962年にドリオは脳出血で急死し、国葬がなされた。パリではコミュニスト残党による爆弾テロが相次ぎ、ドゴール暗殺と並び不安定な時代の幕開けを象徴した。

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1958年