戦間期ドイツ帝国政経史

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Kaiserreichでの設定をもとにしています。

 

WW1の終結

 ロシア革命により東部戦線は崩壊し、1918年1月にブレストリトフスク条約が締結された。これは東部戦線の終結と東部戦線兵士の西部戦線転属を意味したが、同時に独露による新たな戦争の開始を意味していた。これと同時にフィンランドではドイツが支援する白軍とロシアの支援する赤軍が衝突し、旧二重帝国では「1月スト」の成功とイタリア戦線崩壊で二重帝国が瓦解すると、休戦を模索するオーストリア臨時政府に対しドイツの支援を受けるハンガリー王国が9月に成立した。ロシアはハンガリー王国共産主義者を送り込み革命による王国転覆を図っていた。いずれにせよ欧州東部では予断を許さない情勢が続いていた。
 1918年3月に開始された西部戦線の大攻勢「カイザーシュラハト」は順調に進み、4月にはウクライナで親独政権が誕生、5月にはフィンランドにおいて白軍が勝利を収めた。オーストリア臨時政府を中立地帯化しイタリア軍の侵入を防ぐという目論見は諸難あったが結局成功した。9月14日にはフランスが独自のルートで休戦を乞い始め、翌15日にはギリシャに駐留するフランス軍が撤退した。フランス軍のフォッシュ元帥は西部戦線のイギリス軍が本国への撤退を水面下で試みているという報に激怒した。
 1918年11月末、包囲されたパリはついに陥落し、西部戦線が集結した。こうしてドイツにとっての欧州大陸における具体的な脅威はほとんど力ずくで消えた形となった。イタリアも間もなくドイツと停戦協定を結んだ。しかし、陸の脅威を排除したが海の脅威、すなわち経済封鎖中のイギリス海軍は無傷のままだった。むしろイギリス海軍はドイツに征服されたフランスなどにさえも封鎖する構えであり、厳しい持久戦が続いていた。さらに中東欧では革命的社会主義者共産主義者が地下活動をしており、頼みのウクライナ産小麦は農民反乱と共産主義者の妨害でドイツ本国に届いていなかった。
 1919年1月、ついにドイツ本国で共産主義者が蜂起した。「スパルタクス団の蜂起」と呼ばれるこの事件は、一度動員解除された兵らに対するウクライナ共産主義者鎮圧に向けた再招集に対する拒否がきっかけで、社民党の分派で反戦地下活動をしていた独立社会民主党の手引きによるものだった。この蜂起はすぐに鎮圧されたが、ドイツに大きな衝撃を与えた。ルーデンドルフは「執行法(Ermächtigungsgesetz)」を成立させ、社会民主党を除くすべての社会主義政党を禁止し、議会を介さない法案成立ルートを構築して締め付けを図った。*1同年7月において、ドイツ帝国トランシルヴァニアをめぐるハンガリー王国ルーマニアの対立を仲介し、トランシルヴァニアからハンガリー軍を撤兵させた。しかしこれがきっかけでハンガリー軍の指揮が崩壊し、8月にはブダペストを革命的社会主義者共産主義者が占拠、ハンガリー王国は滅亡、旧二重帝国はオーストリア臨時政府により統一された。こうした相次ぐドイツの戦略破綻にドイツ国内で動揺が広がり、食糧不足もあって独英停戦やむなしの声が上がった。1919年10月、独英間で「シャルロッテンブルク平和条約」が締結され、WW1は終わった。
 ルーデンドルフ曰く「名誉ある和平」と呼ばれたこの平和条約は、ドイツによる欧州新体制とフランス植民地の完全な支配をイギリスに承認させる一方、イギリスは北ローデシアの割譲を除き一切の賠償をしないというものだった。イギリスにとって引き分けの衝撃は甚だしかったが、厭戦気分が盛り上がっていたため受け入れられた。しかし力により支えられた欧州大陸の新秩序は相変わらず混乱の渦の中にあった。翌1920年にはドイツの傀儡と化したフランス国防政府がサンディカリストにより打倒され「フランス・コミューン」が成立した。革命波及を恐れたドイツだが、厭戦感情から派兵して鎮圧するわけにもいかなかった。*2ロシアやウクライナにはWW1東部戦線よりはるかに小さい規模ながら「義勇軍」が送られ、1921年にはロシアのボリシェヴィキ政府が滅亡した。WW1勃発からボリシェヴィキ滅亡まで、ドイツは軍民で285万人が死亡した。この壮絶な戦争体験はドイツに大きな傷を残すことになった。
 

