Historia Donaufederaiha

民族、言語、国境。

ドナウ連邦戦間期政治史(前編)

本文

右派連立内閣の政策

 右派連立内閣の政策は保守的かつ無難であった。右派連立内閣の使命は、革命により急進化したドナウ連邦を「正常化」することにあった。これがドイツからの軍事介入を防止すべく行われたということは、カレル・クラマーシュ外務大臣の対独友好外交に現れていた。
 一方、ドイツ帝国は巨大な戦後秩序を武力でもってのみ管理することは不可能であると、WW1末期の惨状、とりわけ同盟国であったオーストリア・ハンガリー帝国の崩壊と被占領国であったフランス共和国の革命をもって理解していた。代わりに、自由な貿易をもって相互依存させドイツに繋ぎとめようとすることが、解決策であると広く認識された。ドイツは「中欧構想」を単なるヘゲモニーでも入植計画でもなく、巨大な経済圏であるように解釈し、各国と自由貿易協定を結んだ。対象国はドナウだけでなくポーランド白ロシアウクライナ、ロシア、リトアニアフィンランドスウェーデンノルウェーデンマーク、オランダ、ベルギー、スイス、ルーマニアブルガリアオスマンギリシャ、ユーゴ、そしてサンディカリスト国であるフランスまでも含まれていた。ドイツはイギリスを除く欧州のほとんどを経済的に支配しようと目論んでいた。こうした野望はさておき、クラマーシュの外交方針はドイツの中欧構想と一致する部分があった。ドナウが最も欲するものは経済復興であるという点は、内閣閣僚だけでなく連立政党全体の共通認識だったからである。こうして1923年ド独通商条約が締結された。貿易の振興は通貨の安定にも一役買った。
 国外政策のみならず、国内政策においてもまずは通貨安定が第一だった。大蔵大臣アロイス・ラシーンは世論の反対を押し切り緊縮デフレ政策を断行、何とかインフレを弱化させることに成功した。しかしデフレ政策により失業者があふれ、社会が不安定化した。ラシーン大蔵大臣は1923年、アナルコサンディカリスト青年による襲撃で重傷を負い、その後死亡した。
 第一憲法は革命の結果生まれた各勢力の妥協の産物であった。オーストリア革命による二重帝国の崩壊は、各民族の独立を生んだ一方、ドイツをはじめとしたルーマニア、イタリア、南スラブ(ユーゴスラヴィア)による介入は再び各民族の統一を余儀なくさせた。ドナウ連邦は数々の革命勢力のうち、プラハ人民政府、オーストリア臨時政府、ハンガリー革命政府の三巨頭を主体として成立し、いわばこの三政府の妥協であり、連合政府であった。この結果として、ドナウ連邦より「ドナウ連合」と呼ぶにふさわしい、各共和国が各々自分勝手に振舞い、連邦の代表たる連邦内閣、連邦議会では各々共和国の利益ばかりを主張しあっていたような、不安定な政治が誕生した。この深刻な国内問題に関して、右派連立内閣は何ら手立てを打つことができなかった。むしろ、この不安定な体制を保守擁護する立場を取りがちであった。この状態に対して不満を抱えた若手の官僚やインテリなどは「ドナウ国民」の創出を主張するドナウィズムの手厚い支持者となっていった。
 1920年代前半、新産業としてアルプスの観光業が注目された。それまでアルプスは無知蒙昧な辺境の代名詞だったが、深刻な外貨不足の解決という課題を抱えた右派連立内閣にとって、観光振興は大目玉的政策の一つであった。こうしてこのころからアルプス観光業への投資が開始された。1930年代にはドイツ帝国臣民にとってドナウのアルプス観光は身近な存在となり、たびたび帝国政府により出された規制令、禁止令をかいくぐってまでもアルプスに通う者が現れるようになる。
 右派連立内閣の発足当初は社民党もたびたび政権に協力し、左右挙国一致の様相を呈した。これはキリスト教社会党系の掲げた経済政策が介入的、保護的である点で社民党と一致していたという点が理由としてあげられる。しかし、1924年の第二回連邦議会選挙で社民党が敗北、キリスト教社会党系の政党が議席を増やすと、右派のみの連立内閣が名実ともに誕生した。首相には司祭を兼業する政治家のイグナーツ・ザイペルが選ばれた。
 しかし、二回連続のドイツ人による首相就任に、非ドイツ人政党すなわち民族系政党からは不満の声が上がった。ザイペルは確かに実力と名声を備えていたが、それはオーストリア共和国内のみにおける話であった。非ドイツ人首相を求める声は連立与党である国民民主党チェコスロバキア人民党、農業党、地主党などからも公然と上がるようになった。この時期から有象無象の民族系政党が力を伸ばし、ドナウの連邦議会はさらに不安定化した。
 翌年の1925年にて内閣から穏健派のクラマーシュ外務大臣を含む非ドイツ人閣僚が辞任し、連邦議会解散が議決、総選挙に突入した。この結果として、一時議会第一党だったキリスト教社会党議席を大きく減らし、ドナウ党が第一党となった(ただし左右派に分かれているため、実質的にはいまだキリスト教社会党が第一党だった)。そして民族系政党が議席の45%を占めるようになった。
 組閣は困難を極めた。首相を非ドイツ人としたとしても、チェコスロバキアハンガリーの右派政党それぞれ異なる思惑を持っていることから、連立は困難であった。再選挙も辞さない姿勢を示す政党もあったが、ひとまず官僚ヨハン・ショーパー元首相による暫定内閣が成立し、政府の機能不全は回避された。3か月に及ぶ議論の末、首相はチェコスロバキア人民党のヤン・シュラーメクとし、閣僚の人選が決まった。初のチェコ人首相が誕生した。こうして一応内閣が成立したが、連立与党だけでは議会の過半を占めていなかった。第一次右派連立内閣を構成していた国民民主党、農業党は組閣を拒否した。特に農業党はチェコスロバキア共和国議会にてチェコスロバキア人民党と対立関係にあったからである。こうして、法案提出毎に各党に協力を呼びかける、不安定且つ歪な政権運営が始まった。
