ドナウ社会主義労農党による権力掌握

 ここでは、1932年に起きたアレクシス・ローゼッカ率いるドナウ社会主義労農党(通称:ドナウ党)による権力掌握について述べる。まず、権力掌握に至る事実的過程、次にそれの後の事件を紹介する。

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権力掌握後に制定されたドナウ連邦国旗。中央の十字は「覇十字」といい、ドナウ党のシンボルである。
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ローゼッカ大統領(右)と訪ドしたドゴール(左)。二人とも全体主義国家を率いる独裁者として知られた。

前史

オーストリア革命とドナウ連邦成立

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 1918年1月、二重帝国のオーストリア帝冠領で勃発したゼネストは、親政府的な社会民主党幹部だったヴィクトル・アドラーの暗殺により急展開を迎え、コントロールを失い、革命として都市から地方へと波及していき、ウィーンやプラハなどでは臨時政府が結成された。臨時政府それ自体は当初帝政の打倒を目的としていなかったが、ハプスブルク家支配に対する反対が増えていくうちに、臨時政府は皇帝を裏切り、共和制国家樹立を志向していった。
 同年春にはイタリア戦線にて二重帝国軍が反攻を開始したが、失敗した。このころから二重帝国軍は崩壊し始め、臨時政府や各地域、各民族の政府に分かれ内戦に与していった。
 このような破滅的状態のなか、ドイツ帝国は旧二重帝国の分割とドイツ人地域の併合をもくろみ、同年秋にハンガリー王国を傀儡国家として独立させた。しかしドイツの覇権主義を警戒した各臨時政府は団結し人民軍(フォルクスアルメー)を結成し、一度バラバラになった旧二重帝国軍からなる民兵組織(フライコール)を統合、指揮することによりまとまっていった。1919年にはハンガリー王国は滅び、攻め込んできたイタリア軍とも停戦し、ドイツによる分割を避けることができた。
 こうしたオーストリア革命の動乱を経て、残った領土(いわゆる小オーストリアチェコスロバキアハンガリー)が1920年にドナウ連邦となったのである。
 のちに権力を掌握するドナウ社会主義労農党は、1918年1月に結成されたドイツ国社会主義労働者党と、無名の政党ドナウ人民労農党と1918年4月に合併し結成されたものである。ローゼッカをはじめとする、のちの党主流派と当時の党首脳にはほとんど関係がない。というのも、ローゼッカらは別個に結成されたドナウ社会主義労農党の民兵組織である国民衛兵隊出身であるからである。国民衛兵隊は人民軍に参加し戦果を挙げることで、次第に発言力を伸ばし、ドナウ連邦成立時にはすでに党を乗っ取っていた。

戦間期のドナウ

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 1920年に成立したドナウ連邦はオーストリア革命時代の臨時政府制度を引きずったものだった。すなわち、ウィーン、プラハブダペストの三大臨時政府支配地域を基に設定された三つの共和国による事実上の連合国家であった、ということである。各共和国政府の権力は強く、それぞれ独自路線をしばらく歩んでいたが、これらもローゼッカの権力掌握では統一して統合されることとなる。
 ここでは、権力掌握以前の国政と各共和国の政治史を淡々と述べていく。

連邦政府

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以上は戦間期ドナウ連邦の議会政党の一覧である。

 歴代内閣:
 第一次左右連立内閣 1920/07/20-1922/07/21 首相:ヨハン・ショーバー(官僚)
 第二次左右連立内閣 1922/07/22-1924/07/11 首相:ルドルフ・ラメク(キ社)
 第一次右派連立内閣 1924/07/12-1926/01/24 首相:イグナーツ・ザイペル(キ社)
 第二次右派連立内閣 1926/01/25-1926/04/03 首相:ヨハン・ショーバー(官僚)
 第三次右派連立内閣 1926/04/04-1926/12/22 首相:ヤン・シュラーメク(チ人)
 第四次右派連立内閣 1926/12/23-1927/02/27 首相:フランチシェク・ウドルジャル(農業)
 第五次右派連立内閣 1927/02/28-1928/07/30 首相:イグナーツ・ザイペル(キ社)
 左派連立内閣    1928/07/31-1933/03/10 首相:ゲオルク・リートミュラー(ドナウ)

