冷戦期インド史

 ここでは冷戦期、すなわちイギリスからの独立以降におけるインドについて解説する。

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カルカッタの虐殺(インド内戦)

 南アジアに位置するインド亜大陸は、1858年から英領インド帝国としてイギリスの植民地支配を受けていた。そして1946年にイギリスが敗戦すると、もはやインドの植民地体制維持どころではなくなり、独立を認めざる得なくなっていった。
 世界が枢軸国と同盟国に分割された冷戦時代においてインドの国際的立ち位置を知るためには、当時のインドにおける主要な政治家と各国の関係を見る必要があるだろう。

 ジャワハルラール・ネルー(1889-1964)
 ネルーインド国民会議に属する政治家であり、インド独立時の指導者の一人だった。ネルーは欧州のサンディカリズムとの関係が深い。1927年にはパリ・インター系の「反帝国主義戦線(Front contre l'impérialisme et l'oppression coloniale)」に参加している。
 1930年代の欧米を歴訪したネルーは、サンディカリズム全体主義などの現場を目の当たりにした。この経験が、ネルーを後に「大きな政府」による集産主義やサンディカリズム的な民主主義などへ向かわせたといわれる。

 スバス・チャンドラ・ボース(1897-1970)
 ボースはインド国民会議議長を経験した政治家であるが、同時に急進派でありインド独立のためには枢軸国の武力を借りることもいとわなかった。ボースは実際に日本軍の元「インド国民軍」を結成しインド侵攻を試みたが、これは失敗している(インパール作戦)。
 戦争が終結した1946年末、ボースは再びインド国民軍を連れてアッザムに突入し、ベンガルまで侵攻した。これは「ベンガル行進」と呼ばれ、大きな武力衝突はなかったものの、インド独立を象徴する現代の神話として語られることが多い。
 WW2では日本軍とともに活動していたことから、ボースは日本との無視できない規模の人的つながりを持っており、このことはインド独立の混乱を巡る日本の介入にもつながった。

 ムハンマド・アリー・ジンナー(1876-1948)
 ジンナーはインド国民会議に対するムスリムの団体であるインド・ムスリム連盟の指導者である。ジンナーは英領インドに置けるムスリムを一つの民族とし、彼らの国家である「パキスタン」の分離独立を訴えた。
 しかし、英領インドにおいてムスリムは各地にモザイク状に分布しており、即時独立はナンセンスという意見もあり、またジンナー自身が立憲主義者であったことから、インド独立の際は即時独立ではなくインド内部での自治を要求するようになった。