 シュラーメク政権は翌年の1926年に脆くも瓦解した。1926年8月17日、地主党党首のティルディ・ゾルターンが起訴された。オーストリア革命の際、各地の貴族の所領、地主の土地は一部分割、没収された。これは失われた土地の量は各政府の政治的力量に掛かっていたが、特にハンガリー共和国においてはほとんどの土地が分割された。ティルディはこうして土地を失った地主の一人だったが、ドナウ連邦建国直後におけるインフレの混乱に乗じ、他の貴族や地主と同じように、自身の土地を買い戻した。それ自体には法的問題はなかったが、地価算定の手順において大規模な贈賄があったことが、新聞の指摘で発覚した。
 これにかかわった中央・地方官吏、弁護士とともにティルディは起訴された一大スキャンダルであった。ティルディは閣僚でないものの、ティルディが党首を務める地主党は連立与党だった。これによって経済分野を中心に一部協力していた社民党は、完全に与党から手を切った。検察の捜査の過程でシュラーメク自身も起訴された。結果としては無罪だったが、政権運営に致命傷を与え、1926年11月11日、内閣は瓦解することとなった。この疑獄の捜査を主導したのがハンガリー共和国検察局だったが、この中にはドナウ党左派・合同共産党の息のかかった職員が少なからずいたとされる。
 合同共産党が多数派であるハンガリーのティルディが率いる地主党そのものは議席が少なかったが、内閣だけでなく議会政治に対する不信は甚だしかった。革命で血を流してまで得た民主主義に対する疑問の声が各地から上がり始めた。合同共産党のサーントー・ベーラはプロレタリア革命を謳いながらブルジョワ民主主義政府に甘んじたクン・ベーラをはじめとする党指導部を批難した。当時の各国共産党にも共通していたが、レーニンを失った共産主義は混迷し、教条的にマルクスに倣うか、あるいはドナウィストのように新たな思想へと試行錯誤する他なかった。とはいえ、中欧の各国社民党のように民主主義に迎合し、さらにはドイツの主導するアムステルダム・インターナショナルに加盟して帝国主義に追従することだけは避けたかった。このころのドナウ連邦のいかなる勢力は混迷期にあったが、ハンガリーにおいてはまた特殊だった。これにおいてはまた別の機会に詳しく記したい。
 キリスト教社会党をはじめとする右派の若手は農本主義キリスト教を国教とした統治を主張した。特に後者は政教分離を第一としたオーストリア革命とドナウ連邦建国の精神に真っ向から反するものだった。農本主義に関しては、農業の機械化と資本主義化に対する反発があった。特に当時ドナウ連邦内で支配的だった相続法、長子相続により発生する無産の次男以下は社会不安分子として問題視されていたため、土地の分割相続が奨励されていたが、これが却って農家の窮乏を招いた。相続制度改革は当時のドナウ連邦における主要な政治テーマの一つである。これらに対する右派の農本主義は、同じく農業の資本化に反対するマルクス主義者、とりわけドナウ党左派と合同共産党の掲げた政策に一部通じるところがあった。
 チェコ系政党は独立機運を一層強めることとなった。それが不可能であることはチェコ系政治家誰もが承知していたが、支持を得るためにたびたび世論をチェコ民族主義において煽った。ヤン・シロヴィーをはじめとするロシア内戦における白軍側で戦った「チェコ軍団」の帰還組は、ドイツよりむしろ反ハンガリー機運を煽った。ハンガリー共和国議会の与党は合同共産党だったからである。チェコスロバキア共和国とハンガリー共和国スロバキアの支配をめぐって革命中に衝突した過去から、常に緊張状態にあった。元チェコ軍団員たちは「軍団銀行」を設立し、チェコ民族主義を主張するメディアを支援した。ドナウィストたちにとって、シロヴィーのような民族主義者はドナウ国民を創出するうえでの障害だった。
 オーストリアではキリスト教社会党による農本主義、宗教復興運動のほかにも、アドルフ・ヒトラー率いるドナウ党右派によるドイツ民族主義が興った。ドイツ民族主義オーストリア革命におけるドイツの介入によって小康状態にあったが、ここにきて復活した。ヒトラーバイエルン王国からのドナウ移住を奨励し、一方で隠れてドナウ国民のドイツ移住を支援した。当時のドナウ連邦では革命騒ぎによる人口流出から、国籍離脱の自由を保証した憲法に反し、事実上国外移住を禁じていた。ヒトラーの地下渡航支援はドナウからドイツに逃れるほぼ唯一の手段だった。統一されたドナウ国民を否定し、ドイツ帝国主義とつながるヒトラー率いるドナウ党右派は、ローゼッカのドナウ党左派の正反対だった。ヒトラーオーストリアの最終的な独墺合邦を主張したことから、ドナウ連邦の右派においても特殊人物として扱われた。しかし、ヒトラーにはローゼッカ同様に演説の才があり、オーストリア共和国における若者の心をつかんでいた。
 そのヒトラーを無任所大臣として入閣させるという話が上がったのがシュラーメク政権崩壊後の新内閣組閣準備中であった。1926年12月22日のクリスマス手前、ヒトラーは入閣に応じた。結局次の首相は農業党のチェコ人フランチシェク・ウドルジャルとなることが12月23日に決定した。ウドルジャル自身には大した権力がなく、チェコスロバキア共和国首相であるアントニーン・シュヴェフラと農業党のキングメーカーであるルドルフ・ベランの実質傀儡だった。一応連立与党にドナウ党右派、キリスト教社会党などが参加したが、相変わらず過半数には届かず、法案の成立は困難を極めた。さらに、農業党がチェコスロバキア共和国と連邦政府の二つを支配していることからオーストリアハンガリーで反発が発生、ウドルジャル政権は発足当初から暗雲が立ち込めた。
 翌1927年2月27日、連立与党のキリスト教社会党とドナウ党右派が反旗を翻し、政権の維持が不可能となった。これを機にウドルジャルは辞任した。こうしてキリスト教社会党、ドナウ党右派、チェコスロバキア人民党などの連立政権が発足し、首相に再びザイペルが就任した。
 ザイペルは比較的人気があった。しかしながら相次ぐ不祥事と政争劇により、新内閣はほとんど支持されなかった。ザイペルはヒトラーの人気を取り込むべく、再びヒトラーを無任所大臣に指名、入閣させた。ザイペルは無駄な政争をできる限り避け、政権の体力を予算成立とハイニシュ大統領の続投に注力した。