 ドナウ連邦成立に際し、制憲議会は革命を主導した社会民主党が支配していた。しかし、革命が終わり人々が落ち着きを取り戻すと、食糧不足や不景気などへの不満が高まり、また本来右派を支持していた社民党支持層が右派に回帰していくと、だんだん社民党議席を減らしていった。1924年夏の選挙では右派が過半数を握り、しばらく右派連立内閣が続いた。
 しかし、左右関わらず一つの政党が過半数を握り主導することはなく、各共和国を地盤に持つ政党が連邦議会で会派を結成し、会派の決定に基づき政策がなされていた。つまり、政治の主導権は党になく、会派の連絡会議に出席する各政党の重鎮にあった。こうした性質のため、会派が各政党の対立により空中分解することが多々あった。
 第一次右派連立内閣(首相:ザイペル)はオーストリアキリスト教社会党チェコスロバキアの国民民主党チェコスロバキア人民党、農業党、ハンガリー自由党などで構成されていたが、このうちキリスト教社会党以外が一斉に連立離脱したことにより内閣は瓦解し、ショーバーの第二次内閣に移行した。
 1926年の第三次右派連立内閣(首相:シュラーメク)はチェコ人を閣僚に多く登用しチェコ人政党の連立をなしたが、ドイツ貯蓄中央銀行疑獄のあおりを受け、同じくチェコ人政党の国民民主党と農業党が連立離脱をしてしまった。連邦議会におけるこうした政争は一概に民族対立によるものではなく、単なる勢力争いといったものも少なくない。
 こうした混乱で右派は支持を失い、1928年に左派連立内閣が誕生した。しかし右派連立内閣で繰り返された政争は引き継がれ、議会政治が信頼を取り戻すことはなかった。左派連立内閣にはドナウ社会主義労農党も参加したが、閣僚ポストの数自体は少ない。このころのドナウ社会主義労農党は警察部門トップに党員を据えたり、アレクシス・ローゼッカを大統領にしたりしていた。
 社会民主党といった左派主流派は既に支持を失っており、1931年7月14日に社会民主党が反乱を起こすと(7月騒乱)、ドナウ党は右派(具体的にはキリスト教社会党のルドルフ・ラメク)の助言に従い社会民主党系の議員を難なく追放した。このように、議会制末期には左右の尺度では測れぬ事態となっていき、最終的に右派の一部と左派の一部が合同する形でドナウ社会主義労農党による独裁政治が成立していくこととなる。これに関しては後述する。

オーストリア共和国

 オーストリア共和国はアルプス地方部とウィーン特別市、スロベニアで構成されていたが、共和国議会はウィーンを基盤とするオーストリア社会民主党と、それ以外を基盤とするキリスト教社会党が支配していた。この二党は国政における左右対立と連動しており、当初は社会民主党が政権を握ったが、その後すぐにキリスト教社会党が政権を主導し、その優位は議会制の終焉まで変わらなかった。
 ただし、議会制が腐敗していくと右派にはアドルフ・ヒトラーが主導するドナウ党分派が、左派にはローゼッカ率いるドナウ党が浸透していった。これらが単独で政権を握ることはなかったが、キリスト教社会党はこれらと調整、妥協して政権運営をしていった。
 議会制末期の1930年代初期にドナウ党などが憲法改正運動を主導すると、改正発議をするか否かを表明する国民投票(第一次国民投票)を実施するべく、各共和国で駆け引きがなされた。オーストリア共和国キリスト教社会党はドナウ党に譲歩し、1932年1月にドナウ党員のヴィルヘルム・ヴォルフを国民投票担当大臣に任命し、国民投票実施を確約した。
 こうしてオーストリア共和国においても、ドナウ党は右派と妥協することにより政権獲得を着実に進めていった。

チェコスロバキア共和国

 チェコスロバキア共和国は最も複雑であった。まず共和国が政治的理由で複雑な地理をなしており、それに従い様々な政党、勢力が活躍することとなった。
 あえて大分するとすれば、ブルジョワ、農民、労働者、そしてドイツ人、チェコ人、スロバキア人に整理できる。
 建国直後は国政と同様に社会民主主義政党(チェコスロバキア社会民主党、国民社会党)が優勢だったが、次第にキリスト教政党のチェコスロバキア人民党ブルジョワ政党の国民民主党が支配していった。ドイツ人も同様に社会民主主義政党から右派政党へと投票先を移していったが、スロバキア人のみはスロバキア人民党というキリスト教系の地域政党に投票していった。なお、社会民主主義政党の一部はドナウ社会主義労農党に吸収された(左派連立内閣外務大臣エドゥアルト・ベネシュは社会民主党出身である)。
 なお、農民から広範な支持を得ていた農業党は議会制末期まで議席数をほとんど変えず、安定した地位を占めていた。つまり、農業党は議会制とともに失望されたということはなかったのである。チェコスロバキア共和国において、かつての社会民主党の支持者を除き基盤を持たなかったドナウ社会主義労農党は、農業党をチェコスロバキア共和国におけるパートナーに選び、接近した。これもまた、議会制末期における左右の統合の一つといえる。