1946-1947 英領インド最期の日

 イギリス敗戦が迫る1946年春、総督ウェーヴェルはインド独立は不可避であると判断し、収監しているインド国民会議の政治家を独自に釈放させ、インド・ムスリム連盟の代表団も併せてシムラーに招集した。ここでインド暫定政府の設立と、暫定政府を「カーストヒンドゥー*1ムスリムから選出することに合意した。ジンナーはおおむねこれに同意したが、数で劣るムスリムヒンドゥー率いるインド国民会議に支配されることを極度に恐れており、暫定政府のムスリムメンバーをインド・ムスリム連盟が指名すべきと主張し譲らなかった。いっぽう、総督政府は残る最後の力を、イギリスに対し比較的理解のあるジンナーに注ごうと考えるようになった。
 1946年末、スバス・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍アッザムを越えベンガルに進軍した。インド国民会議主流派とも確執を持つボースの帰還と、各地での熱狂的な歓迎ぶりに国民会議は恐れをなした。何より、ボースは日本の支援を受けている点、そして英領インドのインド人部隊の少なからずがインド国民軍に加わっていることは、ジンナーも総督府も同様に憂慮せざる得なかった。唯一の幸運は、ボースは分離主義に対し反対していたことだった。ボースはデリーにおいて、インド人の武装と自主独立を煽ったが、分離独立については断固反対を表明したのだ。
 1946年12月に暫定政府を結成するための選挙が始まった。ベンガル行進の混乱のなか行われた選挙ではインド国民会議が第一党となったものの、ムスリムの多い北西部と東ベンガルではインド・ムスリム連盟が、スバス・チャンドラ・ボースの拠点である西ベンガルアッザムではボースの政党「前進同盟」が勝利した。この選挙結果は後の内戦勃発の不吉な予言でもあった。
 インド国民会議もインド・ムスリム連盟も前進同盟もこのときは未だ内部の分離独立を認めていなかった。しかし独立後の国家像をめぐる三者の対立は先鋭化していき、とくにムスリムパキスタンとしてのインドからの分離独立を志向するようになった。それについては、ジンナーのカリスマのおかげであるということも言える。ジンナーは民衆の素朴な信仰心を組織し、これをパキスタン構想に結び付けて他のムスリム政党を切り崩すことに成功した。パンジャーブを支配する連合党は、ジンナーの攻勢により支持者を奪われていった。
 ムスリムによる独立論が盛り上がるなか、ジンナー本人はパキスタンが完全な主権国家として独立することは反対した。それはヒンドゥーが多数居住する地域にムスリムの「飛び地」を作ることを意味しており、それは避けるべきであると述べていた。こうした「飛び地」を恐れていたのは、ヒンドゥームスリムの数が拮抗するパンジャーブベンガルムスリムである。特に彼らはヒンドゥーを多少含もうとも、州全体をパキスタンに組み込もうとし、ジンナーもこれに賛成せざる得なかった。こうして形成される「大パキスタン」構想は、内戦におけるムスリム側の勝利目標となる。
 また、ジンナーはとりわけパキスタンとインドを同格すべしと主張した。ジンナーが描いた目標として、英領インドはヒンドゥームスリム地域で構成されつつも、議会はヒンドゥームスリムが同数の議席を持つこと、ムスリム居住地域はパキスタンとして尊重されることだった。いずれにせよ、まだ1947年初頭時点では、パキスタンとインドは二つの民族(National)でありながら一つの国家であるという青写真を支持していたのだ。
 インドの空中分解を阻止する、という各派の一致点は1947年の春にかけて崩れていく。同年にはボンベイで水兵の反乱がおき、インド暫定軍の崩壊が止まらなくなった。イギリスの支配から事実上解放されたことにより、それまで疎外されていた農民や少数民族などの反乱が相次いだが、暫定政府にこれを鎮圧する能力はなかった。この事実は、インドの大衆にも暫定政府の内部でさえも、暫定政府は無能力であるという疑念を抱かせた。このことは皮肉にも、イギリスによる統治とはいかに繊細なもので、少数の過激派を上手く切り崩していたことを示さざる得なかった。
 この暫定政府に対し、統治能力以外の点から批判した第一人者が暫定政府副主席のネルーである。サンディカリストとしてフランスに滞在したことのあるネルーは、強力な中央政府を欲していた。無能力であることは言うまでもなく、ムスリムヒンドゥーという二つの国民で構成される連邦制国家は、ネルーにとっては面白くなかった。また、ネルーは混迷を深める状況にいら立ち、あらゆる旧弊を廃し、インドを根底から近代国家に造り変えなければならないと主張し始めた。おそらく、このアイデアは欧州の全体主義国家における強制的同一化をヒントにしていると思われる。
 1947年7月10日、ネルーは賭けに出た。突然ネルーは二民族連邦案を拒否し、各州ごとにどの国家に加わるか決めるべきである、と演説したのだ。この演説は勢力を削られつつあるインド国民会議による捨て身の闘争宣言だった。すなわち、武力で決定する、ということである。かくして独立インドは一転し内戦に突入したのだ。

