ウォロディムィル・シェーメト

ウォロディムィル・シェーメト(Володи́мир Миха́йлович Ше́мет;1873-1935)はウクライナの政治家。セルヒー・シェーメトの弟。

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青年時代
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ドゥーマ議員時代

 貴族出身でキエフ大学で自然科学を修めた。兄と同様ウクライナ民族主義政治団体に参加していた。1906年にポルタワ県選挙区から立候補し、開設されたばかりのドゥーマ(議会)に当選した。議会が開かれてから3か月足らずで皇帝ニコライ二世の怒りを買い閉鎖されると、167人の議員による批難声明「ヴィボルグの檄」が起草され、シェーメトはこの名に連ねた。この咎により起訴、実刑判決を受け地下活動に潜伏した。
 WW1ではガリツィアのウクライナ人に対する慈善活動に参加。二月革命では兄とともにウクライナ民主農民党の結成に参加した。また、革命の混乱に神経を衰弱させた弟ムィコラが1917年末に自殺するという悲劇にも見舞われた。
 戦間期はヘチマンに忠実な政治家として重用され、兄セルヒーの傀儡として御用政党「全ウクライナ国家同盟」の指導者にも就任した。また、3度ヘチマンの下で首相を経験し、富国強兵と対独協調という基本路線を実行した。
 3度目の首相在任中である1935年、キーウ(キエフ)中央駅でコミュニストにより暗殺された。2年後の1937年、ヘチマンは崩壊し人民戦線政権が成立する。 

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