ルーデンドルフ体制の崩壊とティルピッツ黄金時代

 ミヒャエリス首相を傀儡に擁するルーデンドルフは早速経済の再建に取り組んだ。「東方援助事業(Osthilfe)」が成立し、戦争で破産した東部のユンカーが保有する農場の再建と東部からの人口流出防止のために多くの資金がドイツ東部に投下された。しかし1923年7月10日、自由主義的な新聞『ベルリナー・タブラット(Berliner Tageblatt)』はルーデンドルフ将軍の副官ヴィルヘルム・ブリュックナーをはじめとする軍部やユンカーたちが、東方援助事業の資金を非合法に、あるいは過剰に受け取り本来の投資先である農業部門にはほとんど資金投下されず、彼らの贅沢につぎ込まれていることを暴露した。軍部は激怒しベルリナー・タブラット本社と印刷所を占拠、世に出回った記事の回収を行ったが、翌11日には主要日刊新聞の多くが「東方援助疑獄(Osthilfeskandal)」を報じた。このころすっかり政治の表舞台から離れた皇帝ヴィルヘルム二世はその日の午後、保養地にてその新聞記事を読んで初めて疑獄の存在を知ったという。
 7月13日、疑獄を初めて報じたベルリナー・タブラット編集長テオドール・ヴォルフとドイツ祖国党(Deutsche Vaterlandspartei;DVLP)*3党首アルフレート・フォン・ティルピッツを皇帝は別荘に招いた。翌14日、皇帝は突如ベルリンに戻りヒンデンブルクと会談した。ルーデンドルフも会談を求めたが拒否された。16日、ベルリンのホテル・アドロンにて軍幹部が招かれ、ルーデンドルフはそこで逮捕された。かくしてルーデンドルフ体制は崩壊し、皇帝は10年ぶりの議会選挙実施を宣言した。当時執行法により政党活動が制限されたなか、政党は新聞に活動の場を移し、激しい報道合戦が行われた。この出来事はドイツのジャーナリズム史にて語らぬことはできない。
 こうして始まった選挙活動もまた混沌としたものだったが、結果として中央党、ドイツ人民党、ドイツ保守党、国民自由党による連立政権が誕生し、首相にアルフレート・フォン・ティルピッツ提督が指名された。
 フォン・ティルピッツ首相の統治は「黄金時代」と呼ばれ、「第二のビスマルク」ともいわれる繁栄を興した。フォン・ティルピッツは戦時体制で固まった経済の自由化を行い、活発な国内経済をよみがえらせた。また武力ではなく経済で欧州を支配すべく「中欧経済同盟」を設立し、経済基盤の弱い中東欧の小国にマルク資金を移転することでマルクの価値を高め、マルクによる欧州貿易圏を立ち上げてイギリスに対抗した。フォン・ティルピッツにとって欧州経済の復興こそが欧州をサンディカリズムをはじめとする過激主義からの裁量の防衛手段だった。1923年末に独ド通商条約が締結され、非マルク圏にあるドナウ連邦に宥和態度で臨み国際協調を図った。この間にドイツ経済は空前の成長を成し遂げ、多くの新産業も生まれた。
 しかし黄金時代にも光と影があった。経済の急成長と同時に自由化に伴う貧富の拡大や、19世紀前半のプロイセンを思わせるような急速な都市化とそれにともなう社会問題の蔓延が見られた。また過激主義を防ぎぎることはできず、ドイツ国内にサンディカリスト地下組織が設立され、1928年8月28日にはライヒスバンク総裁カール・フォン・フェルリッヒがサンディカリストにより暗殺された。
 急激なドイツの自由化・都市化に対する反動は避けられず、とりわけ「汎ドイツ同盟(Alldeutsche Verband;AV)」が伸長した。この党は、植民地主義、人種主義、田園主義そして反サンディカリズムを掲げていた。ワルデマー・パプスト、エルンスト・レームなどをはじめとする傑作した幹部の一人であり大戦の英雄でもある撃墜王ヘルマン・フォン・ゲーリングが1925年から党首を務めた。汎ドイツ同盟は1928年に少なからぬ議席を獲得し、その名を知らしめるようになる。
 しかし1920年代後半には欧州にアメリカ製品が押し寄せ、ドイツの経済的優位は揺らぎつつあった。1929年の世界恐慌によりアメリカの経済攻勢は一時緩むが、肥大化した経済の再整理がドイツの大きな課題となった。こうしたなかの1930年6月6日、ハンブルク訪問中のフォン・ティルピッツ首相は急死した。