ハンガリー共和国

 オーストリア革命の過程で保守派、王党派による政権「ハンガリー王国」が滅亡したハンガリー共和国は、やや特殊な過程を歩んだ。
 まず、議会制時代を率いたのは社会民主主義左派、共産主義者をまとめた合同政党「合同共産党」で、他の共和国において左派が衰退しても合同共産党議席はあまり減らなかった。ただし、これは合同共産党が絶対的な支持を得ていたわけではなく、ハンガリー共和国議会にはまともな政党が合同共産党を除いて存在しなかったまでのことである。
 一応紹介しておくと、合同共産党よりさらに硬直的な少数派のハンガリー社民党、リベラルな少数政党でカーロイ・ミハーイ伯爵が指導する自由党、旧ハンガリー王国保守派、王党派による農民党(チェコスロバキアの農業党と混同しやすい)が存在した。
 ドナウ社会主義労農党は合同共産党との選挙協定により、ハンガリー共和国議会選挙には立候補せず、代わりに国政においてハンガリー共和国の選挙区で優先的に立候補していった。また、ドナウ党の国民衛兵隊は合同共産党と共有していた。
 オーストリア革命末期、ハンガリー王国の滅亡後に成立した、クン・ベーラ率いる行動的な左派が主導する臨時政府をもとにしたハンガリー共和国は、当初は過激な再分配政策を主張し、労働者の支持を集めた。しかし、これに反発した貴族や地主が連邦政府に圧力をかけたこと、合同共産党内部の過激派と穏健派の対立の結果、土地の再分配でなく協同組合という形で大地主制を事実上存続したこと、次第に労働組合が御用労組と化したことにより、労働者の支持は一気に失われていった。
 1924年と1926年には合同共産党内部の政争により失望した党員がドナウ党に移籍した。
 実際、ドナウ党には元合同共産党員を含む元マルクス主義者の党員が多い。しかし、ドナウ党は政権掌握においてマルクス主義を理論的に反駁し、ドナウ社会主義こそ正当であると断じたことで、合同共産党とのつながりを事実上断ち切った。
 1931年の7月騒乱では、ドナウ党が支配する国民衛兵隊と、連邦政府の警察部隊がブダペストにも展開し合同共産党ハンガリー社民党本部が襲撃された。こうして、ドナウ党が国政を握るのにやや先駆けて、ハンガリー共和国はクーデター的な形でドナウ社会主義労農党に掌握された。

