ヴァーゴー・パール

ヴァーゴー・パール(Vágó Pál、1889-1982)はドナウ連邦のテクノクラート
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 カトリックのピアリスト会系の学校を卒業し、ブダペスト工科大学で学位を得た。オーストリア革命に参加し、そのきっかけでドナウ社会主義労農党に入党した。
 1933年のドナウ社会主義労農党による権力掌握の際、技術者としてアウトバーン建設委員会に参加し、ドナウ連邦における高速道路網建設を指揮する一員となった。この功により大統領府直属の建設局長に就任した。建設局の職員は制服を着、国民衛兵隊員を用いた国家による土木工事を監督する部署であり、法外に少ない給料で国民を建設現場に動員できた。
 全体主義経済が構築されると、労働者は不足しがちとなり、建設局に従事する労働者もそれに従って減少していった。ヴァーゴーは連邦保安省と提携し、強制収容所政治犯や刑務所の刑事犯を用い始めた。彼らの待遇は格段に悪く、建設工事の質も悪化していった。1938年には「スパイ容疑」を受けた大量のルーマニア人を融通してもらった。
 戦争中はトランシルヴァニアや占領地などから強制的に集めたセルビア人やルーマニア人などの非戦闘員や、戦争捕虜などが大半を占めるようになった。建設局はセルビア総督府の下での収容所建設や、ドナウ国内での高射砲陣地建設などの戦争に伴う建築物の建設に動員された。ヴァーゴーの貢献は戦争の勝利につながったが、同時に計測不可能なほどのあまりにも大量の犠牲者を生んだといわれる。これと同時に、ヴァーゴーのもとに培われた強制労働のノウハウはドナウ連邦の衛星国と同盟国に伝わった。クロアチアではセルビア人の強制労働が行われ、ドイツ民族国でも戦後多くの政治犯ユダヤ人が強制労働に服することとなった。戦後行われたアフリカ開拓の際も同様である。
 ヴァーゴー本人は1949年にすんなり定年退職し、ブダペスト工科大学の教授に就任した。ドナウ連邦における外国人強制労働の歴史は国内において明るみにされることも少なく、特に非難も浴びずに1982年に病死した。