1947-1956 インド内戦

カルカッタパンジャーブの虐殺

 ではネルーに勝算はあったのかといえばあったのである。まず、ネルーはサンディカリストとしてインドの労働運動の手を借りていた。植民地時代、インド国民会議は全インド労働組合会議(AITUC)という御用労組を組織し、労働運動を穏健なままにコントロールしようとし、過激派と対立していた。しかし1946年になると、止まらぬインフレと飢餓から「穏健な労働運動」はほとんどなくなり、ネルー自身もまた過激派に歩み寄り、暫定軍の武器を渡して支援していたのである。このように、都市を拠点とした労働者による武装闘争を操ることで、内戦を有利に進める自信があった。
 また、ネルーはフランス介入の確約を取り付けていた。旧ドイツ領だったポンディチェリやカリカルには実際にフランス軍の小部隊が上陸しており、このことはネルーをより強気にさせたといえる。しかしながら、むろん当時のフランスにインドへはるばる大軍を差し向ける能力はすでになく、ネルーは来ることのないナポレオンの援軍を夢見て死んだティプー・スルタンと似たような状況にあったといえる。
 1947年8月、ベンガルにあるムスリムヒンドゥー住民地域の境にある港町カルカッタムスリム武装蜂起が起き、約4000人が死亡した。ジンナーが支援したこの武装蜂起は、もはやジンナーも武力闘争のほかに取るべき道がないことを示していた。
 同じくムスリムヒンドゥーが混住するパンジャーブ州に関しても、ジンナーはパンジャーブパキスタン領有宣言をし、武力による併合を試みた。1948年3月にインド・ムスリム連盟系の民兵がクーデターを起こし、連合党を州与党の座から引きずり降ろしたのである。パンジャーブは伝統的にインド兵の供給源であり、特に少数民族シク教徒はインド暫定政府軍に多数参加していた。ジンナーはシク教徒に対し、パンジャーブ全域を併合することでシク教徒居住地域の分割を防ぐことができる、と諭して上手く彼らを味方に就けた。
 インドの首都デリーはパンジャーブ州に隣接しているため、暫定政府内部はパニックに陥った。ネルーヒンドゥーに対し武装蜂起を促し、パンジャーブ州ではムスリムシク教徒とヒンドゥーの闘争が勃発した。パンジャーブ州カルカッタと同じく無政府状態に陥り、在地勢力と武装した民兵(ミリス、フライコール)だけが頼りとなった。各地で無法な虐殺とレイプが繰り広げられた。
 ネルーは後方から部隊を整理し、攻勢をかけようとしたが、パキスタン側のシク教徒による奮戦もあり戦線は徐々にデリーへ迫ってきた。ネルーはボースに対しインド国民軍部隊を投入することを求めたが、拒否された。フランスは軍事顧問団を派遣したのみだった。ネルーは賭けに負けようとしていた。

二つのクーデター

 スバス・チャンドラ・ボースはインド暫定政府とネルーに見切りをつけ、インド国民軍によりムスリムヒンドゥーによる統一国家をつくろうと試みた。1948年8月15日、ボースはインド国民軍を率いてカルカッタを占領し「インド国」の独立を宣言した。これに対しアッザム州とベンガル州が支持を表明し、事実上アッザム州とベンガル州が分離独立した形となった。
 続いて、ボースはビハール州を越えてデリーに進軍し、全権を掌握しようと試みたが、これはインド暫定政府軍とビハール州における農民反乱軍に阻止されて失敗した。ビハール州ではバーバー・ラム・チャンドラ率いる農民反乱が州全体を揺るがしており、事実上掌握されていたのである。
 デリーの暫定政府はボースのクーデターに衝撃を受け、もはや自分たちは劣勢に立っていることを悟った。
 ネルーに対しヒンドゥーの過激派は抗議し、速やかな領土奪還を要求した。ムスリムに圧迫されたヒンドゥーの間では民兵組織「民族義勇団」が影響力を伸ばし、無視できない勢力となりつつあった。民族義勇団はネルーでなく、より強硬派のヴァッラブバーイー・パテールを支持し、彼のインド主席就任を要求した。インド国民会議は戦略的理由から、これを受け入れざるを得なかった。しかし、これは民主主義と政教分離というインド国民会議の路線を放棄することを意味していた。
 1948年11月、ついにパテール主導のクーデターでネルーは解任され、ポンディチェリのフランス軍支配地域に逃れた。こうしてネルーの支配はいったん幕を閉じた。ネルーはその足でフランスを訪問し、ドゴール元帥、そしてフランス共産党代表のモーリス・トレーズと会談した。トレーズはパリ・インターにおける植民地解放運動を主導しており、ネルーはトレーズを通してアフリカやアジアなどのサンディカリストらと親交を持った。
 一方、インドではパテールのもと国号が「インド連邦」に変更され、ヒンドゥー慣習に基づく民法の制定が急がれた。民族義勇団はインド連邦軍に取り込まれ、パンジャーブでは「パテール攻勢」が始まった。パテールはフランスからの武器支援を受け取りつつ、難民部隊を用いた人海戦術で押し返し、一時は東パンジャーブを奪還する勢いを見せた。しかし、パテール攻勢はビハール州での反乱鎮圧のために、1949年春には停止せざる得なかった。
 ビハール州におけるチャンドラの反乱は、ボースのインド国とパテールのインド連邦との緩衝地帯としての役割を果たしていたが、両国の圧迫によりチャンドラは南隣の中央州に逃れ、州を乗っ取った。インド国とインド連邦はビハール州を分割する形で対決することとなった。