世界恐慌

 ドイツ祖国党党首の後任としてメディア王のアルフレート・フーゲンベルクが選ばれたが、皇帝はフーゲンベルクではなくドイツ保守党党首のフランツ・フォン・パーペンを次期首相に指名し、8月3日に就任した。
 フォン・パーペンはドイツ祖国党の政策を踏襲しつつ、ドイツ保守党の支持者である東部のユンカーによる支持に応えるべく農業補助金の増額や地方分権の拡大を推し進めた。フォン・ティルピッツを失ったドイツ祖国党の支持者のほとんどはドイツ保守党に流れ、1932年には帝国議会議席の32%を保守党が、5%を祖国党が占めるようになった。*4
 このほかに、弱小政党と転落していた国民自由党に新風をふかせるべく、1934年にパウル・フォン・レットウ=フォルベックが招かれ党首に就任した。この間にも汎ドイツ同盟は着実に支持を伸ばしていた。
 ドイツ植民地では1929年の世界恐慌による資源価格暴落もあり、バブル崩壊以来深刻な不況が続いており、ドイツ植民地金融会社は資金難に陥った。これに対し各植民地政府はデフレ政策を断行したことで現地民の生活は悪化し、1930年秋にはインドシナで蜂起が起こり独立運動が活発化した。事態を深刻視したドイツ本国政府は1931年に新たな植民地投資計画を策定し、本国から公債で調達した134億マルク(1914年レートでは33億マルク)を植民地に投下した。世界的な不況のためドイツは植民地との保護貿易体制を構築しようとした。この本国と植民地の相互投資関係は一時的な景気改善に繋がったが、本国と植民地におけるインフレを起こしてドイツ産の資源価格は国際価格から乖離した。結果として公的投資の効果は一時的な物になり、消費の拡大や民間産業の復興は起こらなかった。それに反して植民地では生活物資を年々要求するようになり、ドイツ本国の工業力ではまかないきれずにアメリカやフランス、ドナウ、ロシア、日本などからの輸入に頼らざる得なかった。これにより各植民地銀行ではマルクの国際収支が悪化し始めたことから、1930年ごろから植民地における現地軽工業建設が訴えられるようになり、東アフリカ総督ヘルマン・フォン・ゲーリングがいち早く植民地における軽工業殖産に乗り出した。ただし植民地全体でみると、軽工業殖産はWW2で植民地を引き継いだドナウやフランス・コミューンなどによる支配を待たねばならない。
 東アフリカ総督ヘルマン・フォン・ゲーリングは1925年に汎ドイツ同盟代表に就任したが、1928年の議会選挙後に東アフリカ総督に指名された。汎ドイツ同盟を恐れた政府による事実上の追放とも見る声があったが、フォン・ゲーリングは汎ドイツ同盟の掲げる理念の実験地として東アフリカを活用しようと意気込み、総督就任打診を承諾したという。実際にWW1以前には東アフリカ植民地にて人種主義者による新たな村落共同体の建設運動があった。
 ゲーリングは東アフリカ植民地から北ローデシアに向け鉄道を整備し、東アフリカ銀行を設立して北ローデシアからカタンガにある世界最大の銅山を支配下に置いた。銅山の利益を原資にゲーリングは東アフリカ植民地のインフラを整備し、同植民地南部の高原に白人入植地を設置した。これは東アフリカ植民地の北にある英領ケニアがアフリカにおける白人入植地のモデルケースとなっていることに対抗したこともある。1931年に原住民の反乱がおきるとフォン・ゲーリングは毅然とした態度で制圧した。1930年代から本国経済が空洞化して失業者が増加すると、フォン・ゲーリングは失業者向けの入植事業を整備した。WW2開戦時の東アフリカ植民地には約25万人のドイツ人が生活していたという。その多くは元失業者の農民だった。こうしたフォン・ゲーリングの政策は不況にあえぐ本国貧民に希望を与え、汎ドイツ同盟の支持を伸ばす形となった。