ドナウ社会主義労農党前史

 ここではドナウ社会主義労農党の前史を簡単に記す。

結党からプレスブルク綱領まで

 ドナウ社会主義労農党はもともとドイツ労働者党とドナウ人民労農党が合併してできたものである。前者のドイツ労働者党は二重帝国における汎ドイツ運動を担っており、どちらかといえばドイツ人民族主義政党だった。このドイツ労働者党は、運転資金上の理由から1918年5月5日にウィーンでドナウ人民労農党にと合併し、ドナウ社会主義労農党が誕生した。
 この初期ドナウ社会主義労農党のころのメンバーは後にほとんどが去っているため、当時については不明な点も多い。とりわけ、オーストリア革命で雨後の筍のように登場した小政党の一つである、ドナウ人民労農党に関しては何も後世に伝わっていない。少なくとも、のちの汎ドイツ同盟に近い立場をとっていたドイツ労働者党は、ドナウ社会主義労農党の結成により本部を北ボヘミアからウィーンに移し、次第に汎ドイツ主義から社会主義へと傾倒していった、という点は確かである。
 1918年5月中頃、フライコールである国民衛兵隊がドナウ社会主義労農党の指導下に入った。この国民衛兵隊が、その後政権を掌握したドナウ社会主義労農党メンバーの大部分を輩出することとなった。後の指導者アレクシス・ローゼッカもこのころ入党する。国民衛兵隊はオーストリア革命にともなう分裂の危機に対し、臨時政府に従って分離運動鎮圧に参加した。配属先は主にクラインの対イタリア戦線と、ブルゲンラントの対ハンガリー戦線だった。
 ローゼッカは当初クラインで指揮を執っていたが、負傷し後送される。その後スパイとしてハンガリー王国に侵入し、反政府勢力であるハンガリー共産党と親交を深めた。ハンガリー王国の崩壊とドナウ連邦の結成の際、ローゼッカは彼らハンガリー社会主義者共産主義者らとコネを結び、一部を党に引き込むことに成功した。これがローゼッカによる派閥の始まりである。実際、ローゼッカ政権の要職にはハンガリー人、とりわけブダペストの王立大学にある学生サークルである「ガリレイサークル」の出身者が多かった。彼らの影響で、ローゼッカ自身も党も社会主義、そしてドナウィズムに傾倒していくこととなった。
 それが決定的となったのは1921年1月25日に採択された「プレスブルク綱領」である。国民衛兵隊を中心とする元兵士、元労働者で構成されたドナウ社会主義労農党は、反資本主義、反自由主義といった反動を党是としつつ、綱領ではドナウ連邦という新国家に期待し、むしろそれを擁護した。綱領を実際に執筆したのはローゼッカやホライ・ルーリンツルカーチ・ジェルジなどで、新入りのハンガリー人党員であり、ローゼッカの忠実な支持者たちだった。
 これに反対した党古参や、オーストリア革命中に対イタリア戦線で活動していた党員は、綱領を拒絶した。これを主導したのがアドルフ・ヒトラーで、ヒトラーは「ドナウ社会主義労農党右派」として独自の活動を行うこととなった。このことから、対するローゼッカ派は「ドナウ社会主義労農党左派」と呼ばれるようになった。一応、右派も左派も同じ党の一員だったが、当時のドナウ社会主義労農党は各地の属地的な国民衛兵隊の比重が大きかったことから、強力な党中央が存在しておらず、これが分派と独自行動を許した。当時の党首は合併以来エアハルト・カリツケが務めていたが、カリツケに権威はなくその存在は名簿上のものだった。
 1926年にはポーランドのサナツィア体制に共鳴し軍を追われたルドルフ・ガイダが国民衛兵隊に入隊したことから、チェコスロバキアにおけるドナウ党の活動が本格化しはじめた。

低迷の議会制時代

 ドナウ社会主義労農党が連邦議会選挙に初出馬したのは、1920年の第一回連邦議会選挙である。当時のドナウ党は、ローゼッカとのよしみからハンガリーの合同共産党と選挙協定を結んでいたため、ドナウ社会主義労農党名義で合同共産党員が立候補、当選することがあった。ドナウ連邦における各共産党は基本的に衰退の一途をたどっていったが、ドナウ党は議席数を維持していた。とはいえ、その得票率は他と比べれば弱小政党であった。経済と社会が落ち着きを取り戻したことに比べ、当時の社会主義路線は他の党にも見られた珍しくないものであり、他党との差別化ができていなかったのである。
 1928年の議会選挙で右派が大敗し分裂すると、左派連立内閣が誕生し晴れてドナウ党は入閣した。首相にはドナウ党のゲオルク・リートミュラーが選ばれたが、これはあくまで連立相手との調整役に過ぎなかった。とはいえ、閣僚人事の際にドナウ党は譲歩しつつも内務大臣や警察長官などの重要ポストを得ることができた。これにより、官憲内部にドナウ党の影響をもたらしつつ、また官憲側がドナウ党に影響をもたらしていったことで、再び党の「兵隊化」が進んだ。この結果、ドナウ党は大衆化が進み、都市の知識人だけでなく非労働者を含む大衆からの支持基盤を構築していった。
 興味深いのは、議会政治が混迷していた1928年の議会選挙では、あくまで反議会主義のはずだったドナウ党の得票率はほとんど伸びていない点である。これは、後のドナウ党伸長と権力掌握の原因が反議会主義的な姿勢にはないことを示唆している。
 世界恐慌の引き金となった「暗黒の木曜日」直後の1928年10月28日には、ドナウ党は議会内部の駆け引きに勝利し、二代目大統領にローゼッカを据えることに成功した(カリツケ決議)。当時の憲法上、大統領に実質的な権限はなかったが、世界恐慌後の混乱のなか、ローゼッカは精力的に各地を訪問し、鼓舞していった。このほかにも、敵対政党に対しては失業者を引き合いに批判し、こうした公私混同をあえてメディアに報じさせた。これにより、ローゼッカの知名は決定的となり、既存システムに反対する異色の大統領の姿も記憶された。このようなことから、ドナウ党の権力掌握を「民を憂う君主と、君主を妨げる奸臣を討つ臣民」と捉える歴史家もいる。
 なお、カリツケ決議の際はチェコスロバキアの農業者党が棄権したことが決定打となった。農業者党は後にドナウ党の「友党」として遇せられることとなる。

