リハルト・シュタイドル

リハルト・シュタイドル(Richard Steidle、1881-1940)はドナウ連邦の政治家。ローゼッカに反対し投獄、処刑された。

 南チロル出身で法学博士。父親はヴュルテンベルク公国出身である。第一次世界大戦では徴兵検査に合格せず、地元の軍事法廷の助手を務めた。そのおかげで、戦争が終わるころには弁護士資格を取得した。
 オーストリア革命では地元チロルにおいてキリスト教社会党系の右派フライコールである「郷土防衛隊」に参加し、イタリア軍社会民主党系フライコールなどに対する破壊工作を行った。
 ドナウ連邦建国後は、キリスト教社会党からドナウ連邦オーストリア共和国チロル州議会の議員に当選し、南ドイツの右派活動家、とりわけ汎ドイツ同盟のフランツ・フォン・エップとの親交を深めた。
 シュタイドルは反マルクス主義者だったが反ユダヤ主義には与せず、反ユダヤ主義に傾倒していったドナウ社会主義労農党ヒトラー派とは一線を画した。地方部、特にアルプス地方を軽視するウィーンの政治家に反骨し、こうした姿勢は農民の支持を集めた。また、連邦初代首相のヨハン・ショーバーキリスト教社会党員)とは仲が良かったという。
 ハンガリー出身であるアレクシス・ローゼッカが率いるドナウ社会主義労農党が政権を掌握すると、すぐに右派を含む政敵の粛清が激しさを増した。シュタイドルはドイツから秘密裏に武器支援を受け取りつつ、武装蜂起に備えた。1934年にアルプスの右派勢力に対する粛清が始まった際、ヒトラーとは派閥こそ違えど連携し、武装蜂起した。しかし、中央の圧倒的な武力の前に蜂起側はバラバラとなり*1、シュタイドルは連邦保安省により逮捕された。
 1934年、シュタイドルは革命裁判所で死刑を宣告されたが、直後に除名嘆願が認められ無期労働刑となった。ヴェラースドルフ強制収容所に送られ、1940年に同収容所で保安員に射殺された。

*1:1934年のアルプス蜂起における蜂起側のちぐはぐな動きは、もともと地方部の政治勢力は自らの村といった小さな地域の利益にのみ関心があり、イデオロギー戦には興味がなかったこと、ローゼッカがキリスト教社会党の一部を味方につけたこと、蜂起側の階級の低い者に対して寛大な対応だけでなくドナウ党内での登用を実施したことなどが原因にある。