ハイニシュ大統領後任をめぐる攻防

 ドナウ連邦大統領は第一憲法の成立以来ミヒャエル・ハイニシュという男が務めていた。ハイニシュは保守派寄りの政治家だったが、大統領として党派を捨てることを公言している。とはいえ、彼が保守派、特にキリスト教社会党に信頼される政治家であることに変わりはなく、1927年になりハイニシュ大統領の任期切れが近づくと、憲法改正論議が保守派の与党から上がった。ドナウ憲法では大統領を務めるのは連続二期までで、三期以上は禁じられていたからである。この憲法改正に関して社民党といった左派は反対したが、議会において与党会派は憲法改正発議に足りる数の議席を有していることから、このままハイニシュが第三期を務めるかと思われた。しかし、改憲発議の議決を目前にして、造反が発生した。
 連立与党の一つであるチェコ人民党はハイニシュ続投に反対であり、むしろチェコ人の新大統領を望んだ。しかし、与党多数派であるオーストリアキリスト教社会党の意向に従わざる得ず、ハイニシュ支持を決定したが、くすぶった大部分の党員の間に不満を抑えることができず、党首ヤン・シュラーメクはこれを追認し改憲発議における反対投票を認めた。これをきっかけとして、チェコ人民党をはじめ非ドイツ系政党が連立を完全に離脱、こうして右派政権は瓦解した。
 数々のスキャンダルや二重帝国時代同様の遅々とした審議といった機能不全などに加え、この政権瓦解によって世論の支持は完全に失われた。
 

左派連立内閣の成立

 1928年、ついに議会はその混乱と腐敗に耐え切れず選挙が行われた。結果としてドナウ社会主義労農党が躍進し、相変わらず民族主義諸派政党が増加、キリスト教系の保守政党は減少した。
 ドナウ連邦建国以来ハンガリーを支配している合同共産党はドナウ党との連邦議会における会派合同を選挙前から決定し、オーストリアチェコスロバキアにおける選挙運動においては合同共産党ではなくドナウ党を名乗って活動した。こうした合同共産党員がオーストリアチェコスロバキアでも当選したことはドナウ党躍進の大きな理由の一つである。組閣においては合同共産党はドナウ党に最も協力する連立相手となった。こうして1930年に合同共産党とドナウ党は正式に合併した(但し、ハンガリー共和国内においては「ドナウ=合同共産党」という名前を以降も使い続けることとなる)。
 選挙を経て各共和国のドナウ党、共産党社会民主党の連立内閣が発足した。詳しい内閣構成者の様子は後述の図を参照すること。14人の大臣のうち、ドナウ党は3人、共産党系は7人、社会民主党は3人、官僚が1人である。ただし共産党社民党は各共和国のそれが集まっているため、決して一枚岩ではない。ドナウ党は首相、内務大臣、農務大臣のポストのみであり、残りを連立相手に分配することにより不安定な議会における協力を引き出した。
 また、この左翼連立におけるドナウ党はアレクシス・ローゼッカを代表する左派を意味する。前任の右派政権に閣僚を送り込んだドナウ党右派は、アドルフ・ヒトラーに率いられてオーストリア共和国内の地方政治に力を入れるようになった。
 前述のハイニシュ大統領続投に向けた憲法改正発議の失敗により1928年12月10日、ハイニシュ大統領は任期満了で退任した。これを前にして各派で大統領候補擁立をめぐる政争が始まった。
 ドナウ党左派はアレクシス・ローゼッカを推薦し、各共産党だけでなくハンガリーブルジョワ政党の「独立と1848年党」(カーロイ党)、地主党の一部も賛同した。これは、ローゼッカがハンガリー出身であり、ドナウィズムの掲げた理想を含め、ハンガリー式社会を用いた国家建設を志向していたことのほかに、合同共産党を除くハンガリーの各政党は候補者を擁立する力がなかったことが理由としてある。
 キリスト教社会党をはじめとした右派は結束できず混乱したが、ドナウ党右派のアドルフ・ヒトラーを候補とすることで落ち着いた。チェコ保守政党もこれに賛成した。社会民主党はドナウ党左派のこれ以上の拡大を嫌いカール・レンナーを擁立した。
 以上の三候補者はいずれも擁立政党の議席過半数に足りていなかった。三候補者はいずれも他のグループの票を崩すべく工作を行ったが、結局これを制したのがローゼッカを推すドナウ党左派だった。チェコ系の農業党、国民社会党の一部が投票を欠席し、辛うじてローゼッカは過半数を得、大統領となった。後にこの一幕を当時の連邦議会議長の名から「カリツケ決議」と呼ばれることとなる。
 第一憲法下でのドナウ大統領の職務は限られているが、連邦政府の罷免、議会の解散といった政局を左右しかねない権限を持っていた。その後に起こるドナウィズムによる事実上の独裁やドナウ党右派の弾圧などを鑑みれば、ローゼッカの大統領就任は象徴的な意味合いを持っている、ともいえる。
 ドナウ党左派を含む左派連立内閣とアレクシス・ローゼッカの大統領就任をもって、ドナウ連邦は新たな時代を迎えることとなった。
 