世界恐慌

 1929年末に世界恐慌が起きると、ドナウを含む世界各国には失業者があふれた。このときドナウ社会主義労農党は勢力を躍進したのである。
 大量の失業者は国民衛兵隊を含むフライコールに参加し、失業で失った社会参加の機会を得た。こうした状況下で、政治信条の異なる各フライコールが衝突を繰り返すのは自然なことだった。これが後の「7月騒乱」に繋がることになる。
 このころまで、ドナウ党組織はヒトラーの右派を除き完全に指導者ローゼッカにまとめられたが、国民衛兵隊は未だその指揮を離れがちだった。このため、国民衛兵隊はその地域ごとにその地域にあった戦術を取り、支持者を取り付けることに成功した。例えば、ハンガリーにおいては大地主を、北ボヘミアにおいてはユダヤ人を、都市部においては労働組合を攻撃した。
 失業のなか労働組合がフライコールに競り負けたことで、労働組合の支持者は一気にフライコールへ、特に国民衛兵隊に流れた。これは1928年と1933年のドナウ党における得票率の変化に示されている。1933年の選挙は社会民主党共産党が禁止されたこともあり、それを支えた労働者票がドナウ党に移ったのだ。
 

権力掌握

7月騒乱

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 1931年に左派連立内閣が成立しドナウ社会主義労農党が入閣すると、ドナウ党は閣僚ポスト要求を控えめにした代わりに、連邦警察長官や武装警察などの指導ポストを掌握した。ほかにも、産業界や一部の労組に取り込み地道に足場を固めていた。
 1931年1月30日、キリスト教社会党系のフライコールが社会民主党系の集会を襲撃し、2人が死亡し6人が負傷した。死者の一人に退役傷病軍人が含まれていたことも、よりいっそうの衝撃をもたらした。しかし、7月14日に裁判所は被告を無罪と判決した。これをきっかけに、ドナウ全国の社会民主党支持者、共産党支持者の怒りが爆発した。
 翌15日、ウィーン、プラハブダペストなどの都市部で抗議デモが起き、いずれにおいても暴徒化した。ウィーンでは連邦司法省の庁舎が放火され、全焼した。ドナウ党員のリートミュラー首相はデモに同情する閣僚を閣議から締め出し、ローゼッカ大統領とともに戒厳令を発令した。戒厳令には議会の事後承認が必要だが、キリスト教社会党幹部のルドルフ・ラメクの助言に従い、議会から社会民主党員と共産党員を追放した。こうして、ドナウ党に忠実な警察と、ドナウ党の国民衛兵隊による鎮圧が始まった。
 国民衛兵隊の諜報部門である調査局(局長:チェルニー・ヨーゼフ)と憲兵局(局長:シャライ・イムレ)が事前収集していた情報をもとに、警察と国民衛兵隊員が社会民主党などの拠点を吸収し、手あたり次第に幹部を拘束していった。一般党員や労組成員は武装解除の上に釈放された。これに対し社民党共産党のフライコールは武器をもって抵抗し銃撃戦が起こった地区もあった。16日には鎮圧が完了し、ウィーン郊外のウィーナーノイシュタットにある即席の強制収容所には3000人もの拘束者が収容された。
 この事件により、ドナウ連邦における社民党共産党は壊滅し、拘束を免れた者はドナウ党に強制吸収された。これに対し、左派を鬱陶しく思っていた右派や、労組対策に忙しかった産業界、そして御用労組にうんざりしていた労働者の大半は内心歓迎していた。もちろん、社民党共産党は一切根絶やしにされたわけではなく、事件の前後に少なからぬ幹部と党員がドナウ党に移行していた。このため、事件によりドナウ連邦の労組や労働者の互助組織が麻痺することはなく、残された組織や資産をドナウ党が奪い取る形で存続していった(ドナウ社会主義勤労者組織)。
 ハンガリーの合同共産党党首クン・ベーラは辞任し、残存組織は臨時党大会でドナウ党への吸収合併を決議し、これを実行した。これにより、憲法改正に先駆けてドナウ連邦ハンガリー共和国はドナウ党独裁の手に落ちた。
 また、この事件の原因を行き過ぎた地方分権と弱小な警察権力に求める声が高まり、のちの憲法改正と連邦保安省成立の布石にもなった。

