ケンデ・ジグモンド
ケンデ・ジグモンド(Kende Zsigmond, 1888-1971)はドナウ連邦の政治家、テクノクラート。
ブダペスト出身のユダヤ人知識人で、ブダペスト王立大学の学生団体「ガリレイサークル」の創立メンバーだった。ガリレイサークルには他にもルカーチ・ジェルジやポラーニ・カーロイ、アレクシス・ローゼッカなど後にドナウ社会主義労農党政権を担う幹部たちが集っていた。ケンデも当時ブダペストの青年知識人の例に倣い、自由主義者として活動し、雑誌『自由思想』(Szabadgondolat)の編集長として、未だ封建的性格が残っていたハンガリーの改革を要求していた。
二重帝国崩壊までには自由主義政党であるブルジョワ急進党の青年部指導者だった。ドイツに支援されたハンガリー王国が成立した際は、地下に潜伏して革命の機会を伺っていた。
労働者の蜂起によりハンガリー王国が崩壊し、ドナウ連邦が成立すると政治からは退き、ドナウ連邦ハンガリー共和国の公衆衛生省の公衆衛生研究所で勤務していた。1933年にドナウ社会主義労農党政権が成立すると、ガリレイサークルつながりで声がかかり政権に参加した。農民組合を同一化(シンクロニザーツィア)して誕生した党組織「ドナウ農民同盟」に付属する、食品衛生研究所の初代指導者に就任した。他にも、ブダペストにある国民衛兵隊第一附属病院で働いた。
ケンデは理系テクノクラートであったためか、政権内部の抗争に巻き込まれることもなく、定年の1948年まで勤めることができた。
1950年から1958年まで連邦政府の厚生大臣を務めていた。