左派連立内閣の構造

 左派連立内閣はドナウ党左派、共産党社民党の連立政権であるが、盤石な政権であるとは言い難かった。まず、この三つは前任の右派連立内閣の成立で損な思いをしていた、という点しか共通していない。社民党に至っては革新というより保守的であった。このころの社民党は若く革新的な党員が共産党やドナウ党左派などに流出していたためである。そもそも社民党主流派に反発した勢力が立ち上げた党が共産党とドナウ党であり、社民党の凋落は当然だったが、ともすれば社民党共産党・ドナウ党は決して友好的でもなかった。
 このような状況下においても社民党との連立を決定したのは、単なる選挙協力のほかにカール・レンナーの権威が背景にあった。カール・レンナーは社民党の重鎮であり、オーストリアマルクス主義の理論家でもある一方、オーストリア革命にて誕生した臨時政府――ドナウ党武装組織「国民衛兵隊」が身を挺して守護した革命政府――の主席でもあった。レンナーの司法大臣就任は、ハンガリーの片田舎出身の煽動家ローゼッカ率いる政権の正統性を担保した。加えて、レンナーは連邦の維持、民族主義に基づく政治的な完全独立に反対する二次元連邦論の提唱者でもあり、この点はドナウ党左派の方針に合致していた。そして社民党からすれば、党が死にかけである以上無暗に組閣を拒否できなかった。
 当時の共産党社民党において踏まえなければならないことは、各地で党が分裂していたことである。共産党オーストリア共産党チェコ共産党スロバキア共産党、合同共産党ハンガリー共産党)、ドイツチェコ共産党社民党社民党オーストリア社民党)、チェコスロバキア社民党、ドイツチェコ社民党に分かれていた。ハンガリー社民党は1919年末に共産党と合併して合同共産党となったが、クンフィ・ジグモントをはじめ穏健な元社民党員のほとんどは力を失っていた。この原因として、ロシア共産主義政権の崩壊による国際主義的な指導組織の欠如、オーストリアハンガリーチェコスロバキアの三構成共和国分権制という当時の憲法によるウィーンの指導力低下が挙げられる。
 党の数だけ立場は分かれていた。共産党のうち最もローゼッカに近かったのがハンガリーの合同共産党である。ローゼッカ隷下の国民衛兵隊が合同共産党の結成と蜂起を主導し、少なからぬ数の合同共産党員がドナウ党左派として活動し、その理論を作った。ドナウィズム・イデオロギーの父とされるイデオローグ、ホライ・ルーリンツは合同共産党員を多数輩出した学生団体「ガリレイサークル」出身であり、合同共産党内の元ガリレイサークル党員と密接にかかわっていた。たびたび指摘されるドナウィズムの「ハンガリー性」は合同共産党由来である。
 オーストリア共産党は決してドナウ党左派を支持していなかったが、その非力から速やかに弾圧とドナウ党左派への合併に屈服することとなる。
 チェコ共産党チェコ民族主義固執しており、合同共産党に奪われつつあるスロバキア共産党の主導権を奪い返そうと虎視眈々と狙っていた。ドナウ党左派に対しては中立的な姿勢をし、チェコ民族の利になる限りは協力した。チェコ民族は組閣に当たり、他のチェコ民族系政党と同様に相互不介入の協定をドナウ党左派と結び、入閣しなかった。このため、チェコ共産党はローゼッカの権力掌握後も生き残ることとなった。
 ドイツチェコ共産党チェコスロバキア共和国におけるドイツ人を対象とした共産党である。ボヘミアモラビアは長年にわたりドイツ人とチェコ人の緊張関係があり、特に北ボヘミアのドイツ人はドイツ帝国に最も迎合していた。この点はローゼッカにとって、ドナウ国民の創出を目的としたドナウィズムにとって敵対的であった。ドイツチェコ共産党チェコ共産党との合併に関する各共産党の勧告を無視し続け(とはいえ合併に関してはチェコ共産党も大反対であったが)、ドナウ連邦内の共産党の中でも独断専行的であった。結局、ドイツチェコ共産党は1930年代後半にローゼッカにより大弾圧を受け、壊滅することとなる。1928年の組閣に当たっては、ガス抜きのために労働大臣と厚生大臣という比較的重要な二つのポストが提供された。
 スロバキア共産党は合同共産党チェコ共産党の激しい政争の前線に立っていた。スロバキア共産党は優秀な指導者がいなかったので、大して党勢がなかった。この二つの共産党によるある種の内ゲバは大チェコ主義と大ハンガリー主義の代理戦争の性格を持っていた。
 社民党に関しては、既に帝国時代から社民党オーストリア)からチェコ社民党が分裂するという事件があり、社民党の統一は絶望的だった。組閣当時の各社民党チェコスロバキア社民党を除きどん底の支持率にあり、チェコスロバキア社民党も決して油断のできる状態ではなかった。チェコスロバキア社民党の幹部エドヴァルト・ベネシュはWW1当時協商国においてチェコスロバキア独立運動を補佐していた過激分子で、オーストリア革命を機に帰国した者だった。右派連立内閣で外務大臣を務めていた青年チェコ党のカレル・クラマーシュ外務大臣の親独外交を何度も批判しており、ローゼッカはドナウ外交の転換とドイツ依存脱却に向けてベネシュを起用した。ベネシュは外務大臣としてド仏相互援助条約の締結といった斬新な外交を展開することとなった。この一方で、ローゼッカの大統領府では新たな外交チェンネルを設置し、ひそかにドイツとの協力を続けることとなった。これはあくまでもベネシュ外交失敗に際する保険であったが、ローゼッカ政権においては二重行政が大きな特徴となっていった。これに関しては別項で述べる。
 