憲法改正

 ドナウ党による憲法改正は、地方分権的なシステムと議会制を一新し中央集権的な独裁体制を構築する決定打となった。
 憲法改正の過程は、1932年4月2日の憲法改正発議国民投票(第一次国民投票)、12月10日の連邦議会による改憲の正式な発議、1933年3月8日の憲法改正国民投票(第二次国民投票)に分かれる。
 第一次国民投票それ自体には法的効力はなく、あくまでドナウ党が「支持が不支持か」を問い、国民の圧倒的な支持を明らかにし、議会交渉を円滑に進めるための賭けだった。チェコスロバキア共和国における投票実施の交渉は、農業党とスロバキア人民党を除く政党の抵抗で最後まで手間取ったが、1932年4月2日に実施され過半数の賛成票を得た。
 第一次国民投票の結果、改憲に反対していたブルジョワ政党は譲歩せざる得なくなり、改憲へ向けた準備が始まった。チェコ人の法曹家ヤロスラフ・クレイチーが中心となり改憲草案を完成させたあと、12月10日に議会は正式に改憲を発議した。
 改憲案の是非をめぐる国民投票(第二次国民投票)を実施するにあたり、同日に議会選挙を実施するかでドナウ党と他の政党は対立した。改憲に消極的であり、社民党追放以来関係が悪化していたキリスト教社会党や国民民主党などのブルジョワ政党は、国民投票と同時の選挙はドナウ党を躍進させる可能性があると見て反対した。これらは独裁的な改憲案を認めつつも、改憲後も自身が議席を保持することでコントロールしようと試みたが、ローゼッカが想定する範囲内の反応だった。
 左派政党が消滅して以来、議会のキャスティングボート的立場にあった農業党がドナウ党側に就き、ドナウ党の主張が認められた。
 かくして、第二次国民投票は1933年の3月8日に実施され、国民投票は約80%の賛成票を得、議会選挙はドナウ党とその友党が過半数議席を得る結果となった。ただし、これはあくまでも厳格な監視と誘導によって行われたものである。これをもって、憲法改正が完了しアレクシス・ローゼッカを頂点とする中央集権的な独裁体制になった。
 一般に、1933年3月8日がドナウ党による権力掌握の日と見なされている。しかし実際には、ドナウ党による他の勢力を切り崩す作業はこの後も続いた。

シンクロニザーツィア

 もともと「電流の統一化」を意味するドナウ語の「シンクロニザーツィア」は、権力掌握後に行われたドナウ連邦におけるあらゆる組織の再編と「政治化」を指すようになった。
 すなわち、ドナウ社会主義労農党や国家の支配外にあったり、政治的に信頼できない組織をいったん解散させ、政治的に問題がないように再構築することである。これにより、ドナウ党と敵対していたすべての労働組合が解散し、すべての企業、労働組合、福利厚生を新設された公共生活省の指導下に置く「公団化」が行われた。これに伴い、党や国家に直属しない従属組織はすべて公団となった。
 ドナウ国民の多くを公団支配下に置いたことで、党や国家による国民のコントロールが容易になった。また、経済計画局(発足時は「経済再建委員会」)による計画経済の礎になった。このほかにも、農民はドナウ農民同盟、福祉団体はドナウ公共生活援助団、医師はドナウ医師同盟、学者はドナウ教授同盟、教師はドナウ教師同盟――などと公団の管轄外にも職業ごとの団体が整備された。
 司法機構もドナウ党の指揮下に入れるべく、1934年には国家反逆に関する裁判を扱う「革命裁判所」が設置された。党や国家などに反逆した者は、通常の裁判所ではなく革命裁判所で裁かれた。ほかにも、革命裁判所は国民の歓心を買うべく、議会制時代のスキャンダル「フェニックス疑獄」や「ドイツ貯蓄中央銀行疑獄」などで疑われた者を召喚し、見せしめ的に処刑していった。
 とりわけハンガリーにおいては、農業のシンクロニザーツィアにおいて大土地を所有する大貴族が攻撃され、政権掌握以前からドナウ党に協力していた場合を除いて、国民衛兵隊にリンチされ土地を没収された。この過程で、多くの貴族が国外亡命した。
 ドナウ党の分派であるヒトラー一派(ドナウ党右派)は政権掌握に一切参加できなかったが、その因縁は1934年に片が付いた。
 ヒトラー派は主に旧オーストリア共和国で支持基盤を持ち、権力掌握にともなう政党解散命令に対して抵抗し、フライコールを中心に地元住民と協力しローゼッカに反抗していた。あまりにも勢力圏が大きいため対処は遅れ、ついに1934年4月に掃討作戦が実行された。連邦保安省と国民衛兵隊により、ウィーンの政権内部を含むヒトラー支持者が一斉に襲撃され、殺害された。地方部ではフライコール構成員に対し恭順を促し、一定の効果を得た。こうして勢力をじりじり削られたヒトラーのグループは、ついにドイツへ亡命する。
 亡命後ヒトラー一派は汎ドイツ同盟のヘルマン・フォン・ゲーリングに迎えられ、何人かは吸収されたものの、ヒトラー自身は「用済み」と判断され、本人が拒んだのもあり、汎ドイツ同盟へ参加しなかった。その後、ヒトラーはアルゼンチンに移住し謎に包まれた最期を遂げることとなる。
 ヒトラー粛清に際し、軍部のヒトラー派の処遇が問題となった。結局、ヒトラー派で知られた参謀総長トーマス・クリマンを失脚させることで手打ちとし、軍部は実質的な被害を追わなかった。