 アメリカ経済は依然として低迷し、生産過剰な工業製品が破格の値段で世界中に輸出された。ドイツ本国での生産ではアメリカ製品より低い価格で販売することができず、中欧経済圏防衛のために政府が補助金を支給したこともあり、本国の産業は中欧経済圏に次々と生産を移転し始めた。世界恐慌直後は世界中の金がドイツに避難しマルク価格は上昇したが、時間が経つと先の理由から金は流出し始め、マルクの実勢レートは下がり始めた。これは本国産業が国外に輸出するうえではプラスに働いたが、常にドイツ国外から生活用品を輸入している植民地にとっては痛手でさらに植民地財政は悪化した。
 フランツ・フォン・パーペン政権はこのような事態に有効な対処をすることができなかった。1933年にフランスとドナウで国家主導で需要を喚起する経済政策(全体主義経済)が開始され効果を上げると、ドイツでもこれを検討せよという声が上がり始めた。また「マルク・ダンピング」に憤慨し金本位制を離脱したイギリス経済が回復すると、マルクの金本位制離脱についての議論が起きた。1935年に社会民主党は党大会で軍需、原料採掘、エネルギー資源、輸送産業を国有化し労使官の共同運営にすること、ライヒスバンクによる大型財政出動を求める宣言を採択したが、金本位制に関しては手を付けなかった。金本位制の離脱はドナウ、フランス、イギリスの手法を真似するということでドイツ人のプライドが許さなかった、という説もあるがある程度は的を射ているという。
 1933年7月にはドイツ、ベルギー、オランダ、イタリア、他中欧経済圏諸国が「金ブロック」を形成し金本位制維持を誓った。ロシアは参加しなかった。しかし金ブロック諸国はいずれも生産国ばかりで製品の消費国はなく、結果として生産低迷とインフレを引き起こした。金ブロックは失敗に終わった。
 失業者は増え続け、それに比して社会民主党と汎ドイツ同盟の支持率は上昇した。特に汎ドイツ同盟はドナウやフランスなどと同様社会の組織化(コーポラティズムス;Korporatismus)を公然と訴え、特に農民とその業界団体である「農民同盟(Bund der Landwirte;BdL)」が積極的に支持した。都市部では社会民主党が支持を伸ばし、給料の未払いや待遇改善などを口実にストライキやデモなどを起こしていた。社会民主党の看板政策は労働者の国家主導の賃上げと生活改善だった。汎ドイツ同盟と社会民主党の二大政党が勢力を伸ばすなか、フランスコミューンに支援されたサンディカリスト地下組織「ドイツ革命的社会主義者同盟」も活発化していた。同組織は特定の政策を擁していたというよりは、フランスコミューンの支援により立つテロ組織だった。1935年には青年将校が反乱を起こし、鎮圧された。
 1936年、フランツ・フォン・パーペン首相が右翼青年に暗殺された。これに対し、皇帝ヴィルヘルム二世はついに次期首相に社会民主党のオットー・ヴェルスを指名した。