藩王国の運命

 藩王国の多くは混乱する政局からどの体制に就くか決めかねていた。そもそも、いずれの体制においても藩王国の存続を保証しておらず、藩王国は自己防衛を余儀なくされた。小さな藩王国は各政権に吸収されていったが、ハイデラバード、マイソール、トラヴァンコール、バスタル、アジメール諸侯といった有力な藩王国は独立を維持するだけでなく、インド領に侵攻し領土を獲得していった。
 「インドのビスマルク」ことパテールは、王族の娘を人質に取るなど手段を選ばぬ強硬策で対抗していったが、これら有力藩王国パンジャーブ戦線への専念から後回しにされていた。このため、これら有力藩王国はひとまず滅亡を免れることができた。

ネルー帰還、パテールの死、大国の介入

 1949年秋、フランスでパリ・インターの支援を取り付けたネルーは再びインドに帰還し、マドラス州を拠点に再起を図るべく「インド人民戦線」を組織した。労働者だけでなく農民層に訴えたネルーの姿勢は好評で、周辺のハイデラバード、マイソール、トラヴァンコール藩王国の領土拡張を容認する代わりに、デリーの政府に対する共同防衛を結んだ。
 ネルーは1950年4月にマドラス州首相に選出されると、マドラス州を「インド人民共和国」として独立させ、前進同盟、国民会議、インド・ムスリム連盟との対決姿勢を示した。さらに、フランスから技術援助団と軍事顧問団を受け入れ、フランスが主導する国際開発銀行の支援を受けて通貨を再建した。これに対しボースのインド国は日本が主導する大東亜共栄圏の一角として大東亜共栄圏内での経済協力を行い、パキスタンはカナダに逃れたイギリスから支援を受け、インド内戦は代理戦争の様相を呈していった。
 一方、どの大国にも支援されていないインド連邦ではハイパーインフレが止まらず、さらに戦争により経済は破壊さえ国際収支は悪化し外貨が枯渇していった。パテールはこれを立て直すことができず、1950年12月15日に病死した。
 パテールの死によりインド国民会議と民族義勇団の共同戦線は崩壊した。パンジャーブ州では再びデリーまでパキスタン軍が迫り、デリーから遠く離れたボンベイ州では民族義勇団が政府を乗っ取り、「インド・ファシスト国」独立を宣言した。
 それまでインド内戦介入に出遅れていたドナウ連邦は、ポルトガル領ゴアを経由してボンベイ州に接触し、ファシスト国への支援を開始した。とはいえ、ウィーンはインドをあまり重視せず、軍事顧問団は1953年に撤退し、同年にネルーのインド人民共和国に併合された。
 インド連邦とインド人民共和国は対照的な道を歩んでいた。インド連邦は自由貿易を志向し、地方分権的な政府の下で零細農業や手工業などへの地道な支援が行われていたが、インド人民共和国はサンディカリスト経済圏内における保護貿易に参加し、輸入代替工業を育成し重工業を育てていった。しかし、両国の命運を分けたのは経済路線よりむしろ通貨政策だった。インド人民共和国はフランスの支援で安定した通貨を構築できたが、パトロン国家なきインド連邦はそれができなかったのだ。
 結局、インド連邦は劣勢を回復できず、1956年には全土をサンディカリストに併合されることとなった。これに伴い、アジメールや中央州などの北インドの分離独立勢力もネルーに取り込まれていった。こうして、ネルーは旧英領インド領土の約6割を支配した。
 ネルー率いるインド人民共和国はパキスタンやインド国などと停戦協定を結んだ。内戦は9年間続いたにもかかわらず、ネルーはデリー政府併合を除き戦局を打開することができなかったのである。

