自動車開発競争史
ドナウ連邦建国史における世界線においても自動車は存在し、それぞれの国が国威をかけて開発競争にいそしんでいた。ここではドナウ連邦建国史における主要国の自動車を紹介する。
戦間期
ドナウ連邦
ドナウ連邦における民生用乗用車を生産していた主な企業は以下の通り。
このほかにも幾多のブランドと製造会社が生まれては消えていった。以上の企業はすべてオーストリアとボヘミア、モラビアのものであるが、民生向けではなく軍需向け自動車に関してはハンガリーのガンツなどが生産を行っていた。以上に挙げたような企業はいずれも大企業で、ローゼッカ政権の下では公団化が行われ保護された。
シュタイアー 50(1935-40年生産)、「シュタイアー・ベイビー」と呼ばれて愛された小型車。
シュタイアー 220(1935-41年生産)は鮮やかな流線型が特徴で、ドナウ社会主義労農党幹部の公用車でもあった。
タトラ リテヴァゴン(フォルクスワーゲン)試製型(1935年)
タトラ リテヴァゴン(フォルクスワーゲン)(1938年-2003年製造)、世界中に輸出された伝説的な大衆車。ドナウと言えばこれ。
シュコダ 633(1931-34年製造)
シュコダ スパーブ(1934-43, 46-49年製造)、ドナウの最高級車である。
アエロ 50(1936-40年製造)
ヤワ 600(1937-47年製造)、ヤワの本業はオートバイだったが自動車も生産していた。戦間期の生産台数は決して多くないが、戦時中に軍需転換で倉庫に眠ったヤワ600の部品が終戦直後に組み立てられ、戦争で荒廃した欧州各地に大量輸出された。
プラハ アルファ(1913-41年製造)
ワルター ロイヤル(1931-32年製造)、ワルターは外国のライセンス生産車が多いがこれはオリジナル。
ズブロヨフカ Z6(1935-36年製造)、ズブロヨフカ・ブルノ公団はこれを最後に自動車生産部門を強制的に没収され、これ以降武器生産に専念することとなった。
ドイツ帝国
ドイツはメルセデス、ベンツ、ダイムラー、オペルなどのブランドが知られているが、そのほかにも無名のブランドが数多くあった。ここで紹介する自動車はそのごく一部に過ぎない。
オペル ライヒスワーゲン(1935-1953年製造)、ドナウのフォルクスワーゲンに対抗してライヒスワーゲンと名付けられた。WW2で製造が中断され、ドイツ本土がフランスとドナウ、ポーランドに分割されたため本土での生産はこれ以降なかった。しかし、世界各地に残ったオペルの工場はライヒスワーゲンを製造し続けた。ライヒスワーゲンはドイツ臣民のアイデンティティでもあったからである。結局、北米に逃れたドイツ軍残党が建てたドイツ亡命政府の手によって戦後もライヒスワーゲンは生産された。
戦後
ドナウ連邦
東ドイツ
東ドイツことドイツ民族国(Volksreich)は旧ドイツ帝国におけるメクレンブルク、ブランデンブルク、ザクセン地域に建設された民族社会主義*1国家である。フランスコミューン支配下の西部ドイツに比べて比較的穏当な扱いを受けた東ドイツは、戦後直後から自由な自動車製造を許され、ドナウィズム圏各国へ輸出していた。
ザクセンリンク公団 トラバント(1948-1991年製造)、東ドイツを象徴する自動車であり旧ホルヒのツヴィッカウ工場を基にしたザクセリング公団が製造した。設計はWW2の間に密かに行われ、本来はライヒスワーゲンの後釜を狙ったものだったらしい。しかしWW2敗戦が明確化すると計画は中止された。終戦直後にこの計画が再び動き出し、ウィーンがこの計画に良好な反応を示したため1948年から生産が開始された。トラバントはフォルクスワーゲンに比較して安価だったのでドナウの同盟国各国やアフリカ植民地に輸出され、ノイプロイセンのヘルマン・フォン・ゲーリングはフロレンツに「ノイプロイセン戦友自動車公団(NKWV)」を設立しライセンス生産をした。このほかにも少なからぬ数が日本帝国へ輸出された。
EMW ヴァルトブルク(1956-65年製造)