社会民主党の時代

 社会民主党内閣が組閣されるとベルリンでは労働者の歓迎デモが行われた。ヴェルス首相はドイツ式の秩序ある社会主義を示し、フランスに対抗するという使命があった。手始めに労働者に関するいくつかの法を改正、新設し労働者の給料を底上げ、有給休暇を拡大した。前年の1935年に党が採択した決議に従い、軍需、原料採掘、エネルギー資源、輸送産業の大手を国有化した。国有化とはいえ国家と労働者(ここでは社民党支配下の労組連合「ドイツ労組連合全国委員会(Generalkommission der Gewerkschaften Deutschlands;GdGD)」)がある程度影響を及ぼすようになったのみで、基本的な経営は引き続き経営者にゆだねられた。
 このほかに、国内産業流出の原因だった本国資本の国外移転の容易さについても社会民主党政権では議題に上がった。しかし、中欧経済圏に資本を移転したユンカーによる反対や、中欧経済圏により安い価格で製品を提供しなければ外国に中欧経済圏の覇権を奪われかねないという政府の焦りからなかなか移転制限を掛けることができなかった。汎ドイツ同盟は中欧経済圏からの移民流入が本国労働者の生活を脅かしていると主張したが、ヴェルス政権は人道主義の観点から移民の強制送還には反対したが、移民の受け入れ制限は開始した。
 こうした一連の社民党による経済政策は、同時期に行われたドナウ、フランス、イギリス、ロシアなどをはじめとする新型経済政策と比較することができる。するとヴェルス首相の経済政策は公共投資が欠けていたということは認めざるを得ない。社民党政権は官ではなく民間による投資の活発化を狙って一連の政策を行った。これは古典自由主義経済学を擁するドイツとしてのプライド、公共工事を乱発するドナウやフランスなどに対する反骨、社会民主党政権が不要のインフレを恐れたことなどが理由として挙げられる。すなわち、通貨や信用を経済調整手段として用いる発想が欠けていた。悪性インフレと産業の空洞化は止まらず、労働環境改善は却って雇用コストを高め、失業者をますます増やす結果となった。
 社会は相変わらず不安定化し、特に汎ドイツ同盟と社会民主党の衝突が絶えなかった。ストライキの鎮圧手段として経営者が汎ドイツ同盟員を雇って襲撃させたという例もある。このころ東アフリカ総督を辞し本国に帰還したフォン・ゲーリングは、この問題の解決としてドイツ人をアフリカやポーランド、バルト公国などに移住させることが最善策であると主張した。当時反独政権に支配されていたポーランドにドイツ人を送り込むことはできなかったが、バルト公国政府は新たにドイツ人入植者10万人を受け入れた。こうした移住者は多くの場合農民や熟練労働者として植民したが、一方で現地民の雇用を圧迫することとなった。1938年には土地を失ったバルト公国の現地住民が農民反乱を起こした。
 またこれは汎ドイツ同盟に限ったことではなかったが、社会の不安定化と不景気から大量のドイツ人が政党に加入し、各政党には準軍事組織を思わせるような軍隊式の組織が誕生した。汎ドイツ同盟の民族突撃隊(Volkssturmabteilung)はとりわけ有名である。彼らは火器を持っていなかったが、WW2におけるドイツ本国敗戦後、ドナウやフランスなどの支配下に置ける軍事組織として再建され、武器携帯を認められるものもあった。
 社会民主党政権では軍事支出が増額した。それまで植民投資や中欧経済圏支援などで軍事支出は制限され、その代わり外交や経済などによる戦争抑止に努めていたが、この軍事支出拡大はその戦略が破綻しつつあることを裏付けるものだった。
 オットー・ヴェルス首相が内政で悪戦苦闘しているあいだ、世界では後のWW2を予感させるような政変や戦争などが相次いで勃発した。1936年11月5日にはアメリカの五大湖地域でサンディカリストが独立宣言をし、翌年4月には南部諸州が独立した。列強各国が各陣営を支援するなか、ドイツ帝国アメリカ合衆国義勇軍と武器支援を送った。1936年にはスペインで王国政府とサンディカリストによる内戦が勃発した。ドイツによる王国政府支援にもかかわらず、1939年にスペイン内戦はサンディカリスト側の勝利により終わることとなる。同じく1937年にはウクライナ国で社会主義政権が誕生した。
 社会民主党政権は国際協調の観点から宥和政策を行うほかなかった。1937年には中欧経済圏にあるルーマニア王国がドナウ連邦にトランシルヴァニアの割譲を脅された際、ルーマニアを見捨ててドナウによるトランシルヴァニアの侵略を許した。この事件は中欧経済圏諸国に失望を与え、ドイツ帝国中欧経済圏の割高な資源を買わなくなったこともあり「ドイツ離れ」に拍車をかけた。
 