左派連立内閣の政策

 発足当初の左派連立内閣は無難且つ地味な政策を行っていた。連立の空中分解を避けたいという思惑のほかにも、当時の経済状況が良好だったことが主な理由と原因である。
 建国直後のドナウ連邦は通貨クローネ(二重帝国クローネとは別)の価値は安定せず、激しいインフレと、それに伴う投機熱に襲われた。当時の右派連立内閣の大蔵大臣、チェコ人のアロイス・ラシーンにより緊縮政策とイギリスからの外債借り入れを断行、ラシーン自身はその反発で暗殺されるも、ラシーン路線によって経済は健全化した。その後、クラマーシュ外務大臣がドイツとの関係改善のためド独通商条約を1923年に結ぶと、ドナウとドイツは、かつてのWW1以前のような友好な貿易関係に戻った。すなわち、ドナウが原材料を輸出し、ドイツがそれをもって機械を生産しドナウに輸出する、という形である。ドイツの中欧経済圏政策もあってドナウにはドイツからの多大な投資が行われた。これを利用してドナウの経済独立を目論んだのが野心的な官僚ヴァルター・グラーフェである。いずれにせよ、世界恐慌が起こる1929年まで緩やかなインフレと経済成長がドナウでは続いていた。
 こうした中で取るべき経済政策は市場の自由化であった。左派連立内閣では「左翼」を自称しつつもとりわけ戦争中に設立された物資統制団体の民営化と分割が行われた。これに並行して、労働環境改善に向けた整備は少しずつ取り組まれていた。当時通産大臣のグラーフェは、庁舎で国営企業設立計画を練るのではなく、積極的に各国を訪問し投資を呼びかけていた。その一方でグラーフェは工業技術の遅れを取り戻すべくジェール市の工業技術研究所の設立と予算拡大を惜しまなかった。
 奮闘するグラーフェに目を付けたのはドナウ党左派と連邦軍であった。前者は将来の統制経済理論実践に向けた準備を、後者は民生技術を装った軍事技術の隠匿研究を目論み、グラーフェは彼らに協力した。ドナウの国産戦車開発はグラーフェを通して輸入されたイギリス製トラクターから始まった。グラーフェは1930年代以降のドナウの統制経済テクノクラートの第一人者となる。
 ローゼッカを含むドナウ党左派の首脳部は、政権運営よりも国内の権力掌握に力を注いだ。ドナウ党の抱える武装組織「国民衛兵隊」はヒトラーの右派とローゼッカの左派に分裂していた。彼らは政争における万が一の武力行使の駒であり、幹部党員の生命を保証していた。当時、ドナウ連邦内の各政党がこうした武力組織を抱えていた。党の武力組織はオーストリア革命後の反動との闘争の中で特筆すべき役割を演じていたが、連邦成立後は政争の道具に過ぎなかった。この各武装組織をいかにコントロールし、願わくば解散または連邦軍と統合させるかは長年の懸案だった。
 ローゼッカとドナウ党左派首脳部は、党による政府の武力を手中に入れ、武力をもって武装組織の統一、すなわち政党の解散を目論んでいた。まず第一の目標はヒトラーのドナウ党右派、その次がドイツチェコ共産党である。この手始めとして連邦警察を掌握するため、内務大臣はヨーゼフ・レオポルド、警察長官にエルンスト・カルテンブルンナーを任命した。1930年にはまずハンガリー共和国警察が、1932年にはオーストリア共和国警察が国民衛兵隊の事実上の指揮下となった。1933年には悪名高い連邦保安省が発足し、1934年6月30日、ついに右派国民衛兵隊と左派国民衛兵隊は完全衝突し、右派国民衛兵隊は壊滅、ドナウ党右派の政治家は処刑されるか亡命することとなる。1928年の組閣人事は、これに至るまでの壮大な権力闘争の序章に過ぎなかった。
 連邦内の公用語が三つあることは効率上の問題でもあり、中央集権化を妨害していた。これに対する解決案の一つが人工言語「ドナウ語」の普及であり、1928年内閣はドナウ語を初めて公用語級の扱いを始めた政権であった。
 ドナウ語はカレル大学のシモン・パヴェレツ博士が言語研究の一環として19世紀後半に構築し始めた人工言語である。スラブ語文法とゲルマン語文法を折衷させ、語彙に関してはスラブ語との相互借用関係が強い南ドイツ語とチェコ語を参考にしている。長らく無名の研究だったが、革命のさなかドナウィストに発見され、ドナウ国民の公用語として徹底的に研究、構築されていった。マジャール語の要素は後から取り付けられたが(数十年後、これがきっかけでハンガリーで反ドナウ運動が爆発することとなる)、少なくとも文語としては言語の体裁を帯びてきた。リートミュラー首相は行政機関・企業・公共団体名に関してドナウ語の併記を命令、1929年には初等教育における簡単なドナウ語文法の教育が開始された。ドナウ語運動は、ドナウ国民創出を目的とするドナウィズムにとって不可欠であった。ドナウ語の権威はドナウィズムの権威であり、ドナウィスト政府の権威であり、ローゼッカ大統領の権威であった。
 ドナウ語の普及とともに、中欧ではよく見られていたバイリンガル話者が減少していった。こうして民族的自認がはっきりし、かえって国民統合どころか民族対立の原因となった、という指摘がローゼッカの死後なされることとなる。ドナウィズムによる統治はサンディカリズムと同様、人類最大の社会実験となっていった。
 言語教育においてドナウ語を文語と規定しつつ、各民族言語は口語と規定された。文化自治と二次元連邦論に従い、民族言語は政治的なレベルに昇華しない限り盛んに教育、文化創造された一方、民族言語を公共の表示から排除し始め、代わりにドナウ語を記載した。この変化は非常に遅々と進んだが、止まることはなかった。ドナウ語―二次元連邦論―中央集権的な第二憲法体制は決して切ることのできない関係にあった。
 以前は各共和国政府から弾圧されていたスロバキア語やスロベニア語、その他ウィーンにおけるチェコ人出稼ぎ労働者によるチェコ語といった少数言語話者にとっては、文化自治政策は福音であり、これを理由に彼らの多くがドナウィズムを支持した。しかし、文化自治政策にさえも顧みられず、疎外された言語とその話者があった。
 ド伊関係とドナウ=ルーマニア関係は革命中の干渉戦争を理由に冷え切っていた。ドナウ連邦内のイタリア人、ルーマニア人はその他のドナウ人民の不満の捌け口として攻撃され、迫害された。文化自治政策導入以降もこの二国との関係は悪化したままだったため、文化自治政策が彼らを救うことはなかった。特に南トランシルヴァニアルーマニアに割譲しつつ、連邦内に残留したルーマニア人には激しい攻撃が行われ、最終的にこのルーマニア人らは強制収容所への連行またはルーマニアへの国外追放を受けることとなった。国境地帯のイタリア人も、WW2が勃発するとバナトへ強制移住された。
 ローゼッカは閣僚ポストの多くを連立相手に与えた一方、その閣僚の業務を補完する作業部局をドナウ党に設置していた。1933年の憲法改正で大統領府に強力な権限が与えられると、これらは全て大統領府直属の部局に移動することとなる。1930年時点の党作業部局の一覧は別項に記載されている。
 これら部局は正式な法的手続きを介さず、国民衛兵隊の武力とローゼッカの権威を盾に在来の行政機関の業務に介入した。国民衛兵隊は連邦軍と対立し、研究団体に偽装された王立大学マルクス歴史学研究連盟は、歴史学または考古学を追われたイデオロギー的学生または学者が、マルクス主義唯物史観歴史学・考古学的に証明しようと暗躍した。連盟の研究には不審な点が多く、当初はドナウ科学アカデミーから拒絶されていたが、ドナウ党が科学アカデミーを掌握すると、連盟は科学アカデミーに統合されていった。
 こうした暴力的な側面のほかに、これら部局は革新的な一面もあった。例えば、党の自動車産業部は民間、軍、省庁の間で一致していなかった自動車産業政策方針の統一を助け、自動車産業興隆を先行して指導した。アレクシス・ローゼッカは自動車の優秀さを見抜き、「国民車」構想を持っていた。
 