友党の掌握

 1930年代初期に左派と右派という対立構図は崩壊し、左右ではなく「ローゼッカ支持か否か」という構図が浮かび上がった。
 ドナウ党が他の政党を懐柔し掌握するプロセスは紆余曲折しているが、ここでは憲法改正時におけるドナウ党の友党と、その友党に対する権力掌握に注目する。
 まず、1920年代においてドナウ社会主義労農党の支持基盤は限られていた。国政においては、ハンガリー共和国における合同共産党の支持層のみであり、共和国レベルの選挙に至っては合同共産党との選挙協定によりドナウ党は選挙立候補すらできなかった。
 1920年代のころからすでに合同共産党から民心が離れつつあったが、ドナウ党への支持は変わらなかった。とはいえ、ドナウ党がそれ以上勢力を伸ばすためには、ハンガリー共和国以外の有権者に向けて呼びかけなければならなかった。こうした観点から、1920年代半ばからドナウ党はオーストリア共和国チェコスロバキア共和国において、元社会民主党支持者を吸収する方針を掲げていた。このほかにも、ハンガリー以外で支持者を得る手段として、他の政党と連携する、すなわち「友党」の設定があった。
 以下が一般的にドナウ党の友党と見なされている。
 ・キリスト教社会党
 ・スロバキア人民党
 ・農業党

 これら友党は共通してカトリック政党であり、地方農民を支持層に持っていた。ドナウ党の友党獲得は、支持層をハンガリー以外の農村に広げるという意図があったことは言うまでもない。
 スロバキア人民党は例外だが、キリスト教社会党も農業党も議会政治に根差した「ブルジョワ政党」であり、反議会政を志すドナウ社会主義労農党とは相反していたはずだった。にもかかわらず、これらが友党たり得たのは、議会政治の最前線に立った高齢幹部が退場し、中堅幹部がドナウ党との協力を指導したからである。とりわけ、ドナウ連邦建国時から一貫して国政与党の座にあったキリスト教社会党は、数多くの古参が排除された。
 友党誕生のきっかけはカトリックへの接近だけでなく、農民救済もあった。
 そもそも、ドナウ連邦の特にハンガリーでは依然として不平等・非効率な土地制度が存続し、WW1以降穀物価格は下落したままであったため農民の生活は悲惨な状態にあった。既存の議会政党が根本的な対策を実行できないまま世界恐慌に突入し、穀物価格はさらに暴落して一部地域では「豊作飢餓」まで発生した。
 これに対し、農業党の中堅幹部(ミロスラフ・レフツィングルが有名)は「ドナウ農民救済同盟」を設立し、ドナウ党を含む超党派の連帯を取った。同盟が示した長子相続農地制、非効率な大農場・大地主の解体、国家による穀物買い上げはドナウ社会主義労農党の理論にも受け入れられ、農業党とドナウ党が接近するきっかけとなった。
 ドナウ党がこのように友党へ接近していったのは、カトリックは言うまでもなく、ドナウ党内部に農業問題の理論家が少なかったことが大きな原因として存在する。もともと、ドナウ党はオーストリア革命におけるハンガリーの反王党派知識人の流れを汲んでいる。彼らが一時的に政権に就いたのが、オーストリア革命末期における王国崩壊後に打ち立てられた臨時政府だったが、そこで彼らが農業問題に決定的な施策を実行できなかったことからして、彼らの「農業問題音痴」を察することができよう。彼らはガリレイサークルといった都市インテリを中核としていることからも、それが伺える。こうしたドナウ党が農村インテリに接近し友党を設けたのは、ドナウ党が国政を掌握するにあたり自然な流れだったことだろう。
 では、最後に友党のその後について述べることにする。
 キリスト教社会党は前述のカトリックと農業問題だけでなく、議会から社会民主党共産党を追放するにおいてドナウ党と協力したが、これを主導したルドルフ・ラメクも含め、ドナウ党による疑獄追及でほとんど古参幹部は失脚した。党組織も存続を許されず、ドナウ党に吸収された。
 スロバキア人民党幹部は憲法改正後に設置された州指導者を何人か排出し、党組織もしばらく残っていた。しかしカリスマ的指導者であるアンドレイ・フリンカ師が1938年8月に死去すると、党組織は「ドナウキリスト教公団同盟」に吸収され、消滅した。これに対しドナウ党に反発したヴォイテフ・トゥカは失脚、自宅軟禁されたが、いっぽう、さらなる協力を希求したヨゼフ・ティソのような人物もいた。
 チェコスロバキア共和国の農業党は強力な農民組織を抱えており、これが安定した得票に繋がっていた。ドナウ党が政権掌握した1933年、ドナウ党はこれをモデルに全国に農民組織を敷き、農業党はそのまま「ドナウ農民同盟」に名前を変え、コーポラティズムを支える一翼となった。農業党員はほとんどがドナウ社会主義労農党に吸収された。
 このように、友党はドナウ党による権力掌握の過程で誕生した過渡的な存在だった。友党はいずれも結局姿を消し、ドナウ党に吸収されることとなった。