1956-66 ネルーの時代

 パテール以降有力な政治家が現れなかった北インドでは、ネルーに対抗できる政治家はもはや存在しなかった。停戦協定を結び外患を治めたネルーは思う存分国内の改革に取り組むことができた。
 国境に近いデリーは首都に不適格として、やや東にずれた連合州にチャンディーガル市を建設し新たな首都とした。あらゆるインドの旧弊から逃れた新しい風景を構築するべく、ル・コルビジェが招かれモダニズム建築を基調とする都市計画が練られ、実行された。
 内戦を経てヒンドゥー民族主義と独裁専横がまかり通っていた北インドだったが、ネルーは再び政教分離と民主主義を浸透させようと試みた。内戦で疲弊した在地勢力を解体し、スペインの人民民主主義を基にしてコミューンによる有機的な民主主義システムを構築した。これにより、インドの民族主義はそれまでの共同体から言語によるものへとシフトしていった。これに伴い、州は言語ごとに分けられ再編された。藩王国はひとまずソ連をモデルにした連邦制に組み込まれ、問題は先送りにされた。
 経済はより一層の重工業集中投資政策に傾斜され、統計学者プラサンタ・チャンドラ・マハラノビスによる計画経済が行われた。農業部門ではサミンダーリー制が廃止され農地分配が行われたが、裕福な地主に支配されていた下級政府により骨抜きにされ、根本的な改革は成功しなかった。これと並行して、不評にもかかわらず集団農場が設置された。集団農場は未だ力を持つ裕福な在地勢力を駆逐する処方箋とネルーが見なしていたためである。農業の集団化は失敗し、1950年代末から農業生産は停滞していった。工業における輸入代替工業化は、かつてドナウやフランス、ソ連などで行われたほど成功しなかった。むしろ、生産性の悪いが規模だけは大きな国営企業が目立っていった。
 ネルーは女性の地位向上に真摯に取り組んだ。制定された憲法では女性は男性と同じ権利を持ち、同じ財産が相続できるようになった。
 外交においては、1956年にドゴールが死去しフランスとソ連が対立するなか、インドはこの対立に対し中立を貫いた。
 サンディカリズム政策による功罪が露になるなか、ネルーは1964年に死去した。この後を継いだのはネルーの派閥に属していたラール・バハードゥル・シャーストリーが引き継いだ。
 シャーストリーはまず公用語問題に向き合わねばならなかった。英語がその地位を失った当時、インドの新たな公用語にはヒンドゥー語が選ばれたが、これはヒンドゥー語を話さない南インドの反発を招いた。1956年の憲法制定以降も10年間の公用語移行期間が設けられていたが、1966年にその移行期限が迫っていた。シャーストリーはこれをうまく切り抜けないまま、1966年1月に心臓発作で死去した。ネルー病死直後の1965年には独立国カシミール藩王国をめぐりパキスタンと対立し、散発的な国境紛争が起きていた。経済の停滞と国境紛争、言語問題で再び雲行きが怪しくなっていった。
 

インディラの時代と崩壊

 1967年に選挙が行われたが、非ヒンドゥー語話者が多い旧マドラス州でインド人民戦線が敗北し、同じく非ヒンドゥー語話者が住むハイデラバード、トラヴァンコールとマイソール藩王国では中央に反対する動きが見られた。選挙ではネルーの娘であるインディラ・ガンディーが当選し、シャーストリーの後を継ぐこととなった。
 ネルー路線を引き継いだインディラは、まず農業改革に着手した。インド国では既に行われていたいわゆる「緑の革命」を受容したのである。フランスからの技術顧問団の手により、今までモンスーンに頼る天水農業中心だった北インドは、ヒマラヤの雪解け水による大規模灌漑農業に移行していった。食糧生産は増加し、飢餓もなくなった。この農業構造の大変化の恩恵を最も受け取ったのは、今までお荷物扱いされてきた集団農場や国営農場だった。逆に、灌漑設備のない南インドや中部インドの農家は没落していった。彼らは「ナクサライト運動」と呼ばれる毛沢東主義の農民運動へと駆り立てられた。
 こうして職のない没落農民が増えたなかでも、工業生産は停滞したままだった。南インドでは藩王国と旧ボンベイ州による分離独立運動が再燃し、国内情勢は不穏化していった。
 1971年の議会選挙でインド人民戦線は大敗し、代わりに勢力を伸ばした民族奉仕団系のインド大衆連盟と、サンディカリストと袂を分かったコミュニストによるインド共産党だった。インディラは仏ソが対立するなか、これら正反対のイデオロギーを持つ政党と連立を組まざる得なかった。
 1971年半ばにはナクサライト運動による農民反乱がピークを迎え、例のごとく旧ボンベイ州を構成するアーンドラ・プラデーシュ州が独立を宣言、これにハイデラバード、トラヴァンコール、マイソール藩王国が次々と連邦離脱を宣言した。これら南インドの独立を支援したのはソ連だった。同年にはインド国でムスリムの分離独立闘争が本格化し、インドはベンガル、中部インド、南部インドの三方面に部隊を送らねばならなかった。
 こうして、疲弊するインドは再び分裂した。インディラは暗殺され、軍部の独裁が始まった。

つづく?

*1:不可触民を除くヒンドゥー