保守党政権復帰とドイツ帝国の滅亡

 結局社会民主党は1938年6月の議会選挙で大敗し、ドイツ保守党に政権を譲ることとなった。オットー・ヴェルス政権は諸問題に関して一時的な対策には成功したが、長期的に見た場合成功例はほとんどなかった。後任の保守党政権の古典経済学的な景気対策により、どん底にあったドイツ景気は1938年10月ごろから復活し始めた。しかし長い不景気による傷は大きく、本国の工場設備は他国に比べて著しく老朽化していた。
 カール・フリードリッヒ・ゲルデラーを首相とする保守党政権でも宥和政策は続き、1938年にはスイスでサンディカリストによる反乱が発生し、混乱に乗じたフランスコミューンによる西スイス併合を許してしまった。翌1939年にはスイスはドナウとフランスにより東西から併合され滅亡した。同年ドナウ連邦はユーゴスラビアに侵攻したが、ドイツ帝国は総動員をかけたものの開戦はしなかった。
 そしてついに1940年5月にドナウとフランスはドイツに宣戦布告、アルデンヌの森を突破したフランス人民軍の装甲部隊はドイツ軍部隊を包囲し、ドイツは大敗した(ヴァルミー作戦)。フランス軍が首都ベルリンに近づくなか、徹底抗戦が呼びかけられ市民は武装した。しかし皇帝ヴィルヘルム二世が宮殿を脱出しノルウェーに亡命したことが明らかとなると、ドイツ軍民は総崩れとなった。ベルリン市議会はベルリン市を無防備都市とし、帝国議会ではゲルデラー首相が辞任、議長ハンス・フォーゲル*5が首相代行として降伏し、ベルリンはあと一歩のところで戦火から免れた。
 多くの軍民が犠牲となったドイツ帝国のあっけない最期において、当然敗戦と認めず抗戦する勢力もあった。東部国境に展開していた帝国軍はエーリッヒ・フォン・マンシュタイン将軍を中心に「ドイツ東方軍」を結成、東へ殺到する避難民を保護し、内洋艦隊やリトアニア王国などと連携して避難民300万人をバルト公国やロシアなどへ送り、越境を伺うポーランド軍を牽制した。
 汎ドイツ同盟総裁フォン・ゲーリングは本国に残りドナウに協力したが、ルドルフ・ヘス副総裁はノルウェーに亡命し「ドイツ帝国亡命政府」に参加した。帝国軍の一部も最新兵器や技術者を連れてノルウェーに脱出し、その後も各地でドナウ・フランス枢軸と戦うこととなった。フランス軍とドナウ軍はドイツ本国を打ち倒すことはできたが、ドイツ本国を支えていた秩序を再建することは大変困難だった。WW2戦後ドナウ勢力圏にある東ドイツでは汎ドイツ同盟が支持を獲得したが、「対独復讐」の観点から占領地域を滅茶苦茶に破壊しつくしたフランスは、戦後数十年にわたりドイツ人に支持される秩序を設けることができず、流血の時代が続くこととなった。

歴代内閣

1918-1919年 ゲオルク・フォン・ヘルトリング(中央党)
1919-1923年 ゲオルク・ミヒャエリス(官僚)
1923-1930年 アルフレート・フォン・ティルピッツ(ドイツ祖国党、ドイツ保守党、ドイツ帝国党、国民自由党、中央党)
1930-1936年 フランツ・フォン・パーペン(ドイツ保守党、中央党、ドイツ帝国党)
1936-1938年 オットー・ヴェルス(社会民主党、進歩自由党、国民自由党、中央党)
1938-1940年 カール・ゲルデラー(ドイツ保守党、中央党、ドイツ帝国党)

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フリッツ・ラング
オーストリア出身のこのユダヤ人映画監督は『メトロポリス』『月世界の女』など戦間期ドイツの映画芸術を代表する作品を数多く残した。ラングの所属する映画スタジオ「ウーファ」はハリウッドとならぶ世界的な映画スタジオで、WW2による本国敗戦まで不動の地位を確保していた。フリッツ・ラング自身は1940年5月にノルウェーに亡命し、戦後は北米に建設されたドイツ帝国にて映画産業の復興に生涯を捧げた。

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ベルリン郊外に建設されたモダニズム住宅
全体主義の台頭までモダニズムは最も有力な芸術様式であり、ドイツ帝国はその中心地だった。経済発展に伴い都市は肥大化し、このような巨大なアパートを建設する必要が生じた。巨大アパートはドイツ発展の象徴である一方、急激な都市化に翻弄される民衆の不満と不安の象徴でもあった。

*1:社会民主党は戦争協力を理由に弾圧されなかったが、党内においても執行法に対する反対の声はあり、オットー・ヴェルスは反対票を投じた。

*2:そもそも力ずくで抑えるよりもサンディカリスト政府を対手と認めて賠償を飲ませたりマルク経済圏に取り込むほうがよい、と考えられていた。

*3:ドイツ祖国党はWW1中に設立された大衆政治組織で、通常の政党ではない。議会においては保守政党を中心に加盟議員がいた。

*4:最大野党は社会民主党で25%の議席を占めた。

*5:社会民主党員である。