ラティンカ・シャーンドル

ラティンカ・シャーンドル(Latinka Sándor、1886-1958)はドナウ連邦の政治家。公共生活省で食糧政策を指導した。

 
 1886年にアラドで生まれた。ルーマニアハンガリー人だったが、本人にその意識はなかったという。
 当時は知識職であった技術者になり、1909年にはフランスに留学して社会主義に触れた。第一次世界大戦では反戦運動に参加するも、懲罰的に徴兵されて東部戦線とイタリア戦線で従軍した。オーストリア革命中にハンガリーに帰還し、共産主義者らとともに反独・反王国の地下活動に参加。努力は実を結び1919年夏にハンガリー王国は崩壊した。
 戦間期は合同共産党員として物流会社の労組に参加していた。合同共産党とはオーストリア革命末期において、王国を打倒するために共産主義者のほか様々な勢力が団結して誕生した寄り合い所帯である。1926年には合同共産党の穏健化に反対し、ドナウ社会主義労農党に移籍した。ドナウ党では国民衛兵隊の指揮官に出世し、ローゼッカとの知遇を得た。
 ローゼッカ率いるドナウ党が政権を握ると、シンクロニザーツィアに際し国民の更生と労働を総監督するために誕生した「公共生活省」に入省し、食糧供給部門の指導者になった。
 しかし、その業務は大統領府食糧局のアンドン・ラインタラー局長と明らかに重複しており、ラインタラーと激しく対立した。連邦保安省はラインタラーを、国民衛兵隊はラティンカを支援した。
 戦争が勃発した1939年には食糧行政の整理が行われ、ラインタラーに奪われる形でラティンカは主導権を失ってしまう。形式上、公共生活省食糧局長の肩書は維持できたが、本国における業務は連邦保安省に奪われた。その代わり、ユーゴスラビア侵攻後に設置された、事実上の植民地である「セルビア総督府」の食糧調達本部の指導者になった。ここで連邦保安省と対立する国民衛兵隊と連携しつつ、セルビアで過酷な食糧徴発を行い、しばしば飢餓を引き起こした。戦時中のドナウ本国における食糧供給の安定にラティンカは欠かせなかった。支配下にあるセルビア人にとって、ラティンカは悪魔の化身だった。
 1958年に心臓発作でプリンツオイゲンポリ(旧ベオグラード)で死去。政権抗争に伴う暗殺説が国外に流れたものの、これを打ち消すかの如くウィーンで国葬が行われた。