敵対勢力の弾圧

 ドナウ党左派が警察権力の掌握を始めた1928年から、ドナウ党左派の敵対勢力への弾圧が本格化した。1929年1月10日にはドナウ党右派幹部にてモラビア地方を指導していたハンス・クニーシュが暗殺された。1930年3月13日にはケルンテンの指導者であったフーベルト・クラウスナーが何者かに拉致され、惨殺されたまま遺体を放置された。ドナウ党右派のお膝元であったケルンテンでの暗殺にドナウ党右派は衝撃を受けた。オーストリア共和国中のドナウ党右派系の労組はゼネストに突入、クラウスナーを追悼する『フーベルト・クラウスナーの歌』を作曲し党員を鼓舞した。
 ドナウ党右派は暗殺のたびにゼネストかドナウ党左派党員を報復的に暗殺した。一方、党左派宣伝部のヨーゼフ・ゲッペルスゼネストの脅威を煽った。一見して敵方に利するような行為だったが、ローゼッカは在オーストリア企業の経営者や在ドナウ独系企業の現地責任者をウィーンに呼び寄せ、ゼネストの批難と警察暴力による鎮圧を示唆し、彼らをドナウ党左派の支持者に引き入れた。このように、巧妙にドナウ党左派は経営者の支持を手にした。
 合同共産党もドナウ党左派も労働戦術を変化させ、一方的なストライキから、代表者同士の事前協議による解決、という風に穏健化、コーポラティズム化しつつあった。これには、ドナウ党新経済政策研究会の意見や、コーポラティズム支持のイデオローグであったホライ・ルーリンツの指導が関係している。合同共産党の下部組織であったドナウ・ハンガリー生産協同組合は後に全国実施されるコーポラティズム経済の実験所となった。ドナウ連邦は二重帝国時代から党ごとに生産協同組合が存在し、それぞれの掲げる経済政策の実験場となった事実からして、ドナウ・ハンガリー生産協同組合は特段不思議な存在ではない。ドナウ党左派の研究していたコーポラティズム経済は、1929年の世界恐慌でヨーロッパにおけるアメリカに対する信頼だけでなく、資本主義とその教義――自由な経済における自由と平等の達成――への信頼が破綻した途端、ドナウ連邦においてはコーポラティズム経済がその信仰的真空に付け入るように導入されることとなった。
 ドイツチェコ共産党に対する弾圧手法も基本的にドナウ党右派に対するものと同様であった。1930年には弾圧に抗議してルードヴィヒ・チェフとフランツ・マコウンが辞任した。それと引き換えに、ドナウ党左派はシュコダやタトラ、ロルニー、ズブロヨフカなどといったボヘミアにおける大企業経営者の協力を獲得した。こうした経営者の協力は、後のコーポラティズム経済構築には不可欠だった。
 敵対勢力の弾圧において、党宣伝局長からやがて大統領府宣伝局長となったヨーゼフ・ゲッペルスは特筆的な役割を演じた。ゲッペルスは宣伝において天才的な手腕を発揮し、ドナウ党左派のライバル潰しに一役買った。当時の新興メディアだったラジオを最も効果的に初めて活用したのはゲッペルスだったとされる。