軍部の掌握

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ドナウ連邦軍のポスター。時期は1930年代と見られる。

 1920年代は、富国強兵やドナウ語の観点からドナウ社会主義労農党を支持する軍幹部は少なくなかったが、政権掌握にあたりドナウ党が過激な手段に訴えて自由を否定するようになると、とりわけ貴族出身の軍人においてはドナウ党への支持が悪化していった。しかしながら、連邦軍文民政府から半ば独立した「国家の中の国家」であり、ドナウ党による軍部の掌握はなかなか進まなかった。とはいえ、何度かの軍部粛清が起きた。
 1934年にはヒトラー派粛清のあおりを受け、ヒトラーと懇意だった参謀総長のトーマス・クリマン上級大将が連邦保安省職員に拘束され、失脚した。とはいえ、逆にローゼッカの熱烈な支持者だったフランチシェク・バルトシュ参謀総長も1938年に失脚し、ローゼッカは微妙なバランスに立ち軍の支配を行わえねばならなかった。ローゼッカ不支持でも支持でもない軍部の態度は、党武力である国民衛兵隊や秘密警察である連邦保安省などを発達させるに至った。また同じく1938年には、軍内部の社会民主党支持者であるユリウス・ドイチュが不名誉除隊し、戦時中に銃殺された。
 バルトシュ失脚後は軍の指揮権を判然とさせるため、ローゼッカを委員長とする「国防委員会」が発足し、軍の指揮権を明確化させた。これに伴い国防大臣が廃止され、直接ローゼッカが軍の指揮を執ることになった。
 

その後

 こうしてアレクシス・ローゼッカの権力掌握は成功し、独裁者となった。1934年には革命化事業がひとまず終わったことを公式に述べている。
 その後、ドナウ社会主義労農党による支配と経済の計画化は一層進んでいったが、1930年代後半には慢性的な外貨不足に陥るようになっていく。また、平和を否定し闘争心を煽るドナウ党政権の下で、国民のナショナリズムや闘争心などは暴走し始め、ユダヤ人や少数民族などへの暴力が見られるようになっていった。ドナウ党政権はユダヤ人に対する暴力には反対したが、代わりにルーマニア人やセルビア人などはドナウ文明ではなく「劣った文明」に所属するとし、排除していった。その結果が、1939年9月のドナウ=ユーゴスラビア開戦と、第二次世界大戦の勃発であろう。
 ともあれ、ドナウ党による権力掌握はドナウ社会主義の始まりであり、全体主義体制の始まりだった。このドナウ党独裁と全体主義は数十年間続いていったが、ドナウ国民に無視できない影響を功罪ともに残したと言えよう。