世界の危機

 1920年代はドナウだけでなく各国においても不安定な時代だった。
 中欧にはドイツを中心とする巨大覇権が成立したが、その性格はWW1末の軍事的な力による強制的な同盟から、積極的な貿易による平和的な相互依存共同体へと変化した。ドイツのルーデンドルフ独裁が崩壊し、ティルピッツ提督を宰相とするブルジョワ民主主義体制に変化したことは無関係ではない。ドイツはWW1によって多大な死者と餓死者を出した。戦争で体験した不自由と不平等という今までありえなかった事態を忘れたいがごとく、戦前の自由貿易ブルジョワ民主主義をより一層強化した治世と経済状況を楽しんだ。一方で、より拡大したブルジョワ民主主義における必然的な試練、すなわち国内の政治意識向上による諸勢力の対立、そしてそれにともなう政治の遅滞化とも向き合わねばならなかった。1920年代ドイツはブルジョワ民主主義最後の栄光時代とも後世の歴史家からは呼ばれることとなった。
 フランスは最も苦労した国の一つだった。戦線での惨劇、WW1による敗戦に加え、サンディカリストによる革命でフランス国民の精神は一切変化した。サンディカリズム革命は懸念されていたほど暴力的ではなく、むしろ不徹底であり形ばかりのプロレタリア独裁がなされた程度だが、それはサンディカリズムにおける理論的貧しさだけでなく、敗戦と革命による窮乏とドイツによる干渉がその理由とされている。ドイツはフランスに対し賠償金を課しつつ、賠償金減額と引き換えにドイツ資本をフランスに侵入させたり、フランスをドイツに依存させたりした。経済は回復しつつあったが、フランス国民の多くは未だ貧困のどん底にありドイツに対する不満を募らせていた。その一方、何ら解決できないサンディカリスト政府に絶望し、祖国を敗戦に導いたブルジョワ政府を恨み、フランス国民は政治的な闇の中にあった。せいぜい、ドイツとのコラボラシオンによる経済的成功だった。
 リトアニアフィンランド白ロシアウクライナポーランドといったブレストリトフスク条約で中欧経済圏に引き入れられた元ツァーリの従属国は、主人をドイツに替え、若干の経済的利益を得たに過ぎなかった。これらの国々には例外なくドイツ人かオーストリア人の君主の戴冠を強制され、民族の自尊心はくじかれた。こうしたぶつける場もない怒りを抱えた国々をドイツは自国の経済的繁栄のために抱えていた。
 ロシアにおいては共産主義政権が倒れ亡き後、ケレンスキー率いるブルジョワ民主主義政府が支配している。ロシアは急速な近代化と経済成長の時代を迎え、言論活動が活発化しつつあった。むろんその中には反独、反政府的なものも含まれていた。とはいえ、豊富な資源と得られる外貨によってロシアは富み、ドイツに次いで最も繁栄する中欧国家だった。
 イタリアにおいて民主主義の信用は既に失われていた。サンディカリズム共産主義も同様に民衆の支持をつかむことはできず、結局イタリアは軍事政権が成立した。軍事政権はドナウやフランスなどの脅威を煽ることで愛国心による国家統一をはかった。イタリアは中欧経済圏に含まれなかったが、自由貿易による利益を享受する国の一つだった。特にドナウとの間に位置する緩衝国ユーゴスラヴィアをめぐってドナウと対立していた。
 イギリスはWW1において「名誉ある平和」により終戦を迎えたが、戦争経験による国民への衝撃は言うまでもなかった。イギリスの1920年代は、ドイツとの覇権をめぐる時代であり、特にサンディカリズム国家フランスは両国の投資合戦の場となった。
 WW1に参加しなかったアメリカは、WW1以前の価値観――合理的な且つ自由で平等な社会システムと資本主義――の最後の砦だった。アメリカ人は塹壕の理不尽も飢えも死も体験していなかった。アメリカ経済は戦後前兆を迎え、WW1以前の価値観の崩壊に打ちひしがれたヨーロッパの人々を元気づけた。相変わらずアメリカ行きの移民は減ることがなく、アメリカとの交易は各国経済を支えていた。アメリカこそWW1以前の古き良き価値観の守護者であった。
 しかしヨーロッパにおける人々の唯一の頼みの綱であるアメリカは1929年10月24日から始まる世界恐慌で最終的に崩壊し、ヨーロッパの儚い価値観を完全に打ちのめすこととなった。
 

1930年代初期のドナウ

 世界恐慌によりアメリカの推計GDPは約3割も縮小したが、ドイツ経済はいまだ堅調だった。ドイツは輸出振興のためマルクを実体経済より切り下げて為替ダイピングをしていたため、恐慌の影響をほとんど受けなかった。むしろ世界中から金貨が集まることとなった。これには金貨を大量に保有する「通貨的列強」だったイギリスからの反発を生み、イギリスの金本位制度離脱のきっかけとなった。一方ドイツは豊富な金貨を中欧経済圏への投資に活用した。1930年代の中欧経済圏におけるドイツによる投資の内訳は、ドイツ国内の生産設備をより人件費の安い中欧経済圏諸国への移転することが急増することとなる。中欧経済圏内の中小国にとっては工業化の助けとなったが、ドイツ本国には産業の空洞化を招き、大量の失業者を生むこととなり、後の初の社会民主党政権誕生の遠因となった。
 ドナウ連邦はいまだ衰えない対独貿易により恐慌のダメージを抑えることに成功した。恐慌の影響を直接受けて深刻な社会崩壊を招き、1932年にサンディカリスト政権がドゴールによる事実上のクーデターで崩壊したフランスとは対照的であった。しかしながら、ドナウにおいてさえも各地で失業者が発生し、資本主義に対する不信が広がり始めた。折からの議会への不信もあって国民衛兵隊をはじめとする党の大衆組織、武力組織への加入者が急増した。
 この危機により社民党をはじめとするブルジョワ政党は完全に民衆から見放された。同じくブルジョワ政党だったキリスト教社会党は、弾圧されていたドナウ党右派の思想を吸収しつつ、カトリックと労組による新たな国家像を示して虚無の深淵にあった大衆の心をつかんだ。しかしながら、最も当時の民衆が期待したのはアレクシス・ローゼッカ率いるドナウ党左派、すなわちドナウィズムの国家像だった。共産党キリスト教社会党とドナウ党左派の勢いに比べれば見劣っており、これを受けて過去共和国における共産党では青年層による老年層の保守的な姿勢、つまりマルクスを教条的に解釈した革命の遂行を口では唱えつつ実際にはブルジョワ民主主義と馴れ合い社会民主主義化している状態を批難、攻撃した。ハンガリーの合同共産党では保守路線の代表であったクン・ベーラが辞任し、大衆の支持を取り戻すべくドナウ党左派との合併が決議され、承認された。こうして合同共産党はドナウ党左派と合併した。これはドナウ・マルクス主義終焉の象徴的な出来事だった。
 このころ、ドナウィズムの急速な脱マルクス主義化が進んだ。理論面ではマルクス主義の代わりにドナウィズム独自理論やローゼッカのカリスマ性への信頼などを取り入れたが、実際にはドナウィズムの支持者に貧困な労働者と農民が急増し、彼らのエネルギーによりドナウィズムが受動的に変化した、というほうが正確であった。新たにドナウィズムにすがった民衆は、かつての支持者革新派インテリが望んだ上からの国家の野心的な再設計になんら興奮していなかったし、ドナウ語などもってのほかだった。彼らが望んだこと、それはかつてのような自由と平等という理念の崩壊を受容しつつ、民衆を裏切ったことが確実となった資本主義に頼らず、さらに全く制御不能な危機として現れた戦争と恐慌を合理的に克服し完全に新しい新国家であった。そして何よりも知らねばならぬことは、民衆は新国家建設において強靭で信頼できる指導者を求めた。その候補の一人がローゼッカだった。
 当時のドナウにおける強靭で信頼できる指導者たちを見れば、民衆がどの勢力を支持していたかはっきりする。エンゲルベルト・ドルフーズのキリスト教社会党、アレクシス・ローゼッカのドナウ党左派、アドルフ・ヒトラーのドナウ党右派を三巨頭とし、ヤン・シロヴィーのチェコ民族主義過激派、エルンスト・テールマンの共産党などが続いた。
 ドナウ党左派のゲオルク・リートミュラーを首相とする左派連立内閣は公共事業の拡大をもって恐慌の抑え込みを図った。ドナウ連邦においてケインズ経済学はいまだ受容されていなかったが、公共事業が不況の特効薬だったことは二重帝国時代からの暗黙知だった。労働組合などのストが起きつつも公共事業は問題なく行われたが、景気全体には大した効果がなかった。ローゼッカは民衆の怒りが与党であるドナウ党左派に向かうことを恐れ、大統領としてまたあるときには国民衛兵隊名誉大将として各地を遊説し、草の根大衆による新国家の建設を呼びかけた。ゲッペルスによる宣伝戦術の甲斐もあり、人々は『ヨーゼフ・ズィミチ連隊の歌』(国民衛兵隊左派の代表的音楽。ヨーゼフ・ズィミチはオーストリア革命における干渉戦争にて活躍した国民衛兵隊将校で、クライン防衛の際にイタリア軍陣地で自己犠牲的な攻撃をして死亡。死後英雄視された)を歌いつつ、松明を持ちながら大通りを練り歩いた。ローゼッカはドナウの敵としてブルジョワ民主主義だけでなく革命の際の干渉国であったイタリア、ルーマニアユーゴスラヴィアをまず挙げ、攻撃した。ドイツは貿易上の関係から当時はまだ大々的に攻撃キャンペーンは控えていた。ドナウ辺境のイタリア人、ルーマニア人とセルビア人は激しい差別を受けた。
 1932年、「ドナウ地域の歴史における最大の汚点であり軛」である不安定な議会主義システムに止めを刺すべく、憲法改正がドナウ党左派から呼びかけられた。すでに各党から憲法改正は呼びかけられていたが、ドナウ党左派による憲法改正とは、ローゼッカ個人に絶大な権力が付与されることを意味していたことから、ドナウ党左派による憲法改正に各党は反対し、連邦議会による改憲発議は不可能だった。そこでローゼッカは大統領権限として国民に対し憲法改正の発議をめぐる国民投票を提供、国民投票の結果に法的拘束力はなかったが、ドナウ民衆の意思を明らかにする機会であった。1932年4月2日に国民投票が実施され、改憲が事実上発議された。議会における正式な改憲発議とは異なり、国民投票による事実上の改憲発議とは、ドナウ党左派に対する白紙委任同然だった。これを追認する形で同年12月20日に議会で白紙改憲発議が決議された。
 1933年3月9日に改憲投票が実施され、ドナウ第一憲法は正式に終焉した。こうしてアレクシス・ローゼッカ大統領を絶対的指導者(ヒューラー)とするドナウ第二憲法とその新時代が始まった。

付表 議会制時代における歴代選挙結果

f:id:kodai795:20